3歳シリーズ
(3歳 から転送)
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3歳シリーズ(さんさいシリーズ)とは、個人ウェブページ作者であるG-STYLE(ジースタイル)が自分の子供や家族の日常を描いた一連のFLASH作品の総称・通称である。3歳FLASH(さんさいフラッシュ)ともいわれている。
- ^ 3歳シリーズきちゅび ISBN 978-4-8128-1133-7
- ^ 日本の著作権法上では北朝鮮の音楽をこのような形で使用する事については裁判例が無く、書籍付属のDVDに収録する事に関しての著作権上の問題の明確な規定が存在しない
- ^ 「勝利の閲兵式」はスペイン民謡「幸せなら手をたたこう」のメロディに金正日を賛美する歌詞をつけたもの [1]
- ^ 3歳シリーズきちゅび2(ちゅっちゅ) ISBN 978-4-8128-1564-9
- ^ 子供から大人まで豊富なサイズが提供されている
- ^ 広島のハタキ専門メーカー社員によるもの。なお、この社員が所属する会社の社長が手掛けたダーツベースボールという室内型新スポーツセット(4万円)の宣伝を3歳シリーズ商品化計画の一環としてHPで紹介されている事はあまり知られていない。
- 1 3歳シリーズとは
- 2 3歳シリーズの概要
- 3 関連項目
3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/11/21 13:27 UTC 版)
競走馬デビュー戦はフランスへ遠征し、5月にシャンティー競馬場で行われたレースを制して初勝利を挙げた。初勝利後は帰国し、6月に重賞競走初挑戦となったディアナトライアル (G2) を制して重賞競走初勝利を挙げた。続く8月のG1競走初挑戦となるディアナ賞ではローゼンライアに敗れて3着だった。9月には再びフランスに遠征し、ヴェルメイユ賞に出走したがザルカヴァに敗れて9着という結果に終わった。ヴェルメイユ賞後は帰国し、前走から2週間後に行われたオイロパ賞に出走することになった。レースでは2着となったポセイドンアドベンチャーに短アタマ差をつけて1着となり、G1競走初勝利を挙げた。この勝利は鞍上のドミニク・ブフとバルトロメイ厩舎にとっても同競走初勝利となった。そしてレース後は休養に入り5戦3勝で3歳を終えた。
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3歳(2003年)
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「マイネサマンサ」の記事における「3歳(2003年)」の解説
2003年3月1日の3歳新馬(阪神ダート1800m)でデビュー。後続に2馬身差をつけてデビュー戦を勝利で飾る。なお、この勝利は鞍上の長谷川浩大にとって初騎乗初勝利によるものだった。400m距離短縮となった2戦目の3歳500万下は逃げるナムラキャサリンを交わして4馬身差をつけて連勝。次走、芝の忘れな草賞は好位につけると上り最速の脚を使い2馬身差の快勝。デビューから3戦3勝とする。重賞初挑戦となったグランシャリオカップは勝ち馬から3.3秒離された5着に終わる。秋は秋華賞に出走、果敢に逃げると5着に粘った。その後は休養に入る。
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3歳(2003/2004年)
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「エクシードアンドエクセル」の記事における「3歳(2003/2004年)」の解説
2003年、始動戦のサンドメニコステークス(G2)では6着となったが、続くアップ&カミングステークス(G3)、ローマンコンサルステークス(G3)と1200mの競走を連勝。9月21日、迎えた1400mのドバイレーシングクラブカップ(G1)でも優勝し、3連勝でG1初制覇を挙げた。次いで1600mのコーフィールドギニーに出走したが、6着に敗れた。 2004年、1180mのロイヤルソヴリンステークス(G2)を制すると、続いて3月6日のニューマーケットハンデキャップ(G1)を勝利。その後ダーレースタッドによって約2200万豪ドルの価格で購入された。ドバイゴールデンシャヒーンを回避し、ロイヤルアスコット開催のゴールデンジュビリーステークスを目標に据えることになったが、血液の異常のためにこれも回避。7月8日、ジュライカップ(G1)に出走したが、20頭立ての19着に敗れ、これを最後に競走馬を引退した。 エクシードアンドエクセルは、当季のオーストラリア最優秀スプリンター(英語版)に選出された。
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3歳(2018/19シーズン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 08:57 UTC 版)
「ハウワーム」の記事における「3歳(2018/19シーズン)」の解説
2018年11月3日、ターフフォンテン競馬場で行われた芝1400メートルのメイドン戦でランドール・サイモンズ騎手を背にデビューし、2着に1馬身つけデビュー勝ちを収めた。2戦目のG2ディンガーンスステークスからはギャビン・レリーナ騎手とのコンビを結成。直線内から馬群を捌き、2着馬に3馬身つけ2戦目で重賞初制覇を飾った。 年が明け2019年、3戦目のトニーラッフェルステークス(G3)でも外から末脚を使い内で粘るインイグゾースティブルとの競り合いを制し3戦無敗で重賞連勝を達成した。4戦目のG2ハウテンギニーズではイーブンと圧倒的人気に推されたものの、ナショナルパークを捉えられず2着。初の黒星となった。そして3月の大一番サウスアフリカンクラシック(G1)では初めての1800メートルでの競馬となったが直線内から進出し前走で自身を負かしたナショナルパークとの競り合いに持ち込むとそこから一気に突き放し、2着のバラヒンに5馬身差をつける圧勝。3着にはナショナルパークが入り、前走のリベンジを達成したと共に最高のパフォーマンスでG1初制覇を成し遂げた。続くG1チャンピオンズチャレンジでも2着のカスカペディアに4馬身つける快勝を見せG1連勝となった。 さらにデイリーニューズ2000も制し、G1レース3連勝と絶対王者ぶりを遺憾なく発揮してきたハウワームは南アフリカ最大のレースであるダーバンジュライに出走する。前年覇者のドゥーイットアゲインを始めそうそうたるメンバーが揃った1戦でもハウワームは圧倒的な支持に推された。しかし発走直前、ゲート付近で外傷を負ってしまい、無念の競走除外となってしまった。
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3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/01/18 14:40 UTC 版)
「レディマリアン」の記事における「3歳(2008年)」の解説
休養を終えてまたもやフランスへ遠征し、3歳となっての初戦は4月28日にメゾンラフィット競馬場で行われたルナディクス賞(一般戦)に出走して2着、次走の5月15日にロンシャン競馬場で行われたトレヴィス賞(一般戦)は5着、さらに次走の6月12日にメゾンラフィット競馬場で行われた一般戦は6着となり、デビュー戦以来5戦して未勝利だった。その後デビュー以来初めて地元ドイツでのレースとなった重賞競走初挑戦となるユングハインリヒガベルシュタプラー大賞 (G3) に出走したが当時未勝利馬だったこともあり9頭中最低人気だった。しかしレースでは低評価を覆して勝利し、初勝利を重賞競走で飾った。次走はG1競走初挑戦となるディアナ賞に出走したが、ローゼンライアにクビ差で敗れて2着だった。レース後は再びフランスへ遠征し、8月24日に行われたノネット賞 (G3) を制して重賞競走2勝目を挙げた。そして10月5日に行われたオペラ賞では、1番人気で2着となったラッシュラッシーズに1馬身半差をつけて勝利し、G1競走初勝利を挙げた。なおレース後は休養に入った。
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3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/25 17:20 UTC 版)
休養明け初戦の3月15日のスプリングカップ(準重賞)に新たにリチャード・ヒューズを鞍上に迎えて出走して勝利し、続く重賞競走初挑戦となるグリーナムステークス (G3) も制し、重賞競走初勝利を挙げた。次走はフランスに遠征し、G1競走初挑戦となるロンシャン競馬場で行われたプール・デッセ・デ・プーランに出走したが、ファルコに敗れて7着だった。レース後は帰国して休養を挟み、7月にレノックスステークス (G3) 、8月にハンガーフォードステークス (G3) をそれぞれ制し、9月には再びフランスに遠征し、ムーラン・ド・ロンシャン賞に出走したが、ゴルディコヴァに敗れて3着だった。さらに約1ヵ月後には同じくロンシャン競馬場で行われるフォレ賞にも出走することになった。鞍上にはクリストフ・スミヨンが初騎乗して1番人気に支持され、レースでは2着となったナタゴラに3馬身差をつけて1着となりG1競走初勝利を挙げた。この勝利はスミヨンとハノン厩舎にとっても同競走初勝利となった。なおレース後は休養に入り7戦5勝で3歳を終えた。
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3歳(1998年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 01:29 UTC 版)
「リアルクワイエット」の記事における「3歳(1998年)」の解説
サンタアニタダービー2着をステップに挑んだケンタッキーダービーでは同厩舎の無敗馬インディアンチャーリー(英語版)が本命視されており、前走でインディアンチャーリーに完敗していたリアルクワイエットは5番人気に留まっていた。しかし、1マイル地点で先頭に立つと、7番人気ヴィクトリーギャロップの追撃を半馬身退けて栄冠を手にした。続くプリークネスステークスでもヴィクトリーギャロップを2馬身1/4差で下し、二冠を達成。セールでも低い評価しか受けず、2歳時は初勝利まで7戦を要し、3歳になってもクラシック本番まで未勝利だった馬の快進撃に対し、馬主のペグラムは「みにくいアヒルの子が美しい白鳥に成長した」と表現した。 そして、1978年のアファームド以来となる三冠制覇を懸けてベルモントステークスに出走した。三冠制覇の暁には500万ドルのボーナスが支給されることになっていた。管理するバファート師は前年にも二冠馬シルバーチャームで三冠に挑んだがタッチゴールドの2着に敗れており、その雪辱を懸けての挑戦でもあった。バファート師は「ヴィクトリーギャロップさえ倒せば、トリプルクラウンを取れる」と発言し、一騎打ちムードの様相を呈していた。当日は偉業達成を見届けるためにベルモントステークス史上2番目となる8万162人の観衆が詰めかけた。レースでは残り550ヤード地点で馬なりで先頭に立つと、直線で一時は4馬身程度にまでリードを広げ、この瞬間はバファート師も勝利を確信したという。追うヴィクトリーギャロップの鞍上ゲイリー・スティーヴンスも勝利を諦めかけていた。しかし、直線半ばからヴィクトリーギャロップが猛然と追い込み、一完歩ずつ差を詰めてリアルクワイエットとほぼ同時にゴール板を通過した。入線の瞬間、バファート師は凍りついたように立ち尽くし、ヴィクトリーギャロップのエリオット・ウォルデン調教師は興奮のあまり床に倒れ込んでしまった。写真判定の結果ヴィクトリーギャロップがハナ差先着しており、三冠達成は夢と消えた。ケント・デザーモの落ち込みも相当なもので、勝利したスティーヴンスもデザーモの顔を見ると「胸が張り裂けるような思いがした」と述べている。ちょうど1年前、スティーヴンスはシルバーチャームに騎乗して三冠の栄光をあと一歩で逃しており、その心情を重ね合わせていたのだった。20年で最も三冠達成に近づいたリアルクワイエット以降も長きに渡って三冠馬は出現せず、2015年にバファート厩舎の後輩アメリカンファラオが達成するまで17年の時が流れていた。 三冠競走後はレースに出走しなかったものの、エクリプス賞最優秀3歳牡馬に選出された。
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3歳(2003年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 09:04 UTC 版)
「グラッブユアハート」の記事における「3歳(2003年)」の解説
2003年1月5日の新馬戦(京都ダート1800m)でデビューし、逃げるベガスナイトをアタマ差交わし初勝利を挙げる。次走は芝のフラワーカップに挑戦したが15着と大敗に終わる。ダートに戻し、3か月ぶりとなった檜山特別で4着に入ると、柏崎特別を6馬身の圧勝、2勝目を挙げる。次走は交流重賞のサラブレッドチャレンジカップに出走し、ハナ+アタマ差の3着に惜敗。続く自己条件の利根川特別で2着に入ったのち、3歳以上1000万下を1.7倍の断然人気に応え2馬身半差をつけ勝利する。
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3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:01 UTC 版)
