あしかが‐よしみ【足利義視】
足利義視
足利義視
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足利義視(『義烈百人一首』より)
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| 時代 | 室町時代中期 - 後期 |
| 生誕 | 永享11年閏1月18日(1439年3月3日) |
| 死没 | 延徳3年1月7日(1491年2月15日) |
| 改名 | 義尋(法名)→義視→道存(法名) |
| 別名 | 今出川殿(通称)、今出川公方、義躬[注釈 1][1] |
| 戒名 | 大智院久山道存、大智院准三宮久山道存大禅定門 |
| 官位 | 左馬頭、参議、権大納言、正二位、准三宮、贈従一位・太政大臣 |
| 幕府 | 室町幕府 |
| 氏族 | 足利将軍家 |
| 父母 | 養父:足利義政 |
| 兄弟 | 義勝、政知、義政、義視、ほか |
| 妻 | 正室:日野良子(妙音院、日野重政の娘) |
| 子 | 義稙(義材・義尹)、維山周嘉、了玄 、義忠、祝渓聖寿[2] |
足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期から後期にかけての武将。足利将軍家の一族で、応仁の乱における西軍(西幕府)では、事実上の将軍でもあった[3]。
室町幕府の6代将軍・足利義教の十男。異母兄に7代将軍の足利義勝と8代将軍の足利義政、堀越公方の足利政知(実際は次兄にあたる)がいる。子に10代将軍の足利義稙(義材・義尹)などがいる。
概要
足利将軍家の家督継承者以外の男子であったため、幼少のうちに出家し、天台宗浄土寺門跡となった。
その後、嗣子に恵まれない兄の義政に請われて還俗し、義視と名乗り、その後継となった。だが、義政と日野富子の間に実子の義尚が生まれると、義視と義政の関係は微妙なものとなった。
そして、畠山氏や斯波氏の家督相続問題などによる応仁の乱が発生し、諸大名が細川勝元派の東軍と山名宗全派の西軍に二分されると、義視は東軍の総大将となった。東軍内で義政らとの関係が悪化すると、義視は西軍に走り、西軍諸将によって盟主として奉じられ、事実上の将軍として扱われた(西幕府)。
乱後、義視は美濃に亡命し、この地で約10年間雌伏した。甥の義尚と兄の義政の死後、義視は嫡子の義材(義稙)を10代将軍に擁立して、自らは大御所として後見し、幕政に関与した。だが、その後すぐ病身になり、兄の死から1年後に死去した。
生涯
誕生と出家
永享11年(1439年)閏1月18日、6代将軍・足利義教の十男(庶子)として、細川持春の邸宅で誕生した[4][5][6]。母は正親町三条尹子の侍女で、小宰相局と呼ばれる家女房であった[5][7]。
2月22日、生後まもなくして、尹子の兄である正親町三条実雅の「養君(猶子)」となり、その邸宅である今出川亭(正親町三条亭)で養育された[6][8][9]。
嘉吉3年(1443年)、月日は不明ながら[10]、兄で8代将軍となる義政が足利将軍家の家督を継承したこの年、後継者としての地位を外された他の兄弟たちと同じく出家した[5][8]。そして、東山の天台宗浄土寺の門跡となり、義尋(ぎじん)と号した[5][11][7]。
以後、義尋は20年以上にわたり僧籍にあったが、その間の動向を史料上からは確認できず、日々修業に励んでいたと考えられる[12]。
還俗
寛正5年(1464年)12月、義尋は義政の求めに応じて還俗し、その後継者となった[13]。これは、同年7月に行われた後花園天皇から後土御門天皇への譲位と並ぶ大きな出来事であったが[13]、還俗には以下のような事情があった。
兄の義政は自身の男子が皆早世していたことを受けて[13]、義尋に自身の養嗣子として、後継者となるよう要請した[14][15]。数多くいた義教の息子(義政の兄弟)も長男の義勝をはじめ多くが夭折し、この時点で四男の政知、五男の義政、十男の義尋を含め3人しか生存していなかった[16]。政知は堀越公方として関東へ出陣していたうえ、義政が兄の政知を養子にするのはそもそも無理があったので、在京していた弟の義尋が後継者として選ばれた[8][17]。
だが、義尋はこれまで将軍の在俗の兄弟の多くが悲劇的な末路を辿ったことを想ったためか、義政の要請を再三固辞した[18][19][20]。しかし、義政が「男子が出来ても幼少のうちに僧侶とし、神仏に誓って将軍職を譲る」と誓紙を出し、さらには細川勝元をその証人として立てたため、義尋はこれに応じた[18][20][21]。
11月25日、義尋は浄土寺から勝元邸に入り、さらに翌26日朝には正親町三条実雅の今出川亭に入った[6][22]。以後、この邸宅にちなんで、彼は「今出川殿」と呼称されることになる[23]。
12月2日、義尋は還俗し、義視を名乗り、朝廷から従五位下・左馬頭に叙任された[11]。この左馬頭の官位は、将軍または将軍後継者にのみ与えられる特別な官位でもあった[11]。なお、官位については武家伝奏の広橋綱光が取り計らったほか、還俗の儀は日野勝光と伊勢貞親が諸事を取り計らった[24]。このとき、勝元が裏頭(顔を覆う布)の役を務めたが、幕府内に影響力を持つ勝元の後援を期待したものとされる[24]。
将軍後継者として
寛正6年(1465年)1月5日、義視は従四位下に昇叙し、2月25日に御判始を行い、小笠原持清を師範として御弓・御馬始も行われた[24]。
3月3日、幕府行事の節句進上において、義視は義政とその御台所・日野富子と同じ扱いを受けている[25]。
3月15日、義政の生母である日野重子の旧邸「高倉殿」を改めて「今出川殿」と称し、ここに居を改めた[6][25]。
6月26日、義視の大学御談義始が、義政の信頼が厚い清原業忠を講師として行われた[24]。
7月26日、義視は日野富子の妹である良子を正室に迎えた[11][22]。これは、義政と富子のすすめによるものであり[26]、日野家の外戚が今後も継続するための布石でもあった[27]。
9月18日、義視は義政に対し、有馬元家の赦免を求めたが、これは認められなかった[6]。義視は将軍継嗣として、独自の動きを見せるようになった[6]。
11月25日、義視は参議・左近衛中将に補任され、順調に義政の後継者として出世していった[11]。
11月20日、義視は室町第において元服した[28]。その元服は公家の儀によるものだったとされるが、詳細な記録が残っておらず、だれが加冠役かも不明である[29]。また、同日に義視は従四位下に叙され、室町第の寝殿で祝儀が行われた[29]。
だが、その3日後の11月23日、甥となる義尚が義政と富子の間に誕生すると、義視の立場は微妙なものとなった[28][20]。実際、義政は男子誕生に大いに喜び、産所をたびたび訪れている[28]。富子の実家である日野家でも、義尚の誕生に大いに期待が沸いていた[20]。
12月20日、義尚の養育を政所頭人の伊勢貞親に任せるために移徒が行われ、義視もこの祝儀に参加した[30]。伊勢邸での養育は将軍継嗣の待遇であり[30]、つまり義尚が将軍家の正統な後継者であることを意味し[31]、義視もそれは理解していたはずである[30]。これにより、義視と義政の間でかつて交わされた幼少のうちに出家させるという約束は、事実上反故にされた[20]。
とはいえ、3日前の12月17日に義視は従三位・権大納言に昇進し、文正元年(1466年)1月6日には従二位に叙せられるなど、義政の後継者としての準備が進められている[28]。義政がこの時点で将軍継嗣を義視から義尚に変更しなかったのは、義尚の正統性は理解していたものの、義視を義尚が成長するまでの中継ぎとする意図があったとされる[30][32]。また、義政が義視に将軍位をすぐに譲ろうとしなかったのは、諸大名との関係や政治情勢もあったが、足利義満や足利義持がそれぞれ37歳・38歳で譲位している先例により、その年齢までは在職を考えていたからだとされる[32]。
文正の政変・義視の一時的な執政
義視の将軍就任は既定路線であったが[33]、義尚の誕生で義視の身辺が騒々しくなったのも事実である[34]。義尚の養育を任された伊勢貞親は義視を中継ぎとすることを快く思っておらず、義政から義尚への継承を願っていた[34]。また、貞親は政所頭人の要職にあったが義政から絶大な信頼を受け、政務全般にかかわっており、大名家の家督に関しても介入していた[35]。
