7歳(2009年)
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「メイショウトウコン」の記事における「7歳(2009年)」の解説
2009年は3月20日に安田伊佐夫厩舎が逝去、解散したため武田博厩舎に転厩となり、転厩初戦となった3月25日の名古屋大賞典から始動したが、スマートファルコンの3着に敗れた。続くアンタレスステークスではスタートで出遅れ、後方からレースを進めるも見せ場なく8着に敗れた。続く東海ステークスでも8着だった。その後、7月20日のマーキュリーカップに出走。中団からレースを進めるも、直線で伸びあぐねて8着に敗れた。休養を挟んで11月3日のJBCクラシックではヴァーミリアンの4着に終わった。続く12月6日のジャパンカップダートでは後方から追い上げるも7着だった。続く12月23日の名古屋グランプリでは4着に敗れた。その後は一度もレースに出走することなく2011年9月28日付で競走馬登録を抹消され、北海道浦河町の村下牧場で種牡馬となる。2015年、にいかっぷホロシリ乗馬クラブに移り乗馬として過ごしている。
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7歳(2019年)
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「ブルドッグボス」の記事における「7歳(2019年)」の解説
5月のさきたま杯で復帰して6着。このレースの後、2018年に小久保厩舎の所属馬で発生した禁止薬物検出問題を受け、小久保の調教師免許が2019年4月から2020年3月まで南関東限定に制限されていることから盛岡で行われるクラスターカップに出走するためにホッカイドウ競馬の田中淳司厩舎に移籍。この移籍時を境に、主戦騎手が左海誠二から御神本訓史に変わる。7月の門別・A1 - A3一組混合特別は地元の岩橋勇二が騎乗、このレースで久々の勝利を挙げ、クラスターカップを使い5着として、小久保厩舎に戻る。地元のテレ玉杯オーバルスプリント6着の後、10月の東京盃で2着に入る。11月4日のJBCスプリントでは中団のやや後ろでレースを進めると、早めに先頭に立ったコパノキッキングをゴール前で差し切ってJpnI初制覇を果たした。12月25日のゴールドカップでは道中中団追走から3コーナーで外へ持ち出すと、最後の直線で逃げ粘るノブワイルドをハナ差捉えて重賞3勝目を飾る。
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7歳(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 02:18 UTC 版)
「エンパイアペガサス」の記事における「7歳(2020年)」の解説
2020年は平山厩舎に転入せず、岩手競馬開幕まで休養を取る。3か月半ぶり、赤松杯は5着に敗れる。続くシアンモア記念は3着以下に9馬身差をつけたがランガディアにハナ差敗れ2着、4年連続出走となったみちのく大賞典は前年と同じく3着に敗れる。その後は休養に入り4か月後の金華特別は2着、続く北上川大賞典は楽な手応えのまま第3コーナーで前を交わし、直線で外から迫るフレッチャビアンカに1馬身半差をつけ優勝、中止となった前年を挟み、連覇を果たした。次走、桐花賞は中団でレースを進め、内から迫るヒガシウィルウィンに2馬身半差をつけ優勝、重賞17勝目を挙げた。
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7歳(2013年)
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「ナイキハイグレード」の記事における「7歳(2013年)」の解説
川島正行厩舎へ復帰したが、1度も走ることなく1月24日付けで競走馬登録を抹消された。
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7歳(2007年)
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「レマーズガール」の記事における「7歳(2007年)」の解説
始動戦は、川崎記念を選択するが、8着に敗れる。引退レースとなったエンプレス杯は中団から競馬をし、4着となる。3月3日、競走馬登録を抹消し、栄進牧場で繁殖牝馬となる。
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7歳(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:11 UTC 版)
「コパノリッキー」の記事における「7歳(2017年)」の解説
引退レースとなった東京大賞典は好スタートからハナを奪うと道中マイペースの逃げに持ち込むと直線でも後続を引き離し、最後はサウンドトゥルーの追い上げを振り切りって歴代最多のGI・JpnI競走11勝目を挙げるとともに有終の美を飾った。翌2018年1月6日に京都競馬場で引退式が行われ、1月10日付で競走馬登録を抹消された。引退後はブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種牡馬入りする。 2014年ヒヤシンスS 2014年JBCクラシック 2015年フェブラリーS
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7歳(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 22:30 UTC 版)
「ロゴタイプ (競走馬)」の記事における「7歳(2017年)」の解説
2017年初戦は4年連続での出走となった中山記念で直線一旦先頭に立つもネオリアリズムの3着となる。次に予定していたダービー卿CTはフレグモーネ発症により回避。連覇をかけて挑んだ安田記念は道中軽快に逃げ、直線で懸命に粘るもサトノアラジンにかわされ2着に敗れる。しかし、先行勢が軒並み直線で脱落する中、ただ1頭粘って2着に入り、モーリスを破ったことはフロックでは無いことを証明した。 秋に入り、富士ステークスでの復帰を予定していたが背腰の張りで回避し、山元トレーニングセンターで調整されていたが、症状は回復せずさらに悪化した様子があったため、10月27日に現役を引退することが発表された。引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬となった。
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7歳(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:53 UTC 版)
さらに約1年の休養を経てキャリア初のダート戦となるプロキオンステークスで復帰。評価は8番人気と高くはなかったが、レースでは中団から手応えよく伸びて、休養明けの初ダートながら2着に入った。この結果に管理する笹田調教師は 「状態が戻っていましたし、選択肢が広がりました」とコメントした。その後も引き続きダートを使われ、エルムステークスは7着に沈むも、3か月ぶりとなった武蔵野ステークスは3着と好走し改めてダートの適正があることを見せた。続くチャンピオンズカップは後方から追い込むも7着に敗れた。