3歳春に復帰すると、緒戦のアンプリューダーンス賞を快勝し、イギリスの牝馬クラシック競走・1000ギニーへ向かう。戦前は8ハロンの距離を不安視されながらも、オッズは1番人気に推された。レースではスタートから馬群を先導、そのまま後続を抑えてゴールまで逃げ切り、フランス調教馬として史上15頭目・ハトゥーフ以来13年ぶりの1000ギニー優勝を果たした。次走はジョッケクルブ賞(フランスダービー)へ向かう。他厩舎と優先騎乗契約を結んでいたクリストフ・ルメールに代わり、ランフランコ・デットーリを鞍上に迎え、出走馬中ただ1頭の牝馬ながらオッズは3番人気に推された。レースでは先行策から直線で一旦先頭に立ったが、残り200メートルで後続の2頭に交わされヴィジョンデタの3着に終わった。 その後短期の休養を経て夏季に入ったが、ロートシルト賞でゴルディコヴァの3着、続くジャック・ル・マロワ賞ではフランス遠征中の武豊が騎乗し日本のファンからも注目を集めたが、タマユズから2馬身半離された2着と勝ち切れず、秋に入ってのムーラン・ド・ロンシャン賞では6着と初の大敗を喫した。その後フォレ賞2着を経て、年末には香港マイルに遠征したが、ハイペースの先行策から直線で失速し、11着と大敗した。 翌2009年も競走生活の続行が予定されていたが、1月にドバイ副首相ハムダン・ビン=ラーシド・アール=マクトゥームへの譲渡が発表され、これに伴い引退、繁殖入りとなった。
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3歳(1990年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 05:45 UTC 版)
「イソノルーブル」の記事における「3歳(1990年)」の解説
9月8日、中京競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に五十嵐忠男が騎乗しデビュー。スタートに失敗したが、最終コーナーで先頭に立って突き放して先頭で入線。3歳レコードタイムで走破して初勝利を挙げた。その後は、橈骨の骨膜炎のため、調教を一時中断。続いては函館競馬場参戦の選択肢もあったが、11月17日、中京競馬場の3歳抽せん馬特別(500万円以下、ダート1400メートル)に出走。十分な調教ができないまま出走したが、後方に3馬身半の差をつけて逃げ切り先頭で入線。2連勝とした。 12月22日、京都競馬場のラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークス(GIII)で重賞初出走、16頭中8番人気という評価であった。スタートから馬なりでハナを奪って逃げ、直線では先行勢を突き放して独走。重賞優勝馬のスカーレットブーケなどの追い上げを許さず、それらに3馬身半差をつけて入線。3連勝で、重賞初勝利となった。騎乗した五十嵐は次のように評している。 一戦一戦強くなっていますね。"テン良し中良ししまい良し"といわれるようにどこからでも自在にスパートができるスピード馬ですよ。折り合いもつくし距離は2000メートルぐらいまでなら辛抱すると思います。あとはもう少し落ち着きが出てきたらいうことなしなんですがね。でも成長段階でこんなに強い競馬ができるのですから桜花賞は本当に楽しみです。 — 五十嵐忠男 JRA賞表彰では、JRA賞最優秀3歳牝馬部門にて全180票中51票を集めたが、89票を集めた首位ノーザンドライバーの次点であった。
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3歳(1981年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:16 UTC 版)
「ビクトリアクラウン」の記事における「3歳(1981年)」の解説
5月、千葉県芝山町の千代田牧場本場から美浦トレーニングセンターの稲葉幸夫厩舎に入厩した。稲葉は牝馬育成に定評があり、テイタニヤやテンモンという活躍馬が出ていた。同時期に1歳年上で稲葉厩舎所属のテンモンが優駿牝馬(オークス)を制し、直後に「来年は桜花賞の狙えるファバージの牝馬(ビクトリアクラウン)がいます」とデビュー前にもかかわらず発言するなど、評価が高かった。 7月11日、新潟競馬場の新馬戦に嶋田功が騎乗してデビュー、ソエ気味で痛みを抱えながら1.1倍の1番人気という支持を集めた。しかしパドックで右前脚を落鉄し、脚を人間が固定して行う蹄鉄の打ち換えを、ソエの痛みから拒否して暴れてしまった。そこで装鞍所に戻して数人がかりで蹄鉄を打つ手間が発生し、発走時刻を5分間繰り下げる措置が行われた。ところが、蹄鉄を内には苦労して新しい発走時刻の2分前でようやく馬場入場を果たし、返し馬をすることなく発走してしまった。走る状態にないまま最後方に位置取り、かわしたのは1頭のみのブービー賞、6着に終わった。 8月2日、新潟競馬場開催最終日の新馬戦に出走し、逃げ馬に次ぐ位置から2馬身差を広げて初勝利。8月30日の新設重賞、新潟3歳ステークスに出走し、好位から残り200メートルで先頭に立って後方に1馬身離して勝利、新潟3歳ステークス初代王者となった。嶋田は、「前の馬に近づくにつれて闘志をむき出しにするんだ。グイグイと行くのが分かったね。大した根性の持ち主だ」と振り返っている。その後は、熱発と球節の具合が悪いために連戦することができなかった。12月12日、中山競馬場のテレビ東京賞3歳牝馬ステークスで復帰し、人気を集めて単枠指定の対象となった。6番手からファイブソロンをアタマ差かわして勝利し、3連勝。 4戦3勝の成績を残し、優駿賞最優秀3歳牝馬に選出された。
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3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/08 15:13 UTC 版)
「ナンヨーリバー」の記事における「3歳(2008年)」の解説
この年初戦の朱竹賞(500万下)で6着となったのを最後にダート路線に転向し、初ダート戦となった2月の3歳500万下競走こそ4着だったものの、3月の3歳500万下競走を9番人気で制してダート戦初勝利を挙げてオープン馬となると、続くオープン初戦の伏竜ステークスも制した。さらに重賞及びダートグレード競走初挑戦となった兵庫チャンピオンシップではスタート時に大きく出遅れたものの盛り返して優勝。3連勝を飾るとともに、重賞及びダートグレード競走初勝利を挙げた。この勝利は池上昌弘厩舎と馬主にとっても重賞及びダートグレード競走初勝利となった。 その後は短期休養を経て、7月9日のジャパンダートダービーに出走するが、サクセスブロッケンの5着に敗れた。そして、初の古馬との対戦となった8月23日のしらかばステークスに出走し、勝利を収めた。その後は、9月23日の日本テレビ盃に出走したが、6着に終わった。このレース中に、左前脚を故障していた事が判明、10月8日付けでJRA競走馬登録を抹消された。その後北海道浦河町の荻伏三好ファームで乗馬となっている。
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3歳(1978年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:11 UTC 版)
「カツラノハイセイコ」の記事における「3歳(1978年)」の解説
栗東トレーニングセンターの庄野穂積厩舎に所属し、3歳夏に北海道の牧場から直接札幌競馬場に入った。担当となった厩務員、松尾一吉は「これといった印象もなく、ただ牝馬のあとばかりついて歩く変な馬」と振り返っている。デビューからしばらくは深管骨瘤の痛みを抱えながら、レースに出走した。 9月1日、札幌競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)に作田誠二が騎乗してデビューしたが4着に敗れた。初勝利は、作田から福永洋一に乗り替わった4戦目の未勝利戦であった。その後条件戦2戦し、3着以内となったが勝利には至らず、3歳を終えた。
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3歳(1987年)
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「サクラチヨノオー」の記事における「3歳(1987年)」の解説
1987年8月8日、函館競馬場の新馬戦(芝1000メートル)でデビュー。1番人気の支持で出走し、2番手から直線で先頭となり、後方に3馬身半差を広げて勝利した。この勝利に小島は、物見や斜行を指摘したが、能力があり、長い距離の方が良いと評した。生産した谷岡はウインズ静内で観戦していたが、走りを見た周囲の観客から「大物」という声が湧き上がった。兄サクラトウコウが制した函館3歳ステークスを見送り、本州に戻り休養に入った。 10月の中山競馬場の芙蓉特別(OP)で復帰し、1番人気で出走した。中団から第3コーナー付近で先行勢に並びかけ、最後の直線で先頭に立つと、後方に2馬身半離して2連勝、橋本邦治は「楽勝」と評している。続いて東京競馬場のいちょう特別(OP)では、後方から追うレースを覚えさせようとしたが、初の不良馬場や進路を容易に確保することができず、前に2馬身半差遅れて、2着に敗れた。全は「良馬場なら大丈夫」としていた。 続いて初の重賞、関東の3歳チャンピオン決定戦である朝日杯3歳ステークス(GI)に参戦。関東地方は雪に見舞われ、12月6日の開催が中止となって翌週の13日に振替となったが、13日も雪のため2レースで打ち切りとなった。同じ頃、小島のもとには北海道の実家から「父が危篤」の知らせが入り、小島は実家に帰り父の最期を看取り、葬式をしてから水曜日に美浦トレーニングセンターに戻った。朝日杯3歳ステークスは12月20日に開催、2週間の延期と、有力馬の故障により、朝日杯3歳ステークスの出走馬は6頭での競走となった。サクラチヨノオーは初めて耳を塞ぐ馬具を装着し、1.9倍の1番人気の評価を受けて出走した。 良いスタートから2コーナーでツジノショウグンと競り合う形となった。直線コースまで2頭は並んだままとなり、内にいるサクラチヨノオーは、肩に5発ムチを入れた後に仕掛けられ、外のツジノショウグンには左ムチが連打。坂の頂上で次第にサクラチヨノオーが優勢となり、ツジノショウグンをクビ差退けて先頭で入線した。重賞およびGI初勝利となり、また1976年優勝の父マルゼンスキーに続き、親仔制覇を達成した。境は「これまでにない大物」と評し、今後の戦いに向けて腹部の充実、馬体重の増加を求めていた。谷岡は、1971年の有馬記念(トウメイ)以来16年振りのタイトル獲得にもかかわらず「目標のレースではないから」と競走後の表彰式を欠席した。 大川慶次郎は、3着のカゲマルまでの3頭の力関係を横一線に評価し「同じAクラスでも、ややBクラスに近いもの」と判断した。同じ日に行われた関西の3歳チャンピオン決定戦である阪神3歳ステークス(GI)では、朝日杯3歳ステークスと同じ1600メートルをサッカーボーイが1分34秒5のレコードで制した。 『全日本フリーハンデ』では「それだけの強さを持っているが、やはりそれ以上のプラスアルファを感じさせない」「これ以上大きく育つという馬でもない」と評された。月刊誌の優駿が発表する『フリーハンデ』は、「55」が与えられて3歳関東部門では単独首位となった。一方、関西部門首位のサッカーボーイには、テンポイントと同じ「56」という世代最高の評価が与えられた。 JRA賞最優秀3歳牡馬の記者投票は、サクラチヨノオー15票に対し、127票を集めたサッカーボーイが受賞した。
※この「3歳(1987年)」の解説は、「サクラチヨノオー」の解説の一部です。
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3歳(1985年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 10:24 UTC 版)
「フレッシュボイス」の記事における「3歳(1985年)」の解説
デビューは1985年10月、マイナー血統のため11頭立ての7番人気と注目はされなかったが、「道悪」を物ともせず、且つその後の脚質とは異なる逃げで勝利する。この「道悪」というフレーズがフレッシュボイスの競走生活にとって大きなファクターとなる。続く400万条件でも勝ち、福島3歳ステークス(オープン特別)では3着に入った。
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3歳(2003年)
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「ゼンノロブロイ」の記事における「3歳(2003年)」の解説
ゼンノロブロイはセレクトセールで9000万円で落札された評判馬であったが体質が弱く、その影響から仕上がりが遅れデビューは3歳の2月となった。デビュー戦に騎乗した横山典弘はレース前、「ステッキを使わなくても勝つ」と宣言した。レースではスタートで後手を踏んだ影響で後方からレースを進め、ステッキを使う羽目になったものの直線で出走馬中最速の上がりを繰り出して優勝した。 この時期のゼンノロブロイは骨膜炎を発症しており、調教師の藤沢和雄は強い負荷をかける調教を施さない方針をとっていたが、3戦2勝の成績で臨んだ東京優駿(日本ダービー)トライアルの青葉賞を制し、重賞初制覇を達成。横山をして「(日本ダービーは)この馬で勝てなきゃ、当分勝てない」と言わしめた。東京優駿では終始2番手を進み先頭を伺う競馬を見せたが直線でネオユニヴァースに交わされ、2着に敗れた(ちなみに、横山はこの6年後ネオユニヴァースの仔ロジユニヴァースでダービーを初勝利している)。 夏期は休養にあてられ、後半シーズンは神戸新聞杯から始動し菊花賞または天皇賞(秋)を目指すローテーションが組まれた。神戸新聞杯を優勝後、陣営は菊花賞への出走を決定。しかしレース終盤に前方へ進出するための進路を確保することができず、4着に敗れた。続いて有馬記念に出走したが、コースレコードを記録して優勝した同厩舎のシンボリクリスエスの前に3着に敗れた。
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3歳(2004年)
