小領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:19 UTC 版)
「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の記事における「小領主」の解説
1363年から1371年にかけての間のラザルの動向は、ほとんど文献史料に記録されていない。1363年もしくは1365年には、ステファン・ウロシュ5世の宮廷を去ったようである。この時彼は35歳ほどで、スタヴィラツより上へ出世できていなかった。1363年9月、最も強力だった諸侯ヴォイスラヴが急死した。これに代わって、ムルニャヴチェヴィチ(英語版)兄弟(ヴカシン、ヨヴァン(英語版)がセルビア帝国内最強の地位を占めるようになった。彼らは帝国の南部、マケドニアを中心とした地域を支配していた。1365年、ステファン・ウロシュ5世はヴカシン・ムルニャヴチェヴィチを戴冠させ、自身の共同君主とした。おおよそ同じ時期に、弟のヨヴァンもデスポット(専制公)へ昇進した。一方でヴォイスラヴ・ヴォイノヴィチの遺領では、1368年までに20歳ごろの甥ニコラ・アルトマノヴィチ(英語版)がその大部分を支配下に置いていた。この頃、ラザルも自立し、小領主としての道を歩み始めていた。彼の領域の広がりはよく分かっていないが、少なくとも世襲領だったプリレパツ城が本拠地ではなかったことは確かである。というのも、この地はヴカシン・ムルニャヴチェヴィチに奪われていたからである。おそらくは南方のムルニャヴチェヴィチ領との境界近くに本拠地を置き、西方のニコラ・アルトマノヴィチや北方のラスティスラリッチ家と相対していたと考えられている。 マヴロ・オルビーニが著した『スラヴ人の国家』(Il Regno de gli Slavi、1601年にペーザロで出版) は、ラザルを主人公としてこの時期の出来事を叙述している。他の文献で内容の裏付けが取れないため、この文献の正確性に疑義を呈している研究者もいる[誰?]。オルビーニによれば、ニコラ・アルトマノヴィチとラザルがステファン・ウロシュ5世を説き伏せ、手を組んでムルニャヴチェヴィチ兄弟を攻撃した。1369年、コソヴォ・ポリェで反ムルニャヴチェヴィチ勢とムルニャヴチェヴィチ家の軍が激突した。ところが戦闘が始まってすぐにラザルは撤退してしまい、残された同盟者たちは戦い続けたものの敗北した。ニコラ・アルトマノヴィチは辛うじて逃げおおせたが、ステファン・ウロシュ5世はムルニャヴチェヴィチ兄弟に捕らえられ、一時幽閉された。なお共同君主であるステファン・ウロシュ5世とヴカシン・ムルニャヴチェヴィチは、この戦いの2年前にすでに袂を分かっていたという説もある。1370年、ラザルはアルトマノヴィチ家から豊かな鉱業の中心地ルドニク(英語版)を奪った。おそらくこの事件は、前年のアルトマノヴィチ家の敗北に伴うものであった。しかしアルトマノヴィチ家は強力なハンガリー王国の庇護を受け、瞬く間に勢力を回復した。
※この「小領主」の解説は、「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の解説の一部です。
「小領主」を含む「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の記事については、「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の概要を参照ください。
- 小領主のページへのリンク