池田光政とは? わかりやすく解説

いけだ‐みつまさ【池田光政】


池田光政

読み方いけだ みつまさ

江戸前期備前岡山藩主。利隆の子。初名は幸隆。父歿後播磨藩を継ぐが、幼少理由減封され鳥取城へ移る。元和9年(1623)将軍徳川家光偏諱をうけて光政称する。のち鳥取から岡山入城三十一万五千余石を領する幼時より学を好み中江藤樹を慕う。歿後熊沢蕃山国政顧問として重用する。諸制を改革文武奨励し藩政改革尽力する天和2年(1682)歿、74才。

池田光政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 03:01 UTC 版)

池田 光政(いけだ みつまさ)は、武将大名播磨姫路藩第3代藩主因幡鳥取藩主、備前岡山藩主(池田宗家)。


注釈

  1. ^ 光政出生のとき、養祖父の秀忠から男子出生の祝賀として青江の刀や化粧料1,000石を備中小田郡内で与えられた。
  2. ^ 上使として土井利勝酒井忠世が派遣された。
  3. ^ 光政の後に入ったのが譜代の本多忠政本多忠勝の嫡男)だったことからもわかるように、幕府にとって姫路は西国の抑えであるため。
  4. ^ このため武士と百姓の間で土地の係争が頻発した。
  5. ^ 光政の鳥取藩主は15年間であるが、寛永5年に鹿野城の火災により当時の記録の大半を焼失、不明・未詳な点が多い。
  6. ^ 勝子の生母は秀忠の長女千姫で、元和9年に幕命で婚約していた。
  7. ^ このとき、光政が忠雄の死を悼んで歌を詠んだが、この歌の光政自筆は忠雄の菩提寺である岡山市清泰院にある。
  8. ^ このとき光政は馬に乗って急行したという。
  9. ^ この移封は瀬戸内海という交通の要所を与えられているから光政に好条件だったという。なお、移封は8月までに完了した。
  10. ^ 熊沢以外に中川権左衛門、加世八兵衛、泉八右衛門(熊沢の弟)を用いている。
  11. ^ 講堂は国宝[5]
  12. ^ 延宝3年(1675年)に対立を始めており、綱政は6月15日付の光政宛の書状で財政難を理由に閉鎖しようとした。綱政は幕府の大老酒井忠清と親密であり、学問嫌いの忠清への配慮と、幕府への奉公に財政難の原因となる藩校は必要ないと記している。
  13. ^ 光政は7月19日付の書状で綱政に教育の大切さから絶対に存続するように訴え、酒井には自分の言うように返答するように命じている。しかし財政難に悩まされていたことも理解しており、2,000石の学校領を500石に減らすか自らの隠居料から500石を出すと述べ、存続することになった(のち宝暦11年(1761年)に1,000石に加増)。
  14. ^ 東照宮は現・玉井宮東照宮のこと。
  15. ^ 輿入れが寛永5年(1628年)で第一子誕生が寛永11年(1634年)と6年経っているためか。
  16. ^ 延宝2年(1674年)に熊沢蕃山に分与したことは「御家のすいび」と批判されている。
  17. ^ 綱政が学問に理解を示さず、光政と不仲だった酒井忠清と親密だったことも父子対立を招いたりした。
  18. ^ 池田主水・土倉四郎兵衛・土倉淡路・岸織部・水野三郎兵衛など12名。
  19. ^ 池田家の存続・安定に尽力すること、学問や武備の重要性から貯蓄・倹約のあり方など17か条あったという。
  20. ^ 「国を領する身に親の奉養かくべきや。ただか様の事にて御歓を受べき事なるに、其心なきは不孝なり」[16]
  21. ^ 「稲の名も知らぬ郡奉行、百姓を養ふ事危事也」
  22. ^ 「民の日にさらされ雨に濡れ、千辛万苦したる物を足にかけたれば、天道を恐れてぞ。くくり置たり」
  23. ^ 「ねぶか(ねぎ)は一本にても、民の作物に手を掛候段指免しがたく候」
  24. ^ 「其方どもは異(い)な事を申物や。彼等も百姓なり。猪・狸をはぎ肉食をする事、誰とてもすまじきにあらず。何ぞ彼等に限りて其通り(そのとおり)に見捨べき事やある」
  25. ^ 丸橋は「(光政は)義気忠誠奪うべからざる人」と評している。
  26. ^ 学問嫌いだったためという。
  27. ^ 「(光政の心学は)表向きは儒者、内々は謀反心も候や」
  28. ^ 幕閣に権力が集中すれば乱世のもとになる、忠清は所業を改めること、高慢な態度を捨てて人の意見を良く聞くことなど。
  29. ^ 茂政は養子で光政との縁は薄く、章政も直系子孫とはいえ養子であった。

