金朝の洗衣院とは? わかりやすく解説

金朝の洗衣院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 14:03 UTC 版)

公娼」の記事における「金朝の洗衣院」の解説

詳細は「洗衣院」を参照 1126年靖康の変北宋金王朝破れた靖康元年1126年12月10日、宋官僚の呉幵と儔は、親王、宰執、宗室の娘各二人民間楽団女性500人と宝物献上し宗室女性は金の二首領粘没喝完顔粘罕)と完顔斡離不完顔宗望)にささげられた。その代わり黄河以南の地を宋側に保全してもよいとの許しを得ることができた。元北宋皇太后皇后妃嬪皇女公主)、宗女(宗姫)、女官宮女官吏平民女性は金に連行され洗衣院という官設妓院入れられ性的奉仕強要された。幼い皇女洗衣院育てられ成長後洗衣院娼婦となった南宋初代皇帝高宗の母の韋氏、妻の邢皇后や娘の趙仏佑、趙神佑含まれていた。金の捕虜となって北方拉致され女性の数は宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫達195名、族姫1241名、女官479名、宮女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民女性達3319名の計11635名であった宋王宮の女性捕虜は、金額付けられ戦争報酬賞与とされ、金の将兵分け与えられた。『呻吟語』には「十に九人、娼となりて、名節失い、身もまた亡ぶ」「辛うじて妓楼出ても、即ち鬼籍上る」。また、ある鍛冶屋によれば八金以って娼婦を買う、すると実に親王女孫皇族孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人科挙合格者の妻)なり」ともある。等級に関係なく女性達はみな女真人から陵辱受けたといわれ、『南征録匯』には「開封府の港には人の往来絶え間なく続き婦女より嬪御まで妓楼上下し、その数五千超え、皆盛装選び出ず選んで収むること処女3000入城淘汰し、国相完顔宗翰より取ること数10人、諸将より謀克までは賜ること数人謀克以下は賜ること一、二人。韋后喬貴妃北宋後宮貶められ、金国軍の妓院入れられる」とある。金の兵から彼女ら陵辱を受け続け、「掠められた者、日に涙を以って顔を洗い酋(金皇帝・皇族将帥など)共、皆婦女抱いて酒肉欲しいままにし、管弦弄し喜楽極まりなし」。汚辱に耐えかねた欽宗皇后朱氏入水して自害した

※この「金朝の洗衣院」の解説は、「公娼」の解説の一部です。
「金朝の洗衣院」を含む「公娼」の記事については、「公娼」の概要を参照ください。

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