保科氏の転出以後、土方氏の知行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:27 UTC 版)
「多古藩」の記事における「保科氏の転出以後、土方氏の知行」の解説
旧保科領は一時徳川家直轄領となった。 慶長9年(1604年)、能登・越中・加賀で1万石を領していた越中布市藩主土方雄久に、加増分として多古(田子)5000石が与えられた(ただし、多古村と林村以外の領域ははっきりしない)。この際に雄久が多古に本拠を移したかについては見解が分かれる。『多古町史』では、土方氏は多古に役所を置いたものの多古を本領とはしていないと評価する。一方、多古(田子)に拠点を移して多古藩(田子藩)1万5000石を成立させたという記述もある。雄久の子の雄重は大坂の陣で戦功を挙げ、元和8年(1622年)に5000石を加増されて2万石の大名となったが、この際に多古を含む下総国の領地5000石は陸奥国菊多郡内に移され、藩庁も陸奥窪田に置いている(窪田藩)。土方氏の多古地域支配については、林村で検地帳の実地検分に当たった奉行の加茂宮治兵衛が、名奉行であったと村民に語り伝えられている。 旧保科領の残る地域は、一時佐倉藩領となったが、その後の領地替えなどによって細分化され、この地域は「碁石まじり」と呼ばれるような、旗本諸家の相給を含み幕府直轄領も入り混じる、複雑な領有関係となった。
※この「保科氏の転出以後、土方氏の知行」の解説は、「多古藩」の解説の一部です。
「保科氏の転出以後、土方氏の知行」を含む「多古藩」の記事については、「多古藩」の概要を参照ください。
- 保科氏の転出以後、土方氏の知行のページへのリンク