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2004年1月の京都競馬場の3歳新馬戦(芝2000m)で武豊を鞍上にデビューし、1番人気に応え難なく勝利した。 次のきさらぎ賞では1戦のキャリアながら3着に入り素質の高さを見せる。その後若葉ステークスでスズカマンボとの叩き合いを制した。 3歳牡馬クラシック第一弾皐月賞は5番人気に推されるも、ダイワメジャーの14着と大敗。続く京都新聞杯では再びスズカマンボに競り勝ち、重賞初制覇を果たした。 迎えた東京優駿(日本ダービー)では直線で大外から追い上げ、3着のハイアーゲームを捕らえるがキングカメハメハのレースレコード勝ちの前に屈し、2着となる。鞍上の横山典弘はレース後、「現時点では完成度の差」としつつも「この馬は走るよ。凄い能力」と語った。 秋になり、再び武豊を背に神戸新聞杯に出走するもキングカメハメハの3着に終わった。 キングカメハメハ不在の菊花賞ではダービー2着が評価され1番人気に支持されたが、デルタブルースの7着に終わり、クラシック競走優勝は果たせなかった。 その後、3歳馬ながらジャパンカップと有馬記念を連戦するが、菊花賞から馬体重が12kg減ったジャパンカップは10着、キャリアで最低体重の472kgで挑んだ有馬記念は9着に敗れている。
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3歳(1985年)
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「ダイナガリバー」の記事における「3歳(1985年)」の解説
デビューは1985年8月の函館での新馬戦。1番人気に支持されながら2着に終わったが、折り返しの新馬戦で1番人気に応えて勝利した。この2戦は吉永正人が騎乗している。 その後、ソエがでて間隔が開き、12月の中山でのオープン特別・ひいらぎ賞に出走。久々の出走に加えて初の2000mという事で3番人気だったが、レースでは2着のマウントニゾンに1馬身1/4の差を付けて快勝した。このレースからラストランまで増沢末夫が騎乗する事になる。
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3歳(2001年)
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「ニホンピロサート」の記事における「3歳(2001年)」の解説
3歳になってからのデビューであり、2月24日の3歳新馬を小林徹弥鞍上でデビューし、2着に入る。2戦目、折り返しの新馬戦を2馬身差で勝利し初勝利を挙げる。続く3歳500万下を3馬身半差で逃げ切り連勝。3戦とも舞台は阪神ダート1200mだった。芝のレースを2戦使われたのち、ダートの8月の苗場特別で3着に入ると、芝の仲秋特別も3着、ダートに戻った藤森特別で4馬身差の快勝で3勝目を挙げる。次走、初の1400m戦となったブラジルカップをクビ差の2着とすると、貴船ステークスもクビ差の2着、昇級3戦目の元町ステークスを1.8倍の人気に応え逃げ切り、オープン馬となる。
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3歳(2007年)
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「ドリームジャーニー」の記事における「3歳(2007年)」の解説
3歳の初戦は弥生賞から。シンザン記念を勝ったアドマイヤオーラに続く2番人気になった。レースは中団から進み、最後の直線で伸びてくるも、進路を妨害される不利を受けたことも影響し、3着に敗れた。皐月賞ではヴィクトリーの8着に敗れ、続く第74回東京優駿では、直線で鋭い伸び脚を見せたもののウオッカの5着に敗れた。 秋は神戸新聞杯から始動し、父のステイゴールドや母の父のメジロマックイーンにも騎乗経験がある武豊に乗り替わっての出走となった。レースでは、スタートから後方に位置すると、最後の直線では前を行く馬をまとめて後方から差しきり、重賞2勝目を収めた。続いて第68回菊花賞に2番人気で出走。道中は最後方から進み、3コーナーあたりから進出を開始するものの、直線では前を行く馬を捉えることができずアサクサキングスの5着に敗れた。 なお、第1希望で香港ヴァーズ、第2希望で香港カップに予備登録を行っていたが、馬インフルエンザの影響で検疫期間が1ヶ月かかることから10月23日に回避することが発表された。 菊花賞後はグリーンウッド・トレーニングへ短期放牧に出され、帰厩後に鳴尾記念に出走。初の単勝1番人気に支持されるものの、直線で伸びきれず8着に敗れた。レース後の12月11日に島上牧場経由でグリーンウッドにリフレッシュ放牧に出された。
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3歳(2017・18年)
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「ネイチャーストリップ」の記事における「3歳(2017・18年)」の解説
2017年10月10日にモーニントン競馬場の未勝利戦でデビューして勝利。その後ハンデ戦2着を挟んで、11月17日のムニーバレー競馬場のハンデ戦で2勝目を挙げた。 年明けに2勝し、年を跨いで3連勝。条件戦2着の後に重賞初挑戦となった5月5日のユークレースステークス(G2)に出走して4着と好走した。 6月23日のフレミントン競馬場のハンデ戦1着のあとにクレスウィックステークス(L)とライトニングステークス(L)を連勝してシーズンを終えた。
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3歳(1989年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 17:58 UTC 版)
「アイネスフウジン」の記事における「3歳(1989年)」の解説
1989年9月10日、中山競馬場の新馬戦(芝1600メートル)に中野栄治が騎乗してデビュー、2番人気に支持されて2着。同じ条件で2戦目の新馬戦では、単勝オッズ1.3倍の1番人気に推されたが2着に敗れた。続く3戦目については中野は、格上挑戦で特別競走への出走を要請するほど自信があったが、10月22日、東京競馬場の未勝利戦(芝1600メートル)へ進んだ。単勝オッズ1.5倍の1番人気でスタートから逃げ、1馬身4分の3馬身の差をつけて初勝利を挙げた。その後は、腰の疲労のせいで、連戦することができなかった。 続いて12月3日の条件戦、葉牡丹賞を予定していたが、中野は12月17日の朝日杯3歳ステークス(GI)へ出走を提案。加藤は距離延長を希望して12月24日のホープフルステークス(OP)も考えていたが、最終的に中野の提案が受け入れられた。加藤は、この選択を「力試し」のつもりだったという。朝日杯3歳ステークスでは15頭が集まり、中でも4戦2勝ですべて3着以内のカムイフジ、京成杯3歳ステークス(GII)など3連勝中の牝馬サクラサエズリが上位人気に推され、対するアイネスフウジンは、11.5倍の5番人気であった。 スタートから、サクラサエズリが好スタートから先手を主張し、ハナを奪ったが、アイネスフウジンは五分のスタートから、中野が促さずともサクラサエズリに並びかけて位置を上げ、先頭は2頭となった。2頭の逃げは、第3コーナー付近にて後続に5馬身のリード、前半の1000メートルを56.9秒で通過する「超ハイペース」(橋本邦治)だった。2頭は並んだまま最終コーナーに差し掛かったが、まずサクラサエズリが仕掛けて、リードを作った。一方のアイネスフウジンは、しばらく追われなかった。一旦振り返って、後続の様子を確認する。この間は強く追われていなかったが、サクラサエズリには突き離されていなかった。直線では、後続の追い上げはなく、先頭争いは2頭に絞られた。2頭では次第にアイネスフウジンが優勢となった。残り150メートル地点にてサクラサエズリを下して単独先頭となり、突き放して2馬身半差で決勝戦を通過した。走破タイム1分34秒4は、1976年の朝日杯3歳ステークスでマルゼンスキーが記録し、「不滅」とも称された3歳レコードに並ぶものであった。GI初勝利となった中野は「楽勝」と振り返っている。中野にとって勝利は、10月以来であり、この年の9勝目だった。また、中村牧場はアサカオー以来の重賞勝利を記録した。 この勝利に大川慶次郎は「相当の大器」「関東牡馬の注目度ナンバーワン」と評価。年末のJRA賞選考では、満票172のうち112票を集めてJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞した。月刊誌『優駿』が発表する「フリーハンデ」では、「55」が与えられて3歳馬関東部門で単独首位。一方関西部門では、デイリー杯3歳ステークス(GII)を制して3戦3勝、骨折により阪神3歳ステークスに参戦できなかったヤマニングローバルが単独首位。東西首位は同じ「55」という評価であった。
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3歳(1996年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:11 UTC 版)
「グラインドストーン」の記事における「3歳(1996年)」の解説
ルイジアナダービー(英語版)(G3)でザーブズマジックに3馬身1/2差をつけて重賞を初制覇したが、続くアーカンソーダービー(G2)では大外からの発走となりザーブズマジックのクビ差2着に敗れた。 5月4日、ケンタッキーダービー(G1)に出走。1番人気には同じくアンブライドルド産駒であり、既にG1競走3勝を挙げたアンブライドルズソングが推されていた。競走でグラインドストーンは直線で外に出し、粘る2番人気キャヴォニアをハナ差交わして優勝した。これによりウェイン・ルーカス調教師は、前例のないアメリカクラシック三冠競走の6連勝を達成した。また、アンブライドルドの初年度産駒としてケンタッキーダービーを勝利したグラインドストーンは、アンブライドルズソングとともにクラシック種牡馬としての父の能力を示した。 5月9日、右膝に骨片が発見されたため、その後は1戦もせずに競走馬を引退した。グラインドストーンがケンタッキーダービーで破った馬のなかには、同年のプリークネスステークス馬ルイキャトーズ、僚馬でもあったベルモントステークス馬エディターズノート、1997年のブリーダーズカップ・クラシック馬スキップアウェイがいた。 また、グラインドストーンは利尿薬ラシックスを投与されずにケンタッキーダービーを勝利した競走馬でもある。
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3歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:28 UTC 版)
「ブラックタイド」の記事における「3歳(2004年)」の解説
明けて2004年、オープン特別の若駒ステークスで2勝目を挙げた。次走のきさらぎ賞では単勝1.5倍の圧倒的1番人気に支持されたが、ゴール前でマイネルブルックの強襲にあい、2着に終わった。 次走のスプリングステークスでは、リンカーンに主戦騎手である武豊が騎乗するため横山典弘に乗り替わった。このレースではこれまでの先行・中団からのレースではなく、最後方待機策を選択。直線で一気に他馬をごぼう抜きして勝利した。ラジオたんぱ杯2歳ステークス、きさらぎ賞と重賞では人気になるものの勝ち切れずにいたが、このレースで重賞初勝利を飾った。 4月18日の皐月賞ではコスモバルクに次ぐ2番人気に支持されたが、レースでは出負けし、更に前が止まらない馬場(高速馬場)での後方待機で末脚が不発に終わり、16着と大敗した。このレースではブラックタイドと同じく後方待機策をとったスズカマンボやハーツクライといった翌年G1を制する馬たちも大敗を喫しており、制したのは単勝オッズ32.2倍の10番人気で伏兵として見られていたダイワメジャーだった。高速馬場での先行馬有利という状況と、後方待機の失敗から鞍上が馬を無理に追わなかったため、下位での入線となった。 皐月賞後、屈腱炎を発症し、2年間休養することになる。
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3歳(2002年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:04 UTC 版)
「ダンツジャッジ」の記事における「3歳(2002年)」の解説
3歳初戦はシンザン記念に出走し、13着と惨敗。続くくすのき賞は2着、あすなろ賞3着と好走し、アーリントンカップでも3着に入る。次走、1.9倍の人気を集めたれんげ賞で先に抜け出したファイトブライアンを半馬身交わして2勝目を挙げた。次走、橘ステークスは後方から追い込み3着、続く葵ステークスを中段から脚を伸ばして1着、3勝目を飾った。夏は休養に充て、5か月ぶりの実戦となった富士ステークスは6着、続くスワンステークス、キャピタルステークスと2戦連続4着となる。
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3歳(1987年)
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「サッカーボーイ」の記事における「3歳(1987年)」の解説