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7歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 22:22 UTC 版)
「ニホンピロサート」の記事における「7歳(2005年)」の解説
半年の休養後、復帰初戦、別定61 kgと酷量を背負ったコーラルステークスは10着と惨敗。開催時期が5月の変更となったさきたま杯は中団やや後方待機から早めに仕掛け、ゴール寸前で逃げ粘るブルーローレンスを捉えてダート重賞4勝目を挙げた。しかし、次走プロキオンステークスは先行するも8着に敗れる。次走、東京盃は中団から追い込むが、勝ったアグネスジェダイに1馬身差の2着。名古屋競馬場で施行されたJBCスプリントは12頭立ての5着に終わる。ハンデ59 kgを背負った霜月ステークスは7着に沈んだが、続く兵庫ゴールドトロフィーは4コーナーで先頭集団に並びかけると後方から迫ってきたメイショウボーラーに1馬身半差をつけ優勝。重賞5勝目を挙げた。
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7歳(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:40 UTC 版)
「デンコウアンジュ」の記事における「7歳(2020年)」の解説
7歳になっても現役を続け、小倉競馬場で行われた愛知杯は9番人気の低評価の中、トップハンデをものともせず4コーナー手前から徐々に進出して直線インを突いて抜け出し優勝、重賞3勝目を飾る。雪の中行われた中山牝馬ステークスは0.2秒差の4着、前年制した福島牝馬ステークスは、2番人気となるも、13着と惨敗。その後、7か月休養し福島記念で復帰、56㎏と実質トップハンデながら4着と健闘。続く、中日新聞杯は柴田善臣の骨折により、吉田隼人に乗り替わるが16着と惨敗した。
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7歳(2011年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:45 UTC 版)
「ドリームジャーニー」の記事における「7歳(2011年)」の解説
2011年4月3日の大阪杯で始動。出遅れて後方からレースを進めたが9着に敗れた。その後、6月26日の宝塚記念に出走、スタートで出遅れ後方でレースを進めたが10着と大敗した。レース後、管理していた池江泰寿は同馬について「闘争心がなくなった」と引退させる意向を明らかにし、6月30日付で競走馬登録を抹消された。引退式は9月19日に札幌競馬場で行われた。
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7歳(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:56 UTC 版)
2020年11月29日に東京競馬場で行われた第40回ジャパンカップに勝浦正樹を鞍上に迎えて出走し、15着で終える。ジャパンカップへ出走することは仲山の夢であった。 続いて、翌週12月6日に中京競馬場で行われた第21回チャンピオンズカップに亀田温心を鞍上に迎えて連闘で出走し、16着で終える。
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7歳(2021・22年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:04 UTC 版)
「ネイチャーストリップ」の記事における「7歳(2021・22年)」の解説
9月4日のコンコルドステークス(G3)で始動し、軽く促しただけで2着に2.48馬身差で勝利。続く18日のザショーツ(G2)では中間点で先頭に立つもエデュアルドに差し返されて2着に敗れた。 10月16日のジ・エベレストでは1番人気に推され、好スタートから先頭になって追い込んできたマスクドクルセーダーを0.2馬身振り切り、三度目の正直でジ・エベレストを制した。 11月16日のスプリントクラシックは圧倒的な1番人気で出走。コース中央を先頭に立って進め、徐々に外ラチ沿いに進路を取りつつ残り300付近で後続を一気に突き放し、最後は流して3.25馬身差での余裕の勝利。G1・7勝目を圧巻の逃げ切りで飾った。 年が明けて2月19日のブラックキャビアライトニング(G1)で復帰して1番人気に推されるも一完歩目で隣の馬と接触して後手となり、早めに挽回を図るもホームアフェアズを捉え切れずに2着。3月5日のチャレンジステークス(G2)はやや伸び上がるように発馬し、エデュアルドの2番手をってマークするも追いつけず、さらにシェルビーシックスティシックスが襲い掛かって3着に敗れた。 4月3日のTJスミスステークス(G1)は単勝2.30倍の支持を集めた1番人気に推された。エデュアルドとの主導権争いを制して先頭に立ち、直線では3.36馬身突き放して逃げ切り、G1・8勝目と同競走3連覇を果たした。
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7歳(2015年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 03:58 UTC 版)
「ミトラ (競走馬)」の記事における「7歳(2015年)」の解説
年が明けると、さらに距離が伸びたアメリカジョッキークラブカップを7番人気ながら2着と好走した。次走の中日新聞杯はトップハンデ57.5kgを背負いながらも5着となる。その後、再び休養を挟み6か月半ぶりの実戦となったオールカマーは3着、連覇がかかった福島記念は57.5kgのトップハンデで1番人気となるが、ヤマカツエースに1馬身差の2着となった。次走の金鯱賞は4コーナーで外めに持ち出して前を射程圏に入れ、直線半ばで追い出し、2着ディサイファ以下に1.1/4馬身差をつけ、レコードタイのタイムで重賞2勝目を飾った。しかし、脚部不安によりこのレースを最後に引退することが決定。2016年4月27日に登録を抹消された。
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7歳(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:53 UTC 版)
「インカンテーション」の記事における「7歳(2017年)」の解説
復帰2戦目、7歳初戦となった東海ステークスは12着。前年出走出来なかったフェブラリーステークスは13着と惨敗。次走、マーチステークスは勝浦正樹が騎乗、10番人気低評価だったが、好位から抜け出し、1年10ヶ月ぶりの勝利。重賞4勝目を挙げた。続くかしわ記念は岩田康誠に乗り替わる。勝ったコパノリッキーには2馬身離されたが、逃げたモーニンをクビ差捕らえ2着に入る。夏は休養に充て5か月ぶりとなった白山大賞典は逃げるクリノスターオーを2番手でマーク。2周目3コーナーで先頭に並びかけると、そのまま押し切り2馬身半差の完勝。次走、武蔵野ステークスは三浦皇成が初騎乗、早めに2番手に上がるとゴール前200メートル付近で先頭に立ち、追い上げたサンライズソアを半馬身差で退け、重賞6勝目を飾った。なお、三浦とは引退までコンビを組むことになる。続く東京大賞典は3番手から競馬をするも7着に敗れた。
