小早川秀秋とは?

こばやかわ‐ひであき〔こばやかは‐〕【小早川秀秋】

[1582〜1602]安土桃山時代武将豊臣秀吉正室高台院の兄木下家定の子幼名、辰之助。通称金吾秀吉養子となり、のち、小早川隆景養嗣子慶長の役総大将として参戦秀吉死後関ヶ原の戦い東軍寝返り、功によって備前備中美作50万石を領した。


小早川秀秋

読み方こばやかわ ひであき

安土・桃山時代武将幼名は辰之助、通称金吾中納言豊臣秀吉正室高台院の兄木下家定の子秀吉養子となり、羽柴秀俊と名のる。後、小早川隆景養子となり秀秋と改名丹波を領したが関白次の罪に坐してこれを失う。慶長の役では総大将として渡海関ヶ原の戦いには、西軍から東軍に転じ徳川勝利の因をなし、備後備中美作五十万石与えられた。慶長7年(1602)歿、21才。

小早川秀秋(こばやかわ ひであき) 1582~1602

木下氏 左衛門督 参議 中納言 豊臣氏
◇父:木下肥後守家定 養父羽柴秀吉小早川隆景 室:毛利輝元養女
 父は羽柴秀吉正室北政所の兄。3歳秀吉養子となる。しかし、秀吉実子秀頼が生まれると、翌年安芸毛利氏小早川氏養子に出された。筑前52万石領有慶長の役では総大将として出陣している。関ヶ原の合戦では西軍として参陣したが、裏切って東軍内応西軍敗北要因となった。戦後備前美作50万石を得たが、まもなく亡くなった。嗣子なく小早川宗家断絶

小早川秀秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 02:27 UTC 版)

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代大名丹波国亀山城主、筑前国名島城主を経て備前国岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した[注釈 2]




注釈

  1. ^ 「金吾」は官職の左衛門督の唐名「執金吾」が由来。
  2. ^ 「秀詮」が終のであるが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」で記されることがほとんどである。
  3. ^ 「黒田家文書」所収の慶長三年正月朔日付早川長政竹中隆重連署陣触写は蔚山城の戦いの陣立書であるが、そこに秀秋の名前はない。
  4. ^ 8,000とする資料もある[10]
  5. ^ 『中臣祐範記』では「上方衆が(それまで)勝利を得ていたのに、小早川秀秋が裏切って後ろから1万5000余にて切りかかったため、どうにもならず(上方衆が)敗北した。……秀秋が「太閤秀吉」の御養子として出頭之仁であるにもかかわらず、今回のことの次第(裏切り)は武勇のうえとは言え、比興之所行であると世間之嘲嘍を受けた」としている。このように、秀秋が秀吉の恩を忘れて裏切り、豊臣公儀方の軍勢を敗北に追いやったことが卑怯であると世間から嘲笑されたと辛辣な書き方されていることから、同時代人にも秀秋の裏切りが卑怯と受け取られていたことがわかる[17]
  6. ^ 曲直瀬玄朔著『醫學天正記』(医学天正記)には18-19歳(数え歳)の秀秋(原文は「備前中納言秀秋公、年十八 九歳」)診察時の情報が載っており、乾上に「内傷附飲食 十三」には「酒渇嘔吐、胸中煩悶全不食、尿赤舌黒乾、脉細數(以下、薬の処方の説明なので略)」、乾下に「黄疸 三十六」には「酒疸一身黄、心下堅滿、而痛不飲食渇甚(薬説明、中略)○黄色少減、心中悸動心遠、脉遅用(薬説明、略)」とある。
    (近藤瓶城 編『史籍集覧 第二十六冊』近藤出版部、1902年、p.442・461。)
    このように食事がとれないような体調不良が何度かあり、酒を飲むと吐く・尿が赤くて舌が黒い・脈が細かい(内傷)、全身黄色い・心臓の下が硬く腫れ痛い(黄疸)などと身体の異常が記載されており、その原因は曲直瀬も"酒疸"(=アルコール性肝硬変)と指摘し、当時の名医にも酒が原因と認識されていた。
  7. ^ BS-TBSにっぽん!歴史鑑定』(2015年7月13日放送)より。番組内で出演した若林利光(医師・若林医院院長)の研究にもよる。

出典

  1. ^ a b 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」『国史学』196号、2008年。
  2. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、34頁。
  3. ^ a b NHK BSプレミアム 偉人たちの健康診断『関ヶ原の戦い 病と裏切りの西軍編』
  4. ^ a b 中野等「小早川秀俊の家臣団について」『戦国史研究』27号、2008年。
  5. ^ a b 本多博之「小早川秀秋発給文書に関する一考」『安田女子大学紀要』25号、1997年。
  6. ^ 「宮窪町村上家文書」(『今治郷土史 資料編 古代・中世』今治市1989年639頁92-11号文書)西生浦在番人数帳。
  7. ^ a b 本多博之「豊臣政権下の博多と町衆」『西南地域史研究』11号、1996年。/所収:谷徹也編 『石田三成』 戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第七巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-277-3 
  8. ^ 堀越祐一「知行充行状にみる「五大老」の性格」『國學院大學紀要』48号、2010年。
  9. ^ 旧参謀本部『日本戦史』
  10. ^ 『関原軍記大成』、『改正三河後風土記』
  11. ^ 『黒田家譜』による
  12. ^ 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」『歴史読本』特別増刊、1984年2月。
  13. ^ 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年5月。ISBN 978-4862481467
  14. ^ 白峰旬『関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社、2014年。
  15. ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」『政治経済史学』599.600号、2016年。
  16. ^ 「中臣祐範記」9月15日条
  17. ^ 白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その1)時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月) 」『別府大学紀要』57号、2016年2月、pp.113-123
  18. ^ 黒田基樹「第四章 小早川秀詮の備前・美作支配」『戦国期 領域権力と地域社会』岩田書院、2009年。
  19. ^ a b 木下家古写『系図』
  20. ^ 『関原軍記大成』
  21. ^ 近世武家の世界・コラム
  22. ^ “小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?”. yomiDr.. (2016年6月27日). https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160627-OYTET50028/ 2016年6月27日閲覧。 
  23. ^ 大日本古文書家わけ第11(小早川家文書之1)514号文書
  24. ^ 慶長7年4月20日付小早川秀秋印判状
  25. ^ 西尾和美 「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸編 『西国の権力と戦乱』 清文堂出版〈日本中世の西国社会1〉、2010年。 
  26. ^ a b 太田 1934, p. 2357.
  27. ^ 断絶した小早川を毛利が再興、末裔はル・マンで優勝 - 週刊朝日 2014年10月31日号掲載


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