土方雄久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 04:56 UTC 版)
土方 雄久(ひじかた かつひさ、よしひさ、おひさ[3][1])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越中国布市藩藩主、のち能登国石崎藩藩主、下総国多古藩(田子藩)初代藩主。
注釈
- ^ a b 『土方家譜』による。この系図においては、父・信治が俊治の婿養子、信治の実の姉または妹が太田吉定の妻となっているほか、俊治のもう一人の娘が前田利家の妻となり、その間に生まれた利長や利政が雄久の従兄弟としている(これは利家の妻であるまつ(芳春院)が篠原氏ではなく土方氏の出身とする説である)。尚、実弟の太田長知が継いだのは太田吉定の家系であるとみられる。
- ^ 『寛政重修諸家譜』より。前野長兵衛は前野長康の叔父、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の家臣で、1561年の織田・松平(松平元康)との戦い(三河梅坪合戦)にて戦死したというが『武功夜話』によるものに過ぎない。しかしこれが事実であれば雄久は前野長康の従甥にあたることになる。
- ^ 「源家隈部系図」(太田亮『姓氏家系代辞典』所収)、『藩翰譜』、『寛政重修諸家譜』等による。源親治の末裔を称し、父・信治の代までその「治」の通字を受け継いで使用していることも1つ根拠になっていると言える。
- ^ 『信長公記』には「土方彦三郎」なる人物が弘治2年(1556年)の長良川の戦いでの斎藤道三への織田の援軍に加わったが、合戦に間に合わず、その後相手方の斎藤義龍の軍勢が攻めてきた際(大良河原での戦い)に戦死したとする記述があり、これが「伊勢こ野土方家譜」に見られる土方信治と同一人物とみられている。
- ^ 『朝日日本歴史人物事典』「土方雄久」の項(小和田哲男執筆) および 『世界大百科事典』「土方氏」の項(いずれもコトバンク所収)より。ただし、信雄は初め北畠具豊・信意を名乗っていたため、その頃の初名は不明である。
- ^ これをもって能登石崎藩の成立とする説(『大日本史料』慶長13年11月13日条 土方雄久卒伝)と、下総多古藩の成立とする説がある。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 國民圖書 1923, p. 715.
- ^ 『寛政重修諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月18日、557頁、NDLJP:1082714。
- ^ a b c d e f 多古町史編さん委員会 1985, p. 196.
- ^ a b c d e f 多古町史編さん委員会 1985, p. 197.
- ^ 犬山市教育委員会・犬山市史編さん委員会 編『犬山市資料 第一集』犬山市、1981年2月1日、117頁、NDLJP:9570365(要登録)。
- ^ 『寛永諸家系図伝』より。
- ^ 多古町史編さん委員会 1985, pp. 196–197.
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