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7歳(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:08 UTC 版)
3月にダイオライト記念を勝ち、史上初の3連覇。以降、2年連続の出走となったコリアカップを含め3戦連続2着となるが、コリアカップ後に左前脚種子骨靱帯の負傷が判明し、長期休養に入った。
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7歳(2019年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:06 UTC 版)
7歳になり、美浦・天間昭一厩舎から栗東・森秀行厩舎に転厩する。転厩初戦、根岸ステークスは6着。次走、フェブラリーステークスは12着となる。休養明け、栗東ステークスで2番手からハナ差リアンヴェルテを交わし久しぶりの勝利を飾る。続く、北海道スプリントカップは3着と2走続けて好走。しかし、その後年内5戦し、3戦4着に入るも馬券には絡めなかった。
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7歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:28 UTC 版)
「ブラックタイド」の記事における「7歳(2008年)」の解説
2008年も中山金杯から始動するが10着、大阪城ステークスでは8着、日経賞ではマツリダゴッホの5着だった。そして、距離短縮で挑んだ都大路ステークスでは勝ったフサイチアウステルからアタマ差の2着に入ったものの、次の目黒記念では8着という結果に終わった。その後、8月1日付で競走馬登録を抹消し、引退した。結局、屈腱炎から復帰した後は一度も勝利できずに競走馬を引退することになった。
※この「7歳(2008年)」の解説は、「ブラックタイド」の解説の一部です。
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7歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 01:53 UTC 版)
2008年の初戦は日経賞となり、道中は先頭から離れた3番手を追走し、直線に向くと後続に交わされはするもののしぶとく粘り4着に入った。 出走登録を行っていたシンガポール航空インターナショナルカップには、4月4日に選出馬となり招待を受諾したことが発表されて3年連続で出走することになった。しかし、同じく同競走に選出されていたJRA所属馬のシャドウゲイトとタスカータソルテが日本とシンガポール政府間の衛生条件に関する協議の結果遠征不可能となり単独で5月10日に出国した。そして迎えた同競走ではスタートで出遅れたため後方からレースを進め、最後の直線ではしぶとく脚を伸ばしたものの、前には届かず6着だった。 帰国後は北海道に戻らずビッグレッドファーム鉾田トレーニングセンターで3週間の着地検査を受けたあとに宝塚記念へ出走する予定であったが、6月16日に左前跛行(ひだりまえはこう)のため回避することが発表され、宝塚記念への4年連続出走はならなかった。また、その後の精密検査で2か所の剥離骨折が判明し、6月24日に骨片の除去手術を行い、デビュー以来初めての長期休養に入った。 半年ぶりの復帰戦は、5年連続の出走となるジャパンカップになり、大外枠から2番手を追走したが、17着と出走馬中最下位に敗れた。その後、有馬記念にも出走したが11着に終わった。なお、5年連続の有馬記念参戦はスピードシンボリ・メジロファントム・ナイスネイチャと並ぶ最多タイ記録である。
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7歳(2006年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:04 UTC 版)
「ナリタセンチュリー」の記事における「7歳(2006年)」の解説
休養は1年2ヶ月にも及び、復帰戦となった2006年4月の天皇賞(春)は、田島によれば「体は万全に仕上がっていたがテンションが高かった」といい、これまで5ヶ月以上の休み明け(新馬戦を除く)は3戦3勝であったが、ここでは12着に敗れた。続く宝塚記念は「天皇賞を使ってからはいい状態をキープして、メンタル面で落ち着きが出てきた」といい、レースでは前年の京都記念と同じように雨の中、内を回り直線を向くと伸び脚を見せ、ディープインパクトには4馬身及ばなかったものの単勝10番人気の低評価を覆して2着に入った。 2006年の宝塚記念は阪神競馬場の改修工事の影響で、これまで重賞2勝を含む4勝を挙げている相性のいい京都での開催で、重賞を2勝した時と同じ7番枠に入り、また、「ディープインパクトを負かすにはコンディションの悪い不良馬場と思っていた」ので(実際の馬場状態は稍重)、田島は「運も向き勝てるのでは」と感じたが、「完敗」「レベルが違いすぎた」と自身のサイトに記している。 宝塚記念終了後は秋のGI戦線を目指して調整していたが屈腱炎を発症したため、7歳という年齢面も考慮され、同年8月25日付でJRAの競走馬登録を抹消し引退した。
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7歳(1993年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:50 UTC 版)
「カミノクレッセ」の記事における「7歳(1993年)」の解説
クレッセは1月の日経新春杯で復帰し連覇を狙ったが10着と大敗。その後、脚部不安に悩まされながら、安田記念と天皇賞(秋)に出走したが、安田記念は8着、天皇賞(秋)は11着に終わった。そして、11月のアルゼンチン共和国杯7着後、慢性化していた脚部不安が更に悪化し、引退することになった。
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7歳(2010年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:17 UTC 版)
「ステキシンスケクン」の記事における「7歳(2010年)」の解説
日本からアイルランドへ輸出され、児玉敬厩舎に預けられたが、現地での出走は実現しなかった。8月18日付けでJRAの競走馬登録を抹消され、その際にチリでの種牡馬入りが改めて報じられたが、上述したように現在はチェコで種牡馬となっている。
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7歳(1979年)
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「グリーングラス」の記事における「7歳(1979年)」の解説
