保科氏の出自と小領主時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 16:00 UTC 版)
清和源氏井上氏の一族と伝えられるが、氏族名の由来ともなった保科の荘は古来からの荘園で、保科氏の祖は長田御厨の庄官を勤めたとされる。このことから古代氏族の他田部氏の系統とする説がある。また「信濃史源考」では他田氏と同祖とされる諏訪氏の庶流としている。若穂保科の広徳寺寺歴では平安時代に川田一帯を支配していた保科氏は一旦絶えて井上氏から分かれた井上忠長が保科氏を再興したとしている。 長元元年(1028年)の平忠常の乱を平定して東国に勢力を扶植した源頼信の二男頼季が信濃国高井郡井上に住し、井上氏が北信濃に勢力を拡大する過程でその家人となって武士団化したと思われる。 治承・寿永の乱では井上氏の総領井上光盛に従い源氏方として活躍、『平家物語』に光盛に率いられた「保科党三百余騎」として登場する(星名党とも記され、初期の横田河原の戦いでは源氏方ではなく城軍の中に星名権八の名がある)。その後、井上光盛が源頼朝に誅殺された際に捕らわれた家人に「保科太郎」がいるが、のちに許されて御家人に取り立てられている。また承久の乱に「保科次郎」父子が出陣したことが知られる。 鎌倉時代から南北朝・室町時代における保科氏の動向は史料が少なく、確かなことは判明しておらず、諏訪大社の祭祀記録である「御符礼之古書」などに保科姓が散見される程度である。しかし建武2年(1335年)には中先代の乱において、北条方残党を擁立する諏訪氏や滋野氏に同調した保科弥三郎が北条氏知行地に属していた四宮左衛門太郎(諏訪氏の庶流と伝えられる)らと共に室町幕府の守護所(千曲市小船山)を襲い、青沼合戦を引き起こして敗走する。そして足利方の守護小笠原貞宗や市河氏らの追撃を受けて、八幡河原、福井河原、四宮河原を転戦した。だが鎌倉において足利方が勢いを盛り返し、保科氏らは清滝城に篭城して抵抗したが攻略された。守護方は反転してこの後牧城へ向けて攻撃を加えている。その後は諏訪氏らとともに南朝勢として活動している。
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