合戦まで
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383年10月に前秦が淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化すると、配下部族の自立が相次いだ。その中で羌の姚萇が後秦を、代の皇族の生き残りであった拓跋珪(道武帝)が北魏を建国して自立する。後秦は姚萇、その息子の姚興の時代にかけて旧主の苻堅をはじめとする苻氏一党を殺戮して前秦を滅ぼし、さらに後仇池・西秦・東晋なども圧迫して勢力を拡大した。一方の北魏も後燕を滅ぼして勢力を拡大していた。 華北の二大勢力となった両国は、やがてオルドスの支配をめぐって衝突する。この時は後燕と衝突していた北魏が敗れてオルドスは後秦に奪われた。
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合戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 09:57 UTC 版)
天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友宗麟が薩摩国の島津義久に敗北し佐伯惟教・惟真ら有力武将を多く失った上に、一族重臣の内訌の激化や肥前国の龍造寺隆信や筑前国の秋月種実らの侵略もあり、大友氏は徐々に衰退の道を辿った。島津氏から圧力に耐えかねた大友氏は、中央で勢力を拡大していた豊臣秀吉に臣従し、後ろ盾にすることで窮地を凌ごうとしたが、豊臣氏も当時は九州に緊急に軍勢を派遣できる政情ではなかった。逆に耳川の合戦で勝利した島津氏は南九州を平定したことにより、それまで大友家に押され気味であった勢力均衡が一気に傾いたのを見て、大友領への侵略を行う。天正14年(1586年)には九州全土の征服を目的にして大友家の本国豊後への侵略を開始し、肥後路から同母弟・島津義弘に、日向路から異母弟・島津家久の軍勢に豊後侵略を開始させた(豊薩合戦)。
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