斯波氏では、斯波義敏と斯波義廉の家督争い(武衛騒動)が発生しており、寛正2年(1461年)10月に義政の命令で義廉に家督が交代していたが、貞親は義敏と結託したため、今度は義廉が家督交代させられそうになった[36]。義廉は家督交代阻止のため、義尚誕生の寛正6年11月以前に派閥結成に奔走していた動きがあり、山名宗全(持豊)と結びついて派閥が結成された時期は同年の9月と推定される[37]。また、宗全・義廉らは義政・貞親に対抗するため、義視とも連携したとされ、義視は同年11月に京都で土一揆が起こると、義廉の重臣である朝倉孝景に鎮圧を命じ、孝景がこれに応じて出兵している[38][39]。こうして、宗全ら大名らは貞親に対抗し、この状況を打開するため、義視のもとに集結していった[40]。
文正元年7月、義政は義廉から義敏に斯波氏の家督を交代させたが、宗全や細川勝元、一色義直や土岐成頼ら諸大名がこれに反対した[41]。この義政の決定により、軍事的緊張が一気に高まった[41]。
8月25日、義政は義敏を越前・遠江・尾張の守護に復帰させ、義廉を討伐するよう諸大名に命令した[41][42]。しかし、宗全が義廉に味方したために義政の怒りを買い、さらに宗全討伐を命じられた勝元も宗全の討伐を拒否するなど、義敏を支援する貞親に対抗した[43]。
9月5日、貞親は義視を追い落とすため、宗全らが京に兵を集めているのは義視が謀反を起こすためだと讒言し[44][36]、さらにはその処刑を訴えた[45][46][47]。義政もこれを信じ、同日の夜に義視を捕らえて誅殺しようとした[28][48]。貞親のこの動きは、義視が義廉に近かったことのみならず[49][50]、義尚誕生によって発生しうる足利将軍家における将来的な家督相続の混乱を排除する目的があったとされる[51]。
だが、同日夜に義視は貞親の讒言によって、自身が誅殺されることを知った[42]。義視は夜陰に紛れて逃げ、細川勝元の屋敷の屋敷に入ると、自身の無実を訴えた[42]。
9月6日朝、義視は次いで山名宗全の屋敷に入ると、同様に自身の無実を訴え、勝元の屋敷に戻った[52][36][53]。これを知った大名らは怒り、勝元と宗全が先頭に立って、義政に貞親の排除を強く訴えた[46][54]。
9月7日、義政が大名らの圧力に屈し、貞親に讒訴の罪を問い、自害を命じた[51]。貞親は義政の庇護を失ったため、近江に逃亡した[51]。また、義敏や赤松政則、季瓊真蘂も失脚した[55][56]。この事件は文正の政変と呼ばれる[51][55]。
貞親の失脚により、義政の親政が破綻し、幕政は大名らによる衆議体制に移行された[55][57]。以後、勝元と宗全の2人が「大名頭」として、幕政を主導した[55][57]。そして、義視は一時的ではあるものの、事実上の将軍として[55]、細川邸で奉行衆を使役し、大名らの衆議のもとで幕府を運営しようとした[57]。
この頃より、宗全が畠山氏の争いで畠山義就の支援を開始するようになったが、すでに義就は義廉と連携関係にあり、彼を介して宗全とつながった[57]。そして、義視は義就を支持しようとしたが、これは勝元の立場を不利にするものであり、畠山氏の家督問題で宗全と勝元は相容れない立場となった[57]。義政も義視が義就に支持する立場を取ったことで、将軍職の譲渡に不安を覚えたと考えられる[57]。
9月11日、義視は義政から害意のないことを誓う御内書を受けた[55][58]。さらに、大名らには義政から貞親の復帰を許さないとする奉書が出されるなど、義視と大名らに最大限譲歩がなされた[59]。これにより、13日に義視は勝元の護衛を受けて、今出川殿に帰還した[55][57]。
結局、義視による執政は短期間で終わり、義政の親政が再開された[55][57]。このとき、義政が主導する朝廷の大嘗会の開催が迫っており、これは将軍でない義視が単独で代行できるものではなかった[60]。また、勝元が義視と義就の結託を危惧し、義政の親政再開を望んだためともされる[61]。義政は10月の段階で軍事親裁を再開しており、勝元に義就の討伐を命じている[61]。
11月26日、義視は大嘗会の行幸において、後土御門天皇に供奉する役を義政に代わって務めている[45]。この大嘗会では、朝廷と幕府の関係が再確認されるとともに、義視が天皇に供奉したことで、義政の後継者であることが世間に周知された[62]。
大乱中の動向
両畠山氏の争いにおいて
文正の政変後、細川勝元と山名宗全は義視の執政期には協調したが、やがて義政やその側近に握られていた政治主導権をめぐり、大名らが勝元派と宗全派に二分して争うこととなった[63]。そして、畠山政長と畠山義就との間で行われていた畠山氏の家督問題を巡り、両派の分裂がより加速化していった[61]。
文正元年12月25日、義就が宗全や斯波義廉の支援を受けて上洛すると、政長や赤松政則らはこれに対抗すべく、兵糧米を集めるなど戦いに備えた[64][65]。だが、義政は宗全らの申し入れを受け入れて、義就を赦免し、従来の政長を支持する立場から転換した[64]。
文正2年(応仁元年、1467年)正月2日、義政は政長の邸への例年の御成を急遽中止し、5日に義視と共に義就の邸[注釈 2]に御成した[67][66]。御成は将軍と大名の主従関係を再確認するためのものであり、次期将軍の義視も同道したということは、政長の畠山氏の当主としての地位を否定したに等しかった[67][66]。だが、政長は当然ながら、勝元ら政長を支持する大名らもこの御成に従わず、勝元と宗全の決裂が決定的となった[67][66]。
正月15日、勝元や細川成之、赤松政則らは将軍御所に押し寄せ、義政に対し、義就の治罰を訴えようと計画した[66][68]。だが、山名方に情報が流れたことで、宗全や義就、義廉が警備の名目で御所を占拠し、勝元らの計画は失敗した[66][69]。そのため、勝元や政長は事態打開のため、義視を擁立しようとしたが[66][70]、これも宗全に察知されていた[71]。
正月16日、義視はこの動きを見て、義政のいる室町第に移り、伊勢邸にいた義尚らも同様に山名方によって室町第に移された[66][70]。これにより、宗全が義政・義視兄弟、義尚らを確保し、自身やその勢力の正統性を確保した[66][70]。また、宗全が義政に勝元と政長の討伐を要望したが、義政はこれに同意せず、大規模な軍事衝突を避けようとした[70]。
正月17日夜、政長が自邸を焼き払い、18日朝に相国寺の北に位置する上御霊社に布陣し、義就がここに攻め入ったことで戦いが始まった(御霊合戦)[72][73]。義政は両者の衝突に加勢することを禁じる御内書を出しており、勝元はこれに従ったが、宗全や義廉が無視して義就に援軍を送ったため、政長は敗北して細川邸に逃げた[74][73]。この際、後土御門天皇や後花園上皇らも室町第に臨幸したため、宗全は朝廷と幕府を手中に収めた[73]。
義視は政長と義就の両者の争いで、義政とともに義就を支援したため、政長を支援する勝元の面目を失わせた[75]。だが、面目を失った勝元の憎悪が宗全に向かい[76]、勝元は山名方が勝利に喜ぶ中、着々と反撃の準備を行った[74]。
乱初における義視
文正2年2月24日、義視は細川方と山名方の対立の最中、双方に和睦を勧め、その屋敷に赴いた[75]。これは、義視が自身の将軍就任後に遺恨を残すことを避けるために行ったと考えられる[77]。
4月17日、義視は京都に不穏な状況が続く中、義政と共に勅撰和歌集の編纂が進められている和歌所を見学した[78]。さらに、同月23日に義視は義政・富子夫妻と共に斯波邸に御成した[78]。
5月26日、細川勝元らの東軍と、山名宗全らの西軍の戦闘が発生した[79]。義政はこの日、室町第を奉公衆に警固させると同時に、両陣営に対しては使者を遣わし、調停を試みた[80]。同日付の畠山義就に下国を命じる御内書では、「今出川(義視)も同意見である」との一文が記されている[80][81]。このことから、義視が当時、義政の上意の一旦を担っていたことや、西軍諸将と親しかったことが伺える[79]。
6月1日、義政は勝元に武家御旗(牙旗)を下すことにし、5日にその代理である今川義忠が受け取ったが、実際に御旗を下されたのは義視であったとされる[82]。御旗が勝元ではなく義視に下されたということは、義視が東軍の総大将となったことを意味していた[78]。
