羽黒城
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(愛知県) |
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羽黒城址碑
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| 別名 | 梶原屋敷 |
| 築城主 | 梶原景親 |
| 築城年 | 1201年(建仁元年)-1204年(建仁4年) |
| 主な改修者 | 山内一豊、堀尾吉晴 |
| 主な城主 | 梶原氏 |
| 廃城年 | 1584年(天正12年) |
| 遺構 | 曲輪、土塁、堀 |
| 指定文化財 | 史跡未指定[1] |
| 埋蔵文化財 包蔵地番号 |
愛知県No.050096[2] |
| 位置 | 北緯35度21分13.3秒 東経136度57分01.6秒 / 北緯35.353694度 東経136.950444度 |
| 地図 | |
羽黒城(はぐろじょう)は、尾張国丹羽郡羽黒(現愛知県犬山市羽黒字城屋敷)にあった日本の城(平城)。
概要
羽黒城は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫、梶原景親によって築かれた城である。
梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となった。
その後、1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉方の砦として修復され、山内一豊、堀尾吉晴が守ったという記録が残る。現在、城址には梶原氏の菩提寺である興禅寺がある。
歴史
遺構
羽黒城古墳と呼ばれる前方後円墳を利用して築城されており、墳丘の最高所に城址碑が建てられている。
竹藪の中に堀の遺構が残る。また土塁跡が興禅寺の境内まで繋がっていた形跡が残る。
画像集
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羽黒城址
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興禅寺境内にある羽黒城の土塁跡
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整備された痕跡が残る空堀
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墳丘部最高所から見た曲輪
アクセス
鉄道
- 名古屋鉄道(名鉄)
自家用車
駐車場
- 磨墨塚史跡公園(するすみふれあい広場)
- するすみふれあい広場駐車場
周辺
- 興禅寺 - 山門前には「開基梶原景時公」の石碑が建つ。梶原氏の菩提寺。
- 羽黒城古墳
- 犬山市民文化会館
- 羽黒中央公園
- 磨墨塚史跡公園 - 馬をモチーフにした遊具がある。
- 犬山動物総合医療センター
- 犬山市立羽黒小学校
脚注
注釈
出典
- ^ 「犬山市の文化財」犬山市公式HP
- ^ 「愛知県文化財マップ」(マップあいち)愛知県公式HP
関連項目
外部リンク
- 羽黒城のページへのリンク
