こまきながくて‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【小牧長久手の戦い】
小牧・長久手の戦い
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小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」・「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている[3][4][5][6][注 1]。
注釈
- ^ 記事名に関し議論がある。ノート参照のこと。
- ^ 佐々成政については、当初は秀吉の要請に応じて佐々政元を成政の名代として小牧へ派遣しており、7月に羽柴方の北陸勢が領国に一時帰国した後に離反したとする指摘がある[7]。
- ^ 家康と信雄の小牧山進出に関し、参謀本部、花見、岩澤は3月15日のこととしている[8][9][10]。しかし谷口は29日とする[11]。
- ^ 参謀本部や花見によれば、恒興の戦功を羨みまた自身も功を立てんと出陣したという[8][13]。
- ^ 谷口は3月11日近江国坂本、21日美濃国池尻、24日岐阜、29日楽田とする[17]。
- ^ 小和田は16,000としている[21]。
- ^ 長久手市中央図書館のあたり。
出典
- ^ a b 小和田哲男 2006, p. 133.
- ^ 岩澤愿彦 2000, p. 38.
- ^ 参謀本部編 1908.
- ^ 花見朔已 1942.
- ^ 長久手町史編さん委員会編 1991.
- ^ 白峰旬 2006, p. 42.
- ^ 高岡徹「小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―」『富山史壇』第183号、2017年。/萩原大輔『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P171-184.
- ^ a b 参謀本部編 1908, p. 17.
- ^ 花見朔已 1942, p. 25.
- ^ 岩澤愿彦 2000, p. 39.
- ^ 谷口央 2006, p. 115.
- ^ 小和田哲男 2006, p. 131.
- ^ 花見朔已 1942, p. 26.
- ^ 徳川豊臣小牧山戦争備考
- ^ 参謀本部編 1908, p. 19.
- ^ 参謀本部編 1908, p. 21.
- ^ 谷口央 2006, pp. 94–95.
- ^ 参謀本部編 1908, pp. 24–25.
- ^ 花見朔已 1942, pp. 33–36.
- ^ 参謀本部編 1908, p. 25.
- ^ 小和田哲男 2006, p. 137.
- ^ 『改正三河後風土記』 上巻
- ^ 参謀本部編 1908, p. 34.
- ^ 参謀本部編 1908, pp. 35–37.
- ^ 参謀本部編 1908, pp. 37–39.
- ^ 花見朔已 1942, p. 44.
- ^ 「細川家記」、『豊臣秀吉文書集成 二』. 吉川弘文館
- ^ 「神田孝平氏所蔵文書」、『岐阜県史史料編 古代・中世1』. 岐阜県
- ^ 山本大『長宗我部元親』吉川弘文館、1987年、105頁。
- ^ 武田 2008, p. 130.
- ^ 高岡徹「小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―」『富山史壇』第183号、2017年。/萩原大輔『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P178-181.
- ^ 長久手町史編さん委員会編 1991, p. 40の文書100。
- ^ 愛知県史編さん委員会編 2007, p. 164の373。
- ^ 岩澤愿彦 2000, p. 40.
- ^ 長久手町史編さん委員会編 2003, pp. 276–278.
- ^ 谷口央 2006, p. 97.
- ^ [1]
- ^ 参謀本部編 1908, pp. 56–60.
- ^ 花見朔已 1942, pp. 62–67.
- ^ 小和田哲男 2006, p. 148.
- ^ 跡部信 2006, pp. 201–230.
- ^ 柴裕之「本能寺の変後の政局と秀吉への臣従」黒田基樹 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P267-270.
- ^ 片山正彦「豊臣政権の統一過程における家康の位置付け」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年、112-143頁。ISBN 978-4-7842-1875-2。
- ^ 高橋修 2006, pp. 267–279.
- ^ 「家康の天下取りの出発点は小牧に在り」と記されたものがあるらしい。誰のどの本に記載されているのか?」(小牧市中央図書館) - レファレンス協同データベース 頼山陽『日本外史』(頼氏蔵版、1848年)p.2-6、p.54
- ^ “子育て・市民活動施設、文化財”. 長久手市. 2021年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月19日閲覧。
- ^ a b c d e f “長久手合戦の様相-”. 長久手市. 2022年4月4日閲覧。
小牧・長久手の戦い
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天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高、本多康重らと木幡城に移り羽柴信吉を攻撃した。 この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると、そのまま信吉麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って、家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った。
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小牧・長久手の戦い
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天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。関・遠藤勢と合流した長可は尾張国へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く(羽黒の戦い) 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、井伊直政の軍と激突して奮戦するも水野勝成の家臣・水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。戦死の地と伝わる場所(愛知県長久手市)には「武蔵塚」が建てられている。享年27。
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小牧・長久手の戦い
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詳細は「小牧・長久手の戦い」を参照 天正12年(1584年)、秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻したが、末森城で成政を撃破した(末森城の戦い)。4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫したが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、丹羽長秀と共に、北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動かなかった。 末森城の戦いに勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込んだ(奥村氏文書)。9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。 成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばしたりしている。また、兵を派遣して越中国を攻撃した。天正13年(1585年)、3月に秀吉は雑賀衆を鎮圧。6月には弟・羽柴秀長を大将として四国へ遣わし、これを平定した。
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小牧・長久手の戦い
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※「小牧・長久手の戦い」も参照。
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小牧・長久手の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 15:52 UTC 版)
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。
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