木下利次
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長12年(1607年) |
死没 | 元禄2年1月19日(1689年2月2日) |
改名 | 羽柴利次→木下利次 |
別名 | 利三 |
戒名 | 碧雲院殿徹叟利三居士 |
墓所 | 東京都港区芝公園の金地院 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 豊臣姓羽柴氏→木下氏 |
父母 | 父:木下利房、母:進藤正次女、養母:高台院 |
兄弟 | 利当、利次 |
妻 | 正室:向井忠勝養女(水野忠直[1]娘) |
子 | 利値、利紀、広外(久喜の甘棠院の僧)、崇達(芝の金地院の僧)、娘(筒井政勝室)、娘(新見正道室)、娘(春日義陣室)、娘(谷頼衡室) |
木下 利次(きのした としつぐ)/ 羽柴 利次(はしば としつぐ)は、江戸時代前期の旗本。豊臣宗家の社稷を継ぐことを認められた。旗本寄合・近江木下家の初代当主。幼名は長橘丸、通称は左近[2]。
来歴
備中国足守藩主・木下利房の次男として生まれる。叔父に羽柴秀俊として豊臣家にいた小早川秀秋がいる。大坂の陣により豊臣秀頼を当主とする豊臣宗家が滅亡したのち、豊臣家(羽柴家)が断絶することを愁いた大叔母の高台院の養子となって「羽柴利次」となり、高台院のもと公家町(京都御苑内)にあった豊臣摂関家公邸京都新城(現在の京都仙洞御所)で養育された[3]。
後年、利次が書いた覚書によれば、大坂夏の陣直後に高台院が利次養子のことを徳川家康に願い出たが慰留されたという。その後、元和9年(1623年)になって、徳川秀忠・家光父子が上洛した際に高台院は利次を目通りさせて再度養子縁組を願い出たところ、秀忠の意向で許されることになった[2]。翌寛永元年(1624年)、養子縁組の御礼のために江戸城の家光の元に参勤したが、高台院の病状悪化の知らせを聞き、急遽京都に戻ることが許された。同年9月に高台院が死去している[2]。
高台院が死去した後、幕府により苗字を「木下」に改姓させられた[3]。秀吉正室高台院は公家として秀吉の羽柴家が残ることを願っていたが幕府により家格の継承が否定され木下家となった羽柴家は高台院の(化粧領・養老料)1万5000石の遺領を大幅に削られ、近江国野洲郡・栗太郡の3000石と豊臣家の社稷を相続することのみが許される徳川将軍家に仕える一旗本(武家)となった[3]。利次は、豊臣宗家を継いだことで傲慢な振舞いがあり、木下一族から義絶され、これは6代目の利常の代になるまで和解することはなかった[4]。 旗本として江戸城下に屋敷が用意されたが京都新城は幕府に収公され皇室に献上された(仙洞御所として利用される)。
貞享4年(1687年)に致仕して家督を長男の利値に譲り、元禄2年(1689年)に83歳で死去した[5]。
墓所は、四男・崇達が僧となった金地院にあり、「家門元領豊臣姓木下氏民部墓」と刻まれている。
子孫
利次の子孫は上級旗本・寄合席(大身)として江戸幕府に仕えた。また江戸幕府12代将軍徳川家慶は利次の女系子孫である。
木下利次―木下利値―女子(天野重供室)―天野久斗―天野久豊―女子(押田敏勝室)―香琳院(徳川家斉側室)―徳川家慶
脚注
- ^ 水野忠重の子。
- ^ a b c 福田千鶴『高台院』吉川弘文館〈人物叢書〉、2024年2月2日、253-255頁。ISBN 978-4-642-05316-7。
- ^ a b c 池田洋子「名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート」(PDF)『名古屋造形大学紀要』第18号、2012年、25頁。
- ^ 『備中足守木下家譜』に「利三(利次)秀吉公ノ名跡ナルヲ以テ宗家タラン事ヲ云テ一族不敬甚シク仍一族公ニ訴テ義絶ス」「六世左門利常ニ至テ木下一統和睦天明三癸卯年八月廿八其旨公ニ訴フ」と記されている。
- ^ “豊臣は滅んでいなかった?秀頼の死後も豊臣の姓を受け継いだ木下利次のエピソード(Japaaan)”. LINE NEWS. 2025年3月19日閲覧。
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