1979年のグリーングラスは更に脚部不安に苦しめられる。3年連続参戦となったAJCCで2着に入り、4ヶ月ぶりで挑んだ第20回宝塚記念はダービー馬・サクラショウリの3着。この時は非常に状態が悪かったが、騎乗していた岡部は(休み明けであれだけのレースが出来れば)「もう暮れの有馬記念は勝つだろうと思っていた」という。 結局この2戦のみでシーズン後半を迎え、5ヶ月の休養をとり、有馬記念1ヶ月前の東京のオープン競走で復帰。このレースには本馬とホクトボーイ・インターグシケン・メジロイーグルの4頭のみが出走を表明していたために、登録がレース施行の最低頭数5頭に満たず不成立になる可能性があったが、長期休養で準オープンまでクラスを落としていたイシノマサルが出走したことでレースが成立。11月10日の第5競走に組まれた豪華メンバーのオープン戦はメジロイーグルが逃げ切り、グリーングラスは5馬身差の2着であった。 調子を上げて挑んだ12月16日の第24回有馬記念が、引退レースとなることが決定した。2歳年下のサクラショウリにファン投票1位と1番人気を譲るものの、グリーングラスは2位で2番人気に支持され、3番人気は3歳年下の皐月賞馬・ビンゴガルーであった。 この上位人気の3頭以外にも6頭の八大競走優勝馬が出走することとなり、天皇賞馬のホクトボーイ・テンメイ・カシュウチカラ、スピードシンボリ以来の有馬記念連覇を狙うカネミノブ、その有馬記念で2着に入った二冠牝馬・インターグロリア、2歳下の菊花賞馬・インターグシケンという顔ぶれであった。 4歳から7歳まで各世代の名馬が集結するという稀な豪華メンバーで、有馬記念史上初の16頭フルゲートによる一戦となった。 このラストランでは岡部がハツシバオーに騎乗するため、鞍上には最初で最後のコンビとなる大崎昭一を迎えた。中野から依頼が来た時は大崎も喜び、テン乗りの大崎は中野の気持ちに応えようとする。中野は大崎に「内ラチを頼りに走る馬だから、3コーナーからはインコースをついて、思い切って行ってくれと」一つだけ注文を出した。この頃は気性も落ち着き、大崎は素直で利口な馬と評している。レースは外国産馬のボールドエーカンがハナを切り、カネミノブと同期で中山記念連覇など重賞3勝のカネミカサが2番手に付け、同年の菊花賞2着馬・ハシクランツがそれに続き、ハツシバオーが追いかける展開となった。この4頭が先行集団を形成すると、中団グループが三つに分かれる。グリーングラスはいつものように好位の内につけ、その後にビンゴガルー・インターグシケンと続き、前方グループは3頭となる。サクラショウリは前の3頭を見る位置に付け、後方グループのインターグロリア・カネミノブ・メジロファントムは、前方グループと共に挟み込む形でサクラショウリをマーク。天皇賞馬3頭とバンブトンコートの追い込み勢は後方待機策をとり、スタンド前では、逃げるボールドエーカン以外15頭が馬群を形成。1、2コーナー手前でカシュウチカラが先行集団に取り付く以外は淡々としたペースで進むが、2コーナーを曲がり切った所でビンゴガルーが故障。アクシデントをきっかけにレースは動き、グリーングラスはいつもより早めにスパート。大崎が有馬記念初制覇時のカブトシローを彷彿とさせるロングスパートで、3・4コーナー中間地点で先頭に立ち、さらに加速。内からハシクランツが喰らい付くが、4コーナー手前で大崎が勝負を決めるべくムチを連打。サクラショウリがグリーングラスを見る形で追い出し、外からカネミノブ・メジロファントム・ホクトボーイが接近。直線に入ってグリーングラスが二の足を使い後続を離すと、サクラショウリも追い上げるが伸びが見られなかった。カネミノブは内で粘るハシクランツを差して行き脚がつくが、外から内へ蛇行しながら猛追してきたメジロファントムが前を横切ったため、立ち上がって大きく遅れを取ってしまう。逃げる大崎のグリーングラスに、カネミノブを潰す形となった横山富雄のメジロファントムが襲いかかる。加賀武見のカネミノブも態勢を立て直して前を猛追するが、ハシクランツを交わすのが精一杯であった。メジロファントムと馬体を並べてゴールしたグリーングラスがハナ差で凌ぎ、天皇賞と同じく3度目の挑戦で栄冠を得た。レースでは2周目の3コーナーで先頭に立ってそのまま逃げ切り、ゴール前で猛追したメジロファントムとは鼻差という計算し尽くしたような騎乗に「流石に大崎」とファンは感嘆した。 7歳馬の勝利は1969年のスピードシンボリ以来10年ぶりで、青森産馬が2年連続で有馬記念を制覇したが、この年以降勝っていない。 かつてのライバル、トウショウボーイやテンポイントが果たせなかった有終の美を飾り、TTG最後の一頭がターフを去ることとなった。26戦8勝ながら着外は僅か2回だけと安定していたが、大型馬にありがちな瞬発力不足で、今一つ勝ち切れなかった故の結果でもあった。しかしクラシック・天皇賞・グランプリ競走のいずれをも制し、生涯獲得賞金はTTGの中で最も多い史上最高の3億2841万円を記録。グランドマーチス、テンポイント、ファンドリナイロに次いで4頭目の3億円馬になった。この年、グリーングラスはようやく現役最後の年にして、TTの2頭と同じく年度代表馬を受賞。 なお、グリーングラスの引退で日本競馬界はしばらくスターホース不在の時代が続き、1980年代前半はモンテプリンス・ホウヨウボーイ・アンバーシャダイなどが何とかその間を繋いだが、本格的なスターホースの再来にはミスターシービー・シンボリルドルフらの登場を待たねばならなかった。 1980年1月15日に中山で引退式が行われた。有馬記念で使用されたゼッケンを着用し、背中には大崎が跨がった。場内には名前の由来にもなったトム・ジョーンズの「思い出のグリーン・グラス」が流れた。
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7歳(2016年)
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「ダイワマッジョーレ」の記事における「7歳(2016年)」の解説
2016年は3戦続けて二桁着順となり、2016年4月6日付けでJRA競走馬登録を抹消され、岩手競馬に移籍した。その後楽天サラブレッドオークションに出品され1700万1000円で落札された。
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7歳(2019年)
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「オールブラッシュ」の記事における「7歳(2019年)」の解説
川崎記念とダイオライト記念では共に3着と好走するが、以後は勝ちきれないレースが続き、2019年10月16日付でJRA競走馬登録を抹消し船橋競馬へ移籍すると伝えられたが、大井・藤田輝信厩舎所属となった。
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7歳(2019年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:37 UTC 版)
フジノウェーブ記念は最下位となり、2戦連続シンガリとなる。次走、川崎スパーキングスプリントを3着とし、習志野きらっとスプリントに出走、先行争いを制するとアピアを2馬身1/2振り切って優勝。続く、プラチナカップでもハナを切ると断然人気のキタサンミカヅキに2馬身1/2差をつけ1着。重賞連勝を飾った。なお、鞍上の橋本直哉にとってはこれが重賞初勝利であった。次走は連覇を狙い、オーバルスプリントに出走、ここでも逃げるとワイドファラオ、ヤマニンアンプリメを相手に1馬身半差をつけ連覇を達成。重賞3連勝とした。次走は得意の地元、浦和で行われたJBCスプリントを選択、3番人気で5着に敗れる。続く、ゴールドカップはブルドッグボスにハナ差交わされ2着となる。