6月2日、義視は室町第より、山名豊之や山名豊氏、一色義春といった西軍諸将の縁者を追放した[83]。また、同日に続き、幕府の女房衆や近習が山名方に内通したとして、これも追放した[83]。さらに、11日には奉行衆の飯尾為数父子を山名方に通じたとして、誅殺している[81][83]。義視は東軍の総大将として、自らの武威を示し、将軍就任に弾みをつけようとしたと考えられる[83]。
6月13日、勝元や細川成之、赤松政則ら細川方が山名方を攻めたが、斯波氏の配下で西軍の主力であった朝倉孝景の活躍によって敗北した[83]。近衛政家が同日の日記に「いよいよ天下の大義である」と記していることから、公家らが御旗を得た東軍を正規軍とみなしていたことがわかる[83]。
京都からの出奔・伊勢への下向
7月13日、義視は室町第を出て、今出川殿に帰還した[84]。居を同じくしていた富子との関係が、不穏になっていたと考えられる[85]。
7月20日、大内政弘が瀬戸内海を東進し、大軍を率いて摂津兵庫に上陸した[86]。京都での戦況は膠着状態だったが、勝元は大内勢の上洛よりも先に西軍に勝利する必要性を感じ、24日に総攻撃を命じた[86]。だが、西軍は大内勢の入京まで持ちこたえるべく、必死に応戦したため、東軍の総攻撃は失敗した[86]。
8月、義視は義政に再び祇候すべく、小具足をつけて室町第に入ろうと赴いたが、これを勝元に止められた[85]。そのため、義視は「種々の雑説」によって自害しようとしたが、近臣らに止められ、義政に弁明の書状を贈ったとされる(「種々の雑説」の内容は不明)[85][注釈 3]。時を同じくして、大内勢が摂津の東軍方と交戦し、摂津全域を制圧したのち、上洛を目指していた[88]。
8月23日、政弘が大内勢を率いて上洛し、東寺に入った[88]。大内勢が加勢したことで、宗全や義就ら西軍は勇気づけられ、攻勢に転じることになった[88]。そして、義視は大内勢の上洛で幕府の内外が混乱する中、同日戊の刻(午後8時頃)に木造教親(北畠氏の一族)の手引きにより、京都から脱出した[89][88]。
義視が出奔した理由は定かではないが、西軍の優勢を見て身の危険を感じたとも、宗全らとかねてから親しかったことで西軍への内応を疑われたためともされる[90][33]。実際、この頃になると、義政の近習らが幕府から細川方を追い出し、山名方を迎え入れるという風評が立っていた[88]。また、義視は東軍総大将として、西軍内通者に厳しい処断を下していたことから、山名方に与する奉公衆に襲撃される可能性もあった[91]。もはや、義視は京都において安閑と過ごすことができなくなっていた[88]。
東軍総大将の義視が出奔したことで、士気の上がった西軍とは対照的に、東軍の士気は落ちることになった[88]。義視を傀儡としていた勝元としては、その出奔に大内勢の上洛と同等の衝撃を受けたと思われる[88]。勝元は義視が出奔した翌日、義政の近習二十数名を西軍に内通したとして放逐し、そのうち数名を追い討ちするなど、幕府内の粛清を断行したが、東軍の士気低下は避けられなかった[88][92]。
一方、義視は一部の近習らと共に伊勢へ下向すると、伊勢国司の北畠教具を頼り、8月29日にその居所である多芸御所に迎え入れられた[88][93]。義視が伊勢に下向した理由としては、伊勢が京都に隣接していないことや、教具が義政に近く、自らの潔白の証明につながると考えたからとされる[85]。
伊勢からの帰洛
西軍は大内勢の加勢で息を吹き返したが、東軍を降すまでにはいかず、その後は両軍ともに一進一退の攻防が繰り広げられた[90]。そのなかで、北畠氏の庇護を受けていた義視は、義政から帰洛をしきりに要請された[94]。
義政が義視の帰洛を促した理由としては、単純に義視を心配したことや、将軍家の分裂を警戒したことのほか、義視への将軍職移譲が延期されることを望まなかったからとされる[91]。義政はこの時点でも義視に将軍職を譲るつもりであったとされ、9月2日に左大臣を辞したのも、かつての足利義満が足利義持に将軍職を譲渡する前年9月に左大臣に辞した先例に基づくものとする見方がある[91]。また、義視が西軍に推戴され手強い存在になるその前に、義政が自身の掌中に収めておこうという考えもあったという[94]。実際、西軍も義視のために、斯波義廉の屋敷を義視の御座所として用意していたともいわれ、義視は西軍からも呼び掛けられていたようである[95]。
応仁2年(1468年)2月、義視の帰洛に関する話が進められるようになった[91]。当初、義視は3月に帰洛する予定であったが、これは延期された。帰洛の話が進んだのは、義視が出奔後に西軍に与しなかったからと考えられる[91]。
4月9日、義視の帰洛に関する勅書が、朝廷より発給された[96]。また、応仁別記には「帰洛の評議が一決した」と記されており、勝元ら東軍の諸将も義視の帰洛を望んでいたらしい[97]。
5月21日、義視は義政から帰洛を条件として、山城・近江・伊勢三国の寺社本所領の半済 (年貢半分の徴収権)を御料所として与えることを提示された[94][97][98]。また、義政は義視の出奔後も、伊勢国衙領の半済を義視の御料所として保証してきた[99]。
7月、勝元が斯波義廉に代わり、管領に復帰した[97]。これは、義視の将軍継承を見込んだ新体制を構築するためのものだったとされる[97]。
8月8日、義政は義視を帰洛させるべく、義視と親しい聖護院道興を将軍御使として、伊勢に下向させた[94][97][100]。また、同月3日に幕府は近衛家の領地である近江甲賀郡信楽郷に対し、道興の路地警固を命ずる奉書を下している[95]。
これにより、義視は帰洛に応じ、伊賀・近江を経て、9月11日に京都郊外の岩倉北に入った[97]。帰洛の道中、義視は沿道の国人衆に歓迎され、また数千の野武士が従っていた[101]。
9月12日、義視は奉公衆に迎えられながら、京都に帰還した[97]。義政や後花園法皇、勝元や畠山政長、赤松政則ら諸将らは皆、義視の帰洛を喜んだ[97]。そして、翌13日に義政と謁見し、岩倉北の入江殿に宿泊した[102]。
東軍での孤立・再度の出奔
9月22日、義視は義政の求めに応じ、細川勝元以下の諸将に迎えられて[102]、東軍の陣所である室町第に入った[92][101]。
そして、義視は勝元と相談したうえで、日野勝光ら3人を「邪徒」と断じ、義政に対してすぐに東軍から追放するように訴えた[97][103][104]。この頃、義政の側近(富子の兄)である勝光が東軍内で台頭し、それを看過でできない勝元は義政に対し、義視を通じてその排除を迫ったとみられる[103]。義視としても、勝元に協力することで親交を深め、将軍後継者としての地位を強化する意図があったとみられる[103]。また、義視の先の出奔の背景には勝光の存在があり、義視が勝光を敵視していた可能性もある[97]。
だが、義視が勝光の追放を求めると、義政はこれに激怒した[103][104]。勝光は大乱発生後も富子と共に義政の側にあり、もはや義政の権力と不可分の存在となっていた[97]。以後、室町第は不穏な空気に包まれた[105]。
10月に入ると、義視は勝元からしきりに出家するよう勧められた[105]。これは、勝元が事態の収拾を図ったものとされるが、同時に義視に将軍継承を諦めさせるものであった[101][105]。また、勝元が義政の意向を汲んだものとする見方もある[106]。
閏10月16日、義政はかつて義視の殺害を訴えた伊勢貞親を赦免し、幕府に復帰させた[103][105][95]。これは明らかに、義政の義視に対する報復であった[103]。そのため、世間では「義視が生害(自害)する」との噂が流れたほどであった[105]。
11月10日、義視に伺候していた有馬元家が「赤松氏の惣領職を望んだ」として、義政の命によって誅殺されため[107]、義視は大いに恐怖した[108]。義視はなおも東軍内にあったが、勝元が義政の側に回ったことで孤立を深めていた[109]。
11月13日明朝、義視は室町第(入江殿とも[107])を離れ、 比叡山延暦寺へ逃れた[101][109][110]。義視が出奔した直接の原因は、勝光や富子にあったとされ、自身の命の危機を実感したからと考えられる[110]。なお、義視の逃亡は勝元の計らいがあったとみられる[101]。