8月9日、函館競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に内山正博が騎乗してデビュー。直線だけで9馬身差をつけて初勝利を挙げた。続く、9月27日の函館3歳ステークス(GIII)ではスタートで出遅れて4着。それから栗東に帰厩し、10月31日、京都競馬場のもみじステークス(OP)に出走。再び出遅れるも、最終コーナーで内側に進路をとって追い上げて、まもなく差し切り独走。後続と10馬身差をつけて、2勝目を挙げた。その後は、デイリー杯3歳ステークスへの出走を予定していたが、裂蹄のために回避した。 12月20日、関西の3歳チャンピオン決定戦に位置付けられる阪神3歳ステークス(GI)に出走、単勝オッズ1.9倍の1番人気に推された。良いスタートを切って、馬群に収まり中団に位置、先頭が前半の800メートル46.1秒を通過するハイペースとなった。第3コーナーあたりで馬群の外に持ち出して追い上げを開始、後続勢のほとんどが苦労する中、ただ1頭サッカーボーイのみが先行勢に取り付いた。直線では、残り300メートル地点で逃げ粘るジンデンボーイを外から差し切ると、あとは突き放す一方となって独走、後方に8馬身差をつけて入線した。これが3勝目となり、GI初勝利。走破タイム1分34秒5は、ヒデハヤテが1971年阪神3歳ステークスにて樹立したコースレコードおよびレースレコード1分35秒1を0.6秒更新した。 この勝利に対して、ミスターシクレノンに騎乗し8着に敗れた田原成貴は「強いねえ、あまりスピードがありすぎて、かえってクラシックが心配になるほどやね」と評するなど、他の騎手もサッカーボーイの能力を高く評価する声があった。さらに、この8馬身差の勝ちっぷりは、1975年の同競走を7馬身差で勝利し、1977年には天皇賞(春)、有馬記念を勝利して優駿賞年度代表馬になるまで出世した関西馬・テンポイントを想起させ、スポーツ新聞の報道では関西のみならず、関東にも「テンポイントの再来」との見出しがつけられていた。 美浦トレーニングセンター、栗東トレーニングセンター、JRA本部所属のハンデキャッパーが選定するこの年の「フリーハンデ」では、関西馬首位となる「56」を獲得。一方、関東馬首位は、朝日杯3歳ステークス(GI)を1分35秒6で走破して勝利したサクラチヨノオーであり、サクラチヨノオーは「55」であったことから、サッカーボーイが世代首位の評価となった。また「56」は、テンポイントの2歳時に並ぶ評価であった。ハンデキャッパーは、サッカーボーイに「56」を与えるにあたり、以下のように検討を行っている(美浦:甲佐、滝澤。栗東:小林、渡辺、吉田、朝日。JRA本部:柴田)。 「 吉田 (前略)サッカーボーイが近年にない活躍を見せてくれたのは大きな収穫だった。(中略)久々に関西から大物が出たという感じで、東西を通じてもこの馬が3歳ナンバーワンだろう。渡辺 この馬はテンポイント級の大物と見ている。例年のトップはだいたい54キロだが、サッカーボーイは56キロの評価を与えてよい。滝澤 過去に56キロをつけた馬ではバンブトンコート、ギャラントダンサーがいるが、バンブトンコートは重賞を三つ勝っているしこの2頭の実績と比べて56キロというのはつけすぎではないか。甲佐 確かにサッカーボーイのタイトルは一つだけだが、昔に比べて今の3歳は何でもかんでも重賞を使っていくということはなくなってきた。新馬を勝ってこの馬が走ると分かれば、クラシックに照準を定めて無理させないで休ませる。こうした傾向は年々顕著になっている。3歳馬に関してはタイトルとか実績だけでなく、内容が素晴らしければそれなりの評価を与えてもいいと思う。朝日 サッカーボーイは内容がじつにいい、阪神3歳Sは1分34秒5で走りヒデハヤテのレコードを16年ぶりに塗り替えた。前走のオープン特別もみじ賞にしても、ことしの京都はひじょうに時計のかかる馬場で加えて重馬場だったにもかかわらず、1分36秒4で走り2着以下を10馬身突き放している。おまけに好位につけて直線抜け出すという近代競馬にマッチした脚質、この馬はテンポイント級だ。小林 テンポイントも函館で新馬勝ちし関西へ帰って特別、阪神3歳Sを圧勝した。ステップも勝ち方もひじょうによく似ている。そのテンポイントが56キロの評価だったのだから、サッカーボーイも同等に並べたい。滝澤 早くから活躍する馬はふつう早熟で、3歳で花開いてそのままダウンしていくことが多いが、サッカーボーイはどんどん体重が増えているのでその心配はないだろう。戦ったメンバーは確かに弱いが、勝ちっぷり、時計面、着差を加味すれば56キロを与えてよいと思う。小林 何年ぶりかに出た関西の大物、と自信を持って言える。柴田 ではサッカーボーイは56キロにしよう。 」 またこの年のJRA賞表彰では、全143票中127票を集めて、JRA賞最優秀3歳牡馬に選出。次点となった関東のGI優勝馬・サクラチヨノオーの15票に大差をつける受賞であった。
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3歳(1995年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:32 UTC 版)
1995年の札幌競馬場で鞍上に武豊を迎えてデビュー。一番人気に支持されたが、マイネルランサムにクビ差届かず2着に敗れた。ただし、これは伊藤曰く「競馬は苦しくないものだということを教える必要があった」とのことで、2戦目の新馬戦では2着のダイワテキサスに0.8秒差をつけて初勝利を挙げた。 続くオープン特別のいちょうステークスでも1番人気に支持されたが、最後の直線半ばで進路を塞がれ、武が大きく立ち上がるほどの不利を受けた。しかし、ここから体勢を立て直して差し切り勝ちを収めた。武豊はこのレースでのエアグルーヴの勝負根性に驚き、後に「絶対普通の馬にはできないようなこと」と振り返り、伊藤は「普通はあそこから勝てない。これはただの牝馬じゃない、男馬にも勝てる牝馬だと確信したのは、あの時です」と振り返っている。 続く阪神3歳牝馬ステークスでは、武豊が出走予定だった数あるお手馬からイブキパーシヴを選択したため、マイケル・キネーンが騎乗した。レースはマイル戦にもかかわらず前半1000mの通過タイムが61秒1という超スローペースとなったこともあり、角田晃一が騎乗したビワハイジの逃げ切りを許し2着に敗れた。伊藤によるとこのレースはキネーンが周囲からイブキパーシヴの存在を伝えられていたことで同馬をマークしすぎたこと、また自身はビワハイジの存在が怖いと思っていたもののそれを伝えていなかったことが敗因だったとし、「勝てたのに、勝たせてあげられなかった」と述べている。
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3歳(2002年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:04 UTC 版)
「ナリタセンチュリー」の記事における「3歳(2002年)」の解説
2002年1月に京都競馬場でデビューし、同年の皐月賞に勝利するノーリーズンの4着に入る。この時の鞍上は武幸四郎騎手であったが、2戦目以降は本馬所属の藤沢則雄厩舎に所属する田島裕和が騎乗するようになり、連続2着を経て、4戦目で初勝利を挙げる。なお、現役生活での8勝は全て田島の騎乗で挙げたものである。 続く若草ステークスは、ダートの未勝利戦を勝った直後で単勝10番人気であったが、後に重賞を3勝するローエングリンから0.5秒差の4着に健闘した。続く500万下条件戦は後に重賞を5勝するマイソールサウンドの3着に敗れ、休養に入る。
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3歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:17 UTC 版)
「ステキシンスケクン」の記事における「3歳(2006年)」の解説
この年初戦のクロッカスステークスでは2番人気で2着、続く重賞初挑戦となったアーリントンカップでは3番人気に支持され、レースではロジックやゴウゴウキリシマらを相手に1着となり重賞初勝利を挙げた。しかしGI(当時)初挑戦となった皐月賞では8番人気で12着、続くNHKマイルカップも4番人気で17着となるなど大敗が続いて休養に入った。夏ごろに帰厩し、復帰初戦のアイビスサマーダッシュでは得意の短距離レースとあって2番人気に支持されたが12着だった。近走の不振から人気を大きく落とし10番人気で迎えた京成杯オータムハンデキャップでは、スタートから逃げ切って重賞2勝目を挙げた。しかし以降は3戦はスワンステークスの4着以外は惨敗が続き、その後長期休養に入った。
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3歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 04:43 UTC 版)
2004年2月に小倉競馬場でデビューし、オリビエ・ペリエを鞍上に単勝1.1倍の断然人気に応え3.1/2馬身差で勝利。その後は佐藤哲三とのコンビで休養明けの500万下条件戦に勝つと、1000万下条件戦ではレコードタイムで勝利し、デビュー3連勝とした。無敗での重賞制覇が懸かった朝日チャレンジカップでは単勝2番人気に支持されたが、直線で伸び切れず、スズカマンボの7着に敗れる。続く菊花賞では単勝6番人気に甘んじたが、直線で伸び脚を見せ3着と健闘し、テイエムオペラオー・メイショウサムソンを輩出したオペラハウス産駒らしく、初の長距離戦でも適性を見せた。
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3歳(1970年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 20:22 UTC 版)
デリケートな性格で消化が悪く、追い切りをすると頻繁に熱発していた。 1970年7月25日、福島競馬場の新馬戦(芝1000m(良)メートル)に嶋田功が騎乗しデビュー。1番人気に支持されたが、2着に敗れた。その3週間後の2戦目の新馬戦では、後方に9馬身離して逃げ切り初勝利を果たした。その後、芙蓉ステークス5着を挟み、条件戦のサルビア賞ではカネヒムロに1馬身半差をつけて2勝目となった。その後、稲葉はナスノカオリの力がまだ発達していないことを考慮し、有力馬との対戦を避け、重賞ではなくオープン競走に進んだ。年末中山競馬場のマイル戦に出走し、1番人気に応えて逃げ切り3勝目となった。
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3歳(1953年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 00:52 UTC 版)
競走年齢の3歳となった1953年7月、福島開催の新馬戦でデビュー、3戦目で初勝利を挙げる。その4日後に優勝戦も制した後、所属厩舎のある東京競馬場に入ると、緒戦のオープン戦を6馬身差で勝利。続く優勝戦では2着と敗れたが、以後連戦連勝を続け、12月13日には関東の3歳王者戦・朝日盃3歳ステークスを迎える。当日は8戦6勝という成績で臨んでいたカネリューが1番人気に支持され、タカオーは前走で同馬を退けていたにも関わらず、小柄な馬体が嫌われて2番人気となった。しかしレースでは逃げたカネリューを見る形で好位を進むと、直線で失速した同馬を一気に交わして独走態勢となり、2着ゴールデンゲートに3馬身半差を付けての圧勝を収めた。
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3歳(1928年)
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翌年、ファラモンドはフランク・バッターズ調教師の元に転厩し、3歳牡馬の頂点ダービーステークスを目指して調整が行われていた。しかしその具合は芳しくなく、1928年の初戦として出走したエプソム競馬場4月のノンサッチステークスでは、見せ場なく着外に終わった。 イギリスクラシック三冠の第1戦である2000ギニーステークスには本来フェアウェイが出る予定であったが、このとき歯根膿瘍を患っていたため回避することになり、またしてもフェアウェイの代わりとして出走することになった。ミドルパークステークスの時とは対戦相手も格段に違うなか、ファラモンドは勝ち馬フラミンゴから約2馬身差の4着と健闘を見せた。 しかし、その翌戦ケンプトンパーク競馬場のグレートジュビリーハンデキャップでは、わずか100ポンド(約45.0キログラム)という軽ハンデであったにも関わらず、着外に沈んでいる。次走セントジェームズパレスステークスでも着外であった。 しかし、3頭立てで行われたエルズミーアステークス(13ハロン・約2615メートル)では、斤量も103ポンド(約46.35キログラム)と恵まれたこともあって1番人気に推され、クビ差で久々の勝利を手にした。 ファラモンドはこの年をもって引退した。ミドルパークステークスでの優勝経験こそあるものの、通算成績は11戦2勝と目立つものではなかった。
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3歳(2019・20年)
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「ウェリントン (競走馬)」の記事における「3歳(2019・20年)」の解説
2020年1月27日に沙田競馬場でデビューして勝利。その後2連勝し、4月26日のハンデ戦6着でシーズンを終えた。
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3歳 (2020/21シーズン)
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「タガロア」の記事における「3歳 (2020/21シーズン)」の解説
