軍政 (行政)
軍事、行政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 01:24 UTC 版)
「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の記事における「軍事、行政」の解説
国王軍を弓を武器とする軽騎兵と重武装の兵士で構成しようという試みがなされ、騎兵隊はモンゴルの撤退後に再びハンガリーが受け入れたクマン人や従前から辺境防衛を担当していたセーケイ人などで編成された。西欧の騎士をモデルとした重武装の兵士を生み出すため、王国北部の王領に新興の小領主層を創設し、彼らに兵力の供給を求めた。 同時に植民政策も進められ、都市の自治特権の承認や農村地帯の入植者への付与が行われる。空白地ではドイツ人、ルーマニア人、ルテニア人の入植が進められ、彼らには「客人」としての特権が付与された。分散した所領を一つにまとめようとする大貴族たちも植民に熱心であり、広大化した領地に移住した領民に一定の権利と自由を付与した。中小貴族のもとで悪条件に置かれていた領民たちは王領や大貴族の領地に移り、農民の地位の向上につながった。 都市民の自治とともに、大貴族への対抗策として小領主の権利が認められ、モンゴル侵入に際してハンガリー国外に移動したクマン人とヤース人が再び呼び戻された。ドナウ・ティサ川間の地域がクマン人の居住区に定められ、王室とクマン人の結びつきを強化するために王子イシュトヴァーンとクマン人族長の娘との婚姻が成立した。 改革の結果、県の統治は貴族に委ねられ、各県から中央の立法議会に代表が送られるようになった。改革は荒廃した国土の復興においては一定の成功を収めたが、従来の家産制的支配に代わる新しい支配体制の導入には至らなかった。また、貴族の政界への進出、ハンガリー人とクマン人の対立といった問題も残る。
※この「軍事、行政」の解説は、「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の解説の一部です。
「軍事、行政」を含む「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の記事については、「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の概要を参照ください。
- 軍事・行政のページへのリンク