4歳とは? わかりやすく解説

4歳(2020・21年)

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ウェリントン (競走馬)」の記事における「4歳(2020・21年)」の解説

12月26日ハンデ戦勝利し年明け初戦の2着を挟んで2連勝した重賞初挑戦となったスプリングカップ(G2)は1番人気に推されるも見せ場なく5着に敗れた。 G1初挑戦となったチェアマンズスプリントプライズ(G1)は日本馬ダノンスマッシュなどが出走道中は中団で追走し、直線鋭く突き抜けて快勝してG1制覇果たした

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4歳(2004年)

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ギャラントアロー」の記事における「4歳(2004年)」の解説

4歳初戦となった短距離ステークスを別定58kgを背負って逃げ切り5勝目を飾る。しかし、1番人気に推され阪急杯は8着に敗れた。続く高松宮記念後続差されたものの4着と好走した。その後京王杯スプリングカップ13着、久々ダートとなったプロキオンステークスは9着に敗れる。4か月後、連覇狙ったスワンステークス13着、マイルチャンピオンシップ15着とそれぞれ大敗したが、アンドロメダステークスはトップハンデ58kgながら、リミッドレスビッドに半馬身差の2着に入る。次走、CBC賞は6着に敗れた

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4歳(1984年)

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ビゼンニシキ」の記事における「4歳(1984年)」の解説

2月中旬共同通信杯4歳ステークスで4歳初戦迎えた朝日杯3歳ステークス勝ち馬であるハーディービジョン始め世代の有力馬が不在だったこともあり、残り100メートル地点から追われただけで後方1馬身の差をつけて勝利し重賞初勝利となった岡部は「まったく楽でした。1戦ごとに成長していますし、奥の深い馬」と評価したその3週間後、皐月賞と同じ距離、競馬場行われる弥生賞出走これまで騎乗した岡部が「僕が選んだ方が強いと思ってください」と無敗の3連勝中で4歳初戦となるシンボリルドルフ選択し無敗の4連勝であったビゼンニシキ陣営はこれに憤慨成宮厩舎所属蛯沢誠治騎乗することとなったビゼンニシキは1番人気に支持されシンボリルドルフ日本馬同志競馬では唯一、1番人気を奪われ屈辱レースとなったゲートで立ち上がる不利な発走となり、後方の外に位置取る中、シンボリルドルフ4、5番手先行していた。最終コーナーシンボリルドルフ抜け出すその背後から追い上げた直線では、馬場内側斜行し、ビゼンニシキ右前肢がシンボリルドルフの左後肢接触する事故もあったが、前を行くシンボリルドルフ失速することなく1馬4分の3馬身遅れた2着に敗れたスプリングステークスではサクラトウコウ相手意表をつく逃げ切り勝ち、NHK杯楽勝だった。弥生賞皐月賞ではシンボリルドルフ敗れて2着に終わったが、そのうち皐月賞勝ったシンボリルドルフ体当たりされるという不利があった。 この不利については、「全日本フリーハンデ上で評者山野浩一は「外国競馬なら着順変更になっているケース」としながらも、それがなくてもシンボリルドルフには勝てなかっただろうとしている。なお、日本中央競馬会はこのレース後、降着制度の導入検討始めたことを明らかにした。 日本ダービーでは大敗しビゼンニシキに対しては距離克服課題があるという見方が再び露になった。この年から短距離路線整備が行われたことから、ビゼンニシキは秋は長距離菊花賞ではなく短距離スワンステークス挑んだ。しかしそのレース中に故障発生して引退追い込まれた。 シンボリルドルフこの年史上初の無敗での三冠制覇果たし日本競馬史上図抜け競走馬評価され、さらにジャパンカップでも好走して世界的に高評価受けたことで「ルドルフを最も苦しめた馬」としてビゼンニシキにも高い評価与えられることになった日本ダービーまではシンボリルドルフ以外には負けておらず、「一方的に負けてばかりなので、はたして本当にライバルといえるかどうか疑問だが」シンボリルドルフライバルであるとも評された。 この年フリーハンデでのビゼンニシキ評価は60kgで、同世代では単独2位の値だった。「全日本フリーハンデ」は63kgに評価し例年であればクラシック競走勝馬同等以上と位置づけた。

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4歳(2004年)

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マイネサマンサ」の記事における「4歳(2004年)」の解説

長期休養明け9か月半ぶりの実戦となった4歳初戦HTB杯は5着、4か月半ぶりとなった摂津特別は10着に終わる。続く名古屋日刊スポーツ杯は勝ったマチカネリュウセイに半馬身差の2着と好走した。

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4歳(2009年)

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レディマリアン」の記事における「4歳(2009年)」の解説

休養中2月に同じ厩舎所属バイラミーと共にゴドルフィントレードされサイード・ビン・スルール厩舎移籍した移籍初戦3月28日ドバイデューティーフリーだったが、最下位16着に終わったその後8月2日ロートシルト賞出走したが、7着に敗れた。続く8月23日ジャンロマネ賞では勝ったアルピンローズのアタマ差の2着だった。9月12日のブランドフォードステークス (G2) 4着ののち、連覇懸けて挑んだ10月4日オペラ賞では見せ場がなく6着に終わった。続く10月25日リディアテシオ賞では5着だった。レース後、現役引退繁殖入り決まった

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4歳(2009年)

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パコボーイ」の記事における「4歳(2009年)」の解説

休養終えてドバイ遠征し3月28日ドバイデューティーフリー出走したが、8着と惨敗したその後4月25日サンダウン競馬場行われたベット365マイル (G2) に出走し勝利を収めた。続く5月16日ロッキンジステークスでは1番人気に推されたが、4着に終わったその後6月16日クイーンアンステークス制しG1競走2勝目挙げた。続く7月10日ジュライカップでは2番人気推されたが4着に敗れた。続く7月29日サセックスステークスでは勝ったリップヴァンウィンクルから2馬身差の2着に敗れたその後休養入った

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4歳(1999年)

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リアルクワイエット」の記事における「4歳(1999年)」の解説

3月に9ヶ月ぶりに戦線復帰すると、復帰3走目のピムリコスペシャルハンデキャッププリークネスステークス以来勝利を飾る。6月ハリウッドゴールドカップではジェリー・ベイリー との初コンビG1・5勝目挙げた。しかし、レース後に右前脚の骨折判明しそのまま現役引退した

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4歳(2004年)

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グラッブユアハート」の記事における「4歳(2004年)」の解説

4歳初戦となったTCK女王盃は1番人気に支持されるレマーズガール敗れ2着。続くエンプレス杯でもレマーズガールとの叩き合い敗れ連続2着となる。なおこのレースから安藤勝己騎乗し引退するまで2戦を除き騎乗している。次走のマリーンカップ先行するもベルモントビーチ、レマーズガール交わされ3着に終わる。3か月休養明けとなったスパーキングレディーカップは中団やや後ろから先に抜け出したレマーズガール3/4馬身交わして1着。レマーズガールとの対決4戦目にして初め先着し、重賞初制覇となった。次走は府中牝馬ステークス選択した14着と惨敗に終わる。続くクイーン賞レマーズガールに半馬身差の2着に敗れた

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4歳(1991年)

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イソノルーブル」の記事における「4歳(1991年)」の解説

2月3日エルフィンステークスOP)で始動し単勝オッズ1.3倍の1番人気で出走スタート決めてハナを奪うと、直線でも後方寄せ付けず2馬身半差をつけて優勝し、4連勝とした。この五十嵐騎乗では、スローペース追走中に手綱抑える姿を見せていたことから五十嵐降板代わりに「馬への評価柔らかい」と評判だった松永幹夫と新コンビ結成した。続く3月17日桜花賞トライアル競走である報知杯4歳牝馬特別GII)に松永出走通常開催される阪神競馬場改修工事であったために中京競馬場1200メートルでの開催となり、単勝オッズ1.2倍、単枠指定制度対象となった。好スタートから、最初300メートル先行する2頭を制しハナ奪い逃げた直線でも後方勢の追い上げ許さず後方に3馬身半差をつけて逃げ切り優勝。5連勝および重賞2勝目優先出走権取得し無敗のまま桜花賞参戦することとなった4月7日桜花賞GI)に出走同じく阪神競馬場改修工事中のため、京都競馬場1600メートルでの開催となり、単勝オッズ2.8倍の1番人気に推された。本馬場入場経て発走地点向かったが、右前脚を落鉄判明。そこで、装蹄師蹄鉄を再び装着させようとしたが、イソノルーブル暴れてそれを拒否担当厩務員調教助手福留幸蔵厩舎戻って蹄鉄打ち直すよう要求したが、却下された。予定発走時刻を過ぎる中、結局JRA蹄鉄装着諦め右前脚が裸足の状態で、予定より11遅れて発走した。イソノルーブルスタートから松永積極的に追い出したことで2番手に位置したが、直線で全く伸びずに後退勝利したシスタートウショウに9馬身差をつけられた5着、初黒星喫した清水によれば装鞍所では落ち着いていい状態だった。それがパドックから本馬場入場の大歓声ママ〕で、いっぺんにおかしくなってしまった」と述懐している。梶山平によれば、落鉄原因本馬場入場時の観客による「喚声集中砲火」であるとしており、同時に「馬は静かに迎えるという競馬観戦の、初歩的な心得理解しないファン増加本当に困る。」と評した。 またこの落鉄について、落鉄事実競馬場内に告知されていたが、蹄鉄を履いていない状態のまま発走するという告知はなされないままであったJRA審判部によれば再三打ち替えることを試みたが、馬が暴れてどうしようもなかった。落鉄したままでも競走能力影響しない、と判断した」と説明した。しかし、この説明対しマスコミなど批判的な姿勢をとり、中にはJRA相手取り民事訴訟を行う者もいた。(詳細は、イソノルーブル事件参照。)JRAは、これを機に馬場内待機所つなぎ馬房を設置。さらにレーシングプログラムに「再装着不可能な場合そのまま発走させる場合がある」という記述追加した並びに何か事故発生した場合は、発走前に告知するようになっている続いて5月19日優駿牝馬オークス)(GI)に参戦出走にあたっては、体調不良説や、喚声がより大きくなる東京競馬場での開催大外820番からの発走などの負の要素強調され単勝オッズ12.1倍の4番人気出走した陣営は、前回反省踏まえてイソノルーブル感じ喚声の音を小さくするために、耳当てのついたメンコ二重着用。さらに、大観衆を目に入れないよう視野小さくするためのブリンカー着用した大外から先行してハナ奪い以降最初1000メートル通過が61.7秒のスローペース刻み直線入り口ではスカーレットブーケ、ツインヴォイスが迫ってくるも先頭守った。まもなく松永仕掛けるとその2頭を突き放していたが、後方大外にいたシスタートウショウ末脚見せて追い上げ開始。最も内側逃げ粘るイソノルーブル並びかけたところが決勝線通過であった決着写真判定委ねられたが、松永勝利を確信しスタンド前でガッツポーズ披露した写真判定結果イソノルーブルハナ先着認められ優勝1975年テスコガビー以来16年ぶりとなる逃げ切り勝利1978年優駿牝馬優勝ファイブホープ以来となる抽せん馬によるクラシック優勝相成った。またイソノルーブルおよび松永清水にとって初のGI優勝であった清水は「(前略イレ込み桜花賞時の半分以下でしたから。落ち着いてさえいればこの距離でもバテるじゃない思っていたし、流れ理想的でした。」と述懐している。 夏は、函館競馬場青函ステークスOP1200メートル)への出走目指して、現地入厩するも、出走することなく、秋のエリザベス女王杯GI)に直行スタートから2番手に位置するも、直線失速して16敗退翌日右前種子骨靭帯炎の発症判明したその後は、福島県いわき市競走馬総合研究所常盤支所の「馬の温泉」で復帰向けて療養続けたが、復帰することなく競走馬登録を抹消し引退したこの年JRA賞表彰では、JRA賞最優秀4歳牝馬部門にて全176票中33票を集め109票を集めて受賞したシスタートウショウ次点となった

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4歳(2010年)

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ナイキハイグレード」の記事における「4歳(2010年)」の解説

復帰緒戦2月17日報知グランプリカップに1番人気で出走したが、7着に敗れた。続くダイオライト記念では見せ場なく10着と大敗したレース後は休養入った

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4歳(2004年)