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7歳(1977年)
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「アイフル (競走馬)」の記事における「7歳(1977年)」の解説
7歳となっても現役を続行し、アメリカジョッキークラブカップとオープン競走で連続3着。直後の中山記念では直線で内から伸びて、後方に1馬身半差で重賞4勝目を挙げた。2年連続出走となったアルゼンチン共和国杯では不良馬場の中、好位から直線で先頭に立ち、後方に3馬身半差で優勝し重賞5勝目、連覇を果たした。雨中の決戦に負担重量59キログラムの設定だったが、勝負服と鞍が雨水を吸い込みレース後の検量では、61キログラムとなってしまっていた。 続いて宝塚記念に参戦したが、4着に敗退。レース後に前脚の筋を痛め、それを庇いながら軽い調教が施されていたが、屈腱炎を発症したことが決め手となり、競走馬を引退した。
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7歳(2015年)
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「レーザーバレット」の記事における「7歳(2015年)」の解説
7歳初戦、初の1200mに出走したジャニュアリーステークスをメイショウノーベルとの叩き合いを3/4差制して、オープン初勝利を挙げる。続く根岸ステークスは6着に敗れる。1番人気に推された千葉ステークスは接戦となり、勝ち馬からタイム差なしの4着となる。続く京葉ステークスは最後方から直線一気でまとめて差し切って快勝した。初の地方遠征となったかきつばた記念は逃げ切ったコーリンベリーに1馬身半差の2着に入った。次走、サマーチャンピオンは中団から早めに動いたが前を捕まえられず3着に敗れた。続くオーバルスプリントは中団から直線で大外から伸び、逃げ粘るルベーゼドランジェに1馬身半差をつけ勝利、重賞初制覇を飾った。次走、JBCスプリントは中団から脚を伸ばして4着と好走。単勝1.8倍と断然人気に推された兵庫ゴールドトロフィーは中団追走から前を行くドリームバレンチノを3/4馬身差し切って重賞2勝目を挙げた。
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7歳(1983年)
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「ジュウジアロー」の記事における「7歳(1983年)」の解説
1983年2月24日『烈女Jアロー引退』の見出しで日刊スポーツに引退報道。左前けい側じん帯の治療を続けたが完治の見通しが立たず、馬主と調教師が協議した結果、余生を考え引退することに決定した。担当の佐川厩務員は「本当にえらい馬でした。ご苦労さんの一言です。」と涙ぐんだ。
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7歳(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:00 UTC 版)
「マカヒキ (競走馬)」の記事における「7歳(2020年)」の解説
この年は大阪杯(阪神芝2000メートル、GI)から始動。短期騎手免許で来日中のライル・ヒューイットソンが騎乗し、12頭中の11着に終わった。三冠馬3頭が出走したジャパンカップは、ダービー馬でありながら単勝万馬券の226.1倍 (11番人気)と支持率が極めて低く、着順も9着であった。
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7歳(2014年)
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ゴルディコヴァ以来のBCマイル3連覇を目指して翌年も現役続行。 7歳シーズンも前年と同じくメーカーズ46マイルステークスから始動。ワイズダンは123ポンドのトップハンデ・1.4倍で1番人気。ザアプローヴァルが118ポンドで2番人気。ガルフストリームパークターフハンデ勝ちのロクテが120ポンドで3番人気だった。レースは4番手追走で直線で逃げるロクテをかわして突き放す。ここで最低人気で最後方を追走していたカイグンが猛追してくるものの半馬身抑え込んで勝利。連覇を達成。 続いてこれも前年と同じターフクラシックに出走。ワイズダンは124ポンドのトップハンデで1.5倍の1番人気。前年のハリウッドダービー勝ち馬のシークアゲインが122ポンドで2番人気、カイグンが118ポンドで3番人気だった。レースは3番手追走で、直線で先頭に立つ。内をついてきたシークアゲインと激しい競り合いになるもこれを頭差抑えて勝利。 このレースの2週間後の5月16日、ワイズダンは調教後に急に疝痛を起こした。腸ねん転と診断され、ルードアンドリドル動物病院で緊急開腹手術が行われるが無事に終わった。復帰戦は8月のG2バーナード・バルークハンデキャップ(英語版)となった。レースは4番手追走で直線で先頭に立つ。後ろからオプティマイザーが追い込んでくるが鼻差抑えこんで勝利。 次走は前年2着のシャドウェルターフマイルに出走。シークアゲインが2番人気、カイグンが3番人気だった。レースではワイズダンは珍しく出遅れてしまい、道中は6番手追走となる。直線に入ったところで4番手まで上がり、前を追いかけてキングエドワードステークス(英語版)勝ちのグランドアーチを1馬身差し切って勝利。 次走についてロプレスティは3連覇のかかるBCマイルではなく、BCクラシックに出すことを考えていた。しかしシャドウェルターフマイルの8日後に右前脚首に軽度の骨折が判明し、BCクラシック制覇もBCマイル3連覇も夢と消えた。その後も復帰を目指して調教が続けられていたものの、1年後に今度は骨折とは別の個所に屈腱炎を発症。2015年9月7日に引退が発表され、10月3日にキーンランド競馬場で引退式が行われた。 引退後はケンタッキー州にあるロプレスティ所有の牧場で兄サクセスフルダンと共に過ごし、2019年に功労馬保護団体オールドフレンズに引き継がれた。 2016年にはカナダ競馬殿堂に選出された。またワイズダンの功績を称えてファイヤークラッカーハンデがワイズダンステークスと改称された。 そして2020年にアメリカ殿堂入りした。
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7歳(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 16:15 UTC 版)
「ケイティブレイブ」の記事における「7歳(2020年)」の解説
