保科氏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:27 UTC 版)
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、信濃高遠城主であった保科正光を下総国の多古(多胡)に1万石で入れた。正光は多古城に入ったと考えられる。 保科氏の領地は、多古村などのちに松平勝義の領地となる地域が含まれているが、領域ははっきりとはわかっていない。保科氏の領内統治について、地元でも記録はほとんど残されていない。中世以来飯櫃城(山武郡芝山町飯櫃)を根拠とする国衆であった山室氏についての記録『総州山室譜伝記』では、天正18年(1590年)12月に保科氏が飯櫃城を攻め落として山室氏を滅ぼした合戦が語られているが、詳細に描かれた合戦について『多古町史』では「史実としては信用できない」と退けている。 『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、正光は越前国に派遣され、北ノ庄城の城番に任じられて越前国の政務を執り、同年11月に正光は1万5000石を加増されたうえで旧領である信濃高遠藩に移された。ただし、江戸留守居役や多古城番に宛てた手紙から、実際に正光が多古から高遠に移ったのは慶長6年(1601年)秋のようである。
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