4歳(2020・21年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:34 UTC 版)
「ウェリントン (競走馬)」の記事における「4歳(2020・21年)」の解説
12月26日のハンデ戦を勝利し、年明け初戦の2着を挟んで2連勝した。 重賞初挑戦となったスプリングカップ(G2)は1番人気に推されるも見せ場なく5着に敗れた。 G1初挑戦となったチェアマンズスプリントプライズ(G1)は日本馬ダノンスマッシュなどが出走。道中は中団で追走し、直線で鋭く突き抜けて快勝してG1制覇を果たした。
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4歳(2004年)
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「ギャラントアロー」の記事における「4歳(2004年)」の解説
4歳初戦となった淀短距離ステークスを別定58kgを背負って逃げ切り5勝目を飾る。しかし、1番人気に推された阪急杯は8着に敗れた。続く高松宮記念は後続に差されたものの4着と好走した。その後、京王杯スプリングカップは13着、久々のダート戦となったプロキオンステークスは9着に敗れる。4か月後、連覇を狙ったスワンステークスは13着、マイルチャンピオンシップは15着とそれぞれ大敗したが、アンドロメダステークスはトップハンデ58kgながら、リミッドレスビッドに半馬身差の2着に入る。次走、CBC賞は6着に敗れた。
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4歳(1984年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 04:48 UTC 版)
2月中旬の共同通信杯4歳ステークスで4歳初戦を迎えた。朝日杯3歳ステークスの勝ち馬であるハーディービジョンを始め、世代の有力馬が不在だったこともあり、残り100メートル地点から追われただけで後方に1馬身の差をつけて勝利し、重賞初勝利となった。岡部は「まったく楽でした。1戦ごとに成長していますし、奥の深い馬」と評価した。 その3週間後、皐月賞と同じ距離、競馬場で行われる弥生賞に出走。これまで騎乗した岡部が「僕が選んだ方が強いと思ってください」と無敗の3連勝中で4歳初戦となるシンボリルドルフを選択し、無敗の4連勝中であったビゼンニシキ陣営はこれに憤慨、成宮厩舎所属の蛯沢誠治が騎乗することとなった。ビゼンニシキは1番人気に支持され、シンボリルドルフは日本馬同志の競馬では唯一、1番人気を奪われた屈辱のレースとなった。ゲートで立ち上がる不利な発走となり、後方の外に位置取る中、シンボリルドルフは4、5番手で先行していた。最終コーナーでシンボリルドルフが抜け出すその背後から追い上げた。直線では、馬場の内側に斜行し、ビゼンニシキの右前肢がシンボリルドルフの左後肢に接触する事故もあったが、前を行くシンボリルドルフが失速することなく、1馬身4分の3馬身遅れた2着に敗れた。 スプリングステークスではサクラトウコウ相手に意表をつく逃げ切り勝ち、NHK杯は楽勝だった。弥生賞と皐月賞ではシンボリルドルフに敗れて2着に終わったが、そのうち皐月賞は勝ったシンボリルドルフに体当たりされるという不利があった。 この不利については、「全日本フリーハンデ」上で、評者の山野浩一は「外国の競馬なら着順変更になっているケース」としながらも、それがなくてもシンボリルドルフには勝てなかっただろうとしている。なお、日本中央競馬会はこのレース後、降着制度の導入の検討を始めたことを明らかにした。 日本ダービーでは大敗し、ビゼンニシキに対しては距離克服に課題があるという見方が再び露になった。この年から短距離路線の整備が行われたことから、ビゼンニシキは秋は長距離の菊花賞ではなく、短距離のスワンステークスへ挑んだ。しかしそのレース中に故障を発生して引退に追い込まれた。 シンボリルドルフがこの年、史上初の無敗での三冠制覇を果たして日本競馬史上で図抜けた競走馬と評価され、さらにジャパンカップでも好走して世界的に高評価を受けたことで「ルドルフを最も苦しめた馬」としてビゼンニシキにも高い評価が与えられることになった。日本ダービーまではシンボリルドルフ以外には負けておらず、「一方的に負けてばかりなので、はたして本当にライバルといえるかどうかは疑問だが」シンボリルドルフのライバルであるとも評された。 この年のフリーハンデでのビゼンニシキの評価は60kgで、同世代では単独2位の値だった。「全日本フリーハンデ」は63kgに評価し、例年であればクラシック競走の勝馬と同等以上と位置づけた。
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4歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:53 UTC 版)
「マイネサマンサ」の記事における「4歳(2004年)」の解説
長期休養明け、9か月半ぶりの実戦となった4歳初戦、HTB杯は5着、4か月半ぶりとなった摂津特別は10着に終わる。続く名古屋日刊スポーツ杯は勝ったマチカネリュウセイに半馬身差の2着と好走した。
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4歳(2009年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/01/18 14:40 UTC 版)
「レディマリアン」の記事における「4歳(2009年)」の解説
休養中の2月に同じ厩舎所属のバイラミーと共にゴドルフィンへトレードされてサイード・ビン・スルール厩舎へ移籍した。移籍初戦は3月28日のドバイデューティーフリーだったが、最下位の16着に終わった。その後、8月2日のロートシルト賞に出走したが、7着に敗れた。続く8月23日のジャンロマネ賞では勝ったアルピンローズのアタマ差の2着だった。9月12日のブランドフォードステークス (G2) 4着ののち、連覇を懸けて挑んだ10月4日のオペラ賞では見せ場がなく6着に終わった。続く10月25日のリディアテシオ賞では5着だった。レース後、現役を引退、繁殖入りが決まった。
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4歳(2009年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/25 17:20 UTC 版)
休養を終えてドバイへ遠征し、3月28日のドバイデューティーフリーに出走したが、8着と惨敗した。その後、4月25日にサンダウン競馬場で行われたベット365マイル (G2) に出走し、勝利を収めた。続く5月16日のロッキンジステークスでは1番人気に推されたが、4着に終わった。その後、6月16日のクイーンアンステークスを制し、G1競走2勝目を挙げた。続く7月10日のジュライカップでは2番人気に推されたが4着に敗れた。続く7月29日のサセックスステークスでは勝ったリップヴァンウィンクルから2馬身差の2着に敗れた。その後は休養に入った。
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4歳(1999年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 01:29 UTC 版)
「リアルクワイエット」の記事における「4歳(1999年)」の解説
3月に9ヶ月ぶりに戦線に復帰すると、復帰3走目のピムリコスペシャルハンデキャップでプリークネスステークス以来の勝利を飾る。6月のハリウッドゴールドカップではジェリー・ベイリー との初コンビでG1・5勝目を挙げた。しかし、レース後に右前脚の骨折が判明し、そのまま現役を引退した。
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4歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 09:04 UTC 版)
「グラッブユアハート」の記事における「4歳(2004年)」の解説
4歳初戦となったTCK女王盃は1番人気に支持されるがレマーズガールに敗れ2着。続くエンプレス杯でもレマーズガールとの叩き合いに敗れ連続2着となる。なおこのレースから安藤勝己が騎乗し引退するまで2戦を除き騎乗している。次走のマリーンカップは先行するもベルモントビーチ、レマーズガールに交わされ3着に終わる。3か月の休養明けとなったスパーキングレディーカップは中団やや後ろから先に抜け出したレマーズガールを3/4馬身交わして1着。レマーズガールとの対決4戦目にして初めて先着し、重賞初制覇となった。次走は芝の府中牝馬ステークスを選択したが14着と惨敗に終わる。続くクイーン賞はレマーズガールに半馬身差の2着に敗れた。
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4歳(1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 05:45 UTC 版)
「イソノルーブル」の記事における「4歳(1991年)」の解説
2月3日、エルフィンステークス(OP)で始動し、単勝オッズ1.3倍の1番人気で出走。スタートを決めてハナを奪うと、直線でも後方を寄せ付けず2馬身半差をつけて優勝し、4連勝とした。この五十嵐の騎乗では、スローペースの追走中に手綱を抑える姿を見せていたことから五十嵐は降板。代わりに「馬への評価が柔らかい」と評判だった松永幹夫と新コンビが結成した。続く3月17日、桜花賞のトライアル競走である報知杯4歳牝馬特別(GII)に松永と出走。通常、開催される阪神競馬場が改修工事中であったために中京競馬場芝1200メートルでの開催となり、単勝オッズ1.2倍、単枠指定制度の対象となった。好スタートから、最初の300メートルで先行する2頭を制し、ハナを奪い逃げた。直線でも後方勢の追い上げを許さず、後方に3馬身半差をつけて逃げ切り優勝。5連勝および重賞2勝目、優先出走権を取得し、無敗のまま桜花賞に参戦することとなった。 4月7日、桜花賞(GI)に出走。同じく阪神競馬場が改修工事中のため、京都競馬場芝1600メートルでの開催となり、単勝オッズ2.8倍の1番人気に推された。本馬場入場を経て発走地点に向かったが、右前脚を落鉄が判明。そこで、装蹄師が蹄鉄を再び装着させようとしたが、イソノルーブルが暴れてそれを拒否。担当厩務員、調教助手の福留幸蔵が厩舎に戻って蹄鉄を打ち直すよう要求したが、却下された。予定の発走時刻を過ぎる中、結局JRAは蹄鉄の装着を諦め、右前脚が裸足の状態で、予定より11分遅れて発走した。イソノルーブルはスタートから松永が積極的に追い出したことで2番手に位置したが、直線で全く伸びずに後退。勝利したシスタートウショウに9馬身差をつけられた5着、初黒星を喫した。清水によれば「装鞍所では落ち着いていい状態だった。それがパドックから本馬場入場の大歓声〔ママ〕で、いっぺんにおかしくなってしまった」と述懐している。梶山隆平によれば、落鉄の原因を本馬場入場時の観客による「喚声の集中砲火」であるとしており、同時に「馬は静かに迎えるという競馬観戦の、初歩的な心得を理解しないファンの増加は本当に困る。」と評した。 またこの落鉄について、落鉄の事実は競馬場内に告知されていたが、蹄鉄を履いていない状態のまま発走するという告知はなされないままであった。JRA審判部によれば「再三、打ち替えることを試みたが、馬が暴れて、どうしようもなかった。落鉄したままでも競走能力に影響しない、と判断した」と説明した。しかし、この説明に対し、マスコミなどは批判的な姿勢をとり、中にはJRAを相手取り民事訴訟を行う者もいた。(詳細は、イソノルーブル事件を参照。)JRAは、これを機に、馬場内の待機所につなぎ馬房を設置。さらにレーシングプログラムに「再装着が不可能な場合はそのまま発走させる場合がある」という記述を追加した。並びに何か事故が発生した場合は、発走前に告知するようになっている。 続いて5月19日の優駿牝馬(オークス)(GI)に参戦。出走にあたっては、体調不良説や、喚声がより大きくなる東京競馬場での開催、大外8枠20番からの発走などの負の要素が強調され、単勝オッズ12.1倍の4番人気で出走した。陣営は、前回の反省を踏まえてイソノルーブルの感じる喚声の音を小さくするために、耳当てのついたメンコを二重に着用。さらに、大観衆を目に入れないように視野を小さくするためのブリンカーも着用した。 大外枠から先行してハナを奪い、以降は最初の1000メートル通過が61.7秒のスローペースを刻み、直線入り口ではスカーレットブーケ、ツインヴォイスが迫ってくるも先頭を守った。まもなく松永が仕掛けるとその2頭を突き放していたが、後方大外にいたシスタートウショウが末脚を見せて、追い上げを開始。最も内側で逃げ粘るイソノルーブルに並びかけたところが決勝線通過であった。決着は写真判定に委ねられたが、松永は勝利を確信しスタンド前でガッツポーズを披露した。写真判定の結果、イソノルーブルのハナ差先着が認められて優勝、1975年のテスコガビー以来16年ぶりとなる逃げ切り勝利、1978年の優駿牝馬優勝のファイブホープ以来となる抽せん馬によるクラシック優勝と相成った。またイソノルーブルおよび松永、清水にとって初のGI優勝であった。清水は「(前略)イレ込みは桜花賞の時の半分以下でしたから。落ち着いてさえいればこの距離でもバテる馬じゃないと思っていたし、流れも理想的でした。」と述懐している。 夏は、函館競馬場の青函ステークス(OP、芝1200メートル)への出走を目指して、現地に入厩するも、出走することなく、秋のエリザベス女王杯(GI)に直行。スタートから2番手に位置するも、直線で失速して16着敗退、翌日に右前種子骨靭帯炎の発症が判明した。その後は、福島県いわき市の競走馬総合研究所常盤支所の「馬の温泉」で復帰に向けて療養を続けたが、復帰することなく競走馬登録を抹消し、引退した。 この年のJRA賞表彰では、JRA賞最優秀4歳牝馬部門にて全176票中33票を集め、109票を集めて受賞したシスタートウショウの次点となった。
