大崎合戦の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 07:41 UTC 版)
江戸時代に仙台藩が編纂した『貞山公治家記録』が説明する事情はこうである。この年、大崎義隆の近習の間で争いがおき、それに乗じて家臣の新井田刑部らが別の家臣氏家吉継を討ち、主君の義隆に腹を切らそうと考え、伊達政宗に加勢を求めた。政宗は、以前から大崎との間に境界紛争を抱えていたことから、これを承諾した。氏家吉継にこの謀反を知らされた大崎義隆は、新井田刑部を呼び出して自分の領地である新井田の地に引き籠もるよう命じた。新井田は承知するふりをして義隆に同行を求め、新井田城まで連れて行って主君を閉じ込めた。新井田城には新井田に味方する家臣が集まり、一致して氏家を討つよう求めた。義隆は、氏家だけが忠義者で、目の前の家臣らは自分を殺そうとしていたことを知っていたが、大勢に逆らうことはできずに氏家退治を決めた。これを聞いた氏家は、名生城にある義隆の妻子を抑留し、伊達政宗に通じて大崎領を併呑するよう求めた。 治家記録を信じる限り、大崎家の内紛は複雑怪奇にして、義隆の統治能力に疑問符を付けざるをえない。しかし、大崎領内の主立った家臣が、主君が囚われた状態の新井田城に参集し、こぞって伊達・氏家に対する戦いを支持したのは不自然と思われる。内紛の事情を説明する他の史料はないが、入り組んだ経緯は偽りで、事実は単純に伊達政宗が氏家吉継を寝返らせて大崎領を併呑しようとしたのだと説く学者もいる。また、本質部分は大崎・氏家の下克上がらみの対立なのだとみなす学者もいる。
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