中御門宣秀とは? わかりやすく解説

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中御門宣秀

読み方なかみかど のぶひで

室町後期歌人公卿。宣胤の子法名は乗円。権大納言従一位三条公条に学ぶ。父と並ぶ故実典礼識者として名をなした。享禄4年(1531)歿、63才。

中御門宣秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 23:23 UTC 版)

中御門 宣秀(なかのみかど のぶひで、文明元年8月17日1469年9月22日) - 享禄4年7月9日1531年8月21日))は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての公卿従一位権大納言中御門宣胤の子。母は甘露寺親長の娘。妻は吉田兼倶の娘。子に宣綱宣治朝比奈泰能室。今川氏親正室寿桂尼山科言綱の正室黒木の方は妹にあたる。

3歳で叙爵[1]、10歳で右衛門佐に任ぜられ[2]、文明15年(1483年)に15歳で権右少弁蔵人に任じられる[1]。文明18年(1486年)に左少弁、明応2年(1493年)右中弁、明応4年(1495年)に頭弁蔵人頭兼左中弁)となった[1]。この間、長享2年(1488年)から明応3年(1494年)まで勧学院別当にあたる南曹弁を務める[1][2]。明応8年(1499年)に参議に任ぜられ、永正元年(1504年)に権中納言、永正18年(1521年)に権大納言に任ぜられる[1]。享禄4年7月6日に従一位に叙せられるが、間もなく出家して乗円と名乗り、同月9日に63歳で死去した[1][2]

文明16年(1484年)から参議に昇進する明応8年までの間に蔵人・蔵人頭として奉じた綸旨口宣案などを書きとめた『宣秀卿御教書案』は当時の朝廷の政務のあり方を示す史料とされている[1][2]。また、日記である『宣秀日記』が一部(明応9年・永正9年・享禄4年分)が現存している[1]

系譜

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 『国史大辞典』
  2. ^ a b c d 『朝日日本歴史人物事典』

参考文献

  • 小泉宜右「中御門宣秀」『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4 P650.
  • 小森正明「中御門宣秀」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P1212.


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