シーズン初戦となった8月29日のHDFマクニールステークス (G3)では3着と好走するも、続く9月のインヴィテーションステークスは6着、10月のコーフィールドギニーは脚の負傷が響いて最下位14着、2021年1月のマンフレッドステークス(G3)は3着と惨敗が続いた。2月13日のデボネアステークス (G3) では道中2番手を追走すると残り300mで先頭に立ち、最後はアイザアーの追撃を1馬身差振り切り久々の勝利を挙げた。2月27日のオーストラリアンギニーでは序盤で先頭に立ち軽快に逃げると、直線に入り後続を突き放し、一時は2馬身程のリードを広げるも、中団から末脚を伸ばした最低人気のルナーフォックスにゴール前でかわされ、さらに最後方からチェリートルトーニにも急襲されて3着となった。4月24日のオールエイジドステークス9着を最後に現役を引退、ユーロンスタッドで種牡馬となる予定。
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3歳(1995年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 23:07 UTC 版)
6月10日、札幌競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に出走。1993年生世代最初の新馬戦に武豊が騎乗し、単勝オッズ1.5倍の1番人気に推された。先行して直線では外から追い上げ、内外から追い上げる2頭を半馬身退けて初勝利を挙げた。続いて7月30日、世代最初の重賞である札幌3歳ステークス(GIII)では3番人気に推され、再び武が騎乗して出走。スタートから先行し、最終コーナーで先頭に並びかけると、それから差を広げて先頭で入線。後方に3馬身半差を広げて重賞初勝利となった。その後は、さらなる強化のために早田牧場に戻り、1か月間坂路や屋内馬場で調教が施された。牧場を去るころには、筋肉が発達し札幌3歳ステークスの時と比べて約30キログラム増加していた。 12月3日、阪神3歳牝馬ステークス(GI)で4か月ぶりの復帰となった。これまで2戦に騎乗した武は新馬戦、条件戦と2連勝中のイブキパーシヴを選び、イブキパーシヴは1番人気に推されていた。対するビワハイジには角田晃一が騎乗し、単勝オッズ8.7倍の4番人気という支持であった。好スタートから先頭に立って逃げ、スローペースを刻んだ。先頭で直線に入り、2番手のエアグルーヴや5番手から追い上げたイブキパーシヴを退けて決勝線を通過。2着のエアグルーヴには半馬身差でGI初優勝となった。年末には、JRA賞最優秀3歳牝馬に選出された。
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3歳(1995年)
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「ロイヤルタッチ」の記事における「3歳(1995年)」の解説
デビュー戦は1995年12月3日、1番人気に推され武豊騎乗で勝利した。 鞍上にオリビエ・ペリエを迎えた2戦目のラジオたんぱ杯3歳ステークスでは、イシノサンデー(1番人気)、ダンスインザダーク(2番人気)を抑え勝利した。このレースではサンデーサイレンス産駒が1着から3着までを占め、朝日杯3歳ステークスを優勝したバブルガムフェローとともに翌年のクラシックもサンデーサイレンス一色の雰囲気を作り出した。
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3歳(1971年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:51 UTC 版)
「ランドプリンス」の記事における「3歳(1971年)」の解説
全21戦、高橋直厩舎の所属騎手であった川端義雄が手綱を執った。1971年9月4日の新馬戦(札幌競馬場)でデビューし勝利する。3歳シーズンはこの1勝だけに終わった。
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3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:24 UTC 版)
「オウケンブルースリ」の記事における「3歳(2008年)」の解説
2008年4月26日、福島競馬場の未勝利戦(芝2000メートル)に北村友一が騎乗してデビュー、中団から追い込んだが2着。2戦目の5月17日、新潟競馬場の未勝利戦は、最終コーナーで膨れて周回してしまい5着。3戦目の6月8日、中京競馬場の未勝利戦で後方に4馬身差をつけて初勝利を挙げた。その後、6月の500万円以下、8月の1000万円以下と3連勝を果たした。 続いて9月28日、菊花賞のトライアル競走である神戸新聞杯(JpnII)に出走。初のオープン競走、重賞であったが、東京優駿(日本ダービー)優勝から参戦したディープスカイに続く2番人気に支持された。最終コーナーまで最後方で待機、直線では好位から進んだディープスカイが抜け出す中、その背後から迫り、残り200メートルで3馬身以上あったディープスカイとの差を、クビと半馬身まで縮めて3着。上がりはメンバー中最速を記録、菊花賞への優先出走権を獲得した。 10月26日の菊花賞(JpnI)では、春のクラシック二冠競走を勝利したキャプテントゥーレ、ディープスカイは回避するなど有力馬が不在の中、単勝オッズ3.7倍の1番人気に支持された。スタートから中団につけ、2周目の第3コーナーで外から追い上げを開始。先行勢の1頭として直線に進入し、残り300メートルで先頭となった。内から15番人気のフローテーションが追い上げてきたが、それに1馬身4分の1差をつけて入線。重賞初勝利、GI初勝利を挙げた。デビューから184日目での菊花賞勝利は、2歳戦が整備された1946年以降の最短記録であった275日目(1990年のメジロマックイーン)を上回った。騎乗した内田博幸は、クラシック初勝利。福井は、馬主歴11年目でGI初出走、並びに重賞およびGI初勝利であった。 それから、11月30日のジャパンカップ(GI)に出走し、5着。続いて有馬記念を目指し、ファン投票では7万7千票を集めて6位となった。しかし、疲れがあるために回避、放牧に出された。
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3歳(1977年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:27 UTC 版)
「バンブトンコート」の記事における「3歳(1977年)」の解説
1977年6月18日、札幌ダート1000mの新馬戦に7頭中4番人気で出走。スタートから逃げの手に出て、後方に1.9秒差を離す大差で勝利した。続くはまなす賞では1番人気のサクラパナソに半馬身差をつけて2連勝とし、北海道3歳Sでは砂を被る不利を受けながら3着。函館に移り、初めての芝となるオープン特別に出走し、1番人気に応えて3勝目を挙げた。 函館3歳Sではファンタストに次ぐ2番人気で出走し、スタート直後にファンタストが体勢を崩して落馬し競走中止。バンブトンコートは最終コーナーでまくりを決めて抜け出すと、後方に6馬身離して勝利し、重賞初制覇となった。本州に戻り、関西圏で初めてとなるデイリー杯3歳Sに出走。10頭立ての2番人気の支持を集め、単枠指定となった。中団から追い込み、インターグシケンに1馬身4分の3差をつけて重賞連勝となった。 続いて阪神3歳Sに出走。他がバンブトンコートを嫌って回避したため、5頭立てとなった。逃げの手を打ち、最終コーナーでは内からラブリトウショウ、外からインターグシケンが追い上げたが、逃げ切りを果たした。1分35秒1のコースレコードタイで入線し、重賞3連勝となった。しかし、勝利した翌日の朝に歩様に異状をきたした。レントゲン検査が行われ、右前膝の剥離骨折が判明。軽度な骨折で、剥離した骨の切除手術が施された。東の3歳重賞、3歳ステークスでは外国産馬のギャラントダンサーが優勝したが、優駿賞最優秀3歳牡馬はバンブトンコートが選出された。
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3歳(1977年)
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「シアトルスルー」の記事における「3歳(1977年)」の解説
シアトルスルーは温暖なフロリダで冬を越し、翌1977年3月にレースに復帰した。初戦をハイアリアパーク競馬場ダート1400メートルのレコードタイムを記録して優勝するとフラミンゴステークス、ウッドメモリアルステークスとG1を連勝。デビュー以来無敗の6連勝でアメリカ三冠に駒を進めた。第1戦ケンタッキーダービーではスタートで頭をゲートにぶつけて出遅れたもののすぐに前方へ進出して先頭を奪い、そのまま逃げ切って優勝。第2戦プリークネスステークスではいったん2番手に控え、第3コーナーでコーモラントを振り切るとそのままゴールし優勝した。第3戦ベルモントステークスではスタート後すぐに先頭を奪い、そのまま逃げ切って優勝。史上10頭目のアメリカ三冠馬となった(無敗のままアメリカ三冠を制したのは史上初、2019年現在でも2頭しか達成していない。2頭目は41年後、2018年のジャスティファイ)。一般セリ市で購入された馬がアメリカ三冠を達成したのも史上初のことで、4人の馬主が手にした幸運はマスコミに大きく取り上げられた。 アメリカ三冠達成後、調教師のウイリアム・ターナー・ジュニアはシアトルスルーに休養を取らせるべきだと主張したが、馬主サイドの意向によりベルモントステークスから1か月も立たないうちに西部のハリウッドパーク競馬場で移送され、G1スワップスステークスに出走することになった。結果は勝ち馬から16馬身離された4着に終わり、デビュー以来の連勝は9で途絶えた。この敗戦によって調教師と馬主は激しく対立するようになり、馬主サイドは管理調教師をターナーから別の調教師に変更した。同じ時期、ジム・ヒル夫妻がシアトルスルーの権利の半分を保有していることを届け出ていなかったとして関係者およびシアトルスルーは1か月間の競馬関与停止処分に処せられた。これを受けて4人は「テイヒル厩舎」の名義でシアトルスルーを所有することにした。 転厩後シアトルスルーは原因不明の高熱に襲われ、一時命が危ぶまれるほどの状態に追い込まれた。回復には時間を要し、この年の出走はスワップスステークスが最後となった。アメリカ三冠の実績が評価され、シアトルスルーは1977年度のエクリプス賞年度代表馬、最優秀3歳牡馬に選出された。
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3歳(1979年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 13:58 UTC 版)
「サクラシンゲキ」の記事における「3歳(1979年)」の解説
8月3日、函館競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に、境厩舎所属の東信二が騎乗し、3番人気の支持でデビューした。スタートから逃げに出て、後方に4分の3馬身の差をつけて逃げ切り先頭で入線、レコードと同じタイムでの勝利であった。2戦目のすずらん賞でも、逃げに出て7馬身差の勝利。キタノダイオーが12年間保持していたレコードを0.1秒更新して2連勝とした。9月16日、函館3歳ステークスに、1番人気に推されて出走。スタートから単独で逃げていたが、中途で追い上げる1頭と並ぶ場面も見られた。しかし、直線コースで差を広げて再び先頭となり、後方待機の追い込み勢を1馬身封じて、3連勝とした。 北海道から美浦トレーニングセンターに帰還したが、9月27日に放馬し転倒。左後ろ肢の球節を剥離骨折し、その後出走することなく3歳を終えた。
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3歳(2003年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 07:50 UTC 版)
「ハードクリスタル」の記事における「3歳(2003年)」の解説
2003年1月9日、小倉芝1200mの新馬戦でデビューし、4着となる。2戦目からダートに転向し、未勝利戦を逃げ切り初勝利を挙げる。昇級戦の3歳500万下は4着、続く沈丁花賞は勝ち馬に7馬身差をつけられたが2着と好走。その後自己条件で5着、4着となり、古馬との初対戦となった3歳以上500万下で最後方から追い込み2着に入ると、次走の3歳以上500万下で後方から捲っていく競馬で2勝目を飾る。昇級初戦は芝のグリーンチャンネルカップに出走し4着。重賞初挑戦となった神戸新聞杯は11着と惨敗する。続く北野特別でも9着と惨敗。その後は芝に見切りをつけ引退までダートを使われる。
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3歳(1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 07:03 UTC 版)
「シンコウラブリイ」の記事における「3歳(1991年)」の解説
入厩して約1カ月後の11月2日、東京競馬場の新馬戦(芝1600メートル)で橋本広喜が騎乗しデビュー、2番人気の評価された。先行し最後の直線で抜け出し、後方に4馬身離して初勝利。続いて2週間後の福島3歳ステークス(OP)は、1番人気の支持で出走。好位から最終コーナーで先頭となり、騎乗した坂本勝美が追うことのないまま2連勝、レコードタイムを更新した。それから12月1日、阪神3歳牝馬ステークス(GI)では、岡部幸雄に乗り替わった。無敗の3連勝中だったニシノフラワーが単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持され、それに次ぐ2.8倍の2番人気。外枠14番から発走し、ニシノフラワーをマークする好位の外側につけた。ところが、第3コーナー途中で進路を失う不利を受けて後退、結局ニシノフラワーから離れて、大きく外を周回することを余儀なくされた。直線で追い上げたものの、内枠から終始内を進んだニシノフラワーには敵わず、さらにサンエイサンキューにもかわされた3着となった。
