飢饉の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
奥羽地方の餓死者は集計すると10数万人とみられる。 飢饉の特徴の1つは、元禄期ごろから東北地方には全国市場従属方の市場経済が成立していたことにあった。18世紀前半には上方や江戸への廻米を藩財政の基本にし、年貢以外にも農民からの米の買い上げを積極的に進めていた。しかし大開発の影響で米価は低落、東北のみならず、全国的にも財政収入は伸び悩んでいた。幕府に命じられた御手伝普請による支出もあり、財政補填のため領内の穀物をほぼ全て領外へ移出して売却するようになった。そのため、前年度が豊作でも翌年に大凶作になると、たちまち飢饉に陥るという構造になっていた。幕府の側でも、財政的な問題もあって、先の享保の飢饉の時のように奥羽諸藩への積極的な救済策を行おうとはしなかった。 農民たちも村に入り込んだ商人たちから様々な商品を買い、借金を重ねるようになった。消費生活が浸透した農村では、現金収入のため凶作への備えをおろそかにして、貯蔵に回すべき穀物を売却し、凶作時に飢饉に陥るようになってしまっていた。
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