ほうじょう〔ホウデウ〕【北条】
読み方:ほうじょう
姓氏の一。
鎌倉幕府の執権家。桓武平氏の流れで、平貞盛の後裔時家のとき、伊豆北条に住んで北条と称した。時政が源頼朝の幕府創業を助け、のち、執権として数代にわたり幕府の最高実力者となった。
小田原を根拠地に関東を支配した戦国大名。伊勢新九郎長氏(早雲)を祖とし、氏直のとき豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡。後北条氏。
[補説] 「北条」姓の人物
北条顕時(ほうじょうあきとき)
北条氏綱(ほうじょううじつな)
北条氏直(ほうじょううじなお)
北条氏長(ほうじょううじなが)
北条氏政(ほうじょううじまさ)
北条氏康(ほうじょううじやす)
北条霞亭(ほうじょうかてい)
北条実時(ほうじょうさねとき)
北条重時(ほうじょうしげとき)
北条早雲(ほうじょうそううん)
北条高時(ほうじょうたかとき)
北条民雄(ほうじょうたみお)
北条団水(ほうじょうだんすい)
北条時房(ほうじょうときふさ)
北条時政(ほうじょうときまさ)
北条時宗(ほうじょうときむね)
北条時行(ほうじょうときゆき)
北条時頼(ほうじょうときより)
北条秀司(ほうじょうひでじ)
北条政子(ほうじょうまさこ)
北条政村(ほうじょうまさむら)
北条泰時(ほうじょうやすとき)
北条義時(ほうじょうよしとき)
北条氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 14:15 UTC 版)
北条氏(ほうじょうし、旧字体:北條氏)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名北条氏(後北条氏、小田原北条氏)との混同を避けるため鎌倉北条氏、もしくは代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏と呼ばれることもある[注釈 1]。通字は時(とき)[注釈 2]。ただし北条から移住した後も実際に北条の名字で呼称されたことが確認できる者は時政、時頼などごく少数派である[1]。
注釈
- ^ 早雲・氏綱時代の後北条氏と重複するが、伊豆国を発祥地とするために、伊豆北条氏と呼ばれる場合もある。また、北条氏は源平合戦の時期から頭角を現していたが、執権の設立は3代将軍源実朝の就任以降であり、それ以降も執権以外の著名人物も多く、「執権北条氏」という名称もやや限定的となる。
- ^ 桜田時厳のように、法名の場合は「じ」。
- ^ 後述にもあるが、最近の研究では平直方の子孫とする説は疑問視されている。
- ^ 北条時政が榎ノ島弁財天に参籠したところ竜女が示現し、北条家の繁栄を予祝し3枚の鱗を残して姿を消したという因縁説話(太平記巻第5など)。
- ^ ただし、時政の嫡男は初めは長男の宗時、その没後は末の息子ながら後室牧の方の唯一の男子であった政範であったと考えられ、『吾妻鏡』でも頼朝時代には義時や泰時は「江間」の名乗りで登場することが多い。政範の死の直後に発生した牧氏の変において義時が父・時政を追放した結果、実力をもって北条氏当主の地位を得て本来の支流江間流が嫡流得宗家へと変化したと考えられている[11]。
- ^ 貞時の元服は『建治三年記』、その他は『吾妻鏡』による[12][13]。佐藤和彦・樋口州男両氏も時頼が頼経から[14]、時宗が宗尊親王から[15]一字を受けたとする説を提唱している。
- ^ 北条邦時の「邦」の字も将軍・守邦親王から受けたものである[13]。
- ^ 元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多い[16]。言い換えれば、偏諱を賜うということは烏帽子親子関係を結ぶことを意味していた[17]。
- ^ 永井晋[22]や山野龍太郎[23]は、金沢貞顕の「貞」の字が北条貞時からのものとしている。
- ^ 元服の年齢を10~15歳と仮定した場合。実際はこの範囲はもう少し前後に広がるため、これに合わない場合は10歳以下或いは15歳以上に元服したとみなせば良い[32]。
- ^ 『吾妻鏡』に基づく[23]。
- ^ 『平賀氏系譜』によれば北条時頼の邸宅で元服したとのことである[33]。六角頼綱も同様に時頼の邸宅で元服したことが『吾妻鏡』に見られ、やはり「頼」の字を受けていると考えられる。
出典
- ^ 加藤晃「日本の姓氏」井上光貞ほか『東アジアにおける社会と習俗』学生社、1984年、109-111頁
- ^ 芳年武者无類 遠江守北条時政刀剣ワールド
- ^ 細川 2011, pp. 26–27.
- ^ 上横手 1958.
- ^ 杉橋隆夫「北条時政の出身-北条時定・源頼朝との確執-」『立命館史学』500号、1987年。
- ^ 佐々木紀一「北条時家略伝」『米沢史学』第15号、1999年。
- ^ 野口実「〈京武者〉の東国進出とその本拠地について」『研究紀要』第19号、京都女子大学宗教・文化研究所、2006年。/所収:野口実『東国武士と京都』同成社、2015年、136-146頁。ISBN 978-4-88621-711-0。
- ^ 関 2009.
- ^ 黒田基樹「伊勢宗瑞論」『伊勢宗瑞』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻〉、2013年。ISBN 9784864030717。
- ^ 黒田基樹「北条氏綱論」『北条氏綱』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二一巻〉、2016年。ISBN 9784864032001。
- ^ 細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力』日本史史料研究会、2007年、P18-20.
- ^ 山野 2012, p. 164.
- ^ a b 山野 2012, p. 182, 脚注(27).
- ^ 佐藤 & 樋口 2000, p. 253.
- ^ 佐藤 & 樋口 2000, p. 11.
- ^ 山野 2012, p. 162.
- ^ 田中 2013, p. 19, 田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」.
- ^ a b c 山野 2012, p. 182, 脚注(27)
- ^ 紺戸 1979.
- ^ a b 山野 2012, p. 163.
- ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』3・4号、2004年。
- ^ 永井晋『金沢貞顕』吉川弘文館〈人物叢書〉、2003年。ISBN 4-642-05228-3。
- ^ a b 山野 2012.
- ^ a b 田中 2013, p. 25, 田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」
- ^ a b c d 田中 2013, p. 67, 臼井信義「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」
- ^ 田中 2013, p. 68, 臼井信義「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」.
- ^ 田中 2013, p. 69, 臼井信義「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」.
- ^ 田中 2013.
- ^ 紺戸 1979, pp. 11–14.
- ^ a b 田中 2013, p. 131, 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」。年代を考慮すれば北条時宗から下賜されたものと思われる。
- ^ 紺戸 1979, pp. 14–22.
- ^ a b 紺戸 1979, p. 19.
- ^ 山野 2012, p. 181, 脚注(6).
- ^ 山野 2012, p. 180.
- ^ a b c d e f g h 紺戸 1979, p. 23
北条氏
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勝利した北条氏直は、滝川一益を追う形でそのまま碓氷峠を越え、6月26日には佐久郡の諸豪を臣従させた。7月9日には真田昌幸が誼を通じ、小諸城まで進出、更に木曾義昌や諏訪頼忠に所領安堵状を与え、信濃も半ば手中するかに見えたが、同じく北信濃に進軍してきた上杉景勝と対峙することになった。また同9日に甲斐を徳川家康が抑えており、更に南信濃を伺った為、三つ巴の対立(天正壬午の乱)へと発展していった。なお一益が木曾義昌に引き渡した佐久・小県郡の人質は、9月17日に徳川家康に引き渡され、北条氏は佐久・小県郡の諸将に離反されている。
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