年明け初戦として4年連続の出走となる1月29日の川崎記念を選択、前年のJBCクラシック優勝馬チュウワウィザードが圧倒的支持を集める中で2番人気に推されたが、逃げの手を打ったレースでは2周目の3コーナーで早々に後退し6着に敗退。鞍上の森泰斗は「流れの割に頑張れなかったです」とコメントした。 次走は本馬を所有する瀧本和義オーナーの要望により、鞍上に初コンビとなる長岡禎仁を迎えて2月23日のフェブラリーステークスに出走することが決定。同騎手はデビュー9年目でGI初騎乗となったが、長年調教で本馬に騎乗していることを踏まえての采配であった。レースでは大きく人気を落とし、出走馬中最低人気の単勝オッズ142.6倍での出走となったが、ハイペースの中で中団に位置を取って直線では外から脚を伸ばし、優勝した1番人気のモズアスコットには2馬身半差を付けられたものの2着に入線。鞍上の長岡は1986年以降にデビューしたJRA騎手の中で史上7人目となる「中央GI初騎乗での3着以内」を達成した[出典無効]。レース後、長岡は「調教段階から馬とコミュケーションを取ってきたことが(2着に)つながったと思う。乗せていただき感謝しています」とコメント。それでも「あそこまで行ったら、勝ちたかったです」と悔しさを露わにしたが、瀧本オーナーは「長岡くんが完璧な騎乗をしてくれた。私にとっては勝ったも同然です」と喜んだ(詳細は第37回フェブラリーステークスを参照)。 その後は前走に引き続きマイル戦となる5月5日のかしわ記念に出走、これ以降のレースでも鞍上は引き続き長岡が務めることとなった。7頭立てながらモズアスコットやルヴァンスレーヴといったメンバーが揃い、単勝オッズは中央勢でのブービー人気となる5番人気に留まった。レースではモズアスコットを前に見る形で5番手に位置を取り、4コーナーで内ラチ沿いを回って進出したものの、スローでの逃げに持ち込んでいた6番人気ワイドファラオとの差を詰め切れず2馬身差の2着でゴール。鞍上の長岡は「瀧本オーナーや杉山調教師、杉山厩舎の皆様には、こういう舞台に立たせて頂いた事を感謝しています。勝って恩返しをしたかったのですが、勝てなかった事が残念です」とコメントした。 そして続くかしわ記念で2着となった後、帝王賞に出走。大外枠のスタートから序盤は後方に位置を取り、道中で位置取りを押し上げていったが、直線では伸びを欠き6着に敗れた。
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7歳(2015年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:14 UTC 版)
「サイモンロード」の記事における「7歳(2015年)」の解説
この年も年初から名古屋記念 (SP1) 連覇、梅見月杯 (SP1) 3連覇を果たした。 梅見月杯ではスタートから先頭に立つと直後を追走してきた1番人気のノゾミダイヤに4馬身の差をつけて圧勝し、実に地方重賞において7勝をあげ東海に敵なしとなる。 しかし4月以降は帝王賞出走 (JPN1) 10着、日本テレビ盃 (JPN2) 8着など、戦績が振るわなくなる。 2015年、再び愛知県競馬の『優秀サラ系4歳馬以上』を受賞する。
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7歳(1997年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:14 UTC 版)
「サクラローレル」の記事における「7歳(1997年)」の解説
2月28日、境が定年のため調教師を引退、サクラローレルは騎手引退後、調教師に転身した小島太厩舎に転厩する。境は「死ぬまでに一度は有馬記念を勝ちたい」と述べていたが、それは定年直前、最後のチャンスでサクラローレルによって叶えられていた。境はサクラチヨノオーやサクラユタカオー、サクラチトセオー、スリージャイアンツなどを管理してきた調教師人生を振りかえり、サクラローレルをそれらを上回る「最強」の馬、「これほど強い馬は初めて」だと評している。 有馬記念後は、球節に軽い骨折が判明して休養する。それにより、調整が遅れたため、4月27日の天皇賞(春)に直行することとなった。単勝オッズ2.1倍の1番人気であり、以下、有馬記念7着、阪神大賞典優勝から臨むマヤノトップガンが3.7倍、有馬記念2着、産経大阪杯優勝から臨むマーベラスサンデー4.1倍であった。スタートから中団を追走、第3コーナーで進出。直線ではマーベラスサンデーとの競り合いを制したが、マヤノトップガンにかわされて1馬身半差の2着となった。(このレースの詳細は第115回天皇賞を参照。) その後は、亡き全演植の夢だった凱旋門賞、日本調教馬としては1969年スピードシンボリ、1972年メジロムサシ、1986年シリウスシンボリに続いて28年ぶり4頭目となる参戦を目指した。8月にフランスへ移動し、シャンティイ競馬場近くの調教場に滞在する。鞍上に武豊を迎えて9月14日、ロンシャン競馬場のフォワ賞(G3)に参戦、武は「ロンシャンコースの追い切りのつもりで乗ってきます」と述べていた。現地の新聞23紙のうち、7紙で本命視され、現地の人気は単勝オッズ2.8倍の1番人気であった。スタートから3、4番手を追走したが、直線で後退。最下位8着で入線直後に、武は下馬。翌15日の精密検査で、右前脚屈腱不全断裂が判明した。現地の獣医師は薬殺を宣言したが、良太がそれを阻止している。凱旋門賞には出走せず、フランスで引退が決定。帰国した後の12月20日、中山競馬場で引退式が行われた。
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7歳(1975年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 19:02 UTC 版)
天皇賞(秋)から約2か月の休養を経て、2月8日、中京競馬場のオープンで復帰し、後方待機から差し切り勝利。続く中京記念でもハイペースを自ら演出する逃げを見せて、追い込むハシストームをアタマ差退け中京記念2勝目を挙げた。再び、天皇賞(春)を目標に据えて、叩き台として鳴尾記念に出走、負担重量59.5kgのトップハンデが課される中、2番人気に推された。中位を進み、直線コースで前を行く1番人気のクリオンワードを捕らえ、追い上げるメジロジゾウに半馬身で4勝目を挙げた。レコードタイムでの優勝で、1966年に制した母エイトクラウンに続いて母仔制覇となった。目標であった天皇賞(春)、キタノカチドキが単勝支持率50パーセントの人気を集める中、6番人気で出走した。先頭でレースを引っ張ったが、直線では余力なく8着に敗れた。佐々木は折り合いをつけることができなかったと回顧した。 1か月後の宝塚記念は、ニホンピロセダンに次ぐ2番人気で出走した。序盤からハナを奪って逃げ、スローペースを刻み、後方待機から追い込みを得意とするニホンピロセダンが第3コーナーで2番手まで位置を上げていた。ニホンピロセダンが迫るとナオキは加速し、失速したニホンピロセダンをかわしたモア―キャッスルなどを退けて、2馬身半離して勝利した。鳴尾記念と同様に、宝塚記念母仔制覇を果たした。その後、高松宮杯で4着と中京競馬場で初めて敗れ、1番人気に推された京都記念では11着に終わった。5回目の天皇賞挑戦となった天皇賞(秋)で7着に敗退後、左後肢の第一趾骨を骨折が判明し、競走馬を引退した。
※この「7歳(1975年)」の解説は、「ナオキ」の解説の一部です。
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7歳(1966年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:48 UTC 版)
「ネイティヴダイヴァー」の記事における「7歳(1966年)」の解説