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レマーズガール」の記事における「4歳(2004年)」の解説

4歳初戦TCK女王盃2番手からレース進めグラッブユアハート以下に1馬身半差をつけ快勝。次走、エンプレス杯は中団から早めに押し上げて先に抜け出したグラッブユアハート交わして1着。重賞連勝を飾る。続く、ダイオライト記念は距離が長かったのか5着となる。マリーンカップは2着と惜敗。次走、かしわ記念は6着に敗れる。久々中央でのレースとなったブリリアントステークスは6着、連覇狙ったスパーキングレディーカップグラッブユアハート3/4差で敗れる。3か月休養明け白山大賞典は4着。次走、秋華賞以来となるレースとなったエリザベス女王杯最下位18着に終わる。続く、クイーン賞直線手前先頭に立ち、グラッブユアハートに半馬身差をつけ勝利した。なお、この年の3勝は全レースグラッブユアハートが2着に入っていた。

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4歳(2006年)

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メイショウトウコン」の記事における「4歳(2006年)」の解説

2006年8月12日札幌競馬場での3歳500下のレースでは初のダート4番人気だったが見事勝利した。この時は2度目騎乗となる武幸四郎騎手騎乗しており、以降主戦騎手となり、ダート中心に出走するうになるその後1000万クラス大雪ハンデで2着になり、次のアカシヤ特別で勝利し連敗することなく1600クラス昇級し花園ステークスでは昇級緒戦ながら勝利しオープン馬となり2006年終えた

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4歳(1982年)

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ビクトリアクラウン」の記事における「4歳(1982年)」の解説

初戦は、東京競馬場クイーンカップ出走。再び単枠指定となり1番人気に推された。4番手から最終コーナー先頭立った。するとソラ使ってしまい、ファイブソロンに並びかわされた。しかし、ムチ矯正される差し返し、ファイブソロンに半馬身差をつけて勝利した新潟中山東京という関東での4連勝嶋田は、関東牝馬との決着はすでについているとした。ファイブソロンに騎乗した郷原は、「あれで負けたのでは相手が強いとしかいいようがないさ」と評した稲葉は、クラシックでも力を発揮できる目処がついたとして桜花賞直行明言した桜花賞が行われる関西栗東トレーニングセンター移動して調整続けられた。しかし、3月31日桜花賞12日前の栗東での調教時に跛行検査受けて第3手根骨剥離骨折判明した全治3か月診断受けて桜花賞出走断念。春のクラシック参戦不可となった千代田牧場本場放牧出される間に桜花賞優駿牝馬オークス)が催されビクトリアクラウンには「幻のクラシック馬」との異名つけられた。 8月4日美浦トレーニングセンターに帰厩、後遺症がない状態で復帰しエリザベス女王杯目標調整された。9月19日クイーンステークスで7か月半ぶりに復帰前日馬体重500キログラムあったが、当日装鞍所大量に排尿排便をしたことでレースには、前日よりも26キログラム減量し474キログラム出走した調教助手野中は、レースがいつか知っている「賢い馬」と感じたという。1番人気の支持から、先行して逃げルナパークアタマ捉えて勝利した続いて10月17日牝馬東京タイムズ杯出走古馬初顔合わせとなり、特に安田記念七夕賞連勝中の6歳牡馬スイートネイティブとの対決大きな注目集まった後方待機する一方でスイートネイティブ先行した直線スイートネイティブ先頭に立ち、それに目がけて追い込んだが、1馬4分の1届かず2着に敗れた11月21日目標エリザベス女王杯単枠指定2番人気出走した。1番人気は、京都大賞典勝利から参戦し同じく単枠指定のメジロカーラであった。シンナディアが逃げてその後ろにメジロカーラが先行する中、その後ろにビクトリアクラウンがつけた。最終コーナー差し掛かるあたりでメジロカーラが伸びあぐねており、ビクトリアクラウンがそれを見て仕掛けると、差を広げてメジロカーラを置き去りにした。後々追い上げたミスラディカルやラブリースターとの差を広げて先頭入線し、勝利した嶋田楽勝として、第3コーナーの坂を下るときに勝利を確信していた。稲葉は「この馬のすべてが、この馬のよさです」と発言した続いてファン投票では9位に入り有馬記念出走唯一の牝馬であったが、5着に入った

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4歳(1979年)

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カツラノハイセイコ」の記事における「4歳(1979年)」の解説

年が明けた1月7日呉竹賞で上がり3ハロン35秒台で駆けて2勝目挙げた福永は「今の4歳でこんな凄い脚を使える馬は少ないよ。こりゃ大物だ」と振り返っていた。続くジュニアカップ(800万円以下)は先約のために福永から、その兄弟子である松本善登乗り替わり参戦し直線末脚後方との差を広げて連勝とした。これ以降、しばらく松本騎乗続ける。2月17日京都競馬場オープン競走では、中団から抜け出して福永騎乗するレッドルーラーを問題にせず、3連勝となった庄野はこの時期の3連勝についてカツラノハイセイコ能力評価し末脚について父ハイセイコー上のものを持っているとしていた。

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4歳(1988年)

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サクラチヨノオー」の記事における「4歳(1988年)」の解説

4歳の始動戦には、共同通信杯4歳ステークストキノミノル記念GIII)を選択。2か月ぶりの出走となったが、最終追い切り馬なり調教を施すなど余力ある状態での復帰となった朝日杯3歳ステークス上位3頭が再び集まる中、2.4倍の1番人気で出走した逃げるミュゲロワイヤルを追う好位で進んだが、追い上げることができずに後続捕まり、モガミファニーとモガミナインにかわされて4着に敗退した。境は軽め調教施したことに敗因求めていた。大川終始円滑に進んだにもかかわらず敗れたことから「惨敗」と評した皐月賞トライアル競走である弥生賞GII)に参戦した。境は軽め調教敗れた反省生かして4歳馬には厳し調教課した最優秀3歳牡馬の座を争ったサッカーボーイ始動戦となり、初め東西3歳王者直接対決実現したサッカーボーイが1.6倍の1番人気に推され、それに次ぐ5.5倍の2番人気であったサッカーボーイ京成杯GIII)を制した3番人気のトウショウマリオが単枠指定となったが、サクラチヨノオーには適用されなかった。スタートから前方進み他の馬が行かなかった」ために仕方なく逃げ1000メートルを1分1秒8で通過するスローペース刻んだ直線では単枠指定の2頭が大外から追い込んでいた。しかし、あまりに後方迫り来ず小島途中で後方振り返る余裕見せた結局それらに2馬身離し逃げ切り勝利。境が「ジョッキー作戦勝ち」と評したように、敗れたサッカーボーイ評価揺るぐことなく、クラシックの有力馬とされていた。

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4歳(1986年)

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フレッシュボイス」の記事における「4歳(1986年)」の解説

明け4歳となった1986年1月シンザン記念重賞初制覇。続く3月毎日杯では季節外れ雪が降る中、ポツン離れたしんがり進みながらも、後に京都新聞杯を勝つタケノコマヨシに3馬身差をつける圧勝だった。この時関西テレビ放送杉本清アナウンサーによる「止んだフレッシュボイス1着!」は彼の名実況の一つとして有名になった。実際レース中(向正面第3コーナーを通る頃)に急に小降りとなっていた(ポニーキャニオン 中央競馬重賞競走ビデオ 昭和61年前期版映像より)。 こうして臨んだ皐月賞では裏街道歩んできた印象のため、4番人気実績のわりに人気薄かったが、レースでは完全に抜け出したダイナコスモスを、最後方からの追い込みクビ差まで迫り、2着となったその後外傷負い東京優駿日本ダービー)は回避。秋は神戸新聞杯復帰し4着。続く菊花賞有馬記念ではそれぞれ6着、5着とそこそこ結果終わった

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4歳(2004年)

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ゼンノロブロイ」の記事における「4歳(2004年)」の解説

4歳の前半シーズンゼンノロブロイ初戦日経賞で2着になったのを皮切りに天皇賞(春)2着、宝塚記念4着と勝ちきれないレース続けた後半シーズン入り京都大賞典でも2着。目標としていた天皇賞(秋)賞金不足で出走できない可能性浮上した最終的に出走が可能となり、1番人気に支持された。このレースフランスから短期騎手免許参戦したオリビエ・ペリエとのコンビ優勝しGI制覇成し遂げると、続くジャパンカップさらには有馬記念同一チーム優勝2000年テイエムオペラオー以来史上2頭目の秋古馬三冠達成し2頭目となる特別報奨金(2億円)を獲得この年ゼンノロブロイサンデーサイレンス産駒として初めJRA賞年度代表馬選ばれた。

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4歳(2005年)

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ハーツクライ」の記事における「4歳(2005年)」の解説

2005年初戦大阪杯直線だけで追い込みサンライズペガサスの2着。続いて天皇賞(春)では追い上げるスズカマンボの5着に敗れた次に挑んだ宝塚記念でも11番人気スイープトウショウクビ及ばず2着と、春は惜しレース続いたその後放牧出されるが、管理調教師である橋口弘次郎は「放牧明けて秋になると、春とは別の馬のように馬体成長した」とコメントしている。 秋初戦トライアル競走使わず天皇賞(秋)出走2004年東京優駿同年有馬記念以降同馬に騎乗してきた横山典弘ゼンノロブロイ騎乗したため、短期免許来日中のフランス人騎手クリストフ・ルメール騎乗しその後引退まで騎乗続けた結果スローペースということもありヘヴンリーロマンスの6着であったが、上がりタイム32秒8は前走敗れたスイープトウショウ(5着)と同じであり、将来への期待失わないのだった。 続くジャパンカップは、後方から馬群掻き分けて追い込みホーリックス1989年記録したレースレコードを0.1上回る2分22秒1の日本レコードタイム入線し、イギリス調教馬のアルカセットと同タイムながらハナ差3センチの2着に敗れたウィキニュース関連記事あります第50回有馬記念ハーツクライ優勝 (2005年12月26日) その後ファン投票6位に推され有馬記念への出走決める。迎えた第50回有馬記念では、鞍上クリストフ・ルメールこれまでの追い込むスタイル一転させ大胆な先行策をとって成功し無敗三冠制してこのレース臨んできた圧倒的1番人ディープインパクト追撃押さえ、半馬身差で初のGI制覇達成した。 この勝利年間通じてGI戦線での活躍評価されJRA賞2005年度最優秀4歳以上牡馬選出された。また有馬記念後、橋口翌年ハーツクライ海外遠征プラン明らかにした。

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4歳(1998年)

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セイウンスカイ」の記事における「4歳(1998年)」の解説