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4歳(2010年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 09:22 UTC 版)
「ナイキハイグレード」の記事における「4歳(2010年)」の解説
復帰緒戦は2月17日の報知グランプリカップに1番人気で出走したが、7着に敗れた。続くダイオライト記念では見せ場なく10着と大敗した。レース後は休養に入った。
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4歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:45 UTC 版)
「レマーズガール」の記事における「4歳(2004年)」の解説
4歳初戦、TCK女王盃は2番手からレースを進め、グラッブユアハート以下に1馬身半差をつけ快勝。次走、エンプレス杯は中団から早めに押し上げて先に抜け出したグラッブユアハートを交わして1着。重賞連勝を飾る。続く、ダイオライト記念は距離が長かったのか5着となる。マリーンカップは2着と惜敗。次走、かしわ記念は6着に敗れる。久々の中央でのレースとなったブリリアントステークスは6着、連覇を狙ったスパーキングレディーカップはグラッブユアハートに3/4差で敗れる。3か月の休養明け、白山大賞典は4着。次走、秋華賞以来となる芝のレースとなったエリザベス女王杯は最下位の18着に終わる。続く、クイーン賞は直線手前で先頭に立ち、グラッブユアハートに半馬身差をつけ勝利した。なお、この年の3勝は全レース、グラッブユアハートが2着に入っていた。
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4歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:14 UTC 版)
「メイショウトウコン」の記事における「4歳(2006年)」の解説
2006年8月12日、札幌競馬場での3歳上500万下のレースでは初のダートで4番人気だったが見事勝利した。この時は2度目の騎乗となる武幸四郎騎手が騎乗しており、以降主戦騎手となり、ダートを中心に出走するようになる。その後、1000万下クラスの大雪ハンデで2着になり、次のアカシヤ特別で勝利し連敗することなく1600万下クラスに昇級し、花園ステークスでは昇級緒戦ながら勝利しオープン馬となり2006年を終えた。
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4歳(1982年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:16 UTC 版)
「ビクトリアクラウン」の記事における「4歳(1982年)」の解説
初戦は、東京競馬場のクイーンカップに出走。再び単枠指定となり1番人気に推された。4番手から最終コーナーで先頭に立った。するとソラを使ってしまい、ファイブソロンに並びかわされた。しかし、ムチで矯正されると差し返し、ファイブソロンに半馬身差をつけて勝利した。新潟、中山、東京という関東での4連勝に嶋田は、関東の牝馬との決着はすでについているとした。ファイブソロンに騎乗した郷原は、「あれで負けたのでは相手が強いとしかいいようがないさ」と評した。稲葉は、クラシックでも力を発揮できる目処がついたとして桜花賞直行を明言した。桜花賞が行われる関西の栗東トレーニングセンターに移動して調整が続けられた。しかし、3月31日、桜花賞12日前の栗東での調教時に跛行。検査を受けて左第3手根骨剥離骨折が判明した。全治3か月の診断を受けて、桜花賞出走を断念。春のクラシック参戦不可能となった。千代田牧場本場に放牧に出される間に桜花賞と優駿牝馬(オークス)が催され、ビクトリアクラウンには「幻のクラシック馬」との異名がつけられた。 8月4日の美浦トレーニングセンターに帰厩、後遺症がない状態で復帰しエリザベス女王杯を目標に調整された。9月19日のクイーンステークスで7か月半ぶりに復帰。前日の馬体重は500キログラムあったが、当日の装鞍所で大量に排尿排便をしたことでレースには、前日よりも26キログラム減量し474キログラムで出走した。調教助手の野中は、レースがいつか知っている「賢い馬」と感じたという。1番人気の支持から、先行して逃げるルナパークをアタマ差捉えて勝利した。続いて10月17日の牝馬東京タイムズ杯に出走。古馬と初顔合わせとなり、特に安田記念と七夕賞と連勝中の6歳牡馬スイートネイティブとの対決に大きな注目が集まった。後方待機する一方でスイートネイティブは先行した。直線でスイートネイティブが先頭に立ち、それに目がけて追い込んだが、1馬身4分の1届かず2着に敗れた。 11月21日、目標のエリザベス女王杯に単枠指定の2番人気で出走した。1番人気は、京都大賞典勝利から参戦し、同じく単枠指定のメジロカーラであった。シンナディアが逃げて、その後ろにメジロカーラが先行する中、その後ろにビクトリアクラウンがつけた。最終コーナーへ差し掛かるあたりでメジロカーラが伸びあぐねており、ビクトリアクラウンがそれを見て仕掛けると、差を広げてメジロカーラを置き去りにした。後々追い上げたミスラディカルやラブリースターとの差を広げて先頭で入線し、勝利した。嶋田は楽勝として、第3コーナーの坂を下るときに勝利を確信していた。稲葉は「この馬のすべてが、この馬のよさです」と発言した。続いてファン投票では9位に入り、有馬記念に出走。唯一の牝馬であったが、5着に入った。
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4歳(1979年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:11 UTC 版)
「カツラノハイセイコ」の記事における「4歳(1979年)」の解説
年が明けた1月7日の呉竹賞で、上がり3ハロンを35秒台で駆けて2勝目を挙げた。福永は「今の4歳でこんな凄い脚を使える馬は少ないよ。こりゃ大物だ」と振り返っていた。続くジュニアカップ(800万円以下)は先約のために福永から、その兄弟子である松本善登に乗り替わり参戦し、直線の末脚で後方との差を広げて連勝とした。これ以降、しばらく松本が騎乗を続ける。2月17日の京都競馬場のオープン競走では、中団から抜け出して福永が騎乗するレッドルーラーを問題にせず、3連勝となった。庄野はこの時期の3連勝についてカツラノハイセイコの能力を評価し、末脚について父ハイセイコー以上のものを持っているとしていた。
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4歳(1988年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:57 UTC 版)
「サクラチヨノオー」の記事における「4歳(1988年)」の解説
4歳の始動戦には、共同通信杯4歳ステークス(トキノミノル記念、GIII)を選択。2か月ぶりの出走となったが、最終追い切りで馬なり調教を施すなど余力ある状態での復帰戦となった。朝日杯3歳ステークスで上位3頭が再び集まる中、2.4倍の1番人気で出走した。逃げるミュゲロワイヤルを追う好位で進んだが、追い上げることができずに後続に捕まり、モガミファニーとモガミナインにかわされて4着に敗退した。境は軽めの調教を施したことに敗因を求めていた。大川は終始、円滑に進んだにもかかわらず敗れたことから「惨敗」と評した。 皐月賞のトライアル競走である弥生賞(GII)に参戦した。境は軽めの調教で敗れた反省を生かして、4歳馬には厳しい調教を課した。最優秀3歳牡馬の座を争ったサッカーボーイの始動戦となり、初めて東西3歳王者の直接対決が実現した。サッカーボーイが1.6倍の1番人気に推され、それに次ぐ5.5倍の2番人気であった。サッカーボーイと京成杯(GIII)を制した3番人気のトウショウマリオが単枠指定となったが、サクラチヨノオーには適用されなかった。スタートから前方を進み「他の馬が行かなかった」ために仕方なく逃げ、1000メートルを1分1秒8で通過するスローペースを刻んだ。直線では単枠指定の2頭が大外から追い込んでいた。しかし、あまりに後方が迫り来ず、小島が途中で後方を振り返る余裕を見せた。結局それらに2馬身離し、逃げ切り勝利。境が「ジョッキーの作戦勝ち」と評したように、敗れたサッカーボーイの評価が揺るぐことなく、クラシックの有力馬とされていた。
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4歳(1986年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 10:24 UTC 版)
「フレッシュボイス」の記事における「4歳(1986年)」の解説
明け4歳となった1986年1月のシンザン記念で重賞初制覇。続く3月の毎日杯では季節外れの雪が降る中、ポツンと離れたしんがりを進みながらも、後に京都新聞杯を勝つタケノコマヨシに3馬身半差をつける圧勝だった。この時関西テレビ放送の杉本清アナウンサーによる「雪は止んだ、フレッシュボイス1着!」は彼の名実況の一つとして有名になった。実際、レース中(向正面→第3コーナーを通る頃)に雪は急に小降りとなっていた(ポニーキャニオン 中央競馬重賞競走ビデオ 昭和61年前期版映像より)。 こうして臨んだ皐月賞では裏街道を歩んできた印象のため、4番人気と実績のわりに人気は薄かったが、レースでは完全に抜け出したダイナコスモスを、最後方からの追い込みでクビ差まで迫り、2着となった。その後外傷を負い東京優駿(日本ダービー)は回避。秋は神戸新聞杯で復帰し4着。続く菊花賞、有馬記念ではそれぞれ6着、5着とそこそこの結果に終わった。
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4歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:52 UTC 版)
「ゼンノロブロイ」の記事における「4歳(2004年)」の解説
4歳の前半シーズン、ゼンノロブロイは初戦の日経賞で2着になったのを皮切りに天皇賞(春)2着、宝塚記念4着と勝ちきれないレースを続けた。後半シーズンに入り京都大賞典でも2着。目標としていた天皇賞(秋)に賞金不足で出走できない可能性も浮上したが最終的には出走が可能となり、1番人気に支持された。このレースをフランスから短期騎手免許で参戦したオリビエ・ペリエとのコンビで優勝しGI初制覇を成し遂げると、続くジャパンカップ、さらには有馬記念を同一チームで優勝。2000年のテイエムオペラオー以来史上2頭目の秋古馬三冠を達成し2頭目となる特別報奨金(2億円)を獲得。この年、ゼンノロブロイはサンデーサイレンス産駒として初めてJRA賞年度代表馬に選ばれた。
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4歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:50 UTC 版)
2005年初戦の大阪杯は直線だけで追い込みサンライズペガサスの2着。続いて天皇賞(春)では追い上げるもスズカマンボの5着に敗れた。次に挑んだ宝塚記念でも11番人気のスイープトウショウにクビ差及ばず2着と、春は惜しいレースが続いた。その後放牧に出されるが、管理調教師である橋口弘次郎は「放牧が明けて秋になると、春とは別の馬のように馬体が成長した」とコメントしている。 秋初戦、トライアル競走を使わずに天皇賞(秋)に出走。2004年の東京優駿と同年の有馬記念以降同馬に騎乗してきた横山典弘がゼンノロブロイに騎乗したため、短期免許で来日中のフランス人騎手のクリストフ・ルメールが騎乗し、その後も引退まで騎乗を続けた。結果はスローペースということもありヘヴンリーロマンスの6着であったが、上がりタイムの32秒8は前走敗れたスイープトウショウ(5着)と同じであり、将来への期待を失わないものだった。 続くジャパンカップは、後方から馬群を掻き分けて追い込み、ホーリックスが1989年に記録したレースレコードを0.1秒上回る2分22秒1の日本レコードタイムで入線し、イギリス調教馬のアルカセットと同タイムながらハナ差3センチの2着に敗れた。 ウィキニュースに関連記事があります。第50回有馬記念・ハーツクライ優勝 (2005年12月26日) その後ファン投票6位に推され、有馬記念への出走を決める。迎えた第50回有馬記念では、鞍上のクリストフ・ルメールがこれまでの追い込むスタイルを一転させ大胆な先行策をとって成功し、無敗で三冠を制してこのレースに臨んできた圧倒的1番人気ディープインパクトの追撃を押さえ、半馬身差で初のGI制覇を達成した。 この勝利と年間を通じてのGI戦線での活躍が評価され、JRA賞で2005年度最優秀4歳以上牡馬に選出された。また有馬記念後、橋口は翌年にハーツクライの海外遠征プランを明らかにした。
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4歳(1998年)
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「セイウンスカイ」の記事における「4歳(1998年)」の解説