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3歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:14 UTC 版)
「メイショウトウコン」の記事における「3歳(2005年)」の解説
2005年10月2日、デビューから13戦目となった札幌競馬場での3歳未勝利で1番人気に応えようやく初勝利を挙げた。しかし、500万下クラスのレースを5連敗することになる。その間に主戦だった安田康彦は引退してしまった(ちなみに本馬の未勝利戦勝利が彼の現役最後の勝利となった)。
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3歳(1984年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 00:14 UTC 版)
「プレシジョニスト」の記事における「3歳(1984年)」の解説
休まず、年明け1月のサンミゲルステークス(英語版)(LS・D6F)に出走して勝利。しかし次走のサンヴィセンテS(英語版)(G3・D7F)では2着に惜敗。更に1ヶ月後のサンラファエルステークス(英語版)(G2・D8F)に出走。ファリタイムに5馬身差を着けての完勝。 そして4月のサンタアニタダービー(G1・D9F)に出走。1番人気で挑むものの伏兵マイティアドヴァーセリーに1 1/4馬身差を付けられての2着に敗北。 その後、ケンタッキーダービーには向かわずに西海岸に留まって5月のスポットライトハンデキャップ(LS・T8F)・6月のシルヴァースクリーンハンデキャップ(G2・D9F)に出走するが6着・3着に敗北。 更に7月のスワップスステークス(G1・D10F)に出走。4.7倍の3番人気で挑んだレースはスタートから快調に逃げ、サンタアニタダービー3着馬プリンストゥルーに10馬身の差を着けての大勝。G1初勝利を飾った。 その後、8月のデルマーダービー(英語版)(G2・T9F)に出走するが7着に完敗。続く9月のデルマーハンデキャップ(英語版)(G2・D10F)では2着ペアオブデューシズに1と3/4馬身をつけて勝利。 9月末には南部ルイジアナダウンズ競馬場へ遠征してスーパーダービー(G1・D10F)に出走。この年のプリークネスステークスの勝ち馬ゲートダンサー(英語版)が1番人気、ウィリー・シューメーカーに乗り替わったプレシジョニストは2.7倍で2番人気。レースは逃げを打つプレシジョニストに対して後方待機策のゲートダンサー。プレシジョニストはそのままゴールへ逃げ込もうとするが直線に入って鋭く追い込んできたゲートダンサーに首差差されての2着になった。しかしゲートダンサーの2分と1/5はコースレコードで、3着ビッグピストルとは実に11馬身の差が開いており、負けたとはいえプレシジョニストの実力もまた高いということを示すレースだった。 そして西海岸へ戻り、11月ハリウッドパークで開催された第1回BCクラシック(G1・D10F)に出走。この年5戦5勝(うちG1競走4)と絶好調だったスルーオゴールドと同馬主のムガティーのカップリングが1番人気・ゲートダンサーが2番人気・ハリウッド金杯などこの年にG1を3勝しているデザートワイン (競走馬)(英語版)が3番人気・プレシジョニストは8.7倍で4番人気だった。 レースは6番人気のワイルドアゲインが逃げを打ち、プレシジョニストはそれに付いていくが、1/4マイル22秒6・1/2マイル45秒6というハイペースにスタミナを消耗し、1/2マイルを過ぎたあたりから失速。そのまま7着に大敗した。 その後、暮れの分割競走マリブステークス(G2・D7F)に出走して勝利。3歳時を12戦5勝で終えた。
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3歳(1979年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:07 UTC 版)
「ジュウジアロー」の記事における「3歳(1979年)」の解説
1979年の3歳時に中山競馬場でデビューし4戦目で勝ち上がる。
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3歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 09:19 UTC 版)
「アドマイヤムーン」の記事における「3歳(2006年)」の解説
2006年は共同通信杯からスタートし、この競走から武豊に乗り替わった。2番人気に推されると、先行した1番人気のフサイチリシャールを最後の直線で差しきり重賞2勝目をあげた。続いての弥生賞では、唯一敗戦を喫した相手であるサクラメガワンダーを最後の直線で差し切り勝利。皐月賞の優先出走権を得た。武豊が無敗での皐月賞出走となったフサイチジャンクとどちらに騎乗するか注目されたが、アドマイヤムーンに騎乗した。しかしメイショウサムソンの4着に敗れ、フサイチジャンクにも先着を許した。 さらに次走東京優駿(日本ダービー)でもアドマイヤメインとどちらに騎乗するかが注目されたが武豊はアドマイヤムーンに騎乗した。またしてもメイショウサムソンの7着に敗れ、アドマイヤメインにも先着を許した。 夏は札幌記念に出走。このレースが初の古馬との対決となったが、後に鞍上の武が「札幌記念から馬が変わってきた」と振り返った通りに後方から差し切り勝利を収め、クラシックでの雪辱を果たした。 次走は菊花賞ではなく、天皇賞(秋)に出走した。この時、凱旋門賞から帰国したディープインパクトもメンバー登録をしており、近藤が「ディープが(天皇賞に)出走しても豊は譲らん!」と発言していたため、ディープインパクトが出走した場合武豊がどちらを選択するのか話題になったが、結局ディープインパクトは回避した。レースは後方から追い込んだものの届かずダイワメジャーの3着に敗れた。 その後香港カップに出走。凱旋門賞2着馬のプライドに僅かの差で2着に敗れた。
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3歳(2021/22年)
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「アナモー」の記事における「3歳(2021/22年)」の解説
2021年9月11日、3歳馬となったアナモーは、ケンブラ・グレンジ競馬場のザラントゥザローズ(英語版)(G2)で始動した。彼はクビ差でレースに勝利し、騎手ジェームズ・マクドナルド(英語版)は後に「彼はこの馬に勝つための途方もない意志を持っている。彼が(先頭を)視界に入れるや否や、これを捉えるだろうと私は分かっていた」と述べた 。 2週間後のゴールデンローズ(G1)で惜敗した後、2021年10月9日にコーフィールドギニー(G1)のためにコーフィールドへ遠征した。 $ 2.10の人気で出走し、騎手ダミアン・オリヴァーは、広い障壁と戦った後、3歳牡馬を完璧に配置しました。直線では、彼は最後の200mでバーンストーミングフィニッシュを開始し、1/2馬身差で勝利した。オリバーはレース後、「彼は素晴らしい馬だ。彼は非常に良い馬のようです、彼は自らが優れていることを知っていて、カメラのために耳をそばだてています」 と語った。 10月23日のコックスプレート(G1)ではステートオブレスト(英語版)に敗れて2着となったが、3着ベリーエレガントには先着した。 秋初戦のエクスプレスウェイステークス(英語版)(G2)では3着に終わったが、叩き2戦目のホバートヴィルステークス(英語版)(G2)ではヒラルを2着、コンヴァージを3着にして破った。またカミングス調教師は、4月9日のG1クイーンエリザベスステークスを最終目標とすることを明らかにした。次走のランドウィックギニー(G1)では逃げたコンヴァージにクビ差敗れた(3着にはヒラルが入っている)。 3月19日、ローズヒルギニー(G1)では、コンヴァージがまず先頭を取り、次いでアナモーがこれに代わったが、最終的には掛かるプロフォンドが逃げる形となった。アナモーは2番手追走から、残り300mを切って独走態勢に入り、2着コンヴァージに6.57馬身差をつける圧勝劇を演じた。
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3歳(1999年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 15:14 UTC 版)
「メニフィー (競走馬)」の記事における「3歳(1999年)」の解説
一般戦1着、タンパベイダービー(L)2着を経て、4月10日のブルーグラスステークス(G1)でキャットシーフを破り優勝。 続いて三冠戦に駒を進め、スティーヴンガットイーヴンに次ぐ2番人気に支持されたケンタッキーダービー(G1)ではカリズマティックのクビ差2着、1番人気に支持されたプリークネスステークス(G1)ではカリズマティックの1馬身1/2差2着という成績を残した。 ベルモントステークス(G1)ではレモンドロップキッドの8着と掲示板を外したものの、8月8日のハスケル招待ハンデキャップ(G1)ではトップハンデを負いながらキャットシーフを破って優勝した。 トラヴァーズステークス(G1)ではレモンドロップキッドの3着、スーパーダービー(G1)ではエクトンパークの2着と、ともに1番人気に支持されたが勝ちきれず、3歳シーズンを終えて現役を退いた。
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3歳(2008年)
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「サトノプログレス」の記事における「3歳(2008年)」の解説
この年初戦は前走から1ヵ月後の未勝利戦で、またも1番人気に支持されて今後は人気に応えてデビュー4戦目で初勝利を挙げた。続く若竹賞(500万下)はショウナンアルバに敗れて4着、放牧を挟んで出走した3月の3歳500万下競走を制してオープン馬となった。オープン初戦は初の重賞挑戦となるニュージーランドトロフィーとなり、6番人気だったが2着のエーシンフォワードに3/4馬身差をつけて重賞初挑戦で重賞初勝利を挙げ、NHKマイルカップへの優先出走権を獲得した。この勝利は、鞍上の横山典弘にとっては2週連続、国枝栄厩舎にとっては3週連続の重賞勝利となり、馬主にとっては重賞初勝利、生産者にとっては14年ぶりの重賞勝利となった。そして、5月11日のNHKマイルカップに出走したが、7着に終わった。秋初戦は古馬との初対戦京成杯オータムハンデキャップ。しかし12着と大敗した。ポートアイランドステークスでは5着、富士ステークスでは16着と大敗した。
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3歳(2002年)
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「オースミコスモ」の記事における「3歳(2002年)」の解説
3歳初戦は桜花賞トライアルのチューリップ賞を後藤浩輝鞍上で出走、阪神ジュベナイルフィリーズを制したタムロチェリーを抑えて1番人気になるが逃げるヘルスウォールを捉えられず2着となる。続くクラシック一戦目桜花賞は11着と惨敗、初めて2桁着順となる。常石に鞍上が戻ったスイートピーステークスは、馬体重は過去最低の410kgでの出走となったが好位から1馬身1/4抜け出し1着、オークスの優先出走権を獲得するが、本番のオークスは14着と惨敗する。秋は新潟競馬場での代替開催となった紫苑ステークスから始動し、3番手から1馬身差をつけ勝利。牝馬三冠皆勤となった秋華賞は0.9秒差の7着に敗れる。初の古馬、新馬戦以来の混合戦となった中日新聞杯は9着となるが、連闘で臨んだ阪神牝馬ステークスは9番人気ながら2着に入る。
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3歳(2004年)
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デビューは遅れ3月20日の新馬戦(阪神芝2000m)でデビュー。勝ち馬のハナ差の2着と惜敗する。次走の未勝利戦は3着となり、3戦目の未勝利戦を1.4倍の断然人気に応え初勝利を挙げる。3か月の休養後、昇級初戦となった3歳以上500万下を上がり最速の脚で追い込み勝利し、連勝。次走は秋華賞トライアルの重賞、ローズステークスに挑戦する。レースは道中後方に待機し、直線で上がり最速の末脚で追い込み、グローリアスデイズ、スイープトウショウ以下を捉えて1着、3連勝で重賞初制覇となった。優先出走権を得て出走した秋華賞は3番人気と支持を集めるが後方から追い込むも6着に敗れる。続くエリザベス女王杯は7着に敗れた。
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3歳(1993年)
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「コノミテイオー」の記事における「3歳(1993年)」の解説
8月17日、園田競馬場のアラ系3才 新馬でデビューし、3着。2戦目の9月7日に初勝利をあげる。その後園田競馬場で2回、姫路競馬場で2回の計4回のアラ系3才に出走し10月13日の2着を除きすべて1着で入線した。そして迎えた園田ジュニアカップ、1番人気に支えられるもセンターキング(2番人気)の2着。その差は2馬身差だった。
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3歳(2005年)
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「ラインクラフト」の記事における「3歳(2005年)」の解説