1998年1月5日中山6R1600mの新馬戦鞍上徳吉孝士を迎えてデビューする血統良くないことから評価低く、またフルゲート16頭の大外引いたこともあって、単勝5番人気であったが、道中3、4番手につけ第3コーナー先頭に立つと、そのまま押し切り後続に6馬身差をつけて優勝した。 さらに続くジュニアカップでも3番人気評価低かったが、スピード違いであっさり逃げを打つと、1番人気の2着メガヒットに5馬身差をつけ連勝低評価から一変、クラシック候補へと名乗りを上げた。しかし、このレース入りで、ゲート後ろ立ち止まったところをスターターステッキ叩かれたことからゲートを嫌うようになり、後の競走生活尾を引くことになる。 重賞初挑戦弥生賞は、ジュニアカップ出走後から悪化したソエによる影響で、十分に調教積めない状態での出走となったレースではジュニアカップ同様逃げるものの、最後の坂でスペシャルウィークに半馬身差しきられて2着に敗れたが、3着までに付与される皐月賞優先出走権獲得する。この弥生賞以降スペシャルウィークキングヘイローあわせて1998年牡馬クラシック戦線3強形成するまた、この敗戦により、それまで主戦騎手だった徳吉孝士が馬主サイド西山茂行らの意向鞍上から下ろされ代わりに開業したばかりの厩舎主戦になってくれる騎手を」という保田要望から横山典弘主戦騎手となった3冠第1戦の皐月賞では、スペシャルウィーク続いて単勝5.4倍の2番人気押された。入りでは嫌がる素振り見せたが、道中はコウエイテンカイチを先に行かせて2番手を追走前半通過タイム60秒4とよどみない流れ後続が脚を使わされているなか、第4コーナー手前楽な手応えのまま先頭躍り出ると、キングヘイロースペシャルウィーク猛追抑え一冠目を制した西山牧場にとっては初の牡馬クラシック競走制覇であり、鞍上横山もクラシック初制覇となったまた、調教師保田開業2年目のG1出走にして、初のG1制覇となった皐月賞後、入り不良発走調教再審査となったゲート試験一発合格したまた、開業2年目保田厩舎セイウンスカイ一緒に調教できる実力の馬がいなかったことから、横山申し入れにより藤沢和雄厩舎のタイキエルドラドと併せ馬行い先着東京優駿日本ダービー)に向けて最終調整小西一男厩舎スピードワールド併せ馬敢行した。 6月7日ダービーでは、皐月賞フロックとみられたためか、スペシャルウィークキングヘイローに続く3番人気だった。レースはまずキングヘイロー逃げ打ちセイウンスカイ2番につけて直線迎えた。しかし、息の入らない流れになったためか手応えがなく、一瞬先頭立ったものの後方控えていたスペシャルウィーク突き放され勝ち馬から1秒遅れの4着に敗れたダービー後セイウンスカイ故郷西山牧場で夏を過ごした馬主西山天皇賞・秋への出走視野入れていたが、最終的に調教師意見通り菊花賞への出走決まったセイウンスカイの秋初戦古馬との混合重賞である京都大賞典決まった当時菊花賞への王道は4歳限定重賞競走である京都新聞杯だったが、京都新聞杯ゲート再審査となった場合日程的に菊花賞出走できなくなるため、セイウンスカイゲート難を考慮して京都新聞杯より1週早く行われる古馬との一戦選択したこの年京都大賞典は、メジロブライトシルクジャスティスのG1馬2頭のほか、ステイゴールドローゼンカバリーといった強豪馬も出走しており、7頭立て4番人気という低評価であったレースでは、好スタートから果敢に先手を奪うと、2ハロン目から110 - 11秒2のラップ刻みその後12秒台前半のラップ大きく後続離して逃げる形となった第3コーナー手前130 - 13秒5と一旦ペース落として後続引きつけたのち、最後直線で再び後続突き放しラスト2ハロン111 - 11秒5でまとめてこの年春の天皇賞優勝馬メジロブライトクビ抑えて勝利した11月8日迎えた菊花賞では、セイウンスカイ単勝4.3倍の2番人気支持された。レースは5分のスタートから気合をつけてハナに立つと、馬の行く気に任せて前半1000メートル59秒6という暴走ともいえるハイペース進んだ中間の1000メートル64秒3と一気ペース落とし、2週目の坂の下りから早めスパート仕掛けると、セーフティーリードを保ったまま最後1000メートル59秒3で駆け抜けて、スペシャルウィークを3馬身離して勝利した3000メートル長丁場逃げ切るのは至難の業であり、菊花賞逃げ切り勝ちは1959年ハククラマ以来38年ぶりのことであったまた、このときの優勝タイム3分3秒2はレースレコードであり、当時3000メートル世界レコードでもあった。 同年末の有馬記念ではデビュー以来初の1番人気に支持されるも、荒れた馬場内側避けて逃げたために楽に走ることができず、同期グラスワンダー前に4着に敗れたまた、二冠制していたことからJRA賞最優秀4歳牡馬への選出期待されたが、NHKマイルカップ古馬相手ジャパンカップ優勝したエルコンドルパサー奪われる結果となった

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4歳(2002年)

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ニホンピロサート」の記事における「4歳(2002年)」の解説

昇級初戦すばるステークス僅差の3着。次走、久々レースが初重賞となった阪急杯14着と惨敗する以降使われていない。続く、京葉ステークスは3着、栗東ステークスステークス連続2着に入る。4歳の6月降級となった安芸ステークス1.4倍の断然人気応え逃げ切る。3か月半の休養後、神無月ステークスは2着、太秦ステークスハンデ58.5 kg背負いビワシンセイキと1着同着となり、再びオープンに戻る。再昇級となった霜月ステークスは好位から抜け出し2馬身差で勝利し連勝を飾る。次走、初の交流重賞出走となったとちぎマロニエカップは1番人気に推されるも3着に敗れる。

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4歳(1990年)

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ダイイチルビー」の記事における「4歳(1990年)」の解説

2月25日阪神競馬場新馬戦1600メートル)に、前年リーディングジョッキー武豊騎乗しデビュー単勝オッズ1.2倍に支持された。スタートから楽にハナ奪取そのまま先頭直線向いた先頭脅かされることなく逃げ切り後方に5馬身差をつけて初勝利を挙げた。このパフォーマンスから桜花賞出走視野入れトライアル競走報知杯4歳牝馬特別に登録。1勝馬でも出走可能性はあったが、抽選漏れてしまった。3月24日アネモネ賞500万円以下)にまわり、2馬身差をつけて連勝果たした。2勝馬の身で目標桜花賞に登録。出走できる可能性はあったが、再び抽選漏れてしまい、出走が叶わなかった。渋々「残念桜花賞」と呼ばれていた4月8日忘れな草賞OP)にまわり、単枠指定の1番人気の支持されたが、重馬場苦戦した。トーワルビーに2馬身及ばず、2着に敗れた目標桜花賞から優駿牝馬オークス)に切り替えて関東遠征4月29日東京競馬場トライアル競走サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別GII)に1番人気で出走するここまで騎乗し続けた武が、京都競馬場天皇賞(春)スーパークリーク参戦したため、乗り替わりとなった。武の代打として初めに関東若手横山典弘騎乗依頼行ったが、横山先約の9番人キョウエイタップ選択して断られていた。結局増沢末夫起用され参戦するスタートから先行して好位の4番手を追走直線抜け出したが、道中最後待機から追い上げた横山キョウエイタップゴール手前差し切られた。クビ及ばず2着となったが、優先出走権確保する5月20日目標優駿牝馬オークス)(GI)に武が舞い戻って出走デビューから無敗の5連勝桜花賞制したアグネスフローラと初対決となった河内洋騎乗アグネスフローラ2.5倍の1番人気、6.8倍の2番人気ダイイチルビー。以下、ケリーバッグキョウエイタップ、ゾウゲブネメガミと続いた2枠4番ダイイチルビーは、スタート出遅れてしまった。後方待機から直線追い込んだものの、6馬身以上離された5着に敗れたこの後は、荻伏牧場休養する9月1日に、栗東に帰厩。トライアル競走ローズステークスから、牝馬三冠競走最終戦エリザベス女王杯に臨むローテーション計画された。まず10月21日ローズステークスGII)に、武が騎乗し3.2倍の1番人気、優駿牝馬優勝馬エイシンサニーや、サファイヤステークス優勝馬・3連勝中の夏の上がり馬ヌエボトウショウ上回る支持集めたスタートから先行し前に7番人気カツノジョオー、10番人気イクノディクタスを置く3番手を追走した。前2頭に接近しながら最終コーナー通過直線向いたそれ以降伸びなかった。カツノジョオー、イクノディクタスそのまま逃げ切りワンツーフィニッシュ、それらに2馬身以上離された5着に敗れたエリザベス女王杯優先出走権獲得したものの、11月6日、右後脚フレグモーネ発症した伊藤ダイイチルビー本領発揮翌年以降考えて回避年内全休となる。

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4歳(1981年)

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メジロティターン」の記事における「4歳(1981年)」の解説

1981年、4歳を迎えてからデビューしたが、仕上がり遅く惜敗続け初勝利までに4戦を要した3月末の条件戦4着の後に一旦休養入り7月復帰札幌開催から伊藤正徳騎乗して3戦1勝とした後、8月函館開催初め競走出走800下条件戦を大差10馬身以上)で勝利、続く条件戦HTB賞も5馬身差で連勝した。 次走、格上挑戦セントライト記念出走5番人気支持されると、中団待機から直線抜け出しサンエイソロン1馬身半差を付けて重賞初勝利挙げた競走15前に管理調教師尾形藤吉89歳で死去しており、これが結果的に藤吉最後重賞勝利ともなった勝利騎手インタビューレース内容饒舌語っていた伊藤は、その最中記者から藤吉の死を知らされ、「ティターン菊花賞見て欲しいのに」と述べたきり絶句した。競走後管理藤吉息子・盛次に引き継がれる名実共に4歳クラシック最終戦菊花賞への有力候補となったが、競走後に左後脚趾骨亀裂骨折判明菊花賞断念余儀なくされ、年内休養充てた。

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4歳(2003年)

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ゴールドアリュール」の記事における「4歳(2003年)」の解説

古馬となった2月23日中山競馬場フェブラリーステークスGI)で始動する出走16頭のうち、GI優勝馬8頭が集結しレース史上、最も充実したメンバー」「五指に余る強豪たち」(『優駿』)と評された。そんな中ゴールドアリュール3.1倍の1番人気の支持だった。3.7倍の2番人気アドマイヤドン、8倍台にビワシンセイキイーグルカフェ13倍にノボトゥルー18倍にエイシンプレストン19倍にマイネルブライアン続いていた。 スタートからカネツフルーヴスマートボーイハナ争ったため、それらに続く3番手を追走する最終コーナー先頭カネツフルーヴ近づき直線かわして抜け出した終始ビワシンセイキマークされており、直線ではビワシンセイキが差を詰めてきた。やがて並ばれて競り合い発展するも、それを制してクビ差だけ先着果たした。3着イーグルカフェ以下には3馬身差をつける優勝だった。ダートGI競走4勝目は、アブクマポーロに並ぶ史上最多記録。またメイセイオペラアグネスデジタル次いで史上3頭目となる「JRAダートGI統一GI双方優勝」を達成。さらに最優秀ダートホースとしては、1998年受賞2000年優勝ウイングアロー以来史上2頭目優勝だった。 豪華メンバーフェブラリーステークス優勝したゴールドアリュールは、次なる目標海外遠征3月29日アラブ首長国連邦ドバイナドアルシバ競馬場行われるドバイワールドカップ定めていた。この当時の世界情勢、特に中東情勢不安定な状況開催不透明であり、登録したものの回避する日本調教馬続出していた。それでもゴールドアリュールは、UAEダービーに臨むユートピアとともに遠征表明。しかし3月20日アメリカとイギリス合同軍によるイラク攻撃開始していた。後にイラク戦争呼称されるこの攻撃により、世界情勢中東情勢がさらに悪化日本勢は、この影響輸送用航空便用意できなかった。正確に言えば経由地シンガポールからドバイに向かう航空機キャンセルされたために遠征できなかった。アラブ首長国連邦は、イラクアメリカ敵対関係になく、戦地イラクと距離があって安全で、無事ドバイワールドカップデー開催されている。当日は、世界16か国の優駿一堂会したが、日本勢誰も出走できなかった。 ドバイ断念したゴールドアリュールは、返す刀アンタレスステークスGIII)に臨む。斤量59キログラム背負いながらも、1.4倍の1番人気の支持同じようドバイ断念したイーグルカフェとの対決となったイーグルカフェは10.2倍の4番人気2番人気タイムパラドックス3番人気スマートボーイだった。スタートでは、スマートボーイハナ奪い、それに次ぐ2番手を追走した。最終コーナースマートボーイをかわし、直線では突き放す一方独走状態だった。中団から追い上げたイーグルカフェやディーエスサンダーに8馬身差をつけて入線重賞連勝果たした。 それから6月25日帝王賞GI)に臨む。ビワシンセイキリージェントブラフとの対決する中、1.1倍の1番人気だった。不良馬場の中、ハナ奪え2番手、その後全く伸び11着に敗退する。レース直後社台ファーム放牧出され検査したところ喘鳴症ノド鳴り)であることが判明再起目指していたが、7月21日症状悪化確認し復帰諦めて引退となった

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4歳(2008年)

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ドリームジャーニー」の記事における「4歳(2008年)」の解説

4月4日栗東トレーニングセンターへ帰厩し、マイラーズカップ復帰。しかしスタート出遅れ14着。次走は安田記念池添謙一騎乗出走する10着だった。 8月3日小倉記念当初武豊騎乗予定していたが騎乗停止になったため、池添謙一が再び手綱取ったレース最後直線出たところで先に抜け出したダイシングロウを捉え神戸新聞杯以来勝利を飾った。 秋競馬緒戦9月15日朝日チャレンジカップ選びトーホウアラン3/4馬身抑えて重賞連勝飾り天皇賞・秋向けてスタートを切る。しかし、天皇賞・秋では10着だった。12月28日第53回有馬記念では4着だった。

