大崎内乱と小僧丸の入嗣
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大崎氏は奥州探題として陸奥国・出羽国の武士をまとめてきた家柄だが、戦国時代に入って広域の軍事・行政権限を行使できなくなり、現在の宮城県北西部の河内地方、大崎5郡に割拠する一大名になっていた。陸奥国では伊達氏が力を伸ばし、奥羽の中で随一の実力をもって周辺諸氏を服属させつつあった。 天文3年(1534年)、その領国で内紛が起こり、大崎義直は天文5年(1536年)に伊達稙宗の力を借りて反乱を鎮圧した。そして稙宗は、わが子の小僧丸を義直の養嗣子として送り込んだ。稙宗の説明によれば、川内一党、すなわち大崎家家臣団の頻りの懇望によるという。このとき稙宗の嫡子伊達晴宗は、父の意に反して古河(古川)に警護の兵を置き、後の天文の乱に連なる不協和が生まれていた。 仙台藩が編纂した『伊達正統世次考』巻8下は、稙宗から黒川郡の黒川景氏の家臣福田広重らにあてた10月7日付の書状の要約を載せる。入嗣に直接触れる確実な史料はこれだけだが、書状には年が書かれていない。『伊達正統世次考』は、小僧丸の入嗣を反乱鎮圧の後とする。これに従い、入嗣を内乱収束後の天文6年(1537年)頃にと推測する学者がいる。 しかしやはり江戸時代に書かれた「旧川状」(古川状)という記録は、義直は、稙宗の二男を跡継ぎにしていた縁で、天文5年(1536年)2月に伊達氏の援兵を引き出したと記す。内乱後の入嗣ではない。「旧川状」を根拠に、天文2年(1533年)頃に入嗣し、それに対する家中の反発が内乱を引き起こしたと考える学者もいる。前の説に従うと小僧丸の入嗣は本人が数えで12歳、兄の晴宗が19歳のとき。後の説では本人が8歳、晴宗が15歳のときである。晴宗は23歳で父に反旗を翻すこととなるが、古川で独自行動を起こした年齢をどう考えるかが問題となる。
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