義視は逃亡に際し、義政が自身を誅殺しようとしていると聞いていたことから[107]、折からの冷雨の中、殺害を恐れて馬にも輿にも乗らず、庶人の如く徒歩で移動したという[109][111][102]。義視は比叡山に登ると、東塔院の衆徒を頼った[102]。
同日、烏丸益光が義視や勝元とともに勝光を追放しようと画策したとして、東軍から追放された[109][107]。このとき、義政は勝光や富子の訴えによって、事実を糾明することなく、追放を命じたとされる[107]。
西軍における事実上の将軍として
義視が比叡山に出奔すると、山名宗全から使者を送られ、西軍への与同を求められた[102]。西軍はこれまで将軍である義政を擁する東軍に対し、その正当性を主張できずにいたため、義視を西軍の盟主とすることを望んだ[102][112]。義視は孤立無援の状況から脱出するため、宗全の誘いに応じた[102]。
11月23日、義視は比叡山から帰京し、斯波義廉の邸宅(陣)に入った[102][101][113]。そして、24日に大内政弘ら西軍諸将が馳せ参じると、義視の与同を喜び、義視のことを「今出川殿」ではなく「相公(将軍)」と仰いだ[114][112]。ここに、西軍は将軍(義視)・管領(義廉)を有し、幕府を模倣した政治機構の体裁となった[113][112]。これは「西幕府」と呼称される[113][112]。
一方、義政は義視が西軍に与したことを知ってますます激怒し[109]、12月5日に朝廷に義視から正二位・権大納言の官位を剥奪させた[109][107]。同日、正親町三条公治(公躬)や阿野季遠、阿野公煕、葉室教忠、清水谷実久、橋本公国、西川房任、河鰭公益といった義視に御供した公家らも、「義視に同意した」として、官位を剥奪された[114][115][107]。
ついで、義視は義政の意向を受けた後花園法皇より、凶徒(西軍)と同意したことを理由に追討を命じる治罰の院宣まで出され[98]、朝敵となった[109][114][115]。これは、義政のみならず、日野勝光や伊勢貞親の意向もあったとされる[98]。
12月19日、義視の御料所として設定されていた山城・近江・伊勢三国の寺社本所領の半済のうち、義政は近江の所領を奪い、青蓮院門跡に還付している[98]。
かくして、義政と義視の関係は完全に決裂した[109]。義視は西軍諸将によって将軍に推戴されたことで、義政から将軍職を譲られる機会を逸する形となった[116]。他方、義視を排斥し、義尚に将軍職を継承させようと考えていた日野勝光や富子、伊勢貞親の目的はここに達せられることになった[117]。
応仁3年(文明元年、1469年)正月8日、義視は宗全ら西軍諸将から太刀や馬の進上を受け、祝賀を顕された[118]。他方、同月に5歳となった義尚が、公家や武家、寺社などから正月の賀礼を受け、将軍家の家督継承者としての地位を固めた[116]。これにより、義視と義尚の立場は完全に入れ替わるとともに、東西両軍の戦闘目的がぼやける形となった[116]。
3月14日、義視は宗全の山名邸に御成した[119]。この報を聞きつけたためか、東軍が同月16日夜から翌17日にかけて、山名邸に近い薬師堂を襲い、放火している[119]。
4月、義視は政弘の要請を受け、四国や九州の大名らに軍勢を率いて上洛することを命ずる御内書を16通発給している[119]。
7月9日、義視は政弘を左京大夫に推挙し、そのほかの大名も推挙した[120]。義視はまた、西室僧正の公恵を東大寺別当に還補しているほか、越智家栄を和泉守護に任じている[120]。
文明2年(1470年)正月22日、義視は将軍としての役割を果たすべく、石見の益田貞兼に対し、同国の三隅豊信跡の所々地を与えている[120]。
西陣南帝の擁立
文明2年2月末、南朝皇胤が紀伊の有田郡で蜂起した[121]。その前年11月にも、南朝後胤を称する兄弟が吉野と熊野で蜂起しており、この後南朝勢力の活発化は東軍の大和における退潮に起因すると考えられる[122]。
5月、宗全はじめとする西軍諸将の間で、この南朝皇胤を擁立する計画が上がった[121][123]。これは当時、西軍が義視を将軍として擁立したものの、東軍が後土御門天皇や後花園法皇を擁していたため、朝敵として扱われた西軍の正統性を確保するためであった[123]。
このとき、西軍諸将の中で、畠山義就だけは自身の所領が南朝皇胤の所領と重なるので、その擁立に難色を示した[121][123]。だが、6月に義視が諸将とともに義就を説得して、擁立を了承させた[122][121]。これにより、南朝皇胤は京都に向かって進んだ[122]。
文明3年(1471年)8月26日、義視や西軍諸将の要請をうけた南朝皇胤が入洛し、北野松梅院に入った[122][124]。この南朝後胤は「新主」として扱われ、「西陣南帝」と呼称された[122][124]。
だが、義視は義就を説得していたにもかかわらず、南帝の擁立に同心していなかったとされる[124]。そのため、義視は南帝の入京の段階になって反対し、西軍諸将が入京した南帝に臣下の礼をとっても、これを無視した[122]。義視の変心の理由としては、この年の7月に朝倉孝景が西軍から離反して東西両軍の均衡が崩れたことで、義視は義政との和解の道を探ろうとしたとみられ、そうした中での南帝の擁立を認められなかったと思われる[125]。
東西両軍の和睦交渉・大乱の終結
文明4年(1472年)正月、山名宗全と細川勝元の間で和睦交渉が始まった[126]。東西両軍に厭戦気分が広まった結果であり、交渉は西幕府が東幕府で降伏する形で進められたと考えられる[127]。この時点で、東軍が正統性のみならず、朝倉孝景取り込んで軍事力の面でも西軍を上回っており、宗全も和睦を熱望していたと考えられる[127]。また、宗全は西軍が天皇(西陣南帝)と将軍(義視)の体裁を保っている段階での和議を結ぼうとしたと考えられる[128]。
文明5年(1473年)3月18日、宗全が死去し、5月11日に勝元も死去すると、東西両軍は和睦に大きく傾いた[129]。また、宗全の死後、西軍に擁立されていた西陣南帝は放擲されているが、それは義視が南帝の擁立を快く思っておらず、非協力的であったことも理由と考えられる[130]。
4月下旬、義視は宗全の死を受けて、一条兼良に自身の今後(身の振り方)に関して相談している[128]。義視はその後も西軍にとどまり続けたが、西軍の主力は山名氏から大内氏や畠山氏に移っていった[128]。
12月29日、義政が嫡子の義尚に将軍職を譲り、室町殿としてその後見にあたった[131]。義尚への将軍職譲渡は、かつて義尚の中継ぎに予定されていた義視の排除を意味しており、遠からず西幕府を屈服させる義政の自信の表れでもあった[122]。
文明6年(1474年)2月、東西両軍の間で和睦交渉が再開されたが、畠山義就はこれに不同意であった[132]。義視は義就から相談を受け、西軍諸将を招集したが、大内政弘が来たのみで他は欠席した[133]。その政弘もすぐに帰ったため、義就は狼狽したという[133]。
4月3日、山名政豊(宗全の孫)と細川政元(勝元の息子)との間で和睦が成立した[134]。そして、山名氏は義政に赦免されたのち、政弘ら西軍諸将に和睦を通達した[135]。ところが、政弘ら西軍諸将は義尚が将軍であるにもかかわらず、義視が義政と和与しなければ和睦には応じないとし、和睦を事実上拒否したため、山名氏のみが和睦するに留まった[135]。西軍諸将は義視と義政の和解を要求したうえで、義視の将軍継嗣としての地位を再確認しようとした[135]。
文明8年(1476年)6月、義視と対立していた日野勝光が死去すると、9月に義政が政弘に対して、「世上無為(大乱の終結)」に尽力するよう御内書を出し、和平を提案した[136][137]。義政の終戦提案に対し、政弘が応じる姿勢を見せ、義視や西軍諸将は談合した[136]。この頃には、義視も自身の将軍継承に可能性がないことを実感しており、義政に「別心」はないと伝えた[136]。これは恐らく、政弘の進言に基づいたものとみられる[137]。
12月、義視は義政より、「これまでの行為を不問とし、諸事についても今後は義視のいうことを承知したうえで成敗する」との御内書を受けた[138]。西軍諸将が要求する義政と義視の和解は、東西両軍の和睦、大乱終結に大きく近付いたことを意味した[139]。また、義視と義政の関係も修復へと向かった[140]。