1998年1月5日、中山6R芝1600mの新馬戦で鞍上に徳吉孝士を迎えてデビューする。血統が良くないことから評価は低く、またフルゲート16頭の大外枠を引いたこともあって、単勝5番人気であったが、道中3、4番手につけ第3コーナーで先頭に立つと、そのまま押し切り後続に6馬身差をつけて優勝した。 さらに続くジュニアカップでも3番人気と評価は低かったが、スピードの違いであっさり逃げを打つと、1番人気の2着メガヒットに5馬身差をつけ連勝。低評価から一変、クラシック候補へと名乗りを上げた。しかし、このレースの枠入りで、ゲート後ろで立ち止まったところをスターターにステッキで叩かれたことからゲートを嫌うようになり、後の競走生活に尾を引くことになる。 重賞初挑戦の弥生賞は、ジュニアカップ出走後から悪化したソエによる影響で、十分に調教が積めない状態での出走となった。レースではジュニアカップ同様逃げるものの、最後の坂でスペシャルウィークに半馬身差しきられて2着に敗れたが、3着までに付与される皐月賞の優先出走権を獲得する。この弥生賞以降、スペシャルウィーク、キングヘイローとあわせて、1998年牡馬クラシック戦線の3強を形成する。また、この敗戦により、それまで主戦騎手だった徳吉孝士が馬主サイドの西山茂行らの意向で鞍上から下ろされ、代わりに「開業したばかりの厩舎の主戦になってくれる騎手を」という保田の要望から横山典弘が主戦騎手となった。 3冠第1戦の皐月賞では、スペシャルウィークに続いて単勝5.4倍の2番人気に押された。枠入りでは嫌がる素振りを見せたが、道中はコウエイテンカイチを先に行かせて2番手を追走、前半の通過タイムが60秒4とよどみない流れで後続が脚を使わされているなか、第4コーナー手前で楽な手応えのまま先頭に躍り出ると、キングヘイローとスペシャルウィークの猛追を抑え一冠目を制した。西山牧場にとっては初の牡馬クラシック競走制覇であり、鞍上の横山もクラシック初制覇となった。また、調教師の保田は開業2年目のG1出走にして、初のG1制覇となった。 皐月賞後、枠入り不良で発走調教再審査となったがゲート試験を一発で合格した。また、開業2年目の保田厩舎にセイウンスカイと一緒に調教できる実力の馬がいなかったことから、横山の申し入れにより藤沢和雄厩舎のタイキエルドラドと併せ馬を行い先着、東京優駿(日本ダービー)に向けての最終調整も小西一男厩舎のスピードワールドと併せ馬を敢行した。 6月7日のダービーでは、皐月賞がフロックとみられたためか、スペシャルウィーク、キングヘイローに続く3番人気だった。レースはまずキングヘイローが逃げを打ち、セイウンスカイは2番手につけて直線を迎えた。しかし、息の入らない流れになったためか手応えがなく、一瞬先頭に立ったものの後方に控えていたスペシャルウィークに突き放され、勝ち馬から1秒遅れの4着に敗れた。 ダービー後、セイウンスカイは故郷の西山牧場で夏を過ごした。馬主の西山は天皇賞・秋への出走を視野に入れていたが、最終的には調教師の意見が通り菊花賞への出走が決まった。 セイウンスカイの秋初戦は古馬との混合重賞である京都大賞典に決まった。当時の菊花賞への王道は4歳限定の重賞競走である京都新聞杯だったが、京都新聞杯でゲート再審査となった場合に日程的に菊花賞に出走できなくなるため、セイウンスカイのゲート難を考慮して京都新聞杯より1週早く行われる古馬との一戦を選択した。この年の京都大賞典は、メジロブライト、シルクジャスティスのG1馬2頭のほか、ステイゴールドやローゼンカバリーといった強豪馬も出走しており、7頭立ての4番人気という低評価であった。レースでは、好スタートから果敢に先手を奪うと、2ハロン目から11秒0 - 11秒2のラップを刻み、その後も12秒台前半のラップで大きく後続を離して逃げる形となった。第3コーナー手前で13秒0 - 13秒5と一旦ペースを落として後続を引きつけたのち、最後の直線で再び後続を突き放し、ラスト2ハロンを11秒1 - 11秒5でまとめてこの年の春の天皇賞優勝馬メジロブライトをクビ差抑えて勝利した。 11月8日に迎えた菊花賞では、セイウンスカイは単勝4.3倍の2番人気に支持された。レースは5分のスタートから気合をつけてハナに立つと、馬の行く気に任せて前半1000メートルを59秒6という暴走ともいえるハイペースで進んだ。中間の1000メートルで64秒3と一気にペースを落とし、2週目の坂の下りから早めのスパートを仕掛けると、セーフティーリードを保ったまま最後の1000メートルを59秒3で駆け抜けて、スペシャルウィークを3馬身半離して勝利した。3000メートルの長丁場を逃げ切るのは至難の業であり、菊花賞の逃げ切り勝ちは1959年のハククラマ以来38年ぶりのことであった。また、このときの優勝タイム3分3秒2はレースレコードであり、当時の3000メートルの世界レコードでもあった。 同年末の有馬記念ではデビュー以来初の1番人気に支持されるも、荒れた馬場の内側を避けて逃げたために楽に走ることができず、同期のグラスワンダーの前に4着に敗れた。また、二冠を制していたことからJRA賞最優秀4歳牡馬への選出も期待されたが、NHKマイルカップと古馬相手のジャパンカップを優勝したエルコンドルパサーに奪われる結果となった。
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4歳(2002年)
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「ニホンピロサート」の記事における「4歳(2002年)」の解説
昇級初戦、すばるステークスは僅差の3着。次走、久々の芝のレースが初重賞となった阪急杯は14着と惨敗する。以降、芝は使われていない。続く、京葉ステークスは3着、栗東ステークス、欅ステークスと連続2着に入る。4歳の6月、降級戦となった安芸ステークスを1.4倍の断然人気に応え逃げ切る。3か月半の休養後、神無月ステークスは2着、太秦ステークスはハンデ58.5 kgを背負い、ビワシンセイキと1着同着となり、再びオープンに戻る。再昇級となった霜月ステークスは好位から抜け出し2馬身差で勝利し、連勝を飾る。次走、初の交流重賞出走となったとちぎマロニエカップは1番人気に推されるも3着に敗れる。
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4歳(1990年)
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「ダイイチルビー」の記事における「4歳(1990年)」の解説
2月25日、阪神競馬場の新馬戦(芝1600メートル)に、前年のリーディングジョッキー武豊が騎乗してデビュー。単勝オッズ1.2倍に支持された。スタートから楽にハナを奪取、そのまま先頭で直線に向いた。先頭を脅かされることなく逃げ切り、後方に5馬身差をつけて初勝利を挙げた。このパフォーマンスから桜花賞出走を視野に入れ、トライアル競走の報知杯4歳牝馬特別に登録。1勝馬でも出走の可能性はあったが、抽選で漏れてしまった。3月24日のアネモネ賞(500万円以下)にまわり、2馬身差をつけて連勝を果たした。2勝馬の身で目標の桜花賞に登録。出走できる可能性はあったが、再び抽選で漏れてしまい、出走が叶わなかった。渋々「残念桜花賞」と呼ばれていた4月8日の忘れな草賞(OP)にまわり、単枠指定の1番人気の支持されたが、重馬場に苦戦した。トーワルビーに2馬身半及ばず、2着に敗れた。 目標を桜花賞から優駿牝馬(オークス)に切り替えて関東に遠征。4月29日、東京競馬場のトライアル競走、サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別(GII)に1番人気で出走する。ここまで騎乗し続けた武が、京都競馬場の天皇賞(春)にスーパークリークで参戦したため、乗り替わりとなった。武の代打として初めに関東の若手横山典弘に騎乗依頼を行ったが、横山が先約の9番人気キョウエイタップを選択して断られていた。結局増沢末夫が起用されて参戦する。スタートから先行して好位の4番手を追走。直線で抜け出したが、道中最後方待機から追い上げた横山のキョウエイタップにゴール手前で差し切られた。クビ差及ばず2着となったが、優先出走権を確保する。 5月20日、目標の優駿牝馬(オークス)(GI)に武が舞い戻って出走。デビューから無敗の5連勝で桜花賞を制したアグネスフローラと初対決となった。河内洋騎乗のアグネスフローラが2.5倍の1番人気、6.8倍の2番人気がダイイチルビー。以下、ケリーバッグ、キョウエイタップ、ゾウゲブネメガミと続いた。2枠4番のダイイチルビーは、スタートで出遅れてしまった。後方待機から直線で追い込んだものの、6馬身以上離された5着に敗れた。この後は、荻伏牧場で休養する。 9月1日に、栗東に帰厩。トライアル競走のローズステークスから、牝馬三冠競走の最終戦・エリザベス女王杯に臨むローテーションが計画された。まず10月21日、ローズステークス(GII)に、武が騎乗して3.2倍の1番人気、優駿牝馬優勝馬エイシンサニーや、サファイヤステークス優勝馬・3連勝中の夏の上がり馬ヌエボトウショウを上回る支持を集めた。スタートから先行し、前に7番人気カツノジョオー、10番人気イクノディクタスを置く3番手を追走した。前2頭に接近しながら最終コーナーを通過、直線を向いたがそれ以降伸びなかった。カツノジョオー、イクノディクタスがそのまま逃げ切りワンツーフィニッシュ、それらに2馬身以上離された5着に敗れた。エリザベス女王杯の優先出走権を獲得したものの、11月6日、右後脚にフレグモーネを発症した。伊藤はダイイチルビーの本領発揮を翌年以降と考えて回避。年内全休となる。
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4歳(1981年)
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「メジロティターン」の記事における「4歳(1981年)」の解説
翌1981年、4歳を迎えてからデビューしたが、仕上がりが遅く惜敗を続け、初勝利までに4戦を要した。3月末の条件戦4着の後に一旦休養に入り、7月に復帰。札幌開催から伊藤正徳が騎乗して3戦1勝とした後、8月の函館開催で初めて芝の競走に出走。800万下条件戦を大差(10馬身以上)で勝利、続く条件戦のHTB賞も5馬身差で連勝した。 次走、格上挑戦でセントライト記念に出走。5番人気に支持されると、中団待機から直線で抜け出し、サンエイソロンに1馬身半差を付けて重賞初勝利を挙げた。競走15分前に管理調教師の尾形藤吉が89歳で死去しており、これが結果的に藤吉最後の重賞勝利ともなった。勝利騎手インタビューでレース内容を饒舌に語っていた伊藤は、その最中に記者から藤吉の死を知らされ、「ティターンの菊花賞も見て欲しいのに」と述べたきり絶句した。競走後、管理は藤吉の息子・盛次に引き継がれる。 名実共に4歳クラシック最終戦・菊花賞への有力候補となったが、競走後に左後脚趾骨の亀裂骨折が判明。菊花賞の断念を余儀なくされ、年内を休養に充てた。
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4歳(2003年)
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「ゴールドアリュール」の記事における「4歳(2003年)」の解説
古馬となった2月23日、中山競馬場のフェブラリーステークス(GI)で始動する。出走16頭のうち、GI級優勝馬8頭が集結し「レース史上、最も充実したメンバー」「五指に余る強豪たち」(『優駿』)と評された。そんな中、ゴールドアリュールは3.1倍の1番人気の支持だった。3.7倍の2番人気がアドマイヤドン、8倍台にビワシンセイキ、イーグルカフェ。13倍にノボトゥルー、18倍にエイシンプレストン、19倍にマイネルブライアンと続いていた。 スタートからカネツフルーヴ、スマートボーイがハナを争ったため、それらに続く3番手を追走する。最終コーナーで先頭カネツフルーヴに近づき、直線でかわして抜け出した。終始ビワシンセイキにマークされており、直線ではビワシンセイキが差を詰めてきた。やがて並ばれて競り合いに発展するも、それを制してクビ差だけ先着を果たした。3着イーグルカフェ以下には3馬身差をつける優勝だった。ダートGI級競走4勝目は、アブクマポーロに並ぶ史上最多記録。またメイセイオペラ、アグネスデジタルに次いで史上3頭目となる「JRAダートGI・統一GI双方優勝」を達成。さらに最優秀ダートホースとしては、1998年受賞2000年優勝のウイングアロー以来史上2頭目の優勝だった。 豪華メンバーのフェブラリーステークスを優勝したゴールドアリュールは、次なる目標を海外遠征、3月29日にアラブ首長国連邦・ドバイのナドアルシバ競馬場で行われるドバイワールドカップに定めていた。この当時の世界情勢、特に中東情勢が不安定な状況で開催が不透明であり、登録したものの回避する日本調教馬が続出していた。それでもゴールドアリュールは、UAEダービーに臨むユートピアとともに遠征を表明。しかし3月20日、アメリカとイギリス合同軍によるイラク攻撃が開始していた。後にイラク戦争と呼称されるこの攻撃により、世界情勢、中東情勢がさらに悪化。日本勢は、この影響で輸送用の航空便が用意できなかった。正確に言えば、経由地シンガポールからドバイに向かう航空機がキャンセルされたために遠征できなかった。アラブ首長国連邦は、イラクやアメリカと敵対関係になく、戦地イラクと距離があって安全で、無事ドバイワールドカップデーは開催されている。当日は、世界16か国の優駿が一堂に会したが、日本勢は誰も出走できなかった。 ドバイを断念したゴールドアリュールは、返す刀でアンタレスステークス(GIII)に臨む。斤量59キログラムを背負いながらも、1.4倍の1番人気の支持。同じようにドバイを断念したイーグルカフェとの対決となった。イーグルカフェは10.2倍の4番人気。2番人気はタイムパラドックス、3番人気はスマートボーイだった。スタートでは、スマートボーイがハナを奪い、それに次ぐ2番手を追走した。最終コーナーでスマートボーイをかわし、直線では突き放す一方、独走状態だった。中団から追い上げたイーグルカフェやディーエスサンダーに8馬身差をつけて入線。重賞連勝を果たした。 それから6月25日、帝王賞(GI)に臨む。ビワシンセイキ、リージェントブラフとの対決する中、1.1倍の1番人気だった。不良馬場の中、ハナを奪えず2番手、その後全く伸びず11着に敗退する。レース直後に社台ファームへ放牧に出され、検査したところ喘鳴症(ノド鳴り)であることが判明。再起を目指していたが、7月21日に症状悪化を確認し、復帰を諦めて引退となった。
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4歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:45 UTC 版)
「ドリームジャーニー」の記事における「4歳(2008年)」の解説