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4歳(2018・19年)

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ネイチャーストリップ」の記事における「4歳(2018・19年)」の解説

9月8日のマクエウェンステークス(G2)に1番人気で出走して、5695コースレコード逃げ切って重賞初制覇飾った。 G1初挑戦となった9月28日モイアステークス(G1)はレース序盤から果敢に先頭立ったが、直線馬群沈み8着に敗れた。 年が明けて2月2日競走復帰予定だったが、ダレン・ウィアー厩舎警察強制調査受けたために直前回避し急遽クリス・ウォーラー厩舎転厩した。そのため9日のルビトンステークス(G2)で復帰し圧倒的1番人気で2着に3.5馬身差で快勝したその後2月23日のオークリーステークス(G1)では1番人気に推されるも伸び欠き10着に沈んだ3月23日ザギャラクシー(G1)でも1番人気に推されハナ立って粘り込み図り0.1馬身差しのいでG1初制覇飾ったその後5月11日ドゥームベン10000(G1)に出走する伸び切れず4着に敗れた

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4歳(1990年)

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アイネスフウジン」の記事における「4歳(1990年)」の解説

4歳となり、2月11日共同通信杯4歳ステークスGIII)で始動雨が降る中8頭立てとなり、単勝オッズ1.7倍の1番人気に推された。スタートから先頭に立ち、独走するそのまま後方に3馬身離して勝利中野は、当初控えレース経験させようスタートでわざと出遅れさせたが、他の馬スピード違っていたために、結局逃げ出て勝利を収めていた。 続く3月4日弥生賞GII)では単枠指定対象となり、1.9倍の1番人気に支持される不良馬場であり、中でも馬場内側悪化している状態であったアイネスフウジン走法には合わない馬場状態であったため、ここで万一アイネスフウジンが走る気を失い今後その能力発揮できなくなることを恐れた中野は、無理をせず、状態の良い馬場外側で進むことを決意逃げてその通り騎乗したが、最後直線差をつけることができずに失速する残り200メートルで内からメジロライアンかわされ、さらにツルマルミマタオー、ホワイトストーンにもかわされた4着に敗れた4月15日皐月賞は、単勝オッズ4.1倍の1番人気に推された。弥生賞敗れたメジロライアン5.0倍の2番人気きさらぎ賞など5連勝中のハクタイセイが5.6倍と続き混戦」とはやされ、3頭は「三強」といわれた。 1枠2番逃げ有利な内枠得て中野は「スピードが他馬とは違う。おもいきって逃げる」と宣言していた。ところが発走すると、隣の3番ホワイトストーンが内に斜行、もう片方の1番ワイルドファイアーとホワイトストーン挟まれてぶつかる不利を受けて十分なスタートダッシュができなかった。その間にフタバアサカゼが「捨て身逃げ」を実行しており、届かず2番手に甘んじた。フタバアサカゼは、前半1000メートル通過を60.2秒で通過するペース刻みその後さらに遅いペース演出アイネスフウジンには不向きの遅いペースとなってしまい、自らを抑えることができなかった。残り600メートル地点でフタバアサカゼをかわしてしまい、たまらず先頭以降直線伸びず、中団からアイネスフウジン目標にしていたハクタイセイ差し切られクビ差の2着となる。 レース後、敗戦から中野降板させる声も上がったが、加藤中野に「ダービー勝とうな」と声をかけ、コンビ続投決定加藤は、アイネスフウジンレントゲン検査をしたところ、消耗程度大きいことが判明2週間休養与えた

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4歳(2005年)

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コスモバルク」の記事における「4歳(2005年)」の解説

前年続き中央のG1挑戦続け本馬であったが、出走条件緩和されたわけではなかった。2005年当時地方馬が特定のGI/JpnI競走出走するためには、2着以内に入る必要があるステップ競走出走必須であった天皇賞(春)出走目指すには、日経賞出走必要だったため、五十嵐代わり新たに同じホッカイドウ競馬千葉津代士が起用され単勝1番人気で挑んだ。しかしここでも前述掛かり癖が出てしまい、先頭直線迎えたものの、坂を上り切ったところで力尽きユキノサンロイヤルの6着に敗れ天皇賞への道は閉ざされた。 その後国内適当なレースがないため海外活路求めこの年から国際レース指定され香港チャンピオンズマイル出走した地方所属馬による海外G1競走への出走は、同年ドバイワールドカップアジュディミツオー続いて2頭目あたったレースでは直線失速し翌年も同競走制し連覇することとなるBullish Luckから1.7秒差の10着と大敗喫した。続く宝塚記念では、馬体重16キロ減で臨んだ上、パドック右前脚を落鉄するトラブル見舞われるレースでは逃げるも、タップダンスシチーに4コーナーで外から並びかけられる差し返す力は残っておらず、スイープトウショウ12着に終わる。 天皇賞(秋)出走のためには2着以内に入らなければならない毎日王冠では、安藤勝己初め鞍上迎えたレースでは掛かり気味に3コーナー手前先頭に立つが、直線伸び11着に敗れる。その後天皇賞(秋)異なりJRA別に定め基準選定されれば出走可能なジャパンカップへ直行した。同競走ではミルコ・デムーロとの新コンビ出走する予定だったが、デムーロ落馬負傷ダヴィ・ボニヤ乗り替わるタップダンスシチー作るハイペース4番手で追走するが、見せ場作れず、勝利したアルカセットから1.4秒差の14着に敗れた。ただ前年より速いタイム走っていたことから、田部は「バルク復活の手ごたえを感じた」とのちに語っている。 この年は5戦して一度掲示板(5着以内)に載れずに第50回有馬記念迎えることになった1年ぶりに五十嵐騎乗するが、単勝85.3倍の10番人気という低評価であった。だがスタートから折り合い付けて3番手を追走すると、宝塚記念とは逆に逃げたタップダンスシチーを4コーナー捕らえる。その後最後まで見せ場作り勝利したハーツクライから0.5秒差の4着と健闘した

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4歳(2003年)

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ダンツジャッジ」の記事における「4歳(2003年)」の解説

4か月後、4歳初戦となった東風ステークスは4着、ダービー卿チャレンジトロフィーは中団からレース進め直線先に抜け出したマイネアイルをゴール寸前クビ捕らえて勝利重賞初制覇を飾る。続く都大路ステークストレジャークビ差の2着、初のGI挑戦となった安田記念スタート直後鞍上和田竜二落馬競走中止となる。その後落馬ダメージはなく米子ステークス出走し7着に敗れた。4か月後、カシオペアステークスは逃げ切ったプリサイスマシーンに続く2着、京阪杯後方から追い込むもチアズブライトリーに4馬身離された2着となる。ディセンバーステークスは先に抜け出したユキノサンロイヤルアタマ交わして勝利を収めた

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4歳(1999年)

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アグネスワールド」の記事における「4歳(1999年)」の解説

ガーネットステークス復帰し6着。その後は淀短距離ステークス2着、シルクロードステークス2着、高松宮記念5着と、いずれも1200mの競走で勝ちきれないレース続き、距離が伸びた安田記念では8着に敗れる。安田記念から連闘参戦した北九州短距離ステークスオープン特別)で、1200mを1分6秒5という日本レコードとなるタイムで勝ちを収め、ふたたび軌道に乗り始める。 小倉日経オープン勝利ののち、イギリスニューマーケット競馬場ロバート・アームストロング厩舎ドージマムテキとともに滞在し前年滞在したシーキングザパールと同じコース調教された。レース3日前にロンシャン競馬場移動したアベイ・ド・ロンシャン賞は、ヨーロッパスプリント戦線主役張っていたディクタットストラヴィンスキー出走せず、14頭での争いとなった馬券ドージマムテキと同じ馬主扱いとなり、ドージマムテキ及びアグネスワールド単勝オッズは7.8倍の4番人気であったアグネスワールドは好スタートから2番人気のサントマリーヌに次ぐ2番につけて抜け出しゴール寸前追い込んだインペリアルビューティを短首差退けて勝利、G1勝ちを果たした表彰式では、馬主名義渡辺ではなく共同所有者の一人である吉田照哉出席した帰国後はCBC賞に勝ち、続くスプリンターズステークスでは単勝1番人気に推されるもブラックホーク差され2着に終わる。

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4歳(1992年)

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サクラバクシンオー」の記事における「4歳(1992年)」の解説

4歳となった1992年1月12日中山開催新馬戦ダート1200メートルデビュー当日2番人気だったが、スタートから先頭を奪うと、そのまま2着に5馬身差をつけて逃げきり初戦での勝利を挙げた2週間後には1600メートル戦の黒竹賞に出走。1番人気に支持されるが、スタート後手踏んで後方からのレース運びとなり、道中で先団へまくっていくも、直線2番人気のマイネルコートに競り負けアタマ差の2着と敗れた。距離が1200メートル戻った3戦目では単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持されると、2着に4馬身差をつけての逃げきり勝利走破タイム1分8秒8は、同日に同条件行われた古馬5歳以上馬)900下条件戦のタイムを0秒3上回るのだった。 この時点で、以後短距離路線集中することも考えられていたが、境と馬主の全演植が相談のうえで一度中距離以上を使ってみることで合意し3月29日、4歳クラシック初戦皐月賞へのトライアル競走であるスプリングステークス1800メートル)へ出走した当日ラジオたんぱ杯3歳ステークス優勝馬ノーザンコンダクト前年朝日杯3歳ステークス優勝馬ミホノブルボンに次ぐ3番人気支持された。レースではスタート切られる2番手を追走。しかし重馬場を気にしてフォーム乱れ逃げミホノブルボン競りかけることもできず、4コーナーではあわや転倒しそうになるほどバランス崩して失速していき、2着に7馬身差をつけ圧勝したミホノブルボンから3秒5差の12着と大敗した。境は戦前から「蹄の形から見ると滑る馬場良くないかもしれない」と予想しており、鞍上小島太敗戦の弁も「滑る馬場で馬が夢中になり、息が入らなかった」というものであった。境は1994年安田記念に臨む前に受けたインタビューにおいても「この馬の敵はなんです綺麗に脚を伸ばして走る馬ですから、飛び関係してきます」と語っている。また、このレースにはこの年菊花賞ミホノブルボン無敗三冠制覇阻んだライスシャワー出走しており、同馬は4着であった抽選対象皐月賞出走可能性残されていたが、スプリングSでの大敗によってクラシックには見切りをつけ、短距離重賞クリスタルカップ出走調教不順伝えられながらも単勝1.8倍の1番人気に推されると、2着タイトゥルーに3馬身半差を付けて逃げきり重賞初勝利挙げた小島は「抜群のスタートセンスを持っているし、スピード絶対値が違う」と称えた。続く菖蒲ステークス逃げきって連勝したが、6月出走したニュージーランドトロフィー4歳ステークスでは距離1600メートル調教不順と不安材料重なりシンコウラブリイの7着と敗れたその後夏場休養充て9月復帰したが、緒戦京王杯オータムハンデキャップではハギノスイセイの大逃げ追走するとなって3着、続く多摩ステークスでは1000メートル通過57秒0というハイペース飛ばした末、直線で力尽きて7着に終わる。この2戦はいずれ1600メートルであった。距離を1400メートルとした3戦目・キャピタルステークスでは一転して軽快逃げから後続寄せつけず、2着ミスタートウジンに2馬身半差、レコードタイムから0秒1差の1分21秒1というタイム快勝した12月20日スプリンターズステークスGI競走初出走。当日マイルチャンピオンシップ連覇しているダイタクヘリオス同期の桜花賞優勝馬ニシノフラワーに続く3番人気と、地味なオープン特別路線進んできた馬としては高く評価された。レースではトモエリージェント、ユウキトップランに挟まれての先行勢に入ったが、これらが競り合って飛ばした結果前半600メートル32秒8という非常なハイペースとなる。最後直線では後方控えていたニシノフラワー追い込んで勝利しサクラバクシンオーは6着に終わった。この競走1400メートル以下の距離でサクラバクシンオー喫した唯一の敗戦である。

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4歳(1996年)

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エアグルーヴ」の記事における「4歳(1996年)」の解説