文明9年(1477年)正月14日、義視は義政の正室である富子に対して、義政に和睦の仲裁を依頼し、見返りに3千疋(30貫文)を贈ることを約束した[140][141]。だが、義視には支払う財力がなかったため、5月3日に政弘がこれを肩代わりしている[140][141]。また、政弘も仲介の礼銭として、富子に5千疋を納めている[141]。
7月、義視の娘である祝渓聖寿が義政・富子夫妻の猶子となり、曇華院に入室した[139]。また、同月には政弘より、義視の娘を義尚の御台所にすることが提案された[139]。これらは義視と義政の融和を示そうとしたものであり、西軍諸将の義政への帰参も進んだ[142]。
だが、畠山義就は義政への帰参を拒否し、9月に京都から河内に進んだ[139][143]。このとき、東軍諸将は追撃しなかったが、恐らくは義政から追撃禁止の命令が出ており、また義就の退去は政弘が大きく貢献したようである[144]。他方、義視は自身の処遇が決まらない内での義就の退去に不安を抱き、土岐氏の武将である斎藤妙椿に上洛を要請した[145]。
9月、政弘が義政の執奏によって、朝廷から従四位下・左京大夫に叙任された[146]。政弘は義視から文明元年7月に左京大夫の推挙を得ていたが、これは朝廷の勅許による正式なものではなかった[139]。義視の推挙は名目的なものであって、ここに義視の限界が見て取れる[146]。
10月、義視の要請を受けた妙椿が、美濃・尾張・近江の三国の軍勢を率いて上洛した[145]。
11月11日、政弘が京都の陣払いを行い、本国の周防への帰途に就いた[145]。 土岐成頼や畠山義統ら西軍の大名らも同日、自陣を焼き払って、本国への帰途に就いた[146][145]。義視も義政から正式な赦免を受けていなかったため、京都から離れなければならなかった[145]。
同日、義視は嫡子の義材(義稙)をはじめ、正親町三条公治ら近臣、成頼や妙椿らを伴って京都を離れ、土岐氏の領国である美濃に下向した[146][147][145]。義視や西軍の大名らが京都を離れ、地方に下向したことにより、10年におよぶ大乱は終結した[146]。
美濃での生活・義政との和解
義視は義材らとともに美濃に下向すると、土岐氏の居城であり、斎藤妙椿の居館もあったとされる革手城(川手城)から近い茜部に落ち着き、承隆寺という禅寺を住居とした[148]。だが、義視父子をとりわけ手厚く保護したのは土岐氏ではなく、妙椿であった。義視が美濃に下向することを決めたのは、この妙椿の誘いがあったからだといわれている[149]。
妙椿は美濃において主家を凌ぐほどの権力を保持しており、京都の公家から「無双福貴、権威の者なり」とまで評されていた[150]。だが、この時代には依然として「家格」が存在し、妙椿がいかに権勢を誇ろうとも、斎藤氏は土岐氏の一家臣として認識されるに過ぎなかった[150]。そこで、妙椿は当時の武家最高位の貴人とされていた足利将軍家の義視父子を保護することで、世の人々が斎藤氏に抱く土岐氏の一家臣という認識を払拭しようとした[150]。ここに、妙椿が義視父子を手厚く保護するメリットがあった[150]。
文明10年(1478年)2月、義政は信濃の小笠原家長に対し、土岐成頼を退治するように命じた[147]。これは、義視が義政から赦免されておらず、成頼もまた「御敵」であったからである[147]。
6月、妙椿の仲介によって、義視と義政の和睦が進められるようになった[147]。これにより、義視や成頼、能登の畠山義統を赦免する義政の御内書が発給された[147]。
8月、義視に供奉していた伊勢貞職や、成頼の使者が美濃より、義統の使者が能登よりそれぞれ上洛し、義政からの赦免の御礼を行った[147]。このとき、義視の使者には蜷川親茂と祥雲院(親茂の舎弟)らも同道していたことから、伊勢貞藤・貞職父子のほか、親茂ら伊勢氏被官の一部も美濃で義視に供奉していたようである[147]。
8月23日、義視は義政と応仁2年に決裂して以来、ここに正式に和解した[151][152][153]。そして、28日に義視や成頼、妙椿は義政から御内書を発給され、伊勢貞職はこの御内書や返礼の品を携え、美濃に下向した[154]。これにより、義視や西軍に属した大名は畠山義就を除き、すべて義政の赦免を受ける形となった[154]。
文明12年(1480年)2月、義視の最大の庇護者である妙椿が死去し、義視は美濃国内で孤立するのではないかと噂された[149]。だが、義視父子はその後継者である斎藤妙純からも手厚く保護された[155]。
文明19年(長享元年、1487年)正月2日、義視の嫡子・義材が美濃在国中に元服し、8月29日に朝廷から従五位下・左馬頭に任じられている[156][157]。この任官には富子が大きく関わっており、義尚の9月から開始された第一次六角征伐中に土岐氏が幕府に反旗を翻した場合、義視父子が関与しないように懐柔するためだったと伝えられている[158]。また、義材は元服に際し、継嗣の無かった義尚の猶子とされた[157]。
帰洛と義政の死
長享元年9月、義尚は多くの大名とともに京都から近江へ進軍し、六角勢を近江の山中に追い払った。だが、遠征の目的が達せられたにもかかわらず、京都に戻らず近江にとどまり、酒色におぼれた結果、延徳元年(1489年)3月に重病となった[159][160]。
義尚の近臣らは義尚を養生のために京へ帰還させることを考え、そのために美濃に在国中の義視か義材のどちらかに仮の総大将を任せようと考えた[159]。義視父子も義材が仮の総大将となれば、義材の将軍後継者としての地位がより確立されると考え、これに応じた[159]。そして、義材は義尚の猶子として、近江の鈎に出陣することになった[161]。
ところが、義材と義視が美濃から近江に出立しようとしていた矢先、3月26日に義尚が死去した[159]。このとき、義尚には男子がおらず、後継者と考えられたのは左馬頭に任じられていた義材、もう一人は義視の兄である政知の次男(義尚と義材の従兄弟)で、天龍寺香厳院主として在京していた清晃(後の足利義澄)であった[162]。義材が将軍位を継承すれば、義視の政治的復権が確実となるため、これを警戒する細川政元が清晃を支持していた[161]。
在京している清晃の方が将軍に擁立される可能性があったため、義視と義材はすぐさま美濃を出立し、京都へと向かった[163]。なお、両者の上洛の表向きの理由は、義視が出家の暇乞いのため、義材は義尚の焼香のためであった[161]。このとき、上洛の手配をしたのが富子であり、義政はそれを知らなかったらしい[164]。
4月14日、義視と義材は入洛し、義視の娘・祝渓聖寿のいる京都三条の通玄寺に入った[163][165]。義視にとって、およそ12年ぶりの京都であった[163]。なお、義視父子が居住した通玄寺は三条通りに面していたため、三条御所と呼ばれるようになった[166]。
4月19日、義材が伯母の富子に招かれ、その邸宅である小川御所(小川第)に居住したが、ここは義尚がかつて将軍御所として居住した場所であり、富子が次期将軍として義材を支持していることを意味していた[167][163][168]。一方、政元が清晃を支持したという風聞も流れていたが、政元にこのとき大きな動きはなかった[163]。将軍位に関しては、富子を味方につけた義材が優勢な状況であった[163]。なお、義材が小川御所に居住したのは一時期のみで、再び三条御所に戻り、義視と暮らしている[166]。
だがここにきて、同日に義政が義尚亡き後の政務は、自分が執り行うことを宣言した[163][164]。また、義政は朝廷に願い、後土御門天皇から「足利義持の例をはじめ、摂関家や将軍家でも隠居の身でも執政しているので、義政が政務を執り行うことは問題ない」との勅語まで出させた[169]。結局、義尚の没後、義政が政務を執ることになった[170]。
4月27日、義視は義政の強い態度を受けてか、三条御所で出家し、道存(どうぞん)と号した[164][171]。だが、この出家は同月13日の段階で決まっており、次期将軍が義視ではなく、義材であることを世間に示す意図もあったようである[164]。
8月、義政は卒中で倒れたのち、回復したものの右手が不自由な状態になり、花押も書けなくなった[170]。だが、それでも義視と義材には政権を譲ろうとしなかった[170]。