4月4日に栗東トレーニングセンターへ帰厩し、マイラーズカップで復帰。しかしスタートで出遅れ、14着。次走は安田記念に池添謙一の騎乗で出走するが10着だった。 8月3日の小倉記念、当初は武豊騎乗を予定していたが騎乗停止になったため、池添謙一が再び手綱を取った。レースは最後の直線に出たところで先に抜け出したダイシングロウを捉え、神戸新聞杯以来の勝利を飾った。 秋競馬の緒戦は9月15日の朝日チャレンジカップを選び、トーホウアランを3/4馬身抑えて重賞連勝を飾り、天皇賞・秋へ向けて好スタートを切る。しかし、天皇賞・秋では10着だった。12月28日の第53回有馬記念では4着だった。
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4歳(2018・19年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:04 UTC 版)
「ネイチャーストリップ」の記事における「4歳(2018・19年)」の解説
9月8日のマクエウェンステークス(G2)に1番人気で出走して、56秒95のコースレコードで逃げ切って重賞初制覇を飾った。 G1初挑戦となった9月28日のモイアステークス(G1)はレース序盤から果敢に先頭に立ったが、直線で馬群に沈み8着に敗れた。 年が明けて2月2日の競走で復帰予定だったが、ダレン・ウィアー厩舎が警察の強制調査を受けたために直前で回避し、急遽クリス・ウォーラー厩舎に転厩した。そのため9日のルビトンステークス(G2)で復帰し、圧倒的1番人気で2着に3.5馬身差で快勝した。その後は2月23日のオークリーステークス(G1)では1番人気に推されるも伸びを欠き10着に沈んだ。 3月23日のザギャラクシー(G1)でも1番人気に推され。ハナに立って粘り込みを図り、0.1馬身差しのいでG1初制覇を飾った。 その後は5月11日ドゥームベン10000(G1)に出走するも伸び切れず4着に敗れた。
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4歳(1990年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 17:58 UTC 版)
「アイネスフウジン」の記事における「4歳(1990年)」の解説
4歳となり、2月11日の共同通信杯4歳ステークス(GIII)で始動。雨が降る中8頭立てとなり、単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された。スタートから先頭に立ち、独走するとそのまま後方に3馬身離して勝利。中野は、当初控えるレースを経験させようとスタートでわざと出遅れさせたが、他の馬とスピードが違っていたために、結局逃げに出て勝利を収めていた。 続く3月4日の弥生賞(GII)では単枠指定の対象となり、1.9倍の1番人気に支持される。不良馬場であり、中でも馬場の内側が悪化している状態であった。アイネスフウジンの走法には合わない馬場状態であったため、ここで万一アイネスフウジンが走る気を失い、今後その能力を発揮できなくなることを恐れた中野は、無理をせず、状態の良い馬場の外側で進むことを決意。逃げてその通りに騎乗したが、最後の直線で差をつけることができずに失速する。残り200メートルで内からメジロライアンにかわされ、さらにツルマルミマタオー、ホワイトストーンにもかわされた4着に敗れた。 4月15日の皐月賞は、単勝オッズ4.1倍の1番人気に推された。弥生賞で敗れたメジロライアンが5.0倍の2番人気、きさらぎ賞など5連勝中のハクタイセイが5.6倍と続き「混戦」とはやされ、3頭は「三強」といわれた。 1枠2番と逃げに有利な内枠を得て、中野は「スピードが他馬とは違う。おもいきって逃げる」と宣言していた。ところが発走すると、隣の3番ホワイトストーンが内に斜行、もう片方の1番ワイルドファイアーとホワイトストーンに挟まれてぶつかる不利を受けて、十分なスタートダッシュができなかった。その間にフタバアサカゼが「捨て身の逃げ」を実行しており、届かず2番手に甘んじた。フタバアサカゼは、前半の1000メートル通過を60.2秒で通過するペースを刻み、その後さらに遅いペースを演出。アイネスフウジンには不向きの遅いペースとなってしまい、自らを抑えることができなかった。残り600メートル地点でフタバアサカゼをかわしてしまい、たまらず先頭。以降、直線で伸びず、中団からアイネスフウジンを目標にしていたハクタイセイに差し切られ、クビ差の2着となる。 レース後、敗戦から中野を降板させる声も上がったが、加藤は中野に「ダービーは勝とうな」と声をかけ、コンビ続投が決定。加藤は、アイネスフウジンにレントゲン検査をしたところ、消耗の程度が大きいことが判明、2週間の休養を与えた。
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4歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 01:53 UTC 版)
前年に続き中央のG1挑戦を続ける本馬であったが、出走条件が緩和されたわけではなかった。2005年当時、地方馬が特定のGI/JpnI競走に出走するためには、2着以内に入る必要があるステップ競走の出走が必須であった。天皇賞(春)出走を目指すには、日経賞の出走が必要だったため、五十嵐に代わり、新たに同じホッカイドウ競馬の千葉津代士が起用され、単勝1番人気で挑んだ。しかしここでも前述の掛かり癖が出てしまい、先頭で直線を迎えたものの、坂を上り切ったところで力尽きユキノサンロイヤルの6着に敗れ、天皇賞への道は閉ざされた。 その後は国内に適当なレースがないため海外に活路を求め、この年から国際レースに指定された香港のチャンピオンズマイルに出走した。地方所属馬による海外G1競走への出走は、同年ドバイワールドカップのアジュディミツオーに続いて2頭目にあたった。レースでは直線で失速し、翌年も同競走を制し連覇することとなるBullish Luckから1.7秒差の10着と大敗を喫した。続く宝塚記念では、馬体重16キロ減で臨んだ上、パドックで右前脚を落鉄するトラブルに見舞われる。レースでは逃げるも、タップダンスシチーに4コーナーで外から並びかけられると差し返す力は残っておらず、スイープトウショウの12着に終わる。 天皇賞(秋)出走のためには2着以内に入らなければならない毎日王冠では、安藤勝己を初めて鞍上に迎えた。レースでは掛かり気味に3コーナー手前で先頭に立つが、直線で伸びず11着に敗れる。その後は天皇賞(秋)と異なり、JRAが別に定める基準で選定されれば出走可能なジャパンカップへ直行した。同競走ではミルコ・デムーロとの新コンビで出走する予定だったが、デムーロの落馬負傷でダヴィ・ボニヤに乗り替わる。タップダンスシチーの作るハイペースを4番手で追走するが、見せ場は作れず、勝利したアルカセットから1.4秒差の14着に敗れた。ただ前年より速いタイムで走っていたことから、田部は「バルクの復活の手ごたえを感じた」とのちに語っている。 この年は5戦して一度も掲示板(5着以内)に載れずに第50回有馬記念を迎えることになった。1年ぶりに五十嵐が騎乗するが、単勝85.3倍の10番人気という低評価であった。だがスタートから折り合いを付けて3番手を追走すると、宝塚記念とは逆に、逃げたタップダンスシチーを4コーナーで捕らえる。その後も最後まで見せ場を作り、勝利したハーツクライから0.5秒差の4着と健闘した。
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4歳(2003年)
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「ダンツジャッジ」の記事における「4歳(2003年)」の解説
4か月後、4歳初戦となった東風ステークスは4着、ダービー卿チャレンジトロフィーは中団からレースを進め、直線で先に抜け出したマイネアイルをゴール寸前でクビ差捕らえて勝利、重賞初制覇を飾る。続く都大路ステークスはトレジャーにクビ差の2着、初のGI挑戦となった安田記念はスタート直後に鞍上の和田竜二が落馬、競走中止となる。その後は落馬のダメージはなく米子ステークスに出走し7着に敗れた。4か月後、カシオペアステークスは逃げ切ったプリサイスマシーンに続く2着、京阪杯は後方から追い込むもチアズブライトリーに4馬身離された2着となる。ディセンバーステークスは先に抜け出したユキノサンロイヤルをアタマ差交わして勝利を収めた。
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4歳(1999年)
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「アグネスワールド」の記事における「4歳(1999年)」の解説
ガーネットステークスで復帰し6着。その後は淀短距離ステークス2着、シルクロードステークス2着、高松宮記念5着と、いずれも芝1200mの競走で勝ちきれないレースが続き、距離が伸びた安田記念では8着に敗れる。安田記念から連闘で参戦した北九州短距離ステークス(オープン特別)で、芝1200mを1分6秒5という日本レコードとなるタイムで勝ちを収め、ふたたび軌道に乗り始める。 小倉日経オープンを勝利ののち、イギリスのニューマーケット競馬場、ロバート・アームストロング厩舎にドージマムテキとともに滞在し、前年滞在したシーキングザパールと同じコースで調教された。レース3日前に、ロンシャン競馬場に移動した。アベイ・ド・ロンシャン賞は、ヨーロッパのスプリント戦線の主役を張っていたディクタットやストラヴィンスキーが出走せず、14頭での争いとなった。馬券はドージマムテキと同じ馬主扱いとなり、ドージマムテキ及びアグネスワールドの単勝オッズは7.8倍の4番人気であった。アグネスワールドは好スタートから2番人気のサントマリーヌに次ぐ2番手につけて抜け出し、ゴール寸前で追い込んだインペリアルビューティを短首差退けて勝利、G1勝ちを果たした。表彰式では、馬主名義の渡辺ではなく、共同所有者の一人である吉田照哉が出席した。 帰国後はCBC賞に勝ち、続くスプリンターズステークスでは単勝1番人気に推されるもブラックホークに差され2着に終わる。
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4歳(1992年)
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「サクラバクシンオー」の記事における「4歳(1992年)」の解説
4歳となった1992年1月12日、中山開催の新馬戦・ダート1200メートルでデビュー。当日は2番人気だったが、スタートから先頭を奪うと、そのまま2着に5馬身差をつけて逃げきり、初戦での勝利を挙げた。2週間後には1600メートル戦の黒竹賞に出走。1番人気に支持されるが、スタートで後手を踏んで後方からのレース運びとなり、道中で先団へまくっていくも、直線で2番人気のマイネルコートに競り負けアタマ差の2着と敗れた。距離が1200メートルに戻った3戦目では単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持されると、2着に4馬身差をつけての逃げきりで勝利。走破タイム1分8秒8は、同日に同条件で行われた古馬(5歳以上馬)900万下条件戦のタイムを0秒3上回るものだった。 この時点で、以後は短距離路線へ集中することも考えられていたが、境と馬主の全演植が相談のうえで一度中距離以上を使ってみることで合意し、3月29日、4歳クラシック初戦・皐月賞へのトライアル競走であるスプリングステークス(1800メートル)へ出走した。当日はラジオたんぱ杯3歳ステークスの優勝馬ノーザンコンダクト、前年の朝日杯3歳ステークス優勝馬・ミホノブルボンに次ぐ3番人気に支持された。レースではスタートが切られると2番手を追走。しかし重馬場を気にしてフォームが乱れ、逃げるミホノブルボンに競りかけることもできず、4コーナーではあわや転倒しそうになるほどバランスを崩して失速していき、2着に7馬身差をつけ圧勝したミホノブルボンから3秒5差の12着と大敗した。境は戦前から「蹄の形から見ると滑る馬場は良くないかもしれない」と予想しており、鞍上・小島太の敗戦の弁も「滑る馬場で馬が夢中になり、息が入らなかった」というものであった。境は1994年の安田記念に臨む前に受けたインタビューにおいても「この馬の敵は雨なんです。綺麗に脚を伸ばして走る馬ですから、飛びに関係してきます」と語っている。また、このレースにはこの年の菊花賞でミホノブルボンの無敗の三冠制覇を阻んだライスシャワーも出走しており、同馬は4着であった。 抽選対象で皐月賞出走の可能性も残されていたが、スプリングSでの大敗によってクラシックには見切りをつけ、短距離重賞・クリスタルカップへ出走。調教不順が伝えられながらも単勝1.8倍の1番人気に推されると、2着タイトゥルーに3馬身半差を付けて逃げきり、重賞初勝利を挙げた。小島は「抜群のスタートセンスを持っているし、スピードの絶対値が違う」と称えた。続く菖蒲ステークスも逃げきって連勝したが、6月に出走したニュージーランドトロフィー4歳ステークスでは距離1600メートル、調教不順と不安材料も重なり、シンコウラブリイの7着と敗れた。 その後、夏場を休養に充てて9月に復帰したが、緒戦の京王杯オータムハンデキャップではハギノスイセイの大逃げを追走する形となって3着、続く多摩ステークスでは1000メートル通過57秒0というハイペースで飛ばした末、直線で力尽きて7着に終わる。この2戦はいずれも1600メートル戦であった。距離を1400メートルとした3戦目・キャピタルステークスでは一転して軽快な逃げから後続を寄せつけず、2着ミスタートウジンに2馬身半差、レコードタイムから0秒1差の1分21秒1というタイムで快勝した。 12月20日、スプリンターズステークスでGI競走に初出走。当日はマイルチャンピオンシップを連覇しているダイタクヘリオス、同期の桜花賞優勝馬ニシノフラワーに続く3番人気と、地味なオープン特別路線を進んできた馬としては高く評価された。レースではトモエリージェント、ユウキトップランに挟まれての先行勢に入ったが、これらが競り合って飛ばした結果、前半600メートルは32秒8という非常なハイペースとなる。最後の直線では後方に控えていたニシノフラワーが追い込んで勝利し、サクラバクシンオーは6着に終わった。この競走は1400メートル以下の距離でサクラバクシンオーが喫した唯一の敗戦である。
