大崎合戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 07:41 UTC 版)
父義直は天文の乱で伊達晴宗に味方しており、伊達氏との関係は伊達氏が伊達輝宗に代替わりし、大崎氏が義隆に代替わりしても良好であった。出羽国の最上氏は大崎氏と始祖を同じくする家で、妹の釈妙英を最上義光に嫁がせるなど、関係は密であった。会津の蘆名盛氏とも親交があった。しかし、宿敵関係にある東隣の葛西氏とは紛争が絶えなかった。葛西氏に属した諸家には、元亀2年(1571年)に葛西・大崎の合戦があり、葛西が勝ったことを伝える文書が7通残されている。書状はいずれも疑わしいものとされているが、周辺諸家に別々に伝承があったことは無視できず、時期や結果はともかく合戦があったことは事実とされる。 この後、天正5年(1577年)に葛西氏に属する元良某が主家に反抗したことを口実とし、救援のため義隆は出兵して葛西軍と戦った。葛西晴信はこの頃伊達輝宗の対相馬戦に援兵を送るなど、輝宗と同盟関係にあった。輝宗は対相馬戦に軍勢を貼り付けていたため、葛西のために兵を動かすことはできず、弟の留守政景を和平仲介の使者として大崎に送ったが、成功しなかった。 義隆は天正9年(1581年)京都の愛宕神社に立願を思い立ち、伊達・相馬の戦いが続く相馬口を避け、長井口(米沢経由)を通してくれるよう依頼する書状を伊達氏に出した。当時は織田信長が京を支配し、畿内の支配を固めつつあった。
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