10月、義政はまたしても卒中で倒れたが、ここでも回復し、政務をとり続けた[172]。また、同月21日には義視父子が見舞いに赴き、上洛以来半年間許されてこなかった義政への面会を許可されている[173]。
延徳2年(1490年)1月7日、義政がついに病死した[174]。その夜、義視は焼香のため、東山山荘に向かった[174]。
1月13日、義政が入棺したこの日、後土御門天皇が「参賀すべき」との勅命を下したことで、公家らが義視や義材への参礼の日取りを談合している[175]。
1月23日、等持院で行われた義政の遺体を荼毘に付す法事にも、義視は義材と共に参列した[176]。このとき、正室の富子のほか、伊勢貞宗ら近臣、畠山政長ら大名、日野政資ら公家衆、奉公衆や奉行衆、禅僧らも参列しており、義視は相国寺蔭涼軒主の亀泉集証と義政の懐旧談をしている[176]。
結局、義政は死ぬまで義視父子に権力の座を譲ろうとはしなかった[173]。その背景には、義政と義視の間にはなおも確執があり、応仁の乱以後も両者の蟠りを解消できなかったことが指摘されている[177]。
復権・大御所として
義政の死後、義視と富子の提携により、義材が足利将軍家の家督を継承するようにすすめられた[178]。他方、清晃を将軍に推す声もあったが、まだ幼く、こちらはあまり京都で支持者を集められず、加えてその実家は京都から遠く離れた伊豆にあった[178]。だがその後、義視は富子と折り合いが悪くなり、次第に対立するようになった[179]。
延徳2年4月27日、伊勢貞宗が政所頭人を辞任し、息子の貞陸にその地位を譲った[180]。貞宗は文正の政変の際、義視殺害を義政に進言して失脚していたため[46]、義材の将軍就任後に後難を恐れたためといわれている。
同27日、富子が清晃に対し、かつて義尚が居住していた小川御所を譲ることを決めた[181][182]。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義視や義材が暴走しないように牽制する意図があったとされる[181]。だが、富子が政元と共に清晃を次期将軍に立てるとの噂が流れたこともあり、義視は義材を軽視するものと激怒して、5月18日に小川御所を破却し、富子の所領も差し押さえてしまった[181][183][184]。
7月5日、義材が朝廷から将軍に任命されると、同日に義視は将軍の父として、朝廷から准三宮の待遇(称号)を与えられている[155][185]。このとき、義視は政元との対立を不利と判断したのか、義材の将軍宣下の儀を政元の屋敷で行なうといった懐柔策も示している[180]。ただし、政元は将軍宣下の翌日に管領職を辞任している。
かくして、義視は長い雌伏の時を経て、将軍の父として幕府に復権し、大御所となった[155]。義視の大御所としての活動は、朝廷に贈り物をしたり、寺社へ御成していることが確認できる[186]。
また、義視は政治にしばしば関与したが、義材はその関与を嫌うことなく、対立することもなかった[186][187]。また、義政と義尚が父子で激しく対立していたのと対照的に、義視は義材と良好な関係にあった[187]。義視はかつて大乱中に西軍諸将を率い、政治経験を積んできた存在であり、その存在は政治経験のない義材にとってかなり頼もしいものであった[183][188]。
だが、義材と義視によるこの二頭体制は、そう長くは続かなかった[186]。
最期
延徳2年10月、義視は腫物を患って体調を崩し、病床に就いた[183][187]。
義材は義視が倒れるとひどく狼狽し、義視が安眠できるよう三条御所内で音を出すことを厳禁とし、義材自身も義視の居室近くでは縁側を歩かず庭を歩くほどであった[187]。義材の徹底ぶりは尋常ではなく、下の者が御所内で音を出せば激怒したため、義視が義材をたしなめる有様だった[187]。
しかし、その甲斐も虚しく、義視の病状は一向に快方に向かわなかった[187]。そのため、義材は苛立ち、義視の主治医を次々に交代し、名医という噂を聞けば、怪しげな藪医者ですら治療にあたらせたという[187]。
延徳3年(1491年)1月7日、義視は病から回復することなく、三条御所で死去した[183][188]。 享年53(満51歳没)。
義視が没した正月7日は皮肉にも、前年に世を去った義政の祥月命日であった[183]。これは単なる偶然の一致であるが、因縁めいたものを感じられる[183]。なお、義政の時と同様、当日行われる予定だった朝廷の白馬節会は2年連続での中止となった[183]。
没後
義視の没後、その院殿号は「大智院准三宮久山道存大禅定門」となり、当初は大徳院を菩提所とする予定であったが、義材が大智院に変更させた[189]。 義材はまた、義視の葬儀を義政と同様にするよう命じた[189]。
他方、義視が死去したのち、将軍である義材の実父だったにもかかわらず、公家らは歌舞音曲を自粛しなかった[190]。義政が死去した際、公家らが3ヶ月にわたって歌舞音曲を自粛したのとは対照的である[190]。これは、義視が義政と違い、将軍に任官したことがなかったからであり、よって自粛は必要ないとされたためであった[注釈 4]。
延徳3年2月24日、義視は朝廷から従一位・太政大臣が追贈されるなど、義政と同格に扱われた[189]。この追贈は将軍に在任していない足利将軍家の人物としては異例の待遇であり、義視は義政と同格になった[189]。これはとりもなおさず、義視が将軍の後継者であり、かつ当代将軍(義材)の実父・後見として、実際には足利将軍家の家督を相続することも将軍職に就くこともなかったにもかかわらず、「事実上の将軍家の当主」とみなされその礼遇を受けていたためであることを物語る。
4月3日、義視のもう一人の兄である堀越公方の足利政知が、伊豆で死去した[189]。政知もまた、義視と同様にその人生を義政に大きく左右された人物であった[189]。義視の没後、政知は細川政元と清晃の将軍擁立に動き始めていたが、その死によって計画は頓挫した[191]。
義視の死により、義材は自身の政治的立場を固めるため何らかの方策を考えざるを得なかったが、伯母の富子との関係は悪化しており、その協力を得られる見込みもなかった[188]。そのため、義材が近臣たちと相談のうえで出した結論が、有力な大名を討伐し、権威を高めることであった[188]。そして、義材は第二次六角征伐や河内征伐を行ったが、これが政元による清晃の擁立と義材の廃立につながった(明応の政変)[192][183]。
人物・評価・逸話
義政の後継者・用いられた足利満詮の先例
- 義政が自身に男子が今後誕生する可能性があるにもかかわらず、義視を後継者としたことについては、自分の万が一に備えたものとする見方がある[193]。義政は、今後自身に男子が誕生するか不明であることに加え、仮に誕生しても無事に成長するかも不明であり、成長したとしても長い時間がかかることから、もし自身が急死するようなことがあれば、政治的混乱が発生することは必至であった[193]。そのため、義政は自身の後継者を未定にしておくことに大きなリスクを感じ、義視を自身の後継者に据えたと考えられる[193]。
- 義視の還俗は、後花園天皇から後土御門天皇への譲位、つまり天皇家の代替りよって具現化されたとする見方がある[194]。また、義政から義視への将軍職の移譲時期については、朝廷の大嘗会が行われる前後を予定していたとする推測もある[194]。
- 義視の還俗にあたっては、足利義満の弟である足利満詮が先例とされた[24]。満詮は義満の兄弟の中で唯一在俗していた兄弟であり、義満・満詮兄弟を吉例とし、その先例が遵守された[195]。そして、義視は還俗したのち、満詮の先例に倣った[24]。実際、義視の左馬頭任官と同じタイミングで、兄の足利政知が左兵衛督に昇進したが、これは康暦2年(1380年)2月28日に満詮が左馬頭に任官した際、鎌倉公方の足利氏満が左兵衛督となった先例に基づくものであった[196]。
- 義視は自身の財源確保のため、義政からかつての満詮の御料所を付せられた[196]。その際、義政は満詮の御料所を寄進された寺社や知行とする者達に対し、それらを義視に引き渡すように命じている[196]。だが、公家衆や寺社側もその返還要求に困惑し、義政に免除を求めたことから、義視は満詮の御料所全体を継承することはできなかった[196]。ここでも、満詮の先例が重視されていることがわかる[196]。