年明け、4回目のサンカルロスハンデに出走。圧倒的な一番人気だったが、132ポンドの斤量が響いて1着のキューピッド(パウモノクハンデ勝ち)から9馬身離されての10着と大敗。続くサンパスカルハンデはキューピッドにアタマ差で勝利。2月のサンアントニオハンデではヒルライズに5馬身差を付けられての4着。 そして7歳にして初めて西海岸前期最大の競走・サンタアニタハンデキャップに出走。主な対戦相手はヒルライズ・キューピッドの他に前年のケンタッキーダービー勝ち馬ラッキーデボネア(英語版)・前年のハリウッドダービー・マリブステークスなどに勝っているテリーズセクレト・この年のエクリプス賞最優秀古馬?馬を受賞するボールドビダー(英語版)など。レースは最初から逃げを打ったが4コーナーでキューピッドとラッキーデボネアにかわされ、ラッキーデボネアから2馬身差を付けられての3着に終わった。 ここで2か月の休みを取って5月のサンバーナーディノハンデから復帰。ここは快勝。2着は前年のこの競走の勝ち馬リアルグッドディール。ところが陣営はわずか二日後のプレミエールハンデにネイティヴダイヴァーを出走させる。130ポンドの斤量もこたえてスタートから全く行き足がつかず1着スレッジ(64年のこの競走の勝ち馬)から4馬身以上の差を付けられての7着に大敗。10日後のロサンゼルスハンデでもプレミエールハンデ5着馬ナシャルコに1 1/2馬身差の4着に敗退。更に2週間後のカリフォルニアンステークスでは1着トラベルオーブから15馬身差の最下位14着と大敗が続く。 それでも休まずに2週間後のイングルウッドハンデに出走。大敗続きにもかかわらず1番人気に支持されていたが、これに答えて2着スレッジに6馬身差をつけての圧勝劇を見せて復活。この競走3勝目を挙げた。更に2週間後のアメリカンハンデでは騎乗停止中のランバートに代わってウィリアム・マホーニーに乗り替わるがトラベルオーブの2着に敗れる。 そして連覇がかかったハリウッド金杯に出走。この年の対戦相手はトラベルオーブ・リアルグッドディールの他に、シネマハンデキャップの勝ち馬ドリンなどが相手になった。スタートから逃げを打ったネイティヴダイヴァーは道中でも差を広げていき、2着オハラに4 1/2馬身差をつけての圧勝。同競走史上初の連覇を達成した。 しかしたまった疲労は隠せず、次走のサンセットハンデでは勝ったオハラから19馬身付けられての6着に完敗。さらに故障が判明してこの年は全休となった。 7歳時は12戦4勝であった。
※この「7歳(1966年)」の解説は、「ネイティヴダイヴァー」の解説の一部です。
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7歳(2001年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 02:21 UTC 版)
「レイズスズラン」の記事における「7歳(2001年)」の解説
新馬齢表記となり、7歳初戦、初のGI挑戦となったフェブラリーステークスは離された最下位に終わる。3か月後の群馬記念は逃げるノボジャックをクビ差捕らえきれず2着と惜敗。次走の欅ステークスを3着とし、プロキオンステークスは勝ったブロードアピールには離されたものの2着に入る。久々の芝のレースとなった七夕賞は最下位の16着、その後ダートのGIIIを5着、4着、7着とし、霜月ステークスで11着に惨敗後、彩の国浦和記念に出走、9頭立て7番人気の低評価を覆し2週目向こう正面で捲っていき3コーナーで先頭に立つとそのまま押し切り、2着トーホウエンペラーに1馬身半差をつけ優勝、重賞2勝目を手にした。次走、東京大賞典は11着と惨敗に終わる。
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7歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
「ディバインシルバー」の記事における「7歳(2005年)」の解説
7歳初戦の黒船賞をブービーの11着に敗れてから一時不調に陥る。クラスターカップで逃げるとエンゲルグレーセに交わされたが2着に入り、同レース4年連続連対を果たす。次走、越後ステークスでハンデ57.5㎏を背負いながら2着に張る。しかし、続く東京盃は10着に敗れた。
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7歳 (2019年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:34 UTC 版)
「ウェスタールンド」の記事における「7歳 (2019年)」の解説
骨折のため、約5ヶ月の休養を挟んで4月14日に行われたアンタレスステークスに北村友一の騎乗で出走。単勝3.4倍の1番人気に支持され、直線では馬群の中から追い込むも4着に敗れた。再び約7ヶ月の間隔を空け、11月3日のみやこステークスに出走。第3コーナー付近で後方から上がっていき、直線を3番手で迎えるもヴェンジェンスとの追い比べに敗れ、更に外からキングズガードに交わされ3着に敗戦した。12月1日、チャンピオンズカップに再び出走。6番人気に支持され、直線好位から追い上げたが9着に敗れた。
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7歳(2012年)
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「アーネストリー」の記事における「7歳(2012年)」の解説
初戦の大阪杯では中団に控える形となったが直線で伸びず6着となった。鳴尾記念は道中最後方追走も直線で伸びを欠き5着に敗れた。連覇がかかった6月24日の宝塚記念では4コーナーで一旦先頭に立つも7着に敗れた。 秋は天皇賞(秋)、金鯱賞、有馬記念に出走したが、いずれも勝ち馬から1秒以上離された2桁着順に終わった。 2013年1月9日に登録を抹消され、種牡馬となることが発表された。
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7歳(2017年)
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「トーキングドラム (競走馬)」の記事における「7歳(2017年)」の解説
年明けの新春ステークス(芝1400m)を勝利し、7歳にしてオープン入りを果たすと、重賞初挑戦となった阪急杯では直線で最内を突いて鋭く抜け出し、追いすがるヒルノデイバローをアタマ差退けて勝利を挙げた。その後、初のGⅠ出走となった高松宮記念を筆頭に、重賞戦線を主として出走した。
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7歳(1993年)
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「ミホノビヤクエイ」の記事における「7歳(1993年)」の解説
7歳初戦は昨年自身が勝った新春賞。しかし過去の勢いは無く、カモガミライデンの6着。その後のスポニチ新聞社賞、サンスポ賞でも成績を収めることができなかった。以降名古屋競馬へ移籍するも、初戦のクリスタルカップ(中央競馬のものとは別)ではイナズマガッサンの5着、二度に渡る特別競走でも入着止まりと新天地においてミホノビヤクエイが再び花開くことはなかった。結局二度目の特別競走がこの年最後のレースとなり、その後丸1年戦線から姿を消すこととなる。
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7歳(2009年)
