大崎内乱と小僧丸の入嗣とは? わかりやすく解説

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大崎内乱と小僧丸の入嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 18:44 UTC 版)

大崎義宣」の記事における「大崎内乱と小僧丸の入嗣」の解説

大崎氏奥州探題として陸奥国出羽国武士まとめてきた家柄だが、戦国時代入って広域軍事・行政権限行使できなくなり現在の宮城県北西部河内地方大崎5郡に割拠する一大になっていた。陸奥国では伊達氏が力を伸ばし奥羽の中で随一実力をもって周辺諸氏服属させつつあった。 天文3年1534年)、その領国内紛起こり大崎義直天文5年1536年)に伊達稙宗力を借りて反乱鎮圧した。そして稙宗は、わが子の小僧丸を義直養嗣子として送り込んだ。稙宗の説明によれば川内一党、すなわち大崎家家臣団頻り懇望によるという。このとき稙宗の嫡子伊達晴宗は、父の意に反して古河古川)に警護の兵を置き、後の天文の乱連なる不協和生まれていた。 仙台藩編纂した伊達正統世次考』巻8下は、稙宗から黒川郡黒川景氏家臣福田広重らにあてた10月7日付の書状要約載せる。入嗣に直接触れ確実な史料これだけだが、書状には年が書かれていない。『伊達正統世次考』は、小僧丸の入嗣を反乱鎮圧の後とする。これに従い、入嗣を内乱収束後の天文6年1537年)頃にと推測する学者がいる。 しかしやはり江戸時代書かれた「旧川状」(古川状)という記録は、義直は、稙宗の二男跡継ぎにしていた縁で、天文5年1536年2月伊達氏援兵引き出したと記す。内乱後の入嗣ではない。「旧川状」を根拠に、天文2年1533年)頃に入嗣し、それに対す家中の反発内乱引き起こした考え学者もいる。前の説に従うと小僧丸の入嗣は本人数え12歳、兄の晴宗が19歳のとき。後の説では本人8歳、晴宗が15歳のときである。晴宗は23歳で父に反旗を翻すこととなるが、古川で独自行動を起こした年齢をどう考えるかが問題となる。

※この「大崎内乱と小僧丸の入嗣」の解説は、「大崎義宣」の解説の一部です。
「大崎内乱と小僧丸の入嗣」を含む「大崎義宣」の記事については、「大崎義宣」の概要を参照ください。

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