- ただし、満詮の先例が全てにおいて重視されたわけではなく、義視の実名(諱)が名付けられる際には用いられなかった[194]。満詮の実名は兄の義満と父の足利義詮から一字ずつ取ったもので、義視の実名も先例により、本来なら義政と父の足利義教から一字取って、「政教」となるはずであった[194]。だが、義視は堀越公方となった政知と違い、義政の後継者として将軍を継ぐことが予定されていたので、その意向によって満詮の先例が用いられず、将軍家の家督継承者の通字である「義」をつけられている[194]。
- 義政は義視を満詮になぞらえることで、自身を祖父の義満になぞらえていたようである[194]。義政は義視を将軍とし、自身はかつての義満や足利義持のように、大御所政治を行う意図があったとされる[194]。また、義政は義視の実名に関しては満詮の先例を用いず、「義」の字をあえてつけさせたことから、実際に将軍職を譲渡する意思があったと見られる[194]。
義視と義尚、日野富子らとの関係
- 義政と日野富子の間に甥の義尚が誕生すると、伊勢邸に預けられるなど将軍世嗣として扱われたが、特に義視の立場に変化はなく、官位の昇進も進められた。『応仁記』一巻本では、義尚の誕生以降、義視と義政・富子夫妻との関係が悪化していったという記述があり[197]、その影響を受けた見解が強かったが、2010年代以降の研究では否定的な見方が強い[198][49]。当時は子供の生存率も低く、世代に差があるため、義視は中継ぎとして見られていたとされている[198][49]。実際、義尚が将軍世嗣として処遇されたことに関して、義視が不満を述べていたという記録はない[25]。
- 細川勝元が義政から義視の後見人に任命されたことで、富子が対抗策として義尚の後見人を山名宗全に頼み、それぞれの派閥が結成されて大乱に及んだとする説は、『応仁記』のみに見られる記述である[197]。義視が富子の妹を正室としていたことから、両者の関係は悪くなく、富子は義尚が成長するまでの中継ぎとして、義視の将軍就任を支持していたと考えられる[199]。だが、文正の政変以降、義視の存在感が大きくなると、富子は兄の日野勝光と共に義視を大いに警戒し、両者の関係には緊張が走ることになった[200]。
- 山田康弘は、義政は義視を後継者に据えたといえ、義政が健在なうちは将軍職を譲ることはなく、義尚が無事に成長すれば、将軍職はそのまま義尚に譲るつもりだったと指摘する[193]。もし、義政が義視に将軍職を譲ったとしても、実権はそのまま掌握したのではないかとする[193]。山田は、義政が力を入れていた東山山荘の建設には莫大な費用が掛かり、その費用工面のためには権力の座にいなければならず、自身の権力を義視に完全に移譲するとは考えにくい、としている[201]。
- 木下昌規は、義尚の誕生によって、義政が義視と義尚の今後の関係についてどのように考えていたか判断が難しいとしている[31]。義視を義尚の中継ぎとして、いずれ将軍職を義尚に譲渡させるのか、義視に将軍職を継承させたのちは義尚への継承は認めないのか、義政系と義視系の二つの将軍家が交互に継承するのか、義政の考えは判然せず、この時点での将軍家の将来は偶然に左右されうる部分も大きかったとする[31]。
- 呉座勇一は、義尚の誕生によって、義政は義視→義尚の順序での将軍継承による解決を図ろうとしたが、義政の思惑通りにはいかず、幕府には3つの政治勢力が生まれたとする[34]。
- 第一は、義尚の養育係である伊勢貞親ら将軍の側近集団である[34]。貞親は義政に将軍を続けさせ、義視に継承させることなく、成長した義尚が継承することを望んでいた(義政→義尚)[34]。
- 第二は、山名宗全をリーダーとする集団である。宗全は赤松政則を支援する義政の側近集団を敵視しており、義尚に将軍を継承させず、義視に継承させようした(義政→義視)[199]。また、宗全は管領に娘婿の斯波義廉を就任させて、義視を将軍、義廉を管領とする政権を目指したとする[199]。
- 第三は、細川勝元をリーダーとする集団である[199]。勝元の立場は伊勢貞親と山名宗全の中間に位置し、義視に中継ぎとして将軍を継承させたのち、成長した義尚が継承するという義政が定めた規定路線を支持していた(義政→義視→義尚)[202]。
- 義視は美濃から京都に帰還したのち、嫡子の義稙を将軍に就任させるために日野富子と協調したが、小川御所を破却し、富子の所領も差し押さえるなどしたため、その関係が悪化した[181]。また、義視は富子が猿楽を楽しもうとしているとの話を聞くと、関係者らに圧力をかけ、これを中止に追い込んでいる[181]。義視と富子の関係悪化は、次代の義稙にも引き継がれ、やがて富子の承認のもと、細川政元が明応の政変を起こすに至った[203]。
西軍の盟主として・西軍諸将との関係
- 西軍の諸将は大乱中、将軍に任官していない義視を将軍として扱い、また将軍家の当主として扱った(西幕府)[204]。義政が大内政弘や畠山義就ら西軍諸将に和平交渉を行ったものの、諸将は義視を盟主として擁立した手前、その処遇が決まらないうちは東軍に降ることはなかった[137]。また、義視と西軍諸将との関係は、息子の義稙の代になっても維持されたようである[205]。
- 大内政弘は大乱中、義視を自身の館に迎え入れ、和睦にも応じず、乱の終結まで忠節を尽くしている[206]。政弘はまた、義視のことを「公方様」と呼んでいる[204]。大内氏は元来、分国経営に力を注ぐ地方独立型の大名で、幕政には深く関わらなかったが、政弘は大乱初期に上洛すると、そのまま10年間も在京し続けた[207]。義視と政弘の関係は、次代の義稙と大内義興の代になっても引き継がれており、義興は周防に逃れた義稙を庇護してその復権に尽力し、京都奪還後には在京してその支柱となった[207][208]。
- 後年、義稙は畿内から周防に亡命した際、義興の庇護を受けたほか、配下の伊勢貞仍が周防から石見や出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後と山陰地方を巡回して、義稙への支援を呼びかけている[209][205]。貞仍が回った国々を見ると、但馬は山名宗全(持豊)、因幡は山名勝豊、伯耆は山名教之、丹後は一色義直がかつて支配しており、彼らは大乱中に義視に忠誠を誓っていた守護大名達であった[205]。明応9年(1500年)の段階で、但馬は山名致豊(宗全の曽孫)、因幡は山名豊時(勝豊の子)、伯耆は山名尚之(教之の孫)、丹後は一色義直が守護を務めており、かつての西軍を軸とした関係が継続していたと考えられる[205]。
- 義視は大乱中、西軍における事実上の将軍として、将軍である義政と同様に様々な命令を下した[190]。その中には、臨済宗五山派に属する禅寺の住持任命状も多くあり、大乱後にそれらの扱いが問題となった[190]。五山派の高僧らは大乱後、将軍でない義視が出した住持任命状を正式なものではない「偽官」とし、将軍となった義稙から「義視が大乱中に出した住持任命状を正式なものとして扱う」よう求められても、これを拒否する姿勢を取った[190]。五山派の高僧らはこれを、「まさに偽官をもって真官に準じる」とまで語っている(『蔭涼軒日録』延徳2年2月25日条ほか)[190]。
- 義視の美濃在国は10年以上の長きにわたり続いたが、その間は斎藤妙椿らの庇護もあって平穏に過ごしていたようである。また、在国中の文明10年、文明11年には男子がそれぞれ誕生している[2]。
義視と享徳の乱
- 義視は大乱中に西軍の盟主として、古河公方の足利成氏(堀越公方である兄の足利政知が関東で対峙していた)とも享徳の乱の和睦交渉をするなど、独自の外交を展開した[111]。すでに、西軍側は義視が与同する前の応仁2年4月の時点で、成氏との和睦交渉を開始しており[210]、閏10月には成氏が那須持資に都鄙和睦の提案を受けたと伝えている[211]。また、西軍に成氏討伐を命じた人物がいないことから、この交渉は和睦ではなく、軍事同盟であったとする見方もある[211]。
- 西軍は自らの働きかけによって、応仁2年(1468年)9月の時点で義視が西軍に参加することが確実と判断しており、義視と成氏が和睦することで関東の和平を実現して、その勢いで義視の将軍就任を現実のものとし、その構想が西幕府として現れたのではないかとする説がある[120][注釈 5]。義視としても、日野勝光や伊勢貞親を排除したうえで、将軍権力を継承することを考えていたとみられる[120]。
