上杉景勝とは?

うえすぎかげかつ うへすぎ- 【上杉景勝】 ○

1555~1623安土桃山江戸初期武将長尾政景次男上杉謙信養嗣子会津中納言豊臣秀吉五大老に列し、会津一二万石を領したが、関ヶ原の戦い石田三成と結んで敗れ、米沢三〇万石減封された。

上杉景勝

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


上杉景勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/21 07:45 UTC 版)

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名豊臣政権五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。




注釈

  1. ^ 『上杉家御年譜』に基づく、他の資料では畠山景広ともいう。のちに養子縁組を解消
  2. ^ 後述する新発田重家との対立期の織田家の書簡には「長尾景勝」とあり、豊臣秀吉及び島津家の書簡にも「長尾」と散見される。ただし御館の乱前期に景勝が奉納した願文には「藤原景勝」と署名しており、少なくとも謙信没後には平姓長尾氏ではなく藤原姓上杉氏を称していたことだけは事実である。
  3. ^ 南魚沼市樺野沢にある龍澤寺には上杉景勝公生誕の地の石碑がある。また坂戸城跡にも上杉景勝・直江兼続生誕の地という石碑があるが、『新編会津風土記』には景勝は樺沢城で生まれたと記載があることから、樺沢城が有力とされる。
  4. ^ ただし、『上杉家御年譜』には永禄2年(1559年)頃には既に景勝が謙信の許にいたとする記述がある。
  5. ^ 永禄年間に甲斐武田氏駿河侵攻に対して相模国のと越相同盟を結び景虎が養子として迎えられていたが元亀2年(1571年)に越相同盟は破棄され、武田氏と後北条氏の甲相同盟が回復していた。
  6. ^ 上杉家当主が武田家から正室を迎えたのは室町期の上杉禅秀以来。
  7. ^ 没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある。
  8. ^ これには景勝の命令、景勝側の部下の裏切り、景虎側の部下の裏切り等様々な諸説があり断定はされていない。また、道満丸には信濃国豪族市川氏に庇護され、生存していたという説がある。
  9. ^ 成政が景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過し、徳川家康に密会したことを示唆する書状も存在する[6]
  10. ^ 前年閏8月に秀吉の待つ富山城に景勝は参上せず[7]
  11. ^ 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」(『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など)であったとする学説・文献もある。
  12. ^ 会津移封時、石高を明記した秀吉からの領地朱印状類は発給されていないが、「上杉家記」の「会津移封所領目録」には120万1,200石余と記されており、会津120万石は通説として『藩史大事典 第一巻 北海道・東北編』(雄山閣、1988年)を始め多くの書籍に記載されている。なお「秋田家史料」(東北大学附属図書館蔵)の「全国石高及び大名知行高帳」には会津中納言として91万9千石。上杉将士書上には会津50万石国替。
  13. ^ 幕府から上杉氏に与えられた領地判物の初見は寛文4年(1664年)の上杉綱勝宛領地判物「上杉家文書」であるが、景勝時代に軍役を賦課する場合の公式高としての30万石は大坂冬の陣での出勤数等より明らかとされている[11]。また、原本、写本とも現存しないが、寛永11年(1634年)、家光より30万石の領地朱印状が交付されたと推測されている[12]
  14. ^ 1638年(寛永15年)総検地
  15. ^ 「上杉家御年譜」には菊姫が病にかかった際、景勝がその病気平癒のために様々に手を尽くし、また菊姫が死去した際の景勝の嘆きの有様についての記述があり、菊姫の実家である武田家滅亡後も依然として正室であることも合わせて、少なくとも菊姫との夫婦仲が険悪だった可能性は低い。詳細は菊姫 (上杉景勝正室)参照。
  16. ^ 他家もこの頃に衆道禁止令を相次いで発布している。この禁止令は上杉家も含む諸大名家当主らが、藩士間の衆道を原因とするいざこざ(著名な例として、大内義隆蘆名盛隆らが家臣との衆道のこじれが原因で、自身の死と家の滅亡を招いていることが挙げられる)を防ぐために発布したものであり、当主などの衆道に対する好悪との関わりは薄いと見られる。
  17. ^ 景勝時代には常駐宣教師不在の中、甘糟信綱(甘糟景継の子とも、一族ともいわれている)親子や西堀式部(「寛永八年分限帳」に名前のみえる、御年寄衆西堀七左衛門政直の一族か)らが入信し、地道な布教活動が行われていたようだが、著しくキリシタンが増えるのは、景勝死後、アウグスチノ会の宣教師が置賜に常駐した寛永3年(1626年)以後のことと言われている。当時のフランシスコ会宣教師ディエゴ=デ=サンフランシスコの書簡には、当時米沢藩領内にいたキリシタンは一万人だが、半数の5,000人は寛永3年からの5年間の内に受洗したと書かれている。これは、特に寛永元年(1624年)の仙台・秋田・南部諸藩の大迫害後、キリシタン禁制がゆるやかであった米沢藩内に活発な伝道が行われたことが窺われ、こうした信者の著しい増加が、藩庁や幕府の注目するところとなり、ひいては寛永5年12月(1629年1月)の米沢大殉教につながったとの見方もある[22]

出典

  1. ^ 福原圭一・前嶋敏編集『上杉謙信』(高志書院、2017年)P31-41,52-53
  2. ^ 今福匡「越後長尾氏と上杉謙信の閨閥 -「越後長尾殿之次第」の検討を通して - 」(渡邊大門編『戦国・織豊期の諸問題』歴史と文化の研究所、2017年)P30-59
  3. ^ 山田, p. 55.
  4. ^ 山田, pp. 55-56.
  5. ^ 七宮, p. 190.
  6. ^ 「さらさら越え、立山越えず? 金沢・玉川図書館に書状の写し」(北国新聞2013-09-30)
  7. ^ 富山市郷土博物館編「秀吉 越中出陣」ほか
  8. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。
  9. ^ 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)
  10. ^ 『米沢市史・近世編1』
  11. ^ 『山形県史 近世編上』第2章「藩の成立」64頁、115頁参照
  12. ^ 藤井穣治「寛永11年の領地朱印改と「寛永御朱印」」(『人文学報』74号、1994年)
  13. ^ 『上杉家譜』『大日本史料』
  14. ^ 『三重年表』『上杉氏年譜』
  15. ^ a b c 『三重年表』
  16. ^ 『上杉氏年譜』『本光国師日記』『直江重光書翰留』『大日本史料』
  17. ^ 本光国師日記』『大日本史料』
  18. ^ 『御湯殿上日記』天正16年8月17日条「越後の長尾、清華の御礼とて、御うま・太刀進上、観修寺・中山披露」。
  19. ^ 米沢市上杉博物館所蔵「豊臣秀吉直書」
  20. ^ 中村忠雄「米沢史談」
  21. ^ 木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)425頁
  22. ^ レオン=パジェス『日本切支丹宗門史』、菅野義之助『奥羽切支丹史』、浦川和三郎『東北キリシタン史』、『米沢市史・近世編1』


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