飫肥役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:37 UTC 版)
義祐は、飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返した。 永禄3年(1560年)、豊州家は島津宗家を介して幕府に飫肥役の調停を依頼、6月に足利義輝より和睦命令が出されるが、義祐はこれに従わなかった。そのため、9月4日に幕府政所執事である伊勢貞孝が日向国へ下向した。その際、義祐は貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すべく、6代当主・伊東祐堯が足利義政より賜ったという「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の御教書を提示する。これを見た貞孝は、当時の幕府が用いない言葉遣いが散見され偽書の疑いが強いと断じたものの、確証までは得られなかった為に、止むを得ず飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とした。しかし、義祐はこれを歯牙にも掛けず、翌永禄4年(1561年)4月には七度目の飫肥侵攻を開始した。 同年12月、豊州家を圧迫し、交渉により飫肥の一部を割譲させると、永禄5年(1562年)5月には完全なる領有に成功する。しかし、同年9月に豊州家に攻められると、ほんの4か月で撤退することとなった。 そして永禄11年(1568年)1月9日、義祐自ら総勢2万と号する大軍を率いて飫肥城を攻撃。島津忠親が守る飫肥城を約五ヶ月間にわたり包囲し、また援軍として出陣した北郷時久の軍を小越の戦いにおいて撃破(第九飫肥役)。この大敗を受けて同年5月、島津貴久は義祐との和睦を決定した。その結果、大隅国の肝付氏と豊州家の領土を分け合う形で永禄12年(1569年)に飫肥を知行。こうして島津氏を政治的に圧倒し、日向国内に48の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げたのである(伊東四十八城)。 勢い盛んな義祐は次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原(現宮崎県宮崎市佐土原町)は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど発展していくが、義祐の武将としての覇気は失われていった。
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