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4歳(1996年)
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4歳初戦のチューリップ賞では短期免許で騎乗していたオリビエ・ペリエを鞍上に迎え、2着のビワハイジに5馬身差の圧勝。この勝利で伊藤は「桜花賞、オークス、秋華賞、全部勝つぞとなった」というが、桜花賞に向けての調整中に熱発が起き、これにより桜花賞を回避した。伊藤曰く熱は上がったといっても2、3分程度だったため熱発が起きた夜には回復したが、先に情報が出回ってしまったため「無理をして出走してもいいことは一つもありません」ということで回避を決めたという。また、武によると当時の栗東トレーニングセンターでは風邪が流行っていたといい、武を鞍上に皐月賞への出走を予定していたダンスインザダークも熱発したため皐月賞を回避した。 熱発休養明けで臨んだ優駿牝馬(オークス)では1番人気に支持された。レースは最後の直線で早めに抜け出すと、桜花賞馬ファイトガリバーらの追い込みを封じてGI初勝利を挙げた。この勝利で史上2例目、42年ぶりのオークス母娘制覇を達成した。 その後は休養に入り、ステップレースには出走せずに牝馬クラシック最終戦の秋華賞に出走した。しかし、伊藤が「人間に、ここは負けられないという気持ちが強すぎた」というほど仕上げすぎたことで体調が万全ではなく、さらにパドックでのフラッシュ撮影で過敏に反応してイレ込み、返し馬でもパニック状態は収まらずに出走を迎えることとなった。レースでは好位でレースを進めたものの手ごたえが悪く、武が4コーナー手前からムチを入れなくてはならなくなるほどだった。結局ファビラスラフインの10着と惨敗し、レース後には右前脚の骨折が判明し長期離脱となった。秋華賞後に北海道の牧場で手術が施され、エアグルーヴは年内に栗東へ戻った。
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4歳(2003年)
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「ナリタセンチュリー」の記事における「4歳(2003年)」の解説
10ヶ月ぶりの復帰戦を4馬身差で勝利すると、続く昇級戦(1000万下)も勝ち、その後の特別戦(1600万下)でも3着に入ると、重賞初挑戦となる金鯱賞に向かう。単勝11番人気であったが、タップダンスシチーから0.8秒差の7着に入り、GI3勝馬のテイエムオーシャン(9着)に先着した。再び休養に入り、その間に一度勝っている1000万下に降級したが、6ヶ月半ぶりのレースとなった条件戦(1000万下)を2馬身差で勝利した。
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4歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:34 UTC 版)
「ダイワメジャー」の記事における「4歳(2005年)」の解説
手術後は休養に入り、2005年4月にダービー卿チャレンジトロフィー(GIII)で復帰。当日3番人気に推されたダイワメジャーは淀みのない流れを2番手で追走すると、最後の直線で抜け出して2着チアズブライトリーに2馬身差を付けて勝利。喘鳴症からの復活を遂げた。走破タイム1分32秒3はレースレコードであった。上原は「直線で後ろを引き離したときにはゾクゾクしました。皐月賞と同じくらい嬉しい勝利です」と語り、社台ファームの長浜卓也は「上原先生から非常に順調との連絡をもらってはいたが、どんな走りをするのかという期待よりも、どうしても不安の方が大きかった。それにしても強かった。GI馬の貫禄を見せてもらった」と語った。 その後は順調に出走を続けたが、2005年にはほかに勝利を挙げることはできなかった。秋に出走したマイルチャンピオンシップ(GI)は、2番手追走から最後の直線で抜け出し、ゴール前でかわされたハットトリックを差し返しにいくもハナ差の2着という惜敗であった。
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4歳(明け5歳も含む)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:16 UTC 版)
「ばんえい競走」の記事における「4歳(明け5歳も含む)」の解説
2006年度までは4歳世代限定のBG1競走がなく、チャンピオン決定戦が明確化されていなかったが、2007年度より(旧)旭川記念を廃止し、代わりにBG1の天馬賞を新設、チャンピオン決定戦に位置づけられた。
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4歳(1990年)
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「カミノクレッセ」の記事における「4歳(1990年)」の解説
カミノクレッセのデビュー戦は1990年2月、阪神芝1600mの新馬戦。安達昭夫が騎乗したが、2着に終わった。新馬戦後、クレッセはトウ骨に不安を抱えていたことから、脚に負担の少ないダート戦を中心に使われ、4戦目で初勝利を挙げた(この時も安達が騎乗している)。だが初勝利後、骨膜炎で秋まで休養することになる。 休養後、9月の中京競馬で復帰したクレッセは武豊とのコンビで500万下戦、900万下戦と条件戦を確実に勝ち上がり、準オープン馬まで昇格した。
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4歳(2007年)
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「ステキシンスケクン」の記事における「4歳(2007年)」の解説
長期休養明けで迎えたカシオペアステークスは9着、次のキャピタルステークスでは5着となり、尾張ステークスでは3着に入線したが、他馬の走行を妨害したため7着に降着となった。
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4歳(2005年)
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2005年初戦の1600万下条件戦は単勝1番人気に応え勝つが、続く日経賞・メトロポリタンステークスはともに3着に敗れた。しかし、目黒記念では直線での3 - 4頭の叩き合いをクビ差制し、2度目のレコードで重賞初制覇を飾る。続く札幌記念でも単勝1番人気に支持されるが、雨の影響か伸びず、ヘヴンリーロマンスの7着に敗れた。 3ヶ月ぶりのレースとなった京阪杯(京都)では、終始先行して最後の直線に入ったが、そこから伸びず11着に敗れ、続く有馬記念でも直線での不利もあって14着と大敗する(レースに関する詳細は第50回有馬記念を参照)。なお、佐藤が京阪杯と同日に東京競馬場で行われたジャパンカップダートでサンライズバッカスに、有馬記念ではタップダンスシチーに騎乗したため、この2戦は中舘英二に乗り替わりとなった。
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4歳(1954年)
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翌1954年も正月3日の初開催から始動。オープン戦勝利から、クラシック初戦の皐月賞に向けて連勝を続ける。4月4日、通算17戦目となるオープン戦勝利に至り、クリフジ、トサミドリ、ウイザートに続く11連勝を達成。そして4月18日、新記録の12連勝を懸け、本命馬として皐月賞に臨んだ。本競走で、関西に入厩していたダイナナホウシュウと初対戦となる。ダイナナホウシュウもまたデビュー以来の10連勝を続けており、同郷の東西両雄対決と注目された。当日の単勝人気はタカオー1番人気、ダイナナホウシュウ2番人気の順であったが、投じられた票数は4799対4668と、ごく僅差であった。スタートが切られるとダイナナホウシュウが先頭に立って馬群を先導、タカオーは先行集団の中を進んだ。最終コーナーにかけてタカオーは先頭を窺い進出して行ったが、直線に入りダイナナホウシュウがタカオー以下を突き放し、2着オーセイに8馬身差の圧勝。タカオーは失速し、13馬身余り離された4着に終わった。タカオーは重馬場上手の馬と見られていたが、競走後、高橋英夫は敗因として重馬場に手間取っていたと述べた。 続いて東京優駿(日本ダービー)を控え、トライアル競走のNHK盃に出走。再度の対戦となったダイナナホウシュウから離れた3番人気と評価を落としたが、スタートで出遅れた同馬を3着に退け、皐月賞の雪辱を果たす。次走のオープン戦にも勝利して東京優駿に臨み、当日はダイナナホウシュウに次ぐ2番人気に支持された。レースは重馬場の中を好位追走から、直線でダイナナホウシュウを交わして先頭に立った。しかし直後に重馬場得意のゴールデンウエーブに大外から交わされ、同馬から3馬身差の2着に終わった。 競走後、秋に備えて休養に入ったダイナナホウシュウに対し、タカオーは休みなく出走を続け、ダービー2週間後のオープン戦から8月15日の函館記念まで、3ヶ月足らずの間に9戦6勝という成績で進み、函館記念では66kgの斤量を背負いながら、コースレコードで走破した。しかし秋に入ると調子を落として連敗し、秋シーズン5戦目に出走したクラシック最後の一冠・菊花賞(11月23日)は、勝ったダイナナホウシュウから約7馬身差の4着に終わった。その後は次走の中山特別に勝利、年末のクモハタ記念を2着として4歳シーズンを終える。年頭の初開催から年末の最終開催までを走破し、当年のみで26戦15勝という成績を残した。
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4歳(1996年)
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「ロイヤルタッチ」の記事における「4歳(1996年)」の解説
4歳初戦のきさらぎ賞でもペリエが騎乗、ダンスインザダークとの一騎討ちを制し、重賞2連勝となった。 次走の若葉ステークスでは短期免許が切れたペリエが帰国したため、蛯名正義が騎乗。無敗のままクラシックロードを進むかに見えたが、重馬場の影響もありミナモトマリノスに2馬身半の差を付けられた2着と完敗、初黒星を喫した。 皐月賞では騎乗予定だった蛯名が騎乗停止中で騎乗できず、南井克巳が騎乗。弥生賞を勝利したダンスインザダークが熱発で、スプリングステークスを勝利したバブルガムフェローが骨折でともに出走を回避したため、押し出される形で1番人気になったが、イシノサンデーを捕らえ切れず2着に惜敗した。日本ダービーでも南井が騎乗して兄弟制覇を狙ったが、フサイチコンコルドの末脚になす術もなく4着に敗れ、デビュー以来初めて連対を逃した。 秋は鞍上に岡部幸雄を迎え、ライバルたちに先んじて函館記念から始動したが、古馬の壁に跳ね返されて6着に敗れ、当時菊花賞のステップレースであった京都新聞杯でもダンスインザダークに完敗。そして、菊花賞でもダンスインザダークの鬼脚に屈し2着に敗れ、結局クラシックを1つも勝つ事ができなかった。 年末の有馬記念では、この年の三冠を走った馬として唯一出走。2歳上のサクラローレル、1歳上のマーベラスサンデー、マイネルブリッジに次ぐ4着と健闘した。
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4歳(1972年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:51 UTC 版)
「ランドプリンス」の記事における「4歳(1972年)」の解説
明けて4歳となったランドプリンスは、呉竹賞・ジュニヤーカップ・オープン・さざんか賞(いずれも京都)を4連勝し、クラシック戦線に加わるために東上することとなった。なお1972年は前年末より関東地区で大流行した馬インフルエンザの影響により、関東地区の中央競馬開催が2ヶ月間中止された。このため同年春のクラシック戦線も日程が大幅に変更され、5月28日に皐月賞、7月9日に日本ダービーが行われることとなった。 東上初戦の3月19日の京成杯では、前年の阪神3歳ステークス優勝馬で4連勝中のヒデハヤテに敗れ、1馬身4分の3差の2着に終わった。その後は4月29日のオープン(東京)と5月14日の弥生賞に出走したが、いずれもロングエースに敗れ2着に終わった。 5月28日の皐月賞ではデビューから5連勝中のロングエースが1番人気となり、タイテエムが続き、上記2頭をランドプリンスと関東所属のイシノヒカルが追う図式となった。レースでは先行するロングエースとそれをマークするタイテエムに対し、ランドプリンスは馬群の中に控え、直線に入って内を突き先頭に立った。外からロングエースが追ってくるものの伸びきれず、代わって後方からイシノヒカルが大外を追い込んできたが、ランドプリンスがイシノヒカルを半馬身抑えて勝利した。 その後当馬は6月17日のオープン(東京)に出走し、スガノホマレの2着となった。7月9日の日本ダービーでは、皐月賞からの直行となったロングエースが引き続き1番人気となり、差のない2番人気に当馬、3番人気がタイテエムとなった。レースでは直線を向いてタイテエムが早目に先頭に立ち、外から当馬が接近するが、タイテエムの内からロングエースが追い込み、人気上位三頭の争いとなった。最後はロングエースが首差で当馬を抑えて2分28秒6のレコードタイムで優勝し、タイテエムが3着に入った。 ランドプリンスは10月1日の神戸新聞杯から秋のレースを開始した。ここで本馬は1番人気に支持されるが、タイテエムに敗れ2着であった。続く10月22日の京都新聞杯でも引き続き1番人気に推されたが、またもタイテエムに敗れ4着に終わった。11月12日の菊花賞では1番人気がタイテエム、2番人気が本馬、3番人気がロングエースであったが、レースではイシノヒカルがタイテエムを大外から抜き去り優勝し、本馬は4着に終わった。
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4歳(1978年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:27 UTC 版)
