今川氏親(いまがわ うじちか) 1470~1528
◇父:今川義忠 室:中御門宣胤女、福島氏女 子:今川氏輝、彦五郎、良真、義元、氏豊
駿河守護今川氏当主。父は応仁の乱で東軍に付き、遠江攻略後、塩月坂にて不慮の戦死。氏親4歳の時であり、一族範満との間で家督争いが生じて堀越公方足利氏、関東管領上杉氏の介入を招いた。これは客分にあった伯父伊勢長氏(後の北条早雲)の仲裁で争いは鎮まり、乱を逃れていた氏親も駿府に戻る。この縁で北条氏との同盟を結んで、1517年引馬の戦いにて遠江一円を攻略、三河、尾張に勢力を伸ばした。武勇に優れた一方、領国経営にも手腕を見せて検地、知行制度の確立、1509年には分国法「今川仮名目録」33ヶ条を制定している。
今川氏親
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今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川氏の第9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿。今川義元の父であり、伊勢宗瑞 (北条早雲) の甥にあたる。
注釈
- ^ かつては文明3年(1471年)誕生説が通説であったが、永正11年5月13日に宗長らとの間で行われた『浅間千句』が氏親の42歳の厄年除けの参詣の際に行われたことが記されており、逆算すると文明5年生まれとなる[5]。
- ^ 近代以降は史書でも小説でも妹と書かれているものが多いが、妹というのは新九郎の生年を永享4年(1432年)とする『北条五代記』に従うと、姉では年をとり過ぎて計算が合わないため妹と考えられたものである。だが、江戸時代の資料では姉、または叔母と記述されており、更に最近の研究では『北条五代記』の説を否定して、新九郎の生年は康正2年(1456年)であると考えられている。その場合、北川殿を姉とする江戸時代の文書の記述が正しかったことになる[6]。
- ^ 『宗長日記』によれば永正15年(1518年)頃から病気で領国統治も軍事行動も行えなくなったとするが、その後も発給文書を出している上、義元の誕生前にあたるため、初めはそこまで重くなかったとみられる。氏親が重篤になるのは発給文書から氏親の花押が消える大永3年(1523年)以降と推定される[41][42]。
- ^ 法名徳蔵院殿芳山春公大姉。『土佐国蠧簡集残篇四』所収「今川系図」では氏輝が先にかつ嫡男と記されながら、嫡女の記載がある。これを根拠に黒田は氏輝の姉としている。[50]
- ^ 法名竜泉院殿光厳瑞国大姉。
- ^ 『土佐国蠧簡集残篇四』所収「今川系図」、『寛永諸家系図伝』など
- ^ 今川氏の系譜を見ると、瀬名貞綱の室は義元の「妹」[注釈 6]とされているが、『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中妹」の記述から、実在の確認できる氏親の娘は全て義元(=『言継卿記』の「太守」)の姉となる[53]。
出典
- ^ a b c 大久保俊昭. “今川氏親(いまがわうじちか)とは - コトバンク”. 2017年7月22日閲覧。
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- ^ クロニック戦国全史 1995, p. 91.
- ^ 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用
- ^ 大塚勲「今川氏親年譜史料」『今川史研究余録』(私家版)、2008年。/所収:黒田 2019, pp. 158–159
- ^ 黒田 2005, pp. 13–17.
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- ^ 小和田 1983, p. 134.
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- ^ 黒田 2019, pp. 18–20, 「今川氏親の新研究」.
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- ^ 『靜岡縣史料』4輯、靜岡縣、1938年、192頁。
- ^ 黒田 2019, pp. 35–36, 「今川氏親の新研究」.
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- ^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書 42〉、2019年、46-47頁。ISBN 978-4-86403-335-0。
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- ^ “第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. p. 79. 2022年6月3日閲覧。
- ^ 黒田 2019, p. 44, 「今川氏親の新研究」.
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- ^ 小和田 1983, pp. 160–161.
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- ^ 黒澤脩 著「今川氏親と曹洞禅」、東国戦国史研究会 編『関東中心戦国史論集』名著出版、1980年。/所収:黒田 2019, pp. 229–244
- ^ 黒澤脩 著「今川氏執権の雪斉長老と寿桂尼」、今川氏研究会 編『駿河の今川氏 第1集』1975年。/所収:黒田 2019, pp. 245–260
- ^ 今枝愛眞「戦国大名今川氏と禅宗諸派」『静岡県史研究』14号、1997年。/所収:黒田 2019, pp. 261–279
- ^ 黒田 2017, pp. 38–39.
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- ^ 大石 2019, pp. 10-11・38, 大石泰史「総論 今川義元の生涯」.
- ^ 黒田 2017, pp. 53–55.
今川氏親(いまがわ うじちか)
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「センゴク外伝 桶狭間戦記」の記事における「今川氏親(いまがわ うじちか)」の解説
通称は修理大夫。駿河国主で義元の父。かつて叔父でもある北条早雲の元で薫陶を受け、分国法「今川仮名目録」を制定するなど今川家を復興した明君として讃えられる。非情さの足りない義元の性格を戦国大名としての欠陥と見て、僧侶として平穏な生涯を送ることを望み、僧侶として名高かった雪斎を義元の教育係とする。その際に雪斎との会談で、早雲の「乱世は果てるまで命を燃やす遊び場」との言葉を伝える。後に本編でも、若き日の氏親が早雲を名乗る前の伊勢新九郎からこの言葉を語られる場面が描かれた。
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