4歳初戦チューリップ賞では短期免許騎乗していたオリビエ・ペリエ鞍上迎え、2着のビワハイジに5馬身差の圧勝。この勝利伊藤は「桜花賞オークス秋華賞全部勝つぞとなった」というが、桜花賞向けて調整中に熱発起き、これにより桜花賞回避した伊藤曰く熱は上がったといって2、3程度だったため熱発起きた夜に回復したが、先に情報出回ってしまったため「無理をして出走してもいいことは一つもありません」ということ回避決めたという。また、武によると当時栗東トレーニングセンターでは風邪流行っていたといい、武を鞍上皐月賞への出走予定していたダンスインザダーク熱発したため皐月賞回避した熱発休養明け臨んだ優駿牝馬オークス)では1番人気に支持された。レース最後直線早めに抜け出すと、桜花賞ファイトガリバーらの追い込み封じてGI勝利を挙げた。この勝利史上2例目、42年ぶりのオークス母娘制覇達成したその後休養入り、ステップレースには出走せずに牝馬クラシック最終戦秋華賞出走した。しかし、伊藤が「人間に、ここは負けられないという気持ちが強すぎた」というほど仕上げすぎたことで体調万全ではなく、さらにパドックでのフラッシュ撮影過敏に反応してイレ込み返し馬でもパニック状態は収まらずに出走迎えることとなったレースでは好位でレース進めたものの手ごたえが悪く、武が4コーナー手前からムチ入れなくてはならなくなるほどだった。結局ファビラスラフイン10着と惨敗しレース後には右前脚の骨折判明し長期離脱となった秋華賞後に北海道牧場手術施されエアグルーヴ年内栗東戻った

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4歳(2003年)

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ナリタセンチュリー」の記事における「4歳(2003年)」の解説

10ヶ月ぶりの復帰戦を4馬身差で勝利すると、続く昇級戦1000万下)も勝ち、その後の特別戦(1600下)でも3着に入ると、重賞初挑戦となる金鯱賞に向かう。単勝11番人気であったが、タップダンスシチーから0.8秒差の7着に入り、GI3勝馬テイエムオーシャン(9着)に先着した。再び休養入りその間一度勝っている1000万下に降級したが、6ヶ月半ぶりのレースとなった条件戦1000万下)を2馬身差で勝利した

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4歳(2005年)

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ダイワメジャー」の記事における「4歳(2005年)」の解説

手術後休養入り2005年4月ダービー卿チャレンジトロフィーGIII)で復帰当日3番人気推されダイワメジャー淀みのない流れ2番手で追走すると、最後直線抜け出して2着チアズブライトリーに2馬身差を付けて勝利喘鳴症からの復活遂げた走破タイム1分32秒3はレースレコードであった上原は「直線後ろ引き離したときにはゾクゾクしました皐月賞同じくらい嬉し勝利です」と語り社台ファーム長浜卓也は「上原先生から非常に順調との連絡もらってはいたが、どんな走りをするのかという期待よりも、どうしても不安の方が大きかったそれにしても強かったGI馬の貫禄見せてもらった」と語ったその後順調に出走続けたが、2005年にはほかに勝利を挙げることはできなかった。秋に出走したマイルチャンピオンシップGI)は、2番追走から最後直線抜け出しゴール前でかわされハットトリック差し返しにいくもハナ差の2着という惜敗であった

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4歳(明け5歳も含む)

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ばんえい競走」の記事における「4歳(明け5歳も含む)」の解説

2006年度までは4歳世代限定のBG1競走がなく、チャンピオン決定戦明確化されていなかったが、2007年度より(旧)旭川記念廃止し代わりにBG1の天馬賞新設チャンピオン決定戦位置づけられた。

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4歳(1990年)

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カミノクレッセ」の記事における「4歳(1990年)」の解説

カミノクレッセデビュー戦1990年2月阪神1600mの新馬戦安達昭夫騎乗したが、2着に終わった新馬戦後、クレッセはトウ骨に不安を抱えていたことから、脚に負担少なダート戦を中心に使われ、4戦目で初勝利を挙げた(この時も安達騎乗している)。だが初勝利後、骨膜炎で秋まで休養することになる。 休養後、9月中京競馬復帰したクレッセは武豊とのコンビ500下戦、900下戦と条件戦確実に勝ち上がり準オープン馬まで昇格した

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4歳(2007年)

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ステキシンスケクン」の記事における「4歳(2007年)」の解説

長期休養明け迎えたカシオペアステークスは9着、次のキャピタルステークスでは5着となり、尾張ステークスでは3着に入線したが、他馬の走行妨害したため7着に降着となった

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4歳(2005年)

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オペラシチー」の記事における「4歳(2005年)」の解説

2005年初戦1600下条件戦は単勝1番人気に応え勝つが、続く日経賞メトロポリタンステークスはともに3着に敗れた。しかし、目黒記念では直線での3 - 4頭の叩き合いクビ制し2度目レコード重賞初制覇を飾る。続く札幌記念でも単勝1番人気に支持されるが、影響伸びず、ヘヴンリーロマンスの7着に敗れた。 3ヶ月ぶりのレースとなった京阪杯京都)では、終始先行して最後直線入ったが、そこから伸び11着に敗れ、続く有馬記念でも直線での不利もあって14着と大敗するレースに関する詳細第50回有馬記念参照)。なお、佐藤京阪杯同日東京競馬場行われたジャパンカップダートサンライズバッカスに、有馬記念ではタップダンスシチー騎乗したため、この2戦は中舘英二乗り替わりとなった

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4歳(1954年)

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タカオー」の記事における「4歳(1954年)」の解説

1954年正月3日初開催から始動オープン戦勝利から、クラシック初戦皐月賞向けて連勝続ける。4月4日通算17戦目となるオープン戦勝利至りクリフジトサミドリウイザートに続く11連勝達成。そして4月18日新記録12連勝懸け本命馬として皐月賞臨んだ。本競走で、関西入厩していたダイナナホウシュウ初対戦となる。ダイナナホウシュウもまたデビュー以来10連勝続けており、同郷東西両雄対決注目された。当日単勝人気タカオー1番人気、ダイナナホウシュウ2番人気の順であったが、投じられた票数は4799対4668と、ごく僅差であったスタート切られるダイナナホウシュウ先頭立って馬群先導タカオー先行集団の中を進んだ最終コーナーにかけてタカオー先頭窺い進出して行ったが、直線入りダイナナホウシュウタカオー以下を突き放し、2着オーセイに8馬身差の圧勝タカオー失速し13馬身余り離された4着に終わったタカオー重馬場上手の馬と見られていたが、競走後高橋英夫敗因として重馬場手間取っていたと述べた続いて東京優駿日本ダービー)を控えトライアル競走NHK盃出走再度対戦となったダイナナホウシュウから離れた3番人気評価落としたが、スタート出遅れた同馬を3着に退け皐月賞雪辱を果たす。次走のオープン戦にも勝利して東京優駿臨み当日ダイナナホウシュウに次ぐ2番人気支持された。レース重馬場の中を好位追走から、直線ダイナナホウシュウ交わして先頭立った。しかし直後重馬場得意のゴールデンウエーブ大外から交わされ、同馬から3馬身差の2着に終わった競走後秋に備えて休養入ったダイナナホウシュウ対しタカオー休みなく出走続けダービー2週間後のオープン戦から8月15日函館記念まで、3ヶ月足らずの間に9戦6勝という成績進み函館記念では66kgの斤量背負いながら、コースレコード走破した。しかし秋に入る調子落として連敗し、秋シーズン5戦目に出走したクラシック最後の一冠・菊花賞11月23日)は、勝ったダイナナホウシュウから約7馬身差の4着に終わったその後は次走の中山特別勝利年末クモハタ記念を2着として4歳シーズン終える。年頭初開催から年末最終開催まで走破し当年のみで2615勝という成績残した

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4歳(1996年)

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ロイヤルタッチ」の記事における「4歳(1996年)」の解説

4歳初戦きさらぎ賞でもペリエ騎乗ダンスインザダークとの一騎討ち制し重賞2連勝となった。 次走の若葉ステークスでは短期免許切れたペリエ帰国したため、蛯名正義騎乗無敗のままクラシックロードを進むかに見えたが、重馬場影響もありミナモトマリノスに2馬身半の差を付けられた2着と完敗、初黒星喫した皐月賞では騎乗予定だった蛯名騎乗停止中で騎乗できず、南井克巳騎乗弥生賞勝利したダンスインザダーク熱発で、スプリングステークス勝利したバブルガムフェロー骨折でともに出走回避したため、押し出される形で1番人になったが、イシノサンデー捕らえ切れず2着に惜敗した。日本ダービーでも南井が騎乗し兄弟制覇狙ったが、フサイチコンコルド末脚なす術もなく4着に敗れデビュー以来初め連対逃した。 秋は鞍上岡部幸雄迎えライバルたち先んじて函館記念から始動したが、古馬の壁に跳ね返されて6着に敗れ当時菊花賞のステップレースであった京都新聞杯でもダンスインザダーク完敗。そして、菊花賞でもダンスインザダークの鬼脚に屈し2着に敗れ結局クラシックを1つも勝つ事ができなかった。 年末有馬記念では、この年三冠走った馬として唯一出走2歳上のサクラローレル1歳上のマーベラスサンデーマイネルブリッジに次ぐ4着と健闘した

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4歳(1972年)

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ランドプリンス」の記事における「4歳(1972年)」の解説

明けて4歳となったランドプリンスは、呉竹賞・ジュニヤーカップ・オープン・さざんか賞(いずれも京都)を4連勝しクラシック戦線に加わるために東上することとなった。なお1972年前年末より関東地区大流行した馬インフルエンザ影響により、関東地区中央競馬開催が2ヶ月間中止された。このため同年春のクラシック戦線日程大幅に変更され5月28日皐月賞7月9日日本ダービーが行われることとなった東上初戦3月19日京成杯では、前年阪神3歳ステークス優勝馬で4連勝中のヒデハヤテ敗れ1馬4分の3差の2着に終わったその後4月29日オープン東京)と5月14日弥生賞出走したが、いずれもロングエース敗れ2着に終わった5月28日皐月賞ではデビューから5連勝中のロングエースが1番人気となり、タイテエム続き上記2頭をランドプリンス関東所属イシノヒカルが追う図式となったレースでは先行するロングエースとそれをマークするタイテエム対しランドプリンス馬群中に控え直線入って内を突き先頭立った。外からロングエース追ってくるものの伸びきれず、代わって後方からイシノヒカル大外追い込んできたが、ランドプリンスイシノヒカルを半馬身抑えて勝利したその後当馬6月17日オープン東京)に出走しスガノホマレの2着となった7月9日日本ダービーでは、皐月賞からの直行となったロングエース引き続き1番人気となり、差のない2番人気当馬3番人気タイテエムとなったレースでは直線向いてタイテエムが早目に先頭に立ち、外から当馬接近するが、タイテエムの内からロングエース追い込み人気上位三頭争いとなった最後ロングエースが首差で当馬抑えて2分28秒6のレコードタイム優勝しタイテエムが3着に入ったランドプリンス10月1日神戸新聞杯から秋のレース開始した。ここで本馬は1番人気に支持されるが、タイテエム敗れ2着であった。続く10月22日京都新聞杯でも引き続き1番人気に推されたが、またもタイテエム敗れ4着に終わった11月12日菊花賞では1番人気がタイテエム2番人気本馬3番人気ロングエースであったが、レースではイシノヒカルタイテエム大外ら抜き去り優勝し本馬は4着に終わった

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4歳(1978年)

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バンブトンコート」の記事における「4歳(1978年)」の解説