「バンブトンコート」の記事における「4歳(1978年)」の解説
2月8日、福島県いわき市の競走馬総合研究所常盤支所にある温泉に移動し、3月27日に栗東に戻った。皐月賞を回避し、東京優駿を目標に据えた。4月17日に東京へ入厩し、追い切りが再開。5月14日に東京で行われたオープン特別で5ヶ月ぶりに復帰し、馬体重が絞り切れず、太めで出走した。逃げ粘るメジロホークとミノルジンデンを捕らえるのに苦労したが、残り100mから馬場の内から伸びて5連勝となった。 続く東京優駿では1番人気に支持され、調教を経て状態は良化し、あばらが見えるほどの「絶好調」な状態で出走した。メジロイーグルがハイペースで逃げを展開し、バンブトンコートは2、3番手の好位に位置した。メジロイーグルが最後の直線コース中間まで粘り、それにバンブトンコートや、アグネスホープ、サクラショウリが争いに加わり4頭が横一線になって競り合った。アグネスホープとバンブトンコートの進路が狭くなって後退、代わってサクラショウリが伸びて勝った。バンブトンコートは、追い込んだカンパーリに差される4着に敗れた。 夏の函館記念でトップハンデを背負いながらも、メジロイーグルやファンタストを相手に勝利。秋の始動戦である神戸新聞杯では河内洋に乗り替わり、函館記念から馬体重を16kg増やしながらも勝利し、重賞を連勝した。菊花賞トライアルの京都新聞杯では、サクラショウリと共に単枠指定となった。バンブトンコートと同厩のメジロイーグルに逃げ切りを許し、6着と初めて掲示板を外した。本番の菊花賞でもサクラショウリとともに単枠指定となったが、7着に敗れた。 菊花賞の後、左トモの状態が悪く、再びいわきの温泉に向かった。
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4歳(1978年)
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「シアトルスルー」の記事における「4歳(1978年)」の解説
シアトルスルーが前年に発症した高熱から完全に立ち直ったのは1978年1月のことであった。 5月にアケダクト競馬場のレースに出走して優勝したあと3か月間休養を取り、8月から本格的にレースに復帰した。初戦を勝ち2戦目のG2パターソンハンデキャップで2着に敗れたあと、G1マルボロカップで1歳年下の三冠馬アファームドと対戦。三冠馬が同じレースで対戦するのはアメリカ競馬史上初のことであった。シアトルスルーにはアファームドより約1.8kg重い斤量が課せられたが、アファームドに3馬身の着差をつけて優勝した。 続いてG1ウッドワードステークスでヨーロッパから移籍したエクセラーと対戦し、4馬身の着差をつけベルモントパーク競馬場ダート2000メートルのコースレコードを記録して優勝した。ウッドワードステークスの2週間後、G1ジョッキークラブゴールドカップステークスでアファームド、エクセラーと再び対戦した。このレースでシアトルスルーは非常に速いペースで逃げたが、後半にペースを落とした隙に後方に待機していたエクセラーに並ばれ、接戦の末ハナ差で2着に敗れた。アファームドは5着に敗れた。 その後G3のスタイヴサントハンデキャップを勝ったのを最後に競走馬を引退した。この年のエクリプス賞では年度代表馬には選ばれなかった(選出されたのはアファームド)が、最優秀古馬のタイトルを獲得した。
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4歳(1980年)
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「サクラシンゲキ」の記事における「4歳(1980年)」の解説
1月26日、東京競馬場のオープン競走で復帰。以降、弥生賞や皐月賞にも挑戦したがいずれも敗れて4連敗。その後5月3日、東京競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で復帰後初勝利を挙げた後には、東京優駿(日本ダービー)にも挑戦した。東京優駿ではハナを奪って逃げ、最後の直線半ばまで先頭を保ち続けて4着となった。騎乗した小島太は「日本中の目が逃げたオレの馬に集中したはずだ。よく粘ったよ。」と振り返った。 一休みして秋は、9月7日の京王杯オータムハンデキャップで復帰、1番人気で出走した。再び逃げてスローペースを演出すると、後続の追い上げなくそのまま逃げ切り勝利。後方に2馬身半離して、1年振りの重賞勝利を果たした。快勝したことに全は、セントライト記念の結果次第で菊花賞に出走することを決意した。しかし、セントライト記念ではキタノリキオ―にハナを奪われ逃げることができず、5着に敗退、菊花賞参戦は幻になった。その後、オールカマーやダービー卿チャレンジトロフィーと連戦するも、勝利には至らず。中山競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で逃げ切り勝利したのち、有馬記念に参戦。プリテイキャストを上回る逃げを展開したが、オーバーペースとなり10着に敗退した。
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4歳(2010年)
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「フェイムアンドグローリー」の記事における「4歳(2010年)」の解説
休養を終えて4月11日のアレッジドステークスに出走したが、3着に敗れた。続く5月3日のムーアズブリッジステークス (G3) では2着馬に5馬身差をつけ圧勝した。5月23日のタタソールズゴールドカップでは単勝1.5倍の圧倒的1番人気に推され、レースでは2着馬に7馬身差の圧勝劇を演じ、G1競走3勝目を挙げた。6月4日のコロネーションカップでは2番手追走から楽に抜け出し、サリスカを1馬身半突き放して快勝、G1競走4勝目を挙げた。8月8日のロイヤルウィップステークス (G2) では後続に3馬身半差をつけ勝利し、格の違いを見せ付けた。しかし本番の凱旋門賞ではワークフォースの5着に敗れた。
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4歳(2019・20年)
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「ベリーエレガント」の記事における「4歳(2019・20年)」の解説
8月24日のウィンクスステークスで復帰するものの9着、9月21日のジョージメインステークスも4着と振るわなかったが、10月5日のヒルステークス(G2)を勝利した。その後、26日のコックスプレートに出走したが、リスグラシューから約10馬身離された12着に敗れた。 4ヶ月の休養後、2月15日のアポロステークス(G2)で復帰し4着、29日のチッピングノートンステークスと3月21日のランヴェットステークスを2着と好走し、連闘で挑んだタンクレッドステークスでG1・3勝目を挙げた。その後、4月11日のクイーンエリザベスステークスで2着に入り4歳シーズンを終えた。
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4歳(1982年)
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「ハギノカムイオー」の記事における「4歳(1982年)」の解説
1月31日、京都競馬場の新馬戦で改めてデビューを迎え、鞍上には伊藤の娘婿であり、トップレディの主戦騎手も務める伊藤清章が配された。当日はおよそ100人の報道カメラマンが揃い、また新馬戦ながら音声実況によって関東の競馬場にも中継された。レースはスタート直後から他馬を引き離すと、そのままゴールまで逃げ切り、2着に7馬身差を付けての初戦勝利を収めた。新馬戦を制したのみにも関わらず、翌日のスポーツ新聞各紙はこの勝利を一面で報じた。 次走はクラシック初戦の皐月賞に備えて東上し、400万下の桜草特別に出走。このレースでも2着に3馬身の差を付けて快勝した。なお、このレースは条件戦にも係わらず当初、準メインレースとして組まれていたが、当日になってメインレースに変更されている。[要出典]特定の馬のために番組変更を行った例はこれ以外にない。 無傷の2連勝を挙げたカムイオーは中1週で皐月賞トライアルのスプリングステークスに出走。これがカムイオーの初の重賞挑戦となり、重賞2連勝中の巨漢サルノキングと対戦した。同馬は前二走でカムイオーと同じく逃げ切り勝利を収めており、どちらが先手を取るかが戦前の注目のひとつであった。しかし、スタート直後から明確に先頭を奪いに行ったカムイオーに対し、サルノキングは騎手の田原成貴が手綱を抑えて後方を追走、道中では馬群から20馬身離れた最後方を進んだ。その後サルノキングは第2コーナーから突然加速しながら先行集団に追い付いたが、最後の直線で失速、結局カムイオーがゴールまで逃げ切り、3連勝で重賞初勝利を挙げた。一方でサルノキング田原の騎乗は批判を浴び、またサルノキングがカムイオーと同じく中村和夫の所有馬であったことから、八百長ではないかとの疑惑も持ち上がった(詳細はサルノキング事件参照)。 騒動の後に迎えた皐月賞では1番人気に支持されたが、戦前から「逃げ宣言」をしていた加賀武見騎乗のゲイルスポートに先頭を奪われると、同馬と競り合っての前半600メートル通過は34秒9と、皐月賞史上最速のペースとなった。この結果、第3コーナーでゲイルスポートともども失速、アズマハンターの16着と大敗した。東京優駿(日本ダービー)に向けて出走したNHK杯(ダービートライアル)もゲイルスポートに執拗に絡まれ、12着と大敗した。これを受けて陣営はダービー出走を断念し、カムイオーは荻伏牧場で休養に入った。ゲイルスポートは最終的に条件馬のまま終わったが、これらの経緯から「カムイオーの天敵」として名を残している。 秋は菊花賞を目標に神戸新聞杯から復帰、日本ダービー優勝馬のバンブーアトラスを3着に退け、逃げ切りでの勝利を収めた。続く京都新聞杯(菊花賞トライアル)では初めて道中2番手に控えると、直線で抜け出して優勝した。重賞2連勝と、前走のレース振りから2番手以下に控えるレースも可能になったと見られ、迎えた菊花賞では1番人気に支持された。レースではスタートから先頭を奪うと、1000m通過59秒5というハイペースで、後続を10馬身以上引き離す大逃げを打ったが第3コーナーで急激に失速し、15着と惨敗した。カムイオーのハイペースに引っ張られ、優勝馬ホリスキーの走破タイム3分5秒4は芝3000mの世界レコードタイム(当時)となった。
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4歳(2004年)
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「ハードクリスタル」の記事における「4歳(2004年)」の解説
8か月の長期休養明けは北海道に滞在。4歳初戦は3歳以上500万下を好位から抜け出し勝利すると続く恵山特別は後方からクビ差差し切り連勝を飾る。渡島特別はクビ差捕らえきれず2着に敗れる。1.7倍の人気に推された羊蹄山特別は4着、続く北斗賞はダンツエナジーにクビ差で敗れる。北海道での滞在競馬6戦目となったオホーツクハンデキャップをトップハンデ57.5㎏を背負いながら後続に4馬身差をつけ圧勝する。昇級初戦、赤富士ステークスはワイルドソルジャーをクビ差交わして連勝でオープンに昇級する。いきなりGI挑戦となったジャパンカップダートは8着に敗れた。
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4歳(2010年)
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「レインボーヴュー」の記事における「4歳(2010年)」の解説
アメリカに移籍し、移籍緒戦となった4月16日の一般競走と5月15日のギャロレットハンデキャップ (G3) ではともに1番人気で勝利を収めた。その後カナダに遠征し、6月5日のナッソーステークス (G2) に出走したが3着、7月17日のモデスティハンデキャップ (G3) では4着に敗れた。
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4歳(1992年)
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「シンコウラブリイ」の記事における「4歳(1992年)」の解説
外国産馬は桜花賞、優駿牝馬(オークス)の出走が不可能だったため、4歳となってもしばらく出走せず、長期休養となった。5月23日、牝馬限定競走のカーネーションカップ(OP)で半年ぶりの復帰。参戦直前に砂浴びを行ったところ、自らの脚で蹄底に傷をつけた。直ちに治療する必要があったが、春闘の厩務員ストライキとの関係のために適切な治療ができず、完治していない状態ながら1番人気で出走。出遅れや折り合いを欠いたことで、直線全く伸びず、6着に敗れた。続いて、春の目標に据えていた6月7日のニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GII)に参戦。出走10頭の中から、京都4歳特別(GIII)など重賞3勝を含む4連勝中の外国産馬、ヒシマサルが1.7倍の1番人気に推された。同じく外国産馬で京成杯(GIII)を制したエーピージェットが2番人気、クリスタルカップ(GIII)を制し、菖蒲ステークスではエーピージェットを下した2連勝中の内国産馬サクラバクシンオーが3番人気と続き、シンコウラブリイは11.4倍の4番人気の支持であった。スタートから2番手を保ち、直線ではサクラバクシンオーが逃げて直線で失速するのを尻目に先頭に立ち、追い上げるヒシマサルに1馬身半差離して、先頭で入線。重賞初制覇となり、厩舎開業5年目の藤沢にとっても初の重賞タイトルとなった。それから、外国産馬の出走が本年から解禁となっていたラジオたんぱ賞(GIII)に出走。鞍上は3戦連続で騎乗した岡部から、坂本に戻り、1番人気に推された。逃げた2頭から離れた3番手で進み、第3コーナーから前2頭に接近。最後の200メートルで抜け出して差を広げ、後続に2馬身半離して勝利した。 3か月の休養を経て、10月4日のクイーンステークス(GIII)に再び岡部とともに出走。2000メートル及び中山競馬場初参戦だったが1番人気に推された。2番手を保ち直線で抜け出すと、後方に3馬身離して勝利、重賞3連勝とった。その後は、4歳牝馬の目標であるエリザベス女王杯に進むと考えられていた。エリザベス女王杯は、外国産馬のシンコウラブリイが、牝馬三冠の中で唯一出走可能な競走であったが、藤沢はジャパンカップ(GI)を目標に設定。それに向けて、エリザベス女王杯と同じ日に行われる富士ステークス(OP)に参戦することを決めた。この決定は「批判的な眼で眺める向きも少なくなかった」(阿部珠樹)という。 富士ステークスは馬なりの状態のまま、1.3倍の1番人気に応えて勝利。岡部はジャパンカップでも期待できると発言したが、藤沢はシンコウラブリイの適性がやはり短中距離にあると見極め、芝2400メートルで行われるジャパンカップへの出走を断念。急遽、連闘でマイルチャンピオンシップ(GI)に出走、この藤沢の采配は「ジャパンカップ出走を表明した時よりもさらに大きな疑問の声があがった」(阿部珠樹)という。4.1倍の1番人気に推された。スタート直後は8番手につけ、中途で好位まで押し上げて追走。最終コーナーでは内を突き追い上げたが、逃げる2番人気のダイタクヘリオスを捉えることはできず、1馬身半差の2着となった。