出典

  1. ^ 『コンサイス日本人名辞典』 2009, p. 86.
  2. ^ 山口 2017, pp. 103–109, 「将軍権力と大名の元服・改名・官位叙任」.
  3. ^ 斎藤一興 編『池田家履歴略記』西尾市岩瀬文庫 〈古典籍書誌データベース〉、1837年https://iss.ndl.go.jp/books/R100000094-I000241118-00 
  4. ^ 清水臥遊(信)『熊沢先生事跡考』西尾市岩瀬文庫〈古典籍書誌データベース〉、1811年https://iss.ndl.go.jp/books/R100000094-I000238755-00 別題『熊沢先生事蹟考』
  5. ^ 森八郎「国宝・重要文化財閑谷学校の虫害調査」『しろあり』第22号、日本しろあり対策協会、1974年11月、42-45頁、全国書誌番号:7954065 掲載誌別題『Termite journal』
  6. ^ 『精選版 日本国語大辞典』,『世界大百科事典』内言及. “手習所とは”. コトバンク. 2023年1月4日閲覧。
  7. ^ 三村永忠 編「有斐録・元.亨.利.貞」『史籍雑纂』苐2巻、国書刊行会(編)、1911-1912年(明治44-45年)。国立国会図書館デジタルコレクション、全国書誌番号:1912983doi:10.11501/1912983
  8. ^ 藤井駿、水野恭一郎、谷口澄夫 編著「目次」『池田光政日記』山陽図書出版、1967年。国立国会図書館デジタルコレクション、全国書誌番号:3448704doi:10.11501/3448704。岡山美術館蔵本を翻刻、主要参考文献の一覧、池田光政略年譜あり。
  9. ^ 泳化余 編「率章録」『吉備群書集成』第4輯、吉備群書集成刊行会(編)、1931年(昭和6年)。国立国会図書館デジタルコレクション、全国書誌番号:1913013doi:10.11501/1913013。他に清水信「熊沢了介先生事跡考 熊沢先生覚書」大沢惟貞 編「附録」4巻を収載。
  10. ^ 「仰止録」『吉備群書集成』第4輯、吉備群書集成刊行会(編)、1931年(昭和6年)。国立国会図書館デジタルコレクション、全国書誌番号:1913013doi:10.11501/1913013。早川督学「附録・続録」も収載。
  11. ^ 谷口 1987, pp. 26–29.
  12. ^ 谷口 1987, p. 199.
  13. ^ 谷口 1987, pp. 212–213.
  14. ^ 谷口 1987, p. 213.
  15. ^ a b 谷口 1987, p. 222.
  16. ^ 谷口 1987, p. 216.
  17. ^ 谷口 1987, p. 45.
  18. ^ 谷口 1987, p. 47.
  19. ^ 谷口 1987, p. 81.
  20. ^ 谷口 1987, p. 102.
  21. ^ 谷口 1987, p. 82.
  22. ^ 谷口 1987, p. 107.
  23. ^ 谷口 1987, p. 128.
  24. ^ 谷口 1987, p. 223.
  25. ^ a b 福田 2000, p. 76.
  26. ^ 谷口 1987, p. 219.
  27. ^ 谷口 1987, p. 220.
  28. ^ 谷口 1987, p. 49.
  29. ^ 谷口 1987, p. 68.
  30. ^ 谷口 1987, pp. 225–228.


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