2月8日福島県いわき市競走馬総合研究所常盤支所にある温泉移動し3月27日栗東戻った皐月賞回避し東京優駿目標据えた4月17日東京へ入厩し、追い切り再開5月14日東京行われたオープン特別で5ヶ月ぶりに復帰し馬体重絞り切れず太め出走した逃げ粘るメジロホークとミノルジンデンを捕らえるのに苦労したが、残り100mから馬場の内から伸びて5連勝となった。 続く東京優駿では1番人気に支持され調教経て状態は良化し、あばらが見えるほどの「絶好調」な状態で出走したメジロイーグルハイペース逃げ展開しバンブトンコート2、3番手の好位に位置したメジロイーグル最後直線コース中間まで粘り、それにバンブトンコートや、アグネスホープ、サクラショウリ争い加わり4頭が横一線になって競り合った。アグネスホープとバンブトンコート進路狭くなって後退、代わってサクラショウリ伸びて勝ったバンブトンコートは、追い込んだカンパーリに差される4着に敗れた。 夏の函館記念でトップハンデを背負いながらも、メジロイーグルファンタスト相手勝利。秋の始動戦である神戸新聞杯では河内洋乗り替わり函館記念から馬体重を16kg増やしながらも勝利し重賞連勝した菊花賞トライアル京都新聞杯では、サクラショウリと共に単枠指定となったバンブトンコートと同厩のメジロイーグル逃げ切り許し、6着と初め掲示板外した本番菊花賞でもサクラショウリとともに単枠指定となったが、7着に敗れた菊花賞の後、左トモの状態が悪く、再びいわきの温泉向かった

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4歳(1978年)

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シアトルスルー」の記事における「4歳(1978年)」の解説

シアトルスルー前年発症した高熱から完全に立ち直ったのは1978年1月のことであった5月アケダクト競馬場レース出走し優勝したあと3か月休養取り8月から本格的にレース復帰した初戦を勝ち2戦目のG2パターソンハンデキャップで2着に敗れたあと、G1マルボロカップで1歳年下三冠馬アファームド対戦三冠馬が同じレース対戦するのはアメリカ競馬史上初のことであったシアトルスルーにはアファームドより約1.8kg重い斤量課せられたが、アファームドに3馬身着差をつけて優勝した続いてG1ウッドワードステークスヨーロッパから移籍したエクセラー対戦し、4馬身着差をつけベルモントパーク競馬場ダート2000メートルコースレコード記録して優勝したウッドワードステークス2週間後、G1ジョッキークラブゴールドカップステークスアファームドエクセラーと再び対戦した。このレースシアトルスルーは非常に速いペース逃げたが、後半ペース落とした隙に後方待機していたエクセラーに並ばれ、接戦の末ハナ差で2着に敗れたアファームドは5着に敗れたその後G3のスタイヴサントハンデキャップを勝ったのを最後に競走馬引退したこの年エクリプス賞では年度代表馬には選ばれなかった(選出されたのはアファームド)が、最優秀古馬タイトル獲得した

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4歳(1980年)

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サクラシンゲキ」の記事における「4歳(1980年)」の解説

1月26日東京競馬場オープン競走復帰以降弥生賞皐月賞にも挑戦したいずれも敗れて4連敗その後5月3日東京競馬場オープン競走1600メートル)で復帰後初勝利を挙げた後には、東京優駿日本ダービー)にも挑戦した東京優駿ではハナ奪って逃げ最後直線半ばまで先頭保ち続けて4着となった騎乗した小島太は「日本中の目が逃げたオレの馬に集中したはずだ。よく粘ったよ。」と振り返った一休みして秋は、9月7日京王杯オータムハンデキャップ復帰、1番人気で出走した。再び逃げてスローペース演出すると、後続追い上げなくそのまま逃げ切り勝利後方に2馬身離して1年振り重賞勝利果たした快勝したことに全は、セントライト記念結果次第菊花賞出走することを決意した。しかし、セントライト記念ではキタノリキオ―にハナ奪われ逃げることができず、5着に敗退菊花賞参戦は幻になったその後オールカマーダービー卿チャレンジトロフィー連戦するも、勝利には至らず中山競馬場オープン競走1600メートル)で逃げ切り勝利したのち、有馬記念参戦プリテイキャスト上回る逃げ展開したが、オーバーペースとなり10着に敗退した

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4歳(2010年)

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フェイムアンドグローリー」の記事における「4歳(2010年)」の解説

休養終えて4月11日のアレッジドステークスに出走したが、3着に敗れた。続く5月3日ムーアズブリッジステークス (G3) では2着馬に5馬身差をつけ圧勝した5月23日タタソールズゴールドカップでは単勝1.5倍の圧倒的1番人気に推されレースでは2着馬に7馬身差の圧勝劇を演じG1競走3勝目挙げた6月4日コロネーションカップでは2番追走から楽に抜け出しサリスカ1馬身半突き放して快勝G1競走4勝目挙げた8月8日のロイヤルウィップステークス (G2) では後続に3馬身半差をつけ勝利し、格の違い見せ付けた。しかし本番凱旋門賞ではワークフォースの5着に敗れた

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4歳(2019・20年)

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ベリーエレガント」の記事における「4歳(2019・20年)」の解説

8月24日ウィンクスステークス復帰するものの9着、9月21日ジョージメインステークスも4着と振るわなかったが、10月5日のヒルステークス(G2)を勝利したその後26日コックスプレート出走したが、リスグラシューから約10馬身離され12着に敗れた。 4ヶ月休養後、2月15日アポロステークスG2)で復帰し4着、29日チッピングノートンステークス3月21日ランヴェットステークスを2着と好走し連闘挑んだタンクレッドステークスでG1・3勝目挙げたその後4月11日クイーンエリザベスステークスで2着に入り4歳シーズン終えた

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4歳(1982年)

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ハギノカムイオー」の記事における「4歳(1982年)」の解説

1月31日京都競馬場新馬戦改めデビュー迎え鞍上には伊藤娘婿であり、トップレディの主戦騎手務め伊藤清章配された。当日はおよそ100人の報道カメラマン揃い、また新馬戦ながら音声実況によって関東競馬場にも中継された。レーススタート直後から他馬を引き離すと、そのままゴールまで逃げ切り、2着に7馬身差を付けて初戦勝利を収めた新馬戦制したのみにも関わらず翌日スポーツ新聞各紙はこの勝利を一面報じた。 次走はクラシック初戦皐月賞備えて東上し400下の桜草特別に出走。このレースでも2着に3馬身の差を付けて快勝した。なお、このレース条件戦にも係わらず当初、準メインレースとして組まれていたが、当日になってメインレースに変更されている。[要出典]特定の馬のために番組変更行った例はこれ以外にない。 無傷の2連勝挙げたカムイオーは中1週で皐月賞トライアルスプリングステークス出走。これがカムイオーの初の重賞挑戦となり、重賞2連勝中の巨漢サルノキング対戦した。同馬は前二走でカムイオーと同じく逃げ切り勝利を収めており、どちらが先手を取るかが戦前注目のひとつであった。しかし、スタート直後から明確に先頭奪い行ったカムイオーに対しサルノキング騎手田原成貴手綱抑えて後方追走道中では馬群から20馬身離れた最後方を進んだその後サルノキングは第2コーナーから突然加速しながら先行集団追い付いたが、最後直線失速結局カムイオーがゴールまで逃げ切り、3連勝重賞初勝利挙げた一方でサルノキング田原騎乗批判浴び、またサルノキングがカムイオーと同じく中村和夫所有馬であったことから、八百長ではないかとの疑惑持ち上がった詳細サルノキング事件参照)。 騒動の後に迎えた皐月賞では1番人気に支持されたが、戦前から「逃げ宣言」をしていた加賀武見騎乗ゲイルスポート先頭奪われると、同馬と競り合って前半600メートル通過34秒9と、皐月賞史上最速ペースとなった。この結果第3コーナーゲイルスポートともども失速アズマハンター16着と大敗した東京優駿日本ダービー)に向けて出走したNHK杯ダービートライアル)もゲイルスポート執拗に絡まれ12着と大敗した。これを受けて陣営ダービー出走断念し、カムイオーは荻伏牧場休養入ったゲイルスポート最終的に条件馬のまま終わったが、これらの経緯から「カムイオーの天敵」として名を残している。 秋は菊花賞目標神戸新聞杯から復帰日本ダービー優勝馬のバンブーアトラスを3着に退け逃げ切りでの勝利を収めた。続く京都新聞杯菊花賞トライアル)では初め道中2番手に控えると、直線抜け出して優勝した重賞2連勝と、前走のレース振りから2番手以下に控えレース可能になったと見られ迎えた菊花賞では1番人気に支持された。レースではスタートから先頭を奪うと、1000m通過59秒5というハイペースで、後続10馬身以上引き離す大逃げ打った第3コーナー急激に失速し15着と惨敗した。カムイオーのハイペース引っ張られ優勝馬ホリスキー走破タイム3分5秒4は3000m世界レコードタイム当時となった

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4歳(2004年)

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ハードクリスタル」の記事における「4歳(2004年)」の解説

8か月長期休養明け北海道滞在。4歳初戦3歳以上500下を好位から抜け出し勝利すると続く恵山特別は後方からクビ差し切り連勝を飾る。渡島特別はクビ捕らえきれず2着に敗れる。1.7倍の人気推され羊蹄山特別は4着、続く北斗賞はダンツエナジーにクビ差で敗れる。北海道での滞在競馬6戦目となったオホーツクハンデキャップをトップハンデ57.5背負いながら後続に4馬身差をつけ圧勝する昇級初戦赤富士ステークスはワイルドソルジャーをクビ交わして連勝オープン昇級する。いきなりGI挑戦となったジャパンカップダートは8着に敗れた

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4歳(2010年)

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レインボーヴュー」の記事における「4歳(2010年)」の解説

アメリカ移籍し移籍緒戦となった4月16日一般競走5月15日のギャロレットハンデキャップ (G3) ではともに1番人気で勝利を収めたその後カナダ遠征し6月5日ナッソーステークス (G2) に出走したが3着、7月17日のモデスティハンデキャップ (G3) では4着に敗れた

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4歳(1992年)

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シンコウラブリイ」の記事における「4歳(1992年)」の解説

外国産馬桜花賞優駿牝馬オークス)の出走不可能だったため、4歳となってもしばらく出走せず、長期休養となった5月23日牝馬限定競走カーネーションカップOP)で半年ぶりの復帰参戦直前砂浴び行ったところ、自らの脚で蹄底に傷をつけた。直ち治療する必要があったが、春闘厩務員ストライキとの関係のために適切な治療ができず、完治していない状態ながら1番人気で出走出遅れ折り合い欠いたことで、直線全く伸びず、6着に敗れた続いて、春の目標据えていた6月7日ニュージーランドトロフィー4歳ステークスGII)に参戦出走10頭の中から、京都4歳特別GIII)など重賞3勝を含む4連勝中の外国産馬ヒシマサルが1.7倍の1番人気に推された。同じく外国産馬京成杯GIII)を制したエーピージェットが2番人気クリスタルカップGIII)を制し菖蒲ステークスではエーピージェットを下した2連勝中の内国産馬サクラバクシンオー3番人気続きシンコウラブリイは11.4倍の4番人気支持であったスタートから2番手を保ち直線ではサクラバクシンオー逃げて直線失速するのを尻目に先頭に立ち、追い上げるヒシマサル1馬身半差離して先頭入線重賞初制覇となり、厩舎開業5年目藤沢にとっても初の重賞タイトルとなった。それから、外国産馬出走本年から解禁となっていたラジオたんぱ賞GIII)に出走鞍上は3戦連続騎乗した岡部から、坂本戻り、1番人気に推された。逃げた2頭から離れた3番手で進み第3コーナーから前2頭に接近最後200メートル抜け出して差を広げ後続に2馬身離して勝利した。 3か月休養経て10月4日クイーンステークスGIII)に再び岡部とともに出走2000メートル及び中山競馬場初参戦だったが1番人気に推された。2番手を保ち直線抜け出すと、後方に3馬身離して勝利重賞3連勝とった。その後は、4歳牝馬目標であるエリザベス女王杯に進むと考えられていた。エリザベス女王杯は、外国産馬シンコウラブリイが、牝馬三冠の中で唯一出走可能な競走であったが、藤沢ジャパンカップGI)を目標設定。それに向けてエリザベス女王杯と同じ日に行われる富士ステークスOP)に参戦することを決めた。この決定は「批判的な眼で眺め向き少なくなかった」(阿部)という。 富士ステークス馬なりの状態のまま、1.3倍の1番人気に応えて勝利岡部ジャパンカップでも期待できる発言したが、藤沢シンコウラブリイ適性がやはり短中距離にあると見極め2400メートル行われるジャパンカップへ出走断念急遽連闘マイルチャンピオンシップGI)に出走、この藤沢采配は「ジャパンカップ出走表明した時よりもさらに大きな疑問の声があがった」(阿部)という。4.1倍の1番人気に推された。スタート直後は8番手につけ、中途で好位まで押し上げて追走最終コーナーでは内を突き追い上げたが、逃げ2番人気ダイタクヘリオス捉えることはできず、1馬身半差の2着となった