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4歳(2006年)
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「トウカイトリック」の記事における「4歳(2006年)」の解説
2006年3月19日の「第54回阪神大賞典」でディープインパクトと再対戦を迎え、トウカイトリックは逃げを打つも、ディープインパクトに3馬身以上千切られ2着におさまった。更には初のGI挑戦となった4月30日の「第133回天皇賞(春)」でもディープインパクトと対戦、他にもリンカーンやデルタブルース、ローゼンクロイツやアイポッパーが出走するなか、トウカイトリックの結果は5番人気の9着に終わった。 12月2日に「第40回ステイヤーズステークス」へ出走、トウカイトリックが「ステイヤーズステークス」へ挑戦する初めての競走となった。ファストタテヤマやチャクラが出走するなか、2番人気に据えられたが、1番人気アイポッパーの3馬身差に敗れた。
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4歳(1985年)
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「プレシジョニスト」の記事における「4歳(1985年)」の解説
4歳シーズンは1月末のサンフェルナンドステークス(英語版)(G1・D9F)から始動。2.7倍で1番人気に押される。2番人気はゲートダンサー。スタートから逃げたプレシジョニストはそのまま2着グレイントンに4馬身差を着けての逃げ切り勝ち(ゲートダンサーはグレイントンに首差の3着)。G1競走2勝目を挙げた。 更にストラブ三冠をかけてストラブステークスに出走。ゲートダンサー・グレイトンとの再戦になるも再び2.1倍の1番人気・2番人気は同じくゲートダンサー。再びプレシジョニストが逃げ、道中では前走と同じように差を広げたもののグレイントンが差を詰めてきて直線では並びかけ、さらにゲートダンサーも追い込んできてゴール前で激しい争いになる。ほとんど並んだところでゴール。2頭から1/2馬身差の3着にゲートダンサーが入った。写真判定の結果はハナ差でプレシジョニストの勝利。ストラブシリーズのスイープを達成した(史上5頭目)。 しかしストラブステークス勝利の一週間後、プレシジョニストはせき込むようになり、調教が遅れたためサンタアニタハンデキャップは回避。3月のポトレログランデハンデキャップ(英語版)(LS・D6.5F)に出走。当然の一番人気であったが6着最下位に敗北。4月のサンバーナーディノH(G2・D9F)ではグレイントンとの再戦になり、7ポンドのハンデ差もあり首差の2着に敗れる。翌5月のマーヴィンルロイハンデキャップ(G2・D8F)でもグレイントンとの勝負となるが、今度はグレイントンに4馬身差・1.32.8のコースレコードでの快勝となった。 そして6月の カリフォルニアンS(G1・D8F)に出走。プレシジョニストが126ポンドのトップハンデ・1.6倍で1番人気、グレイントンが119ポンド・3.8倍の2番人気、サンタアニタハンデの勝ち馬ロードアットウォーが126ポンド・4倍の3番人気でレースは始まった。逃げるロードアットウォー、二番手で追走するプレシジョニストだったが直線でグレイントンが前に出てそのままゴールを駆け抜け、プレシジョニストはグレイントンから2 3/4馬身差の2着に敗れた。 同月末のハリウッド金杯(G1・D10F)でもプレシジョニストの前にグレイントンが立ちふさがる。プレシジョニストが125ポンド・2倍の1番人気、グレイントンは120ポンド・2.2倍の2番人気。レースは逃げるプレシジョニスト・2番手で追うグレイントン。直線でグレイントンに抜かれ、1 3/4馬身差の2着に終わる。 その後は脚部不安を生じたために休養に入るも復帰が長引き、アケダクト競馬場で開かれたブリーダーズカップ・スプリント(G1・6F)への直行となった。グレードレースを2連勝してきたマウントリヴァーモア(英語版)とパンチョビラのカップリングが4倍で1番人気、前年のBCスプリント3着馬のファイティングフィットが同じく1番人気、ぶっつけでしかも久しぶりの6ハロンということでプレシジョニストは4.4倍の4番人気に留まった。レースはマウントリヴァーモアと5番人気のスマイルが先頭集団を作り、プレシジョニストは3番手追走。直線に入っても前の2頭が競り合っていたが、プレシジョニストが差を詰めていき、スマイルを3/4馬身差し切って勝利。 その後、11月末のナショナルスプリントチャンピオンシップ(G3・D6F)に出走するも4着に敗れる。4歳時は9戦4勝、BCスプリント勝利が評価されてエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれた。
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4歳(1980年)
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「ジュウジアロー」の記事における「4歳(1980年)」の解説
明けて4歳となり、中山のオープン特別・新春4歳牝馬ステークスを4着と好走。次走は東京競馬場のうぐいす賞を順当に勝ち上がる。レース後安田富男騎手は「ダートは初めてだったけど調教の動きから心配してなかった」と大喜びした。続くクイーンカップ7着の後、条件戦を使うがダートのため差し届かず2着。当時関東での残念桜花賞であるフラワーカップに駒を進める。レースは発走後は外、向正で内に入れ4角まで内をピッタリ通ると素晴らしい手応えで直線に向き追うごとにグイグイと伸びて見事に勝利した。その後、オークストライアルの4歳牝馬特別もコマサツキの2着とし優駿牝馬でも4着と好走した。 その実績が買われ福島競馬場で行なわれたラジオたんぱ賞では2番人気に支持されたが人気には応えられず夏場は休養に入った。秋初戦のクイーンステークスは4着。そして中1週で無謀とも言えそうな牡馬相手のセントライト記念に挑戦することになる。このレースにはサクラシンゲキ、キタノリキオーとこの世代を代表する逃げ馬がいた。レースではこの両頭がお互いを牽制したのかスローペースとなり、1コーナではなんとジュウジアローが先頭に立ちレースを引っ張る形になった。直線に入っても逃げ続け、ゴール近くになりドロッポロード、モンテプリンス等に交わされたが、4着と大健闘した。 この実績があったのか次走の古牝馬相手の牝馬東タイ杯は4番人気の支持となった。レースは安田富騎手のグリーングラスの菊花賞を彷彿させ、直線でインを強襲して2着スパートリドンに3馬身半差で初の重賞勝利を果たした。レース後安田富騎手は「外に出せなかったこともあるけど、直線の内は馬場がそんなに悪くないことを知ってたからね。同期のフトシ(小島太騎手)にだけは負けたくないと思っていたが、巧くいったなあ。」と言って白い歯を見せた。 翌エリザベス女王杯は、担当厩務員によると輸送に弱いタイプ、カイバ食いが落ちるとレース前にコメント。それもあってか4着に終わる。
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4歳(2007年)
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「アドマイヤムーン」の記事における「4歳(2007年)」の解説
2007年は京都記念からスタートした。59kgの斤量を背負い、また有馬記念2着のポップロックが出走したこともあってポップロックに次ぐ2番人気に留まった。しかしレースでは中団から鋭く伸び、最後はポップロックの追い込みをクビ差だけ粘り切り勝利を収めた。 その後ドバイデューティーフリーに出走し、ダイワメジャーやこの年のブリーダーズカップ・ターフを制するイングリッシュチャンネル、リンガリといった強豪を抑えて勝利。悲願のG1初制覇は海外遠征によるもので、このレースでのレーティングは125ポンドと評価された。その後、日本では未だ異例とも言える海外を転戦するローテーションを組み、ドバイから日本へは戻らず直接香港に移動し、香港G1・クイーンエリザベス2世カップに出走した。しかし、後方から追い込むもスローペースのレース展開があわず、3着に終わる。 帰国後は第48回宝塚記念に向け調整が進められたが武豊の降板が決定し、岩田康誠への乗り替りとなった(それまでの主戦騎手だった武豊はポップロックに騎乗した)。道中はメイショウサムソンをマークする形で中団を進み最後の直線ではいち早く抜け出していたメイショウサムソンが馬体を合わせてきたが、残り100mあたりで振り切りメイショウサムソンに1/2馬身差をつけて勝利。国内GI初制覇を果たすと共に、皐月賞と日本ダービーで苦杯をなめさせらたメイショウサムソンに雪辱を果たした。レースでのレーティングは前年の覇者ディープインパクトと同じ124ポンドと評価された。また、8月11日に発表されたJPNサラブレッドランキングの2007年度上半期において125ポンド(Mile)の評価を得た。 レース後、天皇賞(秋)を目指して山元トレーニングセンターに放牧中だった7月27日に「ダーレー・グループ」の日本法人であるダーレー・ジャパンへと所有権が移転されたことが明らかとなり、8月9日に所有権の移譲が日本中央競馬会によって行われた。日本国内での馬主変更という形となり、厩舎は松田博資厩舎所属のままとなった。8月26日には前哨戦を使わずに第136回天皇賞へ直行することが発表された。当馬はその後ノーザンファームに移動し、9月14日に帰厩した。10月12日に発表されたトップ50ワールドリーディングホースでは、宝塚記念を制したことにより122ポンドの評価を得て15位タイとなった。なお、前年と同じく香港カップに予備登録を行っていたが、10月23日に馬インフルエンザの影響で検疫期間が1ヶ月かかることから回避することとなった。 そして迎えた天皇賞(秋)では4ヶ月ぶりの実戦ながら2番人気に支持され、鞍上にかつての主戦騎手・武豊を迎えたメイショウサムソンとの今年2度目の対決であったが、直線で他馬からの走行妨害があったことも響き6着という結果に終わり、圧勝したメイショウサムソンとは対照的な結果となった。 レースの後の10月31日、2008年からダーレー・ジャパン・スタリオン・コンプレックスにて種牡馬入りし、初年度の種付料が同場最高額の500万円(受胎確認後9月末日支払い、フリーリターン特約付き)となることが発表された。また、天皇賞(秋)で他馬と接触した影響がなかったことから、11月25日のジャパンカップに出走することが発表された。11月4日に発表されたトップ50ワールドリーディングホースでは、前回と同じ122ポンドの評価を得たが、順位は17位タイとなった。 ジャパンカップでは前走敗れたことや、距離不安をささやかれていたこともあり5番人気にとどまる。掛かったことも影響してか道中は普段よりも前方でレースを進め、ロスの少ない内側を通って直線で早めに先頭に立つと、最後はポップロックの追撃をアタマで差しのぎ勝利を飾った。 レース後、このレースをもって現役を引退することが発表され、2007年12月4日付で競走馬登録を抹消、12月5日に北海道のダーレー・ジャパン・スタリオン・コンプレックスに移動した。なお、ダーレー・ジャパン・ファームは引退発表後の11月28日付で中央競馬の馬主登録抹消手続きを行っている。ちなみに、出走に至らなかったが、12月6日に発表された有馬記念ファン投票の最終結果で5位となる6万4886票を獲得した。 11月29日に発表された重賞・オープン特別競走レーティングでは、ジャパンカップを制したことにより123ポンドの評価を得た。さらに11月30日に発表されたトップ50ワールドリーディングホースでは、日本馬のなかで最高位となる123ポンドの評価を得て11位タイとなった。
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4歳(2008年)
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「スクリーンヒーロー」の記事における「4歳(2008年)」の解説