フィリーズレビュー(GII)から始動し、このレースを勝利すると桜花賞に挑んだ。桜花賞では2番人気で迎え、好位5番手追走から直線先頭に立ち、最後は追い込んできた1番人気のシーザリオをアタマ差で抑えてGIを初勝利した。距離の長い優駿牝馬(オークス)(GI)を回避し、史上初めてクラシックホースとして出走したNHKマイルカップでは福永曰く「状態は今までの中で最高」で迎え、スローペースを味方につけて4番手追走から直線インコースから抜け出し、デアリングハートに1馬身4分の3の差をつけて優勝、牡馬を破って桜花賞とNHKマイルカップを制覇という組み合わせでの変則二冠を達成した。 秋初戦のローズステークスでは先に抜け出し逃げ込みを図るも、ゴール目前でエアメサイアに差され、2着に敗れた。続く秋華賞では変則三冠馬となれるのかどうかが注目されたが、またしても直線抜け出したところでエアメサイアとの一騎打ちの様相を呈し、最後はクビ差振り切られて2着と敗れた。福永によれば、ローズステークスを叩いていたにもかかわらず少し行きたがるそぶりを見せ、また3コーナーで接触し馬が気を悪くしていたという。ハットトリックやダイワメジャー、叔父アドマイヤマックスなど歴戦の古馬との初対戦のレースとなったマイルチャンピオンシップでは桜花賞、NHKマイルカップに続くマイルGI3連勝がかかっており、マイルチャンピオンシップ3連覇がかかっていたデュランダルに続く2番人気の支持を得る。レースでは中団に位置取りし、直線では先に抜け出したダイワメジャー、ダンスインザムードを捕まえにかかったところで大外を強襲したハットトリックに交わされたものの、ハットトリック、ダイワメジャーに続く3着と健闘した。その後、年末の阪神牝馬ステークスにも単勝1.6倍の圧倒的1番人気で出走したが逃げる形になり、最後は力尽きて有終の美を飾ったアドマイヤグルーヴの4着に敗れた。JRA賞選考では、シーザリオにわずか9票差及ばず最優秀3歳牝馬の座を逸した。
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3歳(2018・19年)
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「ベリーエレガント」の記事における「3歳(2018・19年)」の解説
デビュー戦から1か月後、8月12日のルルアカ競馬場の未勝利戦で勝利を挙げる。9月12日のマタマタ競馬場の条件戦を勝利後に売却され、オーストラリアのダレン・ウィアー厩舎に移籍した。 オーストラリア移籍初戦となった10月6日のマニフォールドステークス(G2)は3着に入り、20日のエーテルステークス(G3)にて重賞初勝利を挙げた。その後、11月3日のウェイクフルステークス(G2)、G1初挑戦となる8日のケネディオークスに出走し、それぞれ5着と7着だった。 しかし、ダレン・ウィアー調教師が動物虐待と詐欺で告発されたため、シドニーのクリス・ウォラー厩舎に転厩した。 3ヶ月の休養を挟んで3月16日のザヴァニティ(G3)を勝利すると30日のヴァイナリースタッドステークスでG1初勝利、4月13日のオーストラリアンオークスでG1連勝を飾った。
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3歳(2007年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 13:38 UTC 版)
「サキーズシークレット」の記事における「3歳(2007年)」の解説
ハンデ戦のヴートセールズステークスで始動戦を制して2勝目を挙げ、次いでカーナーヴォンステークス(L)、カテドラルステークス(L)を連勝。 迎えた7月13日のジュライカップ(G1)ではアセットに次ぐ2番人気に支持され、2着ダッチアート(英語版)に1/2馬身差をつけて優勝した。 同一距離の4連勝で臨んだスプリントカップ(G1)でも1番人気となったが、レッドクラブス(英語版)の5着に敗れた。
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3歳(1981年)
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「リーゼングロス」の記事における「3歳(1981年)」の解説
美浦トレーニングセンターの新関力厩舎に入厩した。 3歳夏の1981年6月6日、札幌競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)に中野渡清一が騎乗し、単勝2番人気でデビューを果たした。最終コーナーで先頭に立つとそれから差を広げ、後方に10馬身離して優勝した。続く北海道3歳ステークスでは2番人気の支持も、馬群で砂を被り走る気を失い9着、本州に戻り中山競馬場のカンナ賞、東京競馬場の黄菊賞では1番人気に推されながらそれぞれ敗退した。 11月28日、5戦目の黒松賞で後方からの追い込みが決まり2勝目。12月12日、中山競馬場の3歳牝馬ステークスでは、新潟3歳ステークスを制したビクトリアクラウンとの対決に注目が集まった。リーゼングロスが1番人気に推されたが、両隣から挟まれる不利を受け、8着に敗退、一方のビクトリアクラウンは連勝を果たした。以後、笹針治療を受けるなど休養に入り、3歳を終えた。
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3歳(1989年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:00 UTC 版)
「ダイタクヘリオス」の記事における「3歳(1989年)」の解説
10月7日、京都競馬場の新馬戦(芝1400メートル)に岸滋彦が騎乗してデビューし、3着。以降引退まで、岸が主戦騎手を務めることになる。21日、2回目の新馬戦(ダート1200メートル)は直線で抜け出すも、ニチドウサンダーに交わされて2着。29日、連闘で臨んだ3回目の新馬戦(芝1600メートル)では、逃げ切り初勝利を挙げる。2週間後の11月11日、デイリー杯3歳ステークス(GII)に格上挑戦で、重賞初出走。後続を引き離して逃げ、道中かかりっぱなし。直線で脚が鈍りかわされた。されど大敗はせず、勝利したヤマニングローバルに約3馬身半差の4着を確保。岸は「道中引っかかって、まともの走りをしていない(中略)強いメンバー相手に、ちぐはぐなレースをしながらもこれだけ走ってくれた。力のある馬だな」と感じたという。 12月9日の阪神競馬場、自己条件のさざんか賞(400万円以下)では逃げ切り、2勝目を挙げた。再び連闘して17日、阪神3歳ステークス(GI)でGI初出走。単勝オッズ7.9倍の4番人気に推された。スタートから逃げ、直線ではしばらく独走したが、後方待機から追い上げる7番人気コガネタイフウにゴール寸前で差し切られ、アタマ差の2着。梅田はこれを機に、4歳春の大目標を皐月賞に定めた。梅田は、このように述懐している。 東上を意識したのは、阪神3歳Sの2着からですね。スピードだけじゃなくて、粘りもある。血統的に母系がスピードタイプで、父親の方もビゼンニシキからダンディルートでしょう。デビュー前から、長い所はきついだろうなと思っていたんですよ。だからクラシックを狙うとしても、ダービーよりも皐月賞をとね。 — 梅田康雄
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3歳(1992年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:49 UTC 版)
当初は8月の小倉競馬場でのデビューが予定されていたが、体調を崩したことで9月13日の阪神競馬場で初戦を迎えた。浜田は熊沢重文に騎乗を依頼したが、同じ新馬戦でデビューするダンシングサーパスへの騎乗を理由に断られたため、当時デビュー5年目の岸滋彦を鞍上に迎えた。当日は2番人気に推されると、2着に大差(10馬身以上)、タイムにして1秒7差をつけての圧勝を収めた。続くもみじステークスもレコードタイムで勝利を収めたが、このレース後に初代厩務員の豊沢正夫ががんにより亡くなり、代役として荷方末盛を厩務員に迎えた。次走に浜田は翌年の皐月賞を見据えて同距離の京都3歳ステークスに出走させようとしたが、「重賞を」という中島の要望を容れ、前2走から距離が200m短縮されるデイリー杯3歳ステークスに出走。浜田は「前半取り残されないか」と危惧したが、2着に2馬身弱をつけ、芝1400mの3歳レコードを一挙に1秒2短縮する1分21秒7のタイムで勝利した。レース後に岸は「まだ遊びながら走ってますよ」とコメントした。 12月13日、3歳牡馬ナンバーワン決定戦である朝日杯3歳ステークスに出走。ビワハヤヒデは競馬マスコミから「オグリキャップ、メジロマックイーンの再来」と書き立てられ、当日は単勝オッズ1.3倍、2番人気のニホンピロスコアーが8.5倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースでは道中中団から最終コーナーにかけて進出したが、直線ほぼ並ぶ形で抜け出したエルウェーウィンにハナ差競り負け、2着と敗れた。デビュー後初となる黒星を喫したが、エルウェーウィン鞍上の南井克巳は、「1馬身以上は抜け出す手応えだったのに、ハナ差勝ちとは…。ビワハヤヒデは相当に強い馬です」とコメントした。岸はエルウェーウィンの主戦騎手も務めており、ビワハヤヒデの鞍上を選んだことで南井に乗り替わっていた。最優秀3歳牡馬のタイトルもエルウェーウィンが受賞したが、当時の規定では外国産馬であるエルウェーウィンに翌年のクラシック競走への出走権はなかったため、クラシック路線に向けての最有力馬という評価は確かなものであった。
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3歳(1962年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:48 UTC 版)
「ネイティヴダイヴァー」の記事における「3歳(1962年)」の解説
復帰は5月のデボネアS(ダート6ハロン)までずれ込んだが112ポンドと斤量にも恵まれて2着にハナ差で勝利。しかし同月末のウィルロジャーズステークスでは6着に完敗。6月の一般戦には勝利したものの7月から8月まで1ヶ月と少しの間に4回走らせるという無茶なローテーションも響いて5着・3着・4着・5着と不安定な成績が続く。 さすがに走らせすぎたと思ったのか三ヶ月の休みをとって11月のヒルズデールHから復帰。ここでコースレコードの1.08.4で圧勝。年末のマリブSまでステークス4連勝といよいよ本格化したかに思えた。 3歳時は11戦6勝の成績。
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3歳(2007年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 19:19 UTC 版)
2005年9月にキーンランドセプテンバーセールにて5万7000ドルで落札され、2007年2月のデビュー戦で12馬身4分の3の圧勝で初戦を飾る。この競走を見ていた複数の馬主(パドゥア・ステーブル、ストーンストリート・ステーブルら)が、ミッドナイト・クライ・ステーブルにトレードを申し込み複数による共同所有となった。トレード価格は350万ドルと推定されている。 その後、G3のレベルステークス、G2のアーカンソーダービーを連勝した。ともに圧勝であったため、「ケンタッキーダービーの新星現る」と注目を集め、同競走の前売り最終プール1番人気に支持され、当日にも2番人気に推されたが、ストリートセンス (Street Sense) に押し切られ3着と敗れる。しかし、プリークネスステークスではそのストリートセンスを直線ゴール手前で差し切り優勝。初G1制覇となった。 二冠目を狙うカーリンは、三冠最終戦のベルモントステークスに出走。ここではストリートセンスが回避したため6対5の抜けた1番人気に推されたが、牝馬路線からこちらに回ってきたラグズトゥリッチズ (Rags to Riches) との叩き合いに敗れ、102年ぶりの大偉業を尻目に2着に終わった。 3歳クラシック以後はブリーダーズカップ・クラシックを目標に調整され、ハスケル招待ハンデキャップ3着後、古馬との初対戦となったジョッキークラブゴールドカップではローヤーロンとの一騎討ちを制して1着となる。そして迎えた10月27日、ブリーダーズカップ・クラシック。ひさびさに顔合わせとなったストリートセンスや、ジョージワシントンなどが出走してきているなか4番人気に支持され、レースでは直線逃げ粘るハードスパンをかわし4馬身半の差をつけ快勝した。勝ち時計はトラックレコードにわずか0.19秒差という優秀なものだった。
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3歳(2007年)
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「メリッサ (競走馬)」の記事における「3歳(2007年)」の解説
2007年1月7日、京都競馬場第6競走の3歳新馬戦(芝1400m)で、鮫島良太を鞍上にデビューするも5着に敗れる。2戦目からはダートの未勝利戦を7戦使い、ようやく初勝利を挙げると、芝コースの白藤賞(500万下)へ挑んだ。しかし、結果は14頭立て12着の大敗であった。この後4ヶ月ほど休養し、再びダートに転向し、10月14日に条件戦へ出走すると2着となる。さらに27日に条件戦へ再び出走するが、1番人気を裏切る5着となり、この年のレースを終えた。かなり使い込まれ、最終的にこの1年だけでレースを11戦(1勝10敗)も使ったことになった。
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3歳(2001年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
「ディバインシルバー」の記事における「3歳(2001年)」の解説
