小牧・長久手の戦いとは? わかりやすく解説

こまきながくて‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【小牧長久手の戦い】

読み方:こまきながくてのたたかい

天正12年(1584)尾張小牧・長久手で、徳川家康織田信雄(おだのぶかつ)を助けて羽柴秀吉対戦した戦い


小牧・長久手の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 04:20 UTC 版)

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城犬山城楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」・「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている[3][4][5][6][注 1]




注釈

  1. ^ 記事名に関し議論がある。ノート参照のこと。
  2. ^ 佐々成政については、当初は秀吉の要請に応じて佐々政元を成政の名代として小牧へ派遣しており、7月に羽柴方の北陸勢が領国に一時帰国した後に離反したとする指摘がある[7]
  3. ^ 家康と信雄の小牧山進出に関し、参謀本部、花見、岩澤は3月15日のこととしている[8][9][10]。しかし谷口は29日とする[11]
  4. ^ 参謀本部や花見によれば、恒興の戦功を羨みまた自身も功を立てんと出陣したという[8][13]
  5. ^ 谷口は3月11日近江国坂本、21日美濃国池尻、24日岐阜、29日楽田とする[17]
  6. ^ 小和田は16,000としている[21]
  7. ^ 長久手市中央図書館のあたり。

出典

  1. ^ a b 小和田哲男 2006, p. 133.
  2. ^ 岩澤愿彦 2000, p. 38.
  3. ^ 参謀本部編 1908.
  4. ^ 花見朔已 1942.
  5. ^ 長久手町史編さん委員会編 1991.
  6. ^ 白峰旬 2006, p. 42.
  7. ^ 高岡徹「小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―」『富山史壇』第183号、2017年。/萩原大輔『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P171-184.
  8. ^ a b 参謀本部編 1908, p. 17.
  9. ^ 花見朔已 1942, p. 25.
  10. ^ 岩澤愿彦 2000, p. 39.
  11. ^ 谷口央 2006, p. 115.
  12. ^ 小和田哲男 2006, p. 131.
  13. ^ 花見朔已 1942, p. 26.
  14. ^ 徳川豊臣小牧山戦争備考
  15. ^ 参謀本部編 1908, p. 19.
  16. ^ 参謀本部編 1908, p. 21.
  17. ^ 谷口央 2006, pp. 94–95.
  18. ^ 参謀本部編 1908, pp. 24–25.
  19. ^ 花見朔已 1942, pp. 33–36.
  20. ^ 参謀本部編 1908, p. 25.
  21. ^ 小和田哲男 2006, p. 137.
  22. ^ 改正三河後風土記』 上巻
  23. ^ 参謀本部編 1908, p. 34.
  24. ^ 参謀本部編 1908, pp. 35–37.
  25. ^ 参謀本部編 1908, pp. 37–39.
  26. ^ 花見朔已 1942, p. 44.
  27. ^ 「細川家記」、『豊臣秀吉文書集成 二』. 吉川弘文館 
  28. ^ 「神田孝平氏所蔵文書」、『岐阜県史史料編 古代・中世1』. 岐阜県 
  29. ^ 山本大『長宗我部元親』吉川弘文館、1987年、105頁。 
  30. ^ 武田 2008, p. 130.
  31. ^ 高岡徹「小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―」『富山史壇』第183号、2017年。/萩原大輔『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P178-181.
  32. ^ 長久手町史編さん委員会編 1991, p. 40の文書100。
  33. ^ 愛知県史編さん委員会編 2007, p. 164の373。
  34. ^ 岩澤愿彦 2000, p. 40.
  35. ^ 長久手町史編さん委員会編 2003, pp. 276–278.
  36. ^ 谷口央 2006, p. 97.
  37. ^ [1]
  38. ^ 参謀本部編 1908, pp. 56–60.
  39. ^ 花見朔已 1942, pp. 62–67.
  40. ^ 小和田哲男 2006, p. 148.
  41. ^ 跡部信 2006, pp. 201–230.
  42. ^ 柴裕之「本能寺の変後の政局と秀吉への臣従」黒田基樹 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P267-270.
  43. ^ 片山正彦「豊臣政権の統一過程における家康の位置付け」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年、112-143頁。ISBN 978-4-7842-1875-2 
  44. ^ 高橋修 2006, pp. 267–279.
  45. ^ 「家康の天下取りの出発点は小牧に在り」と記されたものがあるらしい。誰のどの本に記載されているのか?」(小牧市中央図書館) - レファレンス協同データベース 頼山陽『日本外史』(頼氏蔵版、1848年)p.2-6、p.54
  46. ^ 子育て・市民活動施設、文化財”. 長久手市. 2021年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月19日閲覧。
  47. ^ a b c d e f 長久手合戦の様相-”. 長久手市. 2022年4月4日閲覧。