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4歳(2006年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:12 UTC 版)

トウカイトリック」の記事における「4歳(2006年)」の解説

2006年3月19日の「第54回阪神大賞典」でディープインパクトと再対戦迎えトウカイトリック逃げを打つも、ディープインパクトに3馬身以上千切られ2着におさまった更には初のGI挑戦となった4月30日の「第133回天皇賞(春)」でもディープインパクト対戦、他にもリンカーンデルタブルースローゼンクロイツアイポッパー出走するなか、トウカイトリック結果5番人気の9着に終わった12月2日に「第40回ステイヤーズステークス」へ出走トウカイトリックが「ステイヤーズステークス」へ挑戦する初めての競走となったファストタテヤマチャクラ出走するなか、2番人気据えられたが、1番人アイポッパーの3馬身差に敗れた

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4歳(1985年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 00:14 UTC 版)

プレシジョニスト」の記事における「4歳(1985年)」の解説

4歳シーズン1月末のサンフェルナンドステークス(英語版)(G1・D9F)から始動。2.7倍で1番人気に押される2番人気はゲートダンサー。スタートから逃げたプレシジョニストそのまま2着グレイントンに4馬身差を着けての逃げ切り勝ち(ゲートダンサーはグレイントンに首差の3着)。G1競走2勝目挙げた。 更にストラブ三冠をかけてストラブステークス出走。ゲートダンサー・グレイトンとの再戦になるも再び2.1倍の1番人気・2番人気同じくゲートダンサー。再びプレシジョニスト逃げ道中では前走と同じように差を広げたもののグレイントンが差を詰めてきて直線では並びかけ、さらにゲートダンサーも追い込んできてゴール前で激し争いになる。ほとんど並んだところでゴール。2頭から1/2馬身差の3着にゲートダンサーが入った写真判定結果ハナ差でプレシジョニスト勝利。ストラブシリーズのスイープ達成した史上5頭目)。 しかしストラブステークス勝利一週間後、プレシジョニストせき込むようになり、調教遅れたためサンタアニタハンデキャップ回避3月のポトレログランデハンデキャップ(英語版)(LS・D6.5F)に出走。当然の一番人であったが6着最下位敗北4月のサンバーナーディノH(G2・D9F)ではグレイントンとの再戦になり、7ポンドハンデ差もあり首差の2着に敗れる。翌5月のマーヴィンルロイハンデキャップ(G2・D8F)でもグレイントンとの勝負となるが、今度はグレイントンに4馬身差・1.32.8のコースレコードでの快勝となった。 そして6月の カリフォルニアンS(G1・D8F)に出走プレシジョニスト126ポンドのトップハンデ・1.6倍で1番人気、グレイントンが119ポンド・3.8倍の2番人気、サンタアニタハンデの勝ち馬ロードアットウォーが126ポンド・4倍の3番人気レース始まった逃げるロードアットウォー、二番手追走するプレシジョニストだったが直線でグレイントンが前に出てそのままゴール駆け抜けプレシジョニストはグレイントンから2 3/4馬身差の2着に敗れた同月末のハリウッド金杯(G1・D10F)でもプレシジョニスト前にグレイントンが立ちふさがるプレシジョニスト125ポンド・2倍の1番人気、グレイントンは120ポンド2.2倍の2番人気レース逃げプレシジョニスト2番手で追うグレイントン。直線でグレイントンに抜かれ、1 3/4馬身差の2着に終わる。 その後脚部不安生じたために休養に入るも復帰長引きアケダクト競馬場開かれたブリーダーズカップ・スプリント(G1・6F)への直行となった。グレードレースを2連勝してきたマウントリヴァーモア(英語版)とパンチョビラカップリングが4倍で1番人気、前年BCスプリント3着馬のファイティングフィットが同じく1番人気、ぶっつけでしかも久しぶりの6ハロンということプレシジョニスト4.4倍の4番人気に留まった。レースはマウントリヴァーモアと5番人気スマイル先頭集団作りプレシジョニスト3番追走直線入っても前の2頭が競り合っていたが、プレシジョニストが差を詰めていき、スマイル3/4馬身差し切って勝利その後11月末のナショナルスプリントチャンピオンシップ(G3・D6F)に出走するも4着に敗れる。4歳時は9戦4勝、BCスプリント勝利評価されエクリプス賞最優秀短距離馬選ばれた。

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4歳(1980年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:07 UTC 版)

ジュウジアロー」の記事における「4歳(1980年)」の解説

明けて4歳となり、中山オープン特別新春4歳牝馬ステークスを4着と好走。次走は東京競馬場うぐいす賞を順当に勝ち上がるレース後安田富騎手は「ダート初めてだったけど調教動きから心配してなかった」と大喜びした。続くクイーンカップ7着の後、条件戦を使うがダートのため差し届かず2着。当時関東での残念桜花賞であるフラワーカップ駒を進めるレース発走後は外、向正で内に入れ4角まで内をピッタリ通ると素晴らし手応え直線向き追うごとにグイグイ伸びて見事に勝利したその後、オークストライアルの4歳牝馬特別もコマサツキの2着とし優駿牝馬でも4着と好走した。 その実績が買われ福島競馬場行なわれラジオたんぱ賞では2番人気支持されたが人気には応えられ夏場休養入った。秋初戦クイーンステークスは4着。そして中1週で無謀とも言えそうな牡馬相手セントライト記念挑戦することになる。このレースにはサクラシンゲキ、キタノリキオーとこの世代を代表する逃げ馬がいた。レースではこの両頭お互い牽制したのかスローペースとなり、1コーナではなんとジュウジアロー先頭に立ちレース引っ張るになった直線入って逃げ続けゴール近くになりドロッポロード、モンテプリンス等に交わされたが、4着と大健闘した。 この実績があったのか次走の古牝馬相手牝馬東タイ杯4番人気支持となったレース安田騎手グリーングラス菊花賞彷彿させ、直線イン強襲して2着スパートリドンに3馬身半差で初の重賞勝利果たしたレース後安田富騎手は「外に出せなかったこともあるけど、直線の内は馬場そんなに悪くないことを知ってたからね。同期フトシ(小島太騎手)にだけは負けたくないと思っていたが、巧くいったなあ。」と言って白い歯を見せた。 翌エリザベス女王杯は、担当厩務員によると輸送に弱いタイプカイバ食い落ちるとレース前コメント。それもあってか4着に終わる。

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4歳(2007年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:19 UTC 版)

アドマイヤムーン」の記事における「4歳(2007年)」の解説

2007年京都記念からスタートした。59kgの斤量背負い、また有馬記念2着のポップロック出走したこともあってポップロックに次ぐ2番人気に留まった。しかしレースでは中団から鋭く伸び最後ポップロック追い込みクビ差だけ粘り切り勝利を収めたその後ドバイデューティーフリー出走しダイワメジャーこの年ブリーダーズカップ・ターフ制するイングリッシュチャンネルリンガリといった強豪抑えて勝利悲願のG1初制覇海外遠征よるもので、このレースでのレーティング125ポンド評価された。その後日本では未だ異例とも言える海外転戦するローテーション組みドバイから日本へは戻らず直接香港移動し香港G1・クイーンエリザベス2世カップ出走した。しかし、後方から追い込むスローペースレース展開があわず、3着に終わる。 帰国後は第48回宝塚記念に向け調整進められたが武豊降板決定し岩田康誠への乗り替りとなったそれまで主戦騎手だった武豊ポップロック騎乗した)。道中メイショウサムソンマークする形で中団を進み最後直線ではいち早く抜け出していたメイショウサムソン馬体合わせてきたが、残り100mあたりで振り切りメイショウサムソンに1/2馬身差をつけて勝利国内GI制覇を果たすと共に皐月賞日本ダービー苦杯をなめさせらたメイショウサムソン雪辱果たしたレースでのレーティング前年覇者ディープインパクトと同じ124ポンド評価された。また、8月11日発表されJPNサラブレッドランキング2007年度上半期において125ポンドMile)の評価得たレース後、天皇賞(秋)目指し山元トレーニングセンター放牧中だった7月27日に「ダーレー・グループ」の日本法人であるダーレー・ジャパンへと所有権移転されたことが明らかとなり、8月9日所有権移譲日本中央競馬会によって行われた日本国内での馬主変更という形となり、厩舎松田博資厩舎所属のままとなった8月26日には前哨戦使わず第136回天皇賞直行することが発表された。当馬その後ノーザンファーム移動し9月14日に帰厩した。10月12日発表されトップ50ワールドリーディングホースでは、宝塚記念制したことにより122ポンド評価得て15タイとなった。なお、前年同じく香港カップ予備登録行っていたが、10月23日馬インフルエンザ影響検疫期間が1ヶ月かかることから回避することとなった。 そして迎えた天皇賞(秋)では4ヶ月ぶりの実戦ながら2番人気支持され鞍上にかつての主戦騎手武豊迎えたメイショウサムソンとの今年2度目対決であったが、直線で他馬からの走行妨害があったことも響き6着という結果終わり圧勝したメイショウサムソンとは対照的な結果となったレースの後の10月31日2008年からダーレー・ジャパン・スタリオン・コンプレックスにて種牡馬入りし、初年度種付料が同場最高額500万円受胎確認9月末日支払い、フリーリターン特約付き)となることが発表された。また、天皇賞(秋)で他馬と接触した影響がなかったことから、11月25日ジャパンカップ出走することが発表された。11月4日発表されトップ50ワールドリーディングホースでは、前回と同じ122ポンド評価得たが、順位17タイとなったジャパンカップでは前走敗れたことや、距離不安をささやかれていたこともあり5番人気にとどまる。掛かったことも影響して道中普段よりも前方レース進めロス少な内側通って直線早めに先頭に立つと、最後ポップロック追撃アタマ差しのぎ勝利を飾ったレース後、このレースをもって現役引退することが発表され2007年12月4日付で競走馬登録を抹消12月5日北海道ダーレー・ジャパン・スタリオン・コンプレックス移動した。なお、ダーレー・ジャパン・ファームは引退発表後の11月28日付で中央競馬馬主登録抹消手続き行っている。ちなみに出走に至らなかったが、12月6日発表され有馬記念ファン投票最終結果で5位となる64886票を獲得した11月29日発表され重賞オープン特別競走レーティングでは、ジャパンカップ制したことにより123ポンド評価得た。さらに11月30日発表されトップ50ワールドリーディングホースでは、日本馬のなかで最高位となる123ポンド評価得て11タイとなった

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4歳(2008年)

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スクリーンヒーロー」の記事における「4歳(2008年)」の解説

療養中2008年3月矢野進調教師定年引退により鹿戸雄一厩舎転厩8月支笏湖特別(札幌2600m)でおよそ1年ぶりに復帰し、1番人気で勝利を挙げる。続く2戦はいずれも2着に敗れるが、格上挑戦挑んだ11月9日アルゼンチン共和国杯重賞初勝利挙げた。 3週間後の11月30日GI初挑戦となるジャパンカップ新たな鞍上としてミルコ・デムーロ迎えて出走した同年ダービー馬のディープスカイ第138回天皇賞ダイワスカーレットとの激闘制しこのジャパンカップ出走してきたウオッカ、GI4勝のメイショウサムソンらが人気集める中、スクリーンヒーロー単勝41倍、9番人気の伏兵だった。レース前半1000メートル通過61秒8というスローペースとなり、3、4番手進んだウオッカ掛かり気味に。道中行きたがる素振り見せる馬が多い中、スクリーンヒーロースムーズに好位を追走直線先頭に立つと、外から追い込んできたディープスカイを半馬身抑えて優勝したその後有馬記念ではダイワスカーレットの5着に敗れるが、この年活躍評価されJRA賞最優秀4歳以上牡馬選出された。また、鹿戸は翌年ドバイシーマクラシックキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスなど、複数海外遠征示唆していた。

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4歳(1976年)

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トウショウボーイ」の記事における「4歳(1976年)」の解説