2001年1月13日の新馬戦(中山ダート1200m)でデビュー。デビュー戦は15着に敗れる。2線目の未勝利戦で穂苅寿彦が騎乗、逃げ切って初勝利を挙げる。このレースから17戦連続で穂苅が騎乗した。その後夏の2戦は二桁着順に終わるが、10月の雲雀ケ原特別を12頭立て10番人気ながら5馬身差をつけて圧勝。2勝目を飾った。続く比良山特別も好位から抜け出して1着、連勝を飾った。
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3歳 (2018/19シーズン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:21 UTC 版)
「ジオータムサン」の記事における「3歳 (2018/19シーズン)」の解説
復帰戦となったG2スタンフォックスステークスでは3着に敗れ初の黒星となったものの次走のG1ゴールデンローズステークスでは大外一気の豪脚を見せ、ゴール寸前ではズーサインを再び封じこめG1レース2勝目を挙げた。10月のG1コーフィールドギニーでは、同日ロイヤルランドウィック競馬場で行われるジ・エベレストでマカヴォイ騎手がレッドゼルに騎乗するため、このレースでは前走のゴールデンローズステークスで2着だったズーサインに騎乗していたジェームズ・マクドナルド騎手を迎えた。レースでは先行策をとり、4コーナーで2、3番手につけたジオータムサンは直線楽に抜け出し最後は流す余裕を見せ楽勝した。 コーフィールドギニーズ以降は休養に入り、2月のG2ホバートヴィルステークスで戦線に復帰。手綱は再びマカヴォイ騎手に戻った。前走では先行策をとっていたがこのレースでは本来の後方一気策へとスタイルが戻り、残り50メートルの付近で差し切り勝ちを収めた。勢いに乗って挑んだ3月のG1ランドウィックギニーズでも目の覚めるような末脚を披露し、粘るファンダメンタリストをハナ差で差し切った。続くローズヒルギニーでは初の2000メートルだったが1.4倍の圧倒的支持に推された。初の2000メートルで苦戦したものの最後の直線ではアロガントとのマッチレースとなったがクビ差で凌ぎきりG1連勝となった。同厩でこの年のクイーンエリザベスステークスで引退する女傑ウィンクスとの対決が熱望されたが、このレースを最後に休養に入ることが陣営発表され、4月に現役引退ならびに種牡馬入りが発表された。
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3歳(2017/18シーズン)
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「アリーゼー」の記事における「3歳(2017/18シーズン)」の解説
カミングス厩舎に移籍初戦となったメイドン戦でグリン・スコフィールド騎手を背に初勝利を挙げる。その後は重賞戦線に駒を進めG2シルバーシャドウステークスで2着、G2フューリアスステークス4着と堅実な走りを見せ続け、G2ティーローズステークスで重賞初制覇を飾る。更にG1フライトステークスでは後方で脚を溜めると直線では一気に抜け出す末脚を披露し、前走でも負かしたシャンペンカドルズをあっさり捉え連勝でG1初制覇を果たした。その後挑んだG1オーストラリア1000ギニーでも1番人気に推されたが3着に敗れた。 G2ライトフィンガーステークスを制しシーズン後半を好スタートで切ったアリーゼーだったが次走のG1サラウンドステークスでは馬群を割ってきたものの伸び切れず6着とキャリア最低の着順に終わった。更にクールモアクラシックでは直線で馬群が固まり前が開かなかった影響もあり13着と惨敗した。ブレントン・アヴドゥラ騎手との初コンビ、初の2000メートル挑戦となったワイナリースタッドステークスでは好スタートを切ると4番手につける先行策にでる。直線では逃げるハイヤームに突き放され、後続にも抜かされるものの4着に粘り切り復調を見せた。そして迎えた4月のG1レガシーステークスではスコフィールド騎手に手綱が戻り、脚質も本来の追い込みへ戻すと最後の直線残り300メートル付近で外に持ち出すと逃げるプロンプトレスポンス共々一気に差し切り、復活の勝利をG1で挙げた。
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3歳(2006年)
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「ダイワパッション」の記事における「3歳(2006年)」の解説
3歳初戦、フィリーズレビューは好位追走から抜け出すと、中団から追い上げてきたユメノオーラを1馬身3/4抑えて優勝、4連勝で重賞2勝目を飾る。初のGI挑戦となった桜花賞は先行するも馬群に飲まれ16着と大敗する。次走は函館スプリントステークスを予定していたが、感冒のため出走を取消。3か月半ぶりのレースとなったUHB杯は9着に敗れる。4か月半の休み明けで挑んだ阪神カップは13着と惨敗に終わった。
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3歳(1994年)
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「タニノクリエイト」の記事における「3歳(1994年)」の解説
8月14日の新馬戦でデビューする。しかし1着のウルトラエナジーから1秒以上離された4着に敗れる。続いて参戦した新馬戦では前走で2着だったインターブラボーに2と1/2馬身をつけ快勝し、この年はこれ以降出走しなかった。
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3歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 23:02 UTC 版)
「アーネストリー」の記事における「3歳(2008年)」の解説
復帰は、新馬戦から8か月経った2008年3月15日だった。前半の1000mが1分03秒8のスローペースとなり、前に届かず3着に敗れる。鞍上の佐藤哲三は「すぐ外にいたダノンイサオが動かなかったので、ペースがなかなか動かなかった。休み明けで自分からという感じではなかっただけに、その点で運がなかったかも」とレースを振り返った。この時点で、毎日杯への登録があったが、間隔が狭くなることと同馬主のサブジェクトが出走することで、陣営は回避しアザレア賞を選択した。しかし、右腰椎の捻挫でアザレア賞には出走せず再度長期休養に入ることとなった。調教師の佐々木は「本当に運のない馬。この血統はみんな脚元が弱い」とコメントしている。 8月、札幌競馬場で行われた知床特別で復帰。前走から38kg増の548kgでの出走で、パドックでは大量の発汗を見せていた。レースでは4角で早めに抜け出すも、そこから伸びず5着に終わる。3週間後、同コンビで挑んだ休み明け2走目は単勝1.4倍と圧倒的人気を集める。道中2番手で追走すると、直線で抜け出し2着に2馬身差で完勝し、2勝目を挙げた。さらに10月26日の北野特別でも、先行するとゴール前で逃げた2頭を交わし、外から追い込んだタガノエルシコをクビ差かわし勝利した。その後、11月24日の修学院ステークスに出走し、人気通りの2着。佐々木は先行勢が沈む展開で粘った点を評価し、「こういう馬は走ってくるよ」と後に懐述している。
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3歳(2008年)
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「ブラックエンブレム」の記事における「3歳(2008年)」の解説
2月14日に美浦トレーニングセンターに帰厩し、3月1日のきんせんか賞(500万下)で実戦復帰を果たした。レースでは1番人気の支持に応えて4馬身差で快勝し、オープン馬となった。続く重賞初挑戦となったフラワーカップでも1番人気に支持され好スタートを決めそのまま逃げ切り、重賞初勝利を挙げた。この勝利は厩舎及び馬主にとっても重賞初勝利となった。次走は桜花賞に出走登録を行いレースが行われる前週の4月4日に栗東トレーニングセンターへ入厩して調整され本番に向かったが、見せ場なく10着に敗れた。続く優駿牝馬では4着だった。 秋初戦のローズステークスでは道悪が響き15着と大敗し、つづく10月19日の第13回秋華賞では単勝11番人気にとどまったが、人気になったレジネッタ、トールポピー、エフティマイアが馬群に沈む中、最内からスルスルと抜け出し、大外後方から突っ込んできたムードインディゴを振り切りJpnI初制覇を飾った。なおこのレースは、2着のムードインディゴが単勝8番人気、3着が同16番人気のプロヴィナージュで3連単は1098万2020円というGI史上最高(当時)配当となっている。
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3歳(1989年)
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「ミホノビヤクエイ」の記事における「3歳(1989年)」の解説
7月12日、園田競馬場からデビューし1着。その後同じ月のアラ系3才に出走し1着を取った後休戦を挟んだため、この年は2戦2勝で終わる。
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3歳(2003年)
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「ギャラントアロー」の記事における「3歳(2003年)」の解説
3歳になり、シンザン記念で重賞に挑戦し8着。次走はダート1200mの3歳500万下を選択し2着に4馬身差をつけて快勝、2勝目を挙げる。続くクリスタルカップは13番人気と低評価ながら、先手を取るとワンダフルデイズに3/4馬身交わされるも2着に粘る。さらに、ニュージーランドトロフィーでも逃げると勝ったエイシンツルギサンにクビ差の2着となり、2戦連続2着と好走した。なお、このレースから20戦連続で幸英明が鞍上を務める。優先出走権を獲得したNHKマイルカップはブービーの17着と惨敗。続くファルコンステークスは逃げるとそのまま粘り込み、追い込んできたホーマンアピールに1馬身3/4差をつけて逃げ切り勝ち。重賞初制覇を飾った。3か月の休養明け、セントウルステークスは6着。スワンステークスは11番人気ながら、好スタートからハイペースで逃げると、いったん引き付けると直線でさらに突き放し、伸びてきたテンシノキセキに2馬身半差をつけて1着、重賞2勝目を挙げた。続くマイルチャンピオンシップでも10番人気ながらデュランダル、ファインモーションに続く3着と粘り込んだ。
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3歳(1983年)
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1980年に、馬産地は伝染性の子宮炎に見舞われて例年よりも種付けが遅くなった。そのため、1981年生まれの世代は軒並みデビューが遅れ、1983年の3歳戦が始まっても、素質馬の登場はあとになると目されていた。そうした中で早くから活躍したのが関東のサクラトウコウとハーディービジョン、関西のロングハヤブサ(最優秀3歳牡馬)で、日本中央競馬会の広報誌『優駿』で行われる「フリーハンデ」ではこの3頭が「3歳3強」と評された。3戦3勝のシンボリルドルフに対しては、重賞出走歴がないにもかかわらず、勝ち方が期待できるとして3強に次ぐ評価を与えるものと、確実に勝てる「楽なレース」を選んでいるとしてそこまでの高評価をしないものがあった。 ビゼンニシキは3歳11月、東京競馬場の新馬戦(芝1400メートル)に岡部幸雄が騎乗してデビュー。直線コースのみを使って追い込み、6馬身差を広げて勝利した。3週間後には、同じ距離、条件のさざんか賞では再び追い込み、新馬戦よりも2.1秒速く入線し2連勝。年末のひいらぎ賞では初めて1番人気の支持で出走し、追い込みから2馬身離して3連勝を果たした。 『競馬ブック』誌上で発表される「全日本フリーハンデ」では、ビゼンニシキはようやく現れた「大物」としてシンボリルドルフよりも1kg高く評価した。ただし距離適性には壁があるとして、翌年の東京優駿(日本ダービー)は難しいだろうとも評されている。 一方、「フリーハンデ」ではシンボリルドリフと同等とみる声もあったが、シンボリルドルフより1kg低い評価を与えられている。この年に同じ評価を受けたものには、トーアファルコン、ヤマノスキー、マーサレッド、マリキータ、スイートソフィアがいた。
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「3歳」の例文・使い方・用例・文例
- 9歳から13歳の少年
- 彼は23歳で処女作を出版した
- 彼女は3歳のとき戦争で孤児になった
- この学校の生徒は13歳から18歳までだ
- 3歳児に理屈はわからない
- 彼女は私より3歳年上だ
- 彼は息子がほんの3歳の時に英語の勉強を始めさせた
- 彼の息子は3歳のとき小児麻痺にかかった
- 私は13歳です
- 3歳の男の子
- あの女の子は3歳です
- 彼はわずか13歳で即位した
- 私はあなたより3歳若い
- 伝統行事です。3歳と5歳の男の子と、3歳と7歳の女の子は神社へ行き、健康を祈願します。
- 精神年齢が3歳から7歳の子供のように彼を扱う
- 私は63歳から年金の繰上げ支給を受けています。
- わたしは1歳から3歳まで名古屋に住んでいたのですが、小さかったのであまり覚えていません。
- ジョンは13歳のときギターを弾き始めました。
- 23歳の誕生日おめでとう。
- こう見えても、私は3歳から英語をやっています。
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