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小牧・長久手の戦い

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水野勝成」の記事における「小牧・長久手の戦い」の解説

天正12年1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄与力である忠重に従い徳川軍石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城攻略する。勝成はここでも自ら先頭切って城に突入するが、善同は夜陰紛れて逃げ延びたため、城を占拠した次に小牧山から酒井忠次榊原康政大須賀康高本多康重らと木幡城に移り羽柴信吉攻撃したこの際に勝成が結膜炎眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分取られる見ているがよい」と、暇乞い申し出て馬に乗ると、そのまま信吉麾下白江成定の陣に突入し一番首取って家康持参した以後家康の下で行動し家康配下井伊直政武勇競った森長可水野家臣・水野太郎作清久の足軽杉山孫六が射殺した。しかし父からは「先駆け軍法に背く者、許さぬ」と怒り買った

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小牧・長久手の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 22:12 UTC 版)

森長可」の記事における「小牧・長久手の戦い」の解説

天正12年1584年)、羽柴秀吉織田信雄との間で軍事的な緊張高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通断ち関成政遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。関・遠藤勢と合流した長可は尾張国へと侵攻するが既に池田軍は犬山城攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山占拠狙い軍を動かす。3月16日尾藤知宣出陣願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城指呼の間に望む羽黒犬山市)に陣を張ったしかしながら小牧山15日徳川軍の手落ちており、長可出撃各地配した忍び連絡により察知した家康直ち酒井忠次榊原康政大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒向けて派兵した。そして、17日早朝軍を捕捉し徳川軍羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く(羽黒の戦い奇襲受けた当初軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次退路を塞ぐように後方現れると、それに対処すべく一部の兵を後退反転させて迎撃試みたしかしながらこれを一部の兵が敗走勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍攻められ軍はあえなく崩れ隊列外れた兵は徳川軍次々と討たれた。もはや戦形の維持不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側包囲一角破り撤退成功したが、退路確保追撃振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300余りの兵を失う手痛い敗戦喫した。 後に膠着状態戦況打破すべく羽柴秀次総大将とした三河国中入り部隊第2陣総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上白装束羽織った姿で出馬し不退転覚悟望んだ徳川家康本拠岡崎城攻略するべく出陣し道中撹乱為に別働隊派遣して一色城長湫城に放火し回ったその後岐阜根より南下して岩崎城の戦い池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城乱入し城内を守る加藤景常も討ち取ったしかしながら中入り部隊を叩くべく家康動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間家康本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、井伊直政の軍と激突して奮戦するも水野勝成家臣水野太郎作清久配下鉄砲足軽杉山孫六の狙撃眉間撃ち抜かれ即死した戦死の地と伝わる場所(愛知県長久手市)には「武蔵塚」が建てられている。享年27

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小牧・長久手の戦い

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前田利家」の記事における「小牧・長久手の戦い」の解説

詳細は「小牧・長久手の戦い」を参照 天正12年1584年)、秀吉徳川家康織田信雄衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政家康らに呼応して加賀能登国侵攻したが、末森城で成政を撃破した末森城の戦い)。4月9日長久手の戦いでは秀吉方は敗北喫したが、その後両軍対陣続いて戦線膠着状態となったこの間丹羽長秀と共に北陸方面守備委ねられていた利家は北陸を動かなかった。 末森城の戦い勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山勝山砦を攻略越中国へも攻め込んだ奥村氏文書)。9月19日、利家は秀吉より一連の戦い勝利を賀されている(前田育徳会文書・温故足徴)。 成政との戦い翌年まで持ち越されその間に利家は上杉景勝連絡をとって越中国境に進出させたり、成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝誘いの手伸ばしたりしている。また、兵を派遣して越中国攻撃した天正13年1585年)、3月秀吉雑賀衆鎮圧6月には弟・羽柴秀長大将として四国遣わし、これを平定した。

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小牧・長久手の戦い

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羽黒城」の記事における「小牧・長久手の戦い」の解説

※「小牧・長久手の戦い」も参照

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小牧・長久手の戦い

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小牧山」の記事における「小牧・長久手の戦い」の解説

天正12年1584年)、羽柴秀吉徳川家康戦った小牧・長久手の戦いでは、家康いち早く小牧山目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉悔しがらせたといわれる。この時、信長築いた城跡土塁空堀などに大規模な改修施され、「城」とみなせるほど強固な陣地築かれた。秀吉大軍容易に手が出せず、焦った池田恒興森長可三河への無謀な長駆攻撃敢行し、長久手方面突出して壊滅する事態となった急造小牧山城」は、徳川勝利一翼担ったことになる。この一戦は、頼山陽により「家康公の天下を取る大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された(『日本外史』)。

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