合戦の背景と概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 05:40 UTC 版)
詳細は「飫肥城」を参照 文明16年(1484年)、日向中北部を支配する伊東氏は飫肥の新納忠続と対立していた櫛間の島津久逸と結んで飫肥に出兵。翌文明17年(1485年)には16,000といわれる大軍を以て飫肥城を包囲した。ところがこの包囲の最中に伊東祐堯が陣没、続けて祐堯の子・伊東祐国までもが飫肥城の救援に来た島津軍との戦いで戦死したため伊東軍は撤退を余儀なくされ、伊東氏による飫肥攻略は失敗に終わることとなった(第一、第二飫肥役)。 天文5年(1536年)に伊東義祐が伊東家の当主となると、島津豊州家の島津忠広が伊東氏に反乱を起こした長倉祐省を支援したことや前述の祐国の遺恨などもあって、飫肥を領する豊州家と激しく衝突。幾度となく飫肥城攻略を目指し、1562年に一度は攻略に成功するも半年程で奪還されるなど一進一退の攻防が続いていた(第三~八飫肥役)。 永禄11年(1568年)1月9日、九回目の戦いで城の攻略を目指す義祐は総勢2万と号する大軍を率いて佐土原城を出陣。同11日に鬼ヶ城に諸軍を集結させ、13日に篠ヶ嶺に着陣した。義祐は伊東祐基を総大将とし伊東祐梁に3800を与えて新山に、落合兼置、木脇祐守に11000を与え小越の南に、長倉祐並、川崎主税助に3200を与え乱橛ヵ尾に布陣させ、更に2600を遊軍として太腹鳶嶺、新山小俵などに配置して飫肥城を包囲した。(また『日向纂記』では残った400を番兵として篠ヶ嶺に置いたとある) 一方、島津側でも北郷時久率いる6000あまりの軍勢が後詰として飫肥西方にある飫肥城支城の酒谷城に入っていた。
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