- だが、成氏が義政ではなく義視と和睦交渉していたとする見方に関しては、容易に判断できないとする指摘もある[212]。仮に義視との和睦が成立したとしても、義政との和睦が成立したわけではないため、成氏と義政及び上杉氏との対立が解消されるわけではなかった[212]。
逸話
- 義視と義政は仲の良い兄弟であり、大乱以前はしばしば宴会を共にして、酒を痛飲していたことが記録されている(『蔭涼軒日録』寛正6年6月13日、7月11日条ほか)[63]。
- 義政が死去して2週間後に行われた法事の席で、義視は相国寺蔭涼軒主の亀泉集証に対し、「義政との兄弟の仲は元々良かったが、間にいた人(伊勢貞親か)の言動で疎遠になった」と語っている[176][186][213]。亀泉はこのとき、美濃在国中の義視が宗樹長老という僧を出世させるよう要望したところ、鹿苑院主の惟明に反対されたが、義政が「義視のいうことだから、特別に認めてほしい」と押し切ったという話を語った[214]。これを聞いた義視はうなずき、一笑したという[213][215]。大乱中、義視が西軍諸将と関係が深かったことや、日野勝光の排除を進言したことで義政の怒りを買ったことなどによる様々な行き違いで、義視と義政の両者の間に大きな溝ができたが、それでも兄弟の仲は本質的には悪くなかったことがうかがえる逸話である[186]。
祭祀
- 義視の御影堂は相国寺の大智院(現在は廃絶)に置かれたが、これは足利義満以後の歴代将軍と同じ待遇である。夭折した兄の義勝の御影堂が当初は東山に置かれ、義政の別荘の造営予定地に入ったために没後23年目にしてやっと相国寺内に移されているのとは対照的である。また、等持院における歴代将軍の法華八講にも義視が加えられている(『大乗院寺社雑事記』延徳3年12月17日条)。ただし、こちらの方は義政と義視の忌日が同じなため、義視の法要を義政の法要とまとめて行うという意図も含まれていたようである[216]。
年譜
※日付=旧暦
- 寛正5年(1464年)12月2日、還俗し、義視を名乗る。同日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。
- 寛正6年(1465年)1月5日、従四位下に昇叙。左馬頭は元の如し。
- 同年11月20日、元服し、禁色賜る。
- 同年11月25日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。
- 同年12月17日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。
- 文正元年(1466年)1月6日、従二位に昇叙。権大納言は元の如し。
- 文正2年(1467年)1月5日、正二位に昇叙。権大納言は元の如し。
- 同年8月23日、伊勢に出奔。
- 応仁2年(1468年)9月12日、帰洛
- 同年12月5日、解官。
- 文明9年(1477年)11月11日、美濃に下向。
- 文明19年(1487年)4月14日、帰洛
- 延徳元年(1489年)12月27日、出家。
- 延徳2年(1490年)7月5日、准后宣下。
- 延徳3年(1491年)1月7日、死去。
- 同年2月24日、贈従一位・太政大臣。
系譜
- 父:足利義教 - 6代将軍
- 母:小宰相局 - 氏族不明、正親町三条尹子の侍女
- 正室:日野良子
- 足利義稙(義材、義尹) - 10代将軍
- 継室:二条殿 - 阿野家出身の女性か[217][218]
- 側室:不詳
- 生母不明の子女
『系図纂要』では、水野義純が義視の四男と記されているが、当時の史料からはその事実を確認できない[219]。
偏諱を与えられた人物
- 一色視房
- 一色視冬(いっしき みふゆ)
- 宮内一色家の当主。『宣秀卿御教書案紙背文書』(中御門宣秀が、自身が職事として発給に関与した綸旨・口宣案を関連文書とともに書き留めたものだが、筆録したのは父の中御門宣胤である)に残る文書の中に、長享2年9月18日に伝奏・二階堂政行により伊予守に任ぜられた人物として見られる[220]が、義視との関係など詳細については不明である。子の一色材延(きのぶ)も義視の子で第10代将軍となった足利義材(義稙)から1字を受けている。
- 一色視元
- 大舘視綱
- 種村視久
関連作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ 読みは同じく「よしみ」と思われる。
- ^ このとき、畠山邸が政長に抑えられていたため、義就は宗全の邸宅を借りて、ここ自身の邸宅として迎えさせている[66]。
- ^ 他方、『応仁別記』には、義視が細川邸に赴こうとした際、京極持清の家臣・多賀高忠に阻まれたとされる。義視がその理由を尋ねると、「(義視が)山名方を贔屓しているので、今出川殿に留まるよう」に伝えられたと記されている[87][85]。
- ^ 『後法興院日記』延徳3年(1490年)2月10日条には、「将軍拝任の仁に非ざる間、かくの如し」と記されている[190]。
- ^ なお、西軍が義視に接触したのは、義視が9月に帰京した直後、あるいは10月頃だとする見方がある[211]。
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参考文献
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- 同書より「足利義視」「足利義稙」(どちらも西島太郎執筆)
- 石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』吉川弘文館、2008年。
- 家永遵嗣「足利義視と文正元年の政変」『京学習院大学文学部研究年報』61号、2014年、1-47頁。
- 今泉篤男『京都の歴史: 近世の胎動』学芸書林、1968年。
- 小川信『山名宗全と細川勝元』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2013年11月1日。
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- 黒田基樹『今川氏親と伊勢宗瑞 戦国大名誕生の条件』平凡社〈中世から近世へ〉、2019年1月。 ISBN 978-4-582-47743-6。
- 黒田基樹『図説 享徳の乱』戎光祥出版、2021年4月。 ISBN 978-4-86403-382-4。
- 呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』中公新書、2016年。 ISBN 978-4-12-102401-5。
- 木下聡 著「足利義視」、榎原雅治; 清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年10月10日、224-232頁。
- 木下昌規『足利義政 花の御所、御所の地としてしかるべし』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2025年3月。
- 長江正一『三好長慶』(新装版第四刷(2012年))吉川弘文館〈人物叢書〉、1968年。 ISBN 978-4-642-05154-5。
- 羽田聡「足利義材の西国廻りと吉見氏 -一通の連署状から-」『京都国立博物館学叢』25 号、2003年5月、41-59頁。
- 森茂暁『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』〈角川選書〉1997年7月。 ISBN 4-04-703284-0。
- 山田邦明『享徳の乱と太田道灌』吉川弘文館〈敗者の日本史8〉、2015年1月1日。
- 山田康弘『足利義稙 -戦国に生きた不屈の大将軍-』戎光祥出版〈中世武士選書33〉、2016年5月。
- 山本隆志『山名宗全 金吾は鞍馬毘沙門の化身なり』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2015年4月10日。
関連項目
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