初戦は4歳を迎えた1976年1月31日東京競馬場新馬戦迎えた直前調教では1600mを1分45秒で走るという当時新馬としては破格タイム記録し素質馬として注目集めていた。当日は1番人気に支持されると、池上昌弘鞍上スタートから逃げ切り、2着のローヤルセイカンに3馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。この競走には後にTTG一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)と、後にミスターシービーを産むシービークイン(5着)が出走しており、「伝説新馬戦」としてしばしば語られる。 続くつくし賞(2月22日)、れんげ賞(3月20日)もそれぞれ4、5馬身差で連勝同時期、関西では3歳王者決定戦阪神3歳ステークス含めて5戦5勝という成績挙げていたテンポイントがクラシックへの最有力馬と目されており、これに対してトウショウボーイ関東所属馬の筆頭格とされた。しかし、テンポイントが4歳となって出走した東京4歳ステークススプリングステークスはいずれ僅差での勝利で、スプリングステークスレース後に2着のメジロサガミに騎乗していた横山富雄が「テンポイント怪物ではない」というコメント残し関東関係者の間でも「これならトウショウボーイのほうが強い」という声が多くなっていた。保田は3戦目のれんげ賞のレース後に「テンポイントには今の時点ではかなわないかもしれないが、絶対負かせない相手ではないと思う」とコメントしている。 当年皐月賞4月18日例年開催中山競馬場施行される予定だったが、これが春闘最中に当たり、開催3日前に厩務員組合調教師会の交渉決裂組合側がストライキ宣言して開催順延となり、翌週25日東京競馬場行われる運びとなった。これで調整狂い生じたテンポイント陣営対しトウショウボーイ順調に競走当日迎えた戦前からトウショウボーイテンポイントの初対決は「TT対決」として注目集め当日テンポイントが1番人気に支持されトウショウボーイ2番人気であったが、レースでは先行策から最後直線半ば抜け出すと、池上がほとんど手綱を動かすことなく2着のテンポイントに5馬身差を付けて圧勝収めた走破タイム2分1秒6は、同じく東京開催行われた第34回競走1974年)において、同じテスコボーイ産駒キタノカチドキ記録したタイムを0秒1更新するレースレコードであった。またキャリア3戦での皐月賞勝利1965年チトセオー以来11年ぶり2頭目、5馬身もの大差をつけての勝利1960年皐月賞を6馬身差をつけて勝利したコダマ以来16年ぶりのことであった卓越したスピード披露したものの、首を低く下げて走る走法はあまり速く見えず、まるで脚とは別に翼がついているようだということで、競走後にはマスコミから「天馬」との異名付され以後これが定着した厩舎関係者の間からは「十年一頭の馬」、「戦後最高の馬かもしれない」という評価も出るようになり、競走後スポーツ紙トウショウボーイ一色となり、「三冠馬」という見出し報じたものもあった。調教師尾形藤吉は「故障のない限り三冠取れる」と断言し藤本冨良は「あの馬を負かしかかった惨敗まぬかれない」と語った皐月賞圧勝を受け、東京優駿日本ダービー当日単枠指定シード)を受け、45%の単勝支持受けたレースでは逃げ戦法を採る馬がおらず、押し出されるように道中では先頭走り余裕のある手応え最終コーナー回った。しかし直線入り口地点で、クライムカイザー鞍上加賀武見が「馬体併せられると怯む」というトウショウボーイ弱点突き、その外側か進路を横切るように内側抜け出す怯んだトウショウボーイ残り200m地点で4馬身の差を付けられ態勢立て直して追走する届かず1馬身半差の2着に敗れた加賀騎乗進路妨害映ったが、しかし充分に間隔取って騎乗認められ加賀への制裁戒告行われなかった。大川慶次郎トウショウボーイ敗因として、初めスタンド前の大観衆の前を通って落ち着き失ったこと、さらにスタート直後にアカバテンリュウが執拗に絡んできたことでひどく掛かり気味で先頭立っていたことを挙げ、「『ダービーというレースそのもの』に負けてしまいました」と述べている。なお、テンポイントレース中に骨折していたことで7着に敗れている。 北海道戻り1ヶ月休養後、7月11日札幌記念出走。これに併せてクライムカイザー出走馬加わったことで大きな話題集め当時ダートコースしか備えていなかった札幌競馬場には、入場人員記録となる60,549人のファン訪れたトウショウボーイは1番人気の支持受けたが、スタート立ち後れ後方からのレース運びとなり、最後直線では追い込み見せながらグレートセイカンクビ届かず再度の2着に終わったダービーに続く敗戦の責を負う形で、この競走最後に池上降板となった。 クラシック最後の一冠・菊花賞に向け、秋は神戸新聞杯から始動当時天才」と称されていた福永洋一新たな鞍上迎えたレース先行策から直線入り口抜け出すと、クライムカイザーに5馬身差を付けて圧勝。1分58秒9は2000mの日本レコードタイムであり、日本競馬史上初めてとなる1分58秒台の記録だった。それまでレコードシルバーランド記録した1分59秒9であり、これを一挙に1秒短縮関西テレビ実況アナウンス務めた杉本清は「恐ろしい時計です、これは恐ろしい時計です」と驚き露わにした。 続く京都新聞杯クライムカイザー退け重賞2連勝菊花賞臨んだ戦前から3000mという距離に対する不安説が出ていたが、当日単枠指定を受け、単勝オッズ1.8倍の1番人気に推された。このレーストウショウボーイテンポイント鞍上の鹿戸からマークされる形でレース進め、また前日夜の雨影響濡れていた馬場苦しみ最後直線で一旦先頭立ったものの、直後テンポイントグリーングラス交わされた。結果的にレースは埒沿いを抜け出したグリーングラス優勝トウショウボーイは同馬から5馬身差の3着に終わった競走後福永敗因として重馬場と距離不適加え神戸新聞杯ピークで、調子落としていたとの見解述べた1ヶ月後、年末グランプリ競走第21回有馬記念出走福永エリモジョージ騎乗するため、本競走から武邦彦鞍上迎えた当日テンポイントや、天皇賞アイフルフジノパーシア同期二冠牝馬テイタニヤなどを抑えて単勝オッズ3.2倍で1番人気に支持されるレースは好位から直線入り口先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り優勝1馬身半差の2着にテンポイント入り有馬記念史上初め4歳馬1、2着を占めた走破タイム234秒0は2500メートル日本レコード当年八大競走2勝含む10戦7勝という成績で、年度代表馬と最優秀4歳牡馬選出された。

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4歳(1976年)

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グリーングラス」の記事における「4歳(1976年)」の解説

1976年1月31日郷原洋行鞍上東京デビュー戦迎え2番人気支持されたが4着に終わる。1番人気で楽勝したのは、後にライバルとなるトウショウボーイであり、さらにこのレースには後にトウショウボーイとの間でミスターシービーを産むシービークイン出走して5着に入っており、「伝説新馬戦」としてしばしば語られる。6着のタイエンジェルにはテンポイントと共に東上していた鹿戸明騎乗していた。2走目の新馬戦も4着に敗れ3月13日行われた3戦目の未勝利戦でようやく初勝利を飾るが、続く300下では初めての不良馬場泣き4着。その後は吉太郎死去中野厩舎転厩し、東京優駿日本ダービー出走僅かな望みをかけて出走したNHK杯では1勝馬ながら5番人気支持されたが、勝ち馬コーヨーチカラから1.5秒も離され12着と大敗トウショウボーイが既に皐月賞を勝ち、ダービー2着となってクラシック戦線主役であったのに対しグリーングラスの春はほとんど無名であった。 6戦目の鞍上郷原から安田替えクライムカイザートウショウボーイを敗ったダービー翌週あじさい賞(300下)で2勝目挙げる安田中野助手をしていた時から親しくしており、会うたびに「隆良ちゃん乗せてよ」とデビュー後グリーングラス騎乗頼んでいた。安田福島遠征時にデビュー前グリーングラス精悍で力強い動き魅了され面識があった半沢連絡取って騎乗依頼したこともあったが、諸事情郷原になっていた。あじさい賞は得意のパワー優先重馬場味方して鮮やかな差し切り勝ちを決めデビュー前印象間違いではなかったことを確信した岡部幸雄初め騎乗したマーガレット賞(600下)は2着、イットーの半弟・ニッポーキング勝利したセントライト記念と同じ日の10月3日鞍上安田戻した中距離ハンデキャップ600下)も2着であった足長大きな体をもて余しながらのレース続いて出世遅れてしまったが、中野は「距離が延びた大きなレース活躍してくれる」と思っていた。阪神トウショウボーイ京都新聞杯勝利した日と同じ24日中山行われた鹿島灘特別(600下)を写真判定の末にアタマ差で制し、ようやく3勝目挙げた。2着馬は初勝利及び2勝目の時と同じシマノカツハルであり、第37回菊花賞の3週間前の出来事であったその後すぐに栗東トレーニングセンター移して調整されたが、菊花賞1週間前にフルゲート21に対して35頭の登録があり、グリーングラス25番目で並んでいた。当時菊花賞出走するには獲得賞金ぎりぎりの状態で、グリーングラス上回る獲得賞金の馬が出走表明をした場合その時点で菊花賞への出走絶たれるという微妙な状態であった。かなり出走厳しい状況であったが、馬主半沢の強い希望があっての栗東入りであった。もし出走できない場合中山帰って来るつもりで、菊花賞当日条件戦には登録していなかった。冷静な中野とは対照的に安田は「菊花賞乗れ可能性がある」だけで有頂天になり、菊花賞と同じ日に東京主戦務めてきたプレストウコウが特別戦に出走予定していたが、二者択一迫られた末にグリーングラス選んだ。まだ出走確定していない4日前の11月10日自宅友人知人10数人集め菊花賞前祝いどんちゃん騒ぎをやった。部屋には色とりどりの菊花飾られ築地から仕入れて板前呼ばれた。翌11日段階であと1頭回避すれば出られる状況となり、12日には目の前にいた馬が条件戦に回る。迎えた14日菊花賞獲得賞金順で21頭中21番目、回避馬による繰り上がり出走。まさに滑り込みであったが、中野は後に「レース立て続けに不利を被るなど馬自身に運がなかったが、鹿島灘特別を写真判定勝ってから勝負運激変した」と語っている。 レース皐月賞馬・トウショウボーイダービー馬・クライムカイザー、そしてテンポイント三強形成トウショウボーイ天性スピード馬だけに重馬場3000mは不安もあったが、鞍上に「天才福永洋一得てまさに盤石思われ単勝オッズ1.8倍と抜けていた。クライムカイザー皐月賞から全くトウショウボーイと同じローテーションであったが、ダービー以外は全てトウショウボーイ後塵浴びており、こちらも父は短距離血統ヴェンチアと距離に不安があった。この2頭が史上初の2頭同時単枠指定となり、場外発売小倉競馬場でこの2頭の組み合わせ1点3000万円余も買った人がいたことが話題になった一方テンポイントダービー7着後に骨折判明して休養したが、復帰戦の京都大賞典古馬混じって3着と復活気配見せていた。この三強の後にはニッポーキング、夏の新潟記念11番人気で2着→京王杯オータムハンデキャップ最下位人気ながら古馬一蹴セントライト記念でもニッポーキングの3着に入った抽選馬のライバフット、ダービー4着→日本短波賞セントライト記念2着で嶋田潤から武邦彦バトンタッチするフェアスポート、京都大賞典古馬テンポイント破ったパッシングベンチャ、ムーンライトハンデキャップ(900下)を勝った「西の新星ホクトボーイ北九州記念小倉記念古馬破って連勝した小倉巧者のミヤジマレンゴと続いたグリーングラス鞍上安田京都騎乗するのが初めということもあって12番人気に過ぎなかったが、前日夜半からかなり降ったによる馬場悪化安田密かな希望を抱く。グリーングラス2勝目3勝目は共に2000mで重馬場での勝利であり、その2戦とも手綱取っていた安田は、本番当日早朝には自らの足で芝コース歩いてその緩み具合確認し競馬が始まると関係者席から各レースの馬や騎手動き凝視したパドックで跨がった時には別馬のように成長していたグリーングラスに「もしかしたら」と思うと、中野安田に対してトウショウボーイクライムカイザー負かそう思えば奇襲作戦しかない。内をぴったりと回ってくれば、2周目の4コーナーではかならず