療養中の2008年3月、矢野進調教師の定年引退により鹿戸雄一厩舎へ転厩。8月の支笏湖特別(札幌、芝2600m)でおよそ1年ぶりに復帰し、1番人気で勝利を挙げる。続く2戦はいずれも2着に敗れるが、格上挑戦で挑んだ11月9日のアルゼンチン共和国杯で重賞初勝利を挙げた。 3週間後の11月30日、GI初挑戦となるジャパンカップに新たな鞍上としてミルコ・デムーロを迎えて出走した。同年のダービー馬のディープスカイ、第138回天皇賞でダイワスカーレットとの激闘を制しこのジャパンカップに出走してきたウオッカ、GI4勝のメイショウサムソンらが人気を集める中、スクリーンヒーローは単勝41倍、9番人気の伏兵だった。レースは前半1000メートル通過が61秒8というスローペースとなり、3、4番手を進んだウオッカは掛かり気味に。道中行きたがる素振りを見せる馬が多い中、スクリーンヒーローはスムーズに好位を追走。直線で先頭に立つと、外から追い込んできたディープスカイを半馬身抑えて優勝した。 その後の有馬記念ではダイワスカーレットの5着に敗れるが、この年の活躍を評価されJRA賞最優秀4歳以上牡馬に選出された。また、鹿戸は翌年のドバイシーマクラシックやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスなど、複数の海外遠征を示唆していた。
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4歳(1976年)
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「トウショウボーイ」の記事における「4歳(1976年)」の解説
初戦は4歳を迎えた1976年1月31日、東京競馬場の新馬戦で迎えた。直前の調教では1600mを1分45秒で走るという当時の新馬としては破格のタイムを記録し、素質馬として注目を集めていた。当日は1番人気に支持されると、池上昌弘を鞍上にスタートから逃げ切り、2着のローヤルセイカンに3馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。この競走には後にTTGの一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)と、後にミスターシービーを産むシービークイン(5着)が出走しており、「伝説の新馬戦」としてしばしば語られる。 続くつくし賞(2月22日)、れんげ賞(3月20日)もそれぞれ4、5馬身差で連勝。同時期、関西では3歳王者決定戦の阪神3歳ステークスを含めて5戦5勝という成績を挙げていたテンポイントがクラシックへの最有力馬と目されており、これに対してトウショウボーイは関東所属馬の筆頭格とされた。しかし、テンポイントが4歳となって出走した東京4歳ステークス、スプリングステークスはいずれも僅差での勝利で、スプリングステークスのレース後に2着のメジロサガミに騎乗していた横山富雄が「テンポイントは怪物ではない」というコメントを残し、関東の関係者の間でも「これならトウショウボーイのほうが強い」という声が多くなっていた。保田は3戦目のれんげ賞のレース後に「テンポイントには今の時点ではかなわないかもしれないが、絶対負かせない相手ではないと思う」とコメントしている。 当年の皐月賞は4月18日に例年開催の中山競馬場で施行される予定だったが、これが春闘の最中に当たり、開催3日前に厩務員組合と調教師会の交渉が決裂。組合側がストライキを宣言して開催は順延となり、翌週25日に東京競馬場で行われる運びとなった。これで調整に狂いが生じたテンポイント陣営に対し、トウショウボーイは順調に競走当日を迎えた。戦前からトウショウボーイとテンポイントの初対決は「TT対決」として注目を集め、当日はテンポイントが1番人気に支持され、トウショウボーイは2番人気であったが、レースでは先行策から最後の直線半ばで抜け出すと、池上がほとんど手綱を動かすことなく2着のテンポイントに5馬身差を付けての圧勝を収めた。走破タイム2分1秒6は、同じく東京開催で行われた第34回競走(1974年)において、同じテスコボーイ産駒のキタノカチドキが記録したタイムを0秒1更新するレースレコードであった。またキャリア3戦での皐月賞勝利は1965年のチトセオー以来11年ぶり2頭目、5馬身もの大差をつけての勝利は1960年の皐月賞を6馬身差をつけて勝利したコダマ以来16年ぶりのことであった。 卓越したスピードを披露したものの、首を低く下げて走る走法はあまり速く見えず、まるで脚とは別に翼がついているようだということで、競走後にはマスコミから「天馬」との異名を付され、以後これが定着した。厩舎関係者の間からは「十年に一頭の馬」、「戦後最高の馬かもしれない」という評価も出るようになり、競走後のスポーツ紙はトウショウボーイ一色となり、「三冠馬」という見出しで報じたものもあった。調教師の尾形藤吉は「故障のない限り三冠を取れる」と断言し、藤本冨良は「あの馬を負かしにかかったら惨敗をまぬかれない」と語った。 皐月賞の圧勝を受け、東京優駿(日本ダービー)当日は単枠指定(シード)を受け、45%の単勝支持を受けた。レースでは逃げ戦法を採る馬がおらず、押し出されるように道中では先頭を走り、余裕のある手応えで最終コーナーを回った。しかし直線入り口の地点で、クライムカイザー鞍上の加賀武見が「馬体を併せられると怯む」というトウショウボーイの弱点を突き、その外側から進路を横切るように内側へ抜け出す。怯んだトウショウボーイは残り200m地点で4馬身の差を付けられ、態勢を立て直して追走するも届かず、1馬身半差の2着に敗れた。加賀の騎乗は進路妨害と映ったが、しかし充分に間隔を取っての騎乗と認められ、加賀への制裁・戒告は行われなかった。大川慶次郎はトウショウボーイの敗因として、初めてスタンド前の大観衆の前を通って落ち着きを失ったこと、さらにスタート直後にアカバテンリュウが執拗に絡んできたことでひどく掛かり気味で先頭に立っていたことを挙げ、「『ダービーというレースそのもの』に負けてしまいました」と述べている。なお、テンポイントはレース中に骨折していたことで7着に敗れている。 北海道に戻り1ヶ月の休養後、7月11日に札幌記念に出走。これに併せてクライムカイザーも出走馬に加わったことで大きな話題を集め、当時ダートコースしか備えていなかった札幌競馬場には、入場人員記録となる60,549人のファンが訪れた。トウショウボーイは1番人気の支持を受けたが、スタートで立ち後れて後方からのレース運びとなり、最後の直線では追い込みを見せながらグレートセイカンにクビ差届かず、再度の2着に終わった。ダービーに続く敗戦の責を負う形で、この競走を最後に池上は降板となった。 クラシック最後の一冠・菊花賞に向け、秋は神戸新聞杯から始動。当時「天才」と称されていた福永洋一を新たな鞍上に迎えた。レースは先行策から直線入り口で抜け出すと、クライムカイザーに5馬身差を付けて圧勝。1分58秒9は芝2000mの日本レコードタイムであり、日本競馬史上初めてとなる1分58秒台の記録だった。それまでのレコードはシルバーランドが記録した1分59秒9であり、これを一挙に1秒短縮、関西テレビで実況アナウンスを務めた杉本清は「恐ろしい時計です、これは恐ろしい時計です」と驚きを露わにした。 続く京都新聞杯もクライムカイザーを退け、重賞2連勝で菊花賞に臨んだ。戦前から3000mという距離に対する不安説が出ていたが、当日は単枠指定を受け、単勝オッズ1.8倍の1番人気に推された。このレースでトウショウボーイはテンポイント鞍上の鹿戸からマークされる形でレースを進め、また前日夜の雨の影響で濡れていた馬場に苦しみ、最後の直線で一旦先頭に立ったものの、直後にテンポイント、グリーングラスに交わされた。結果的にレースは埒沿いを抜け出したグリーングラスが優勝、トウショウボーイは同馬から5馬身差の3着に終わった。競走後、福永は敗因として重馬場と距離不適に加え、神戸新聞杯がピークで、調子を落としていたとの見解を述べた。 1ヶ月後、年末のグランプリ競走・第21回有馬記念に出走。福永がエリモジョージに騎乗するため、本競走から武邦彦を鞍上に迎えた。当日はテンポイントや、天皇賞馬アイフルとフジノパーシア、同期の二冠牝馬テイタニヤなどを抑えて単勝オッズ3.2倍で1番人気に支持される。レースは好位から直線入り口で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り優勝。1馬身半差の2着にテンポイントが入り、有馬記念史上初めて4歳馬が1、2着を占めた。走破タイム2分34秒0は2500メートルの日本レコード。当年、八大競走2勝含む10戦7勝という成績で、年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。
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4歳(1976年)
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「グリーングラス」の記事における「4歳(1976年)」の解説
1976年1月31日、郷原洋行を鞍上に東京でデビュー戦を迎え、2番人気に支持されたが4着に終わる。1番人気で楽勝したのは、後にライバルとなるトウショウボーイであり、さらにこのレースには後にトウショウボーイとの間でミスターシービーを産むシービークインも出走して5着に入っており、「伝説の新馬戦」としてしばしば語られる。6着のタイエンジェルにはテンポイントと共に東上していた鹿戸明が騎乗していた。2走目の新馬戦も4着に敗れ、3月13日に行われた3戦目の未勝利戦でようやく初勝利を飾るが、続く300万下では初めての不良馬場に泣き4着。その後は吉太郎の死去で中野の厩舎に転厩し、東京優駿(日本ダービー)出走へ僅かな望みをかけて出走したNHK杯では1勝馬ながら5番人気に支持されたが、勝ち馬のコーヨーチカラから1.5秒も離された12着と大敗。トウショウボーイが既に皐月賞を勝ち、ダービー2着となってクラシック戦線の主役であったのに対し、グリーングラスの春はほとんど無名であった。 6戦目の鞍上を郷原から安田に替え、クライムカイザーがトウショウボーイを敗ったダービー翌週のあじさい賞(300万下)で2勝目を挙げる。安田は中野が助手をしていた時から親しくしており、会うたびに「隆良ちゃん、乗せてよ」とデビュー後のグリーングラスの騎乗を頼んでいた。安田は福島遠征時にデビュー前のグリーングラスの精悍で力強い動きに魅了され、面識があった半沢に連絡を取って騎乗依頼したこともあったが、諸事情で郷原になっていた。あじさい賞は得意のパワー優先の重馬場も味方して鮮やかな差し切り勝ちを決め、デビュー前の印象は間違いではなかったことを確信した。岡部幸雄が初めて騎乗したマーガレット賞(600万下)は2着、イットーの半弟・ニッポーキングが勝利したセントライト記念と同じ日の10月3日、鞍上を安田に戻した中距離ハンデキャップ(600万下)も2着であった。足長の大きな体をもて余しながらのレースが続いて出世が遅れてしまったが、中野は「距離が延びたら大きなレースで活躍してくれる」と思っていた。阪神でトウショウボーイが京都新聞杯を勝利した日と同じ24日に中山で行われた鹿島灘特別(600万下)を写真判定の末にアタマ差で制し、ようやく3勝目を挙げた。2着馬は初勝利及び2勝目の時と同じシマノカツハルであり、第37回菊花賞の3週間前の出来事であった。その後すぐに栗東トレーニングセンターに移して調整されたが、菊花賞の1週間前にはフルゲート21頭に対して35頭の登録があり、グリーングラスは25番目で並んでいた。当時菊花賞へ出走するには獲得賞金がぎりぎりの状態で、グリーングラスを上回る獲得賞金の馬が出走表明をした場合、その時点で菊花賞への出走は絶たれるという微妙な状態であった。かなり出走は厳しい状況であったが、馬主の半沢の強い希望があっての栗東入りであった。もし出走できない場合は中山に帰って来るつもりで、菊花賞当日の条件戦には登録していなかった。冷静な中野とは対照的に安田は「菊花賞に乗れる可能性がある」だけで有頂天になり、菊花賞と同じ日に東京で主戦を務めてきたプレストウコウが特別戦に出走を予定していたが、二者択一を迫られた末にグリーングラスを選んだ。まだ出走が確定していない4日前の11月10日に自宅に友人知人10数人を集め、菊花賞の前祝いでどんちゃん騒ぎをやった。部屋には色とりどりの菊花が飾られ、築地から魚を仕入れて板前も呼ばれた。翌11日の段階であと1頭回避すれば出られる状況となり、12日には目の前にいた馬が条件戦に回る。迎えた14日の菊花賞は獲得賞金順で21頭中21番目、回避馬による繰り上がりで出走。まさに滑り込みであったが、中野は後に「レースで立て続けに不利を被るなど馬自身に運がなかったが、鹿島灘特別を写真判定で勝ってから勝負運が激変した」と語っている。 レースは皐月賞馬・トウショウボーイ、ダービー馬・クライムカイザー、そしてテンポイントが三強を形成。トウショウボーイは天性のスピード馬だけに重馬場の3000mは不安もあったが、鞍上に「天才」福永洋一を得てまさに盤石と思われ、単勝オッズは1.8倍と抜けていた。クライムカイザーは皐月賞から全くトウショウボーイと同じローテーションであったが、ダービー以外は全てトウショウボーイの後塵を浴びており、こちらも父は短距離血統のヴェンチアと距離に不安があった。この2頭が史上初の2頭同時の単枠指定となり、場外発売の小倉競馬場でこの2頭の組み合わせ1点を3000万円余も買った人がいたことが話題になった。一方のテンポイントはダービー7着後に骨折が判明して休養したが、復帰戦の京都大賞典で古馬に混じって3着と復活の気配を見せていた。この三強の後にはニッポーキング、夏の新潟記念は11番人気で2着→京王杯オータムハンデキャップで最下位人気ながら古馬を一蹴→セントライト記念でもニッポーキングの3着に入った抽選馬のライバフット、ダービー4着→日本短波賞・セントライト記念2着で嶋田潤から武邦彦にバトンタッチするフェアスポート、京都大賞典で古馬やテンポイントを破ったパッシングベンチャ、ムーンライトハンデキャップ(900万下)を勝った「西の新星」ホクトボーイ、北九州記念・小倉記念で古馬を破って連勝した小倉巧者のミヤジマレンゴと続いた。グリーングラスは鞍上の安田が京都で騎乗するのが初めてということもあって12番人気に過ぎなかったが、前日夜半からかなり降った雨による馬場の悪化に安田は密かな希望を抱く。グリーングラスの2勝目、3勝目は共に芝2000mで重馬場での勝利であり、その2戦とも手綱を取っていた安田は、本番当日の早朝には自らの足で芝コースを歩いてその緩み具合を確認し、競馬が始まると関係者席から各レースの馬や騎手の動きを凝視した。パドックで跨がった時には別馬のように成長していたグリーングラスに「もしかしたら」と思うと、中野は安田に対して「トウショウボーイとクライムカイザーを負かそうと思えば奇襲作戦しかない。内をぴったりと回ってくれば、2周目の4コーナーではかならず