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「ワンダースピード」の記事における「7歳(2009年)」の解説
明け7歳の初戦は1月25日の平安ステークスであった。レースはゴール前で先行逃げ切りを図らんとするエスポワールシチーを捉えて差し切り勝ち、重賞3勝目を挙げた。その後、3月25日の名古屋大賞典に出走したが、後方からの追撃も及ばず2着に終わった。その後、連覇をかけて4月26日のアンタレスステークスに1番人気で出走。道中は5番手でレースを進めたが、逃げるウォータクティクスを捕らえることができず2着に敗れた。続く5月24日の東海ステークスでは3番手でレースを進め、最後の直線で一気に抜け出し快勝、重賞4勝目を挙げた。しかし、帝王賞は出走を回避した。休養を挟んで、10月3日のシリウスステークスに1番人気で出走。このレースには半弟のワンダーアキュートも出走し、兄弟対決となった。レースは中団待機策も直線で伸び切れずワンダーアキュートの5着に敗れ、軍配は弟に上がった。続くJBCクラシックでは3着と好走した。続くジャパンカップダートでは先団追走も失速しブービーの15着に終わった。その後、連覇をかけて挑んだ名古屋グランプリでは惜しくも2着だった。
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7歳(2017年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:22 UTC 版)
1月11日に2016年NARグランプリが発表され、年度代表馬に選ばれる。また、4歳以上最優秀牡馬、最優秀短距離馬のトリプル受賞となった。4か月の休み明けとなったフジノウェーブ記念は59㎏を背負わされたのが利いたのか10着と大敗する。その後は怪我をし休養に入る。9か月ぶりのレースとなったゴールドカップに出走、2番手の追走から4コーナーで先頭に立つと、直線でもしぶとい粘りを発揮し、アタマ差で重賞10勝目を挙げた。 このレースを最後に引退し、12月27日に大井競馬場で引退式が行われ、主戦の吉原は「一緒に夢を見れたことが一生の宝物」と語った。
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7歳(2014年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:43 UTC 版)
「アスカクリチャン」の記事における「7歳(2014年)」の解説
同年は日経賞から復帰したが8着に終わった。その後、天皇賞(春)18着、目黒記念10着、函館記念11着と二桁着順が続いた。不振から抜け出すためにダートの重賞エルムステークスを使ったが12着に敗れた。 そして新潟記念6着、オールカマー12着と2戦使って迎えた天皇賞(秋)では、優勝したスピルバーグから4秒2、17着のトーセンジョーダンからも3秒2も離された18着に敗れた。ゴール後、騎乗していた三浦皇成が異変を感じ、すぐに下馬。診療所で診察した結果、レース中に左後肢の繋靱帯断裂を発症していたことが判明。競走能力喪失と診断され、事実上引退が決まり、11月12日付で競走馬登録を抹消された。
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7歳(2007年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:53 UTC 版)
「マイネサマンサ」の記事における「7歳(2007年)」の解説
7歳になり、連覇を狙った京都牝馬ステークスは逃げたが14着と惨敗に終わる。引退レースとなった中山牝馬ステークスは道中は無理せず後方待機から、4コーナーで追い出されると一気に前を捕らえ、ウイングレットをクビ差交わして有終の美を飾った。その後は予定通り、3月15日付で競走馬登録を抹消し引退となった。
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7歳(2019年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:57 UTC 版)
「シュヴァルグラン」の記事における「7歳(2019年)」の解説
6歳での現役引退の予定を撤回し、引き続きボウマンを鞍上にドバイシーマクラシックから始動する。迎えた本番では5番手に位置を取り、直線では力強く伸びたものの粘るオールドペルシアンに1馬身半及ばず2着となった。なお、このレースの前に行われたドバイターフでは半妹ヴィブロスがアーモンドアイの2着に入っており、兄妹揃っての好走となった。 その後はキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに鞍上オイシン・マーフィーで参戦することが決まり、イギリスに遠征。凱旋門賞連覇などGI8勝のエネイブル、前年の本レース2着馬でプリンスオブウェールズSを勝って臨んできたクリスタルオーシャンなど欧州のトップホース達との対戦となったが、前日の雨の影響で稍重となった馬場が合わず6着に敗れた。 次走には2005年のゼンノロブロイ以来史上2頭目の日本馬の出走となるインターナショナルステークスを選択。前走に引き続き鞍上オイシン・マーフィーで臨んだレースでは好スタートから5・6番手に位置を取ったが、スローペースからの瞬発力勝負となったレース展開の中で伸びきれず、パリ大賞典勝ち馬ジャパンの8着に終わった。 海外を転戦していた本馬であったが、次走は前年の有馬記念以来の国内戦で、2度目の優勝を狙う第39回ジャパンカップに出走。ジャパンカップ史上初めて外国馬の参戦が無かったものの、2016 - 2018年のダービー馬や2018年大阪杯勝ち馬スワーヴリチャードなどが出走を決め、ランフランコ・デットーリをはじめとする外国人騎手の来日騎乗も注目を集めた同レースで、本馬もクリストフ・スミヨンとの初コンビで挑んだが、レースでは見せ場をつくることができずに9着に敗退。鞍上のスミヨンは「どうコメントしたら良いのか難しいです」と述べた。 11月28日、管理調教師の友道康夫から次走の第64回有馬記念を以って現役を引退し、翌年からブリーダーズ・スタリオン・ステーションにて種牡馬入りすることが発表された。公開枠順抽選会では馬主の佐々木が大外16番枠を引き「狙ってました」とコメントするなど話題となった12月22日の有馬記念には、かつての主戦である福永を鞍上に迎えて出走。出走馬16頭中14番人気となったが、レースではハイペースの中後方で待機すると、最後の直線で追い込み、アーモンドアイ(9着)などに先着する6着で入線。福永は「最後はファイトしてくれた。よく頑張った」とコメント、友道康夫調教師は「無事に走りきってくれて良かった。今年は海外でいい経験をさせてもらった。子供で海外に行けたらいいですね」と語った。 その後12月25日付でJRAの競走馬登録を抹消した。
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「7歳」の例文・使い方・用例・文例
- 彼の妹は7歳です
- 少年の1人は7歳,もう1人は9歳,他の1人は10歳だ
- 息子は7歳になったばかりだ
- 7歳以下の子供たち
- 私は今日、27歳になりました。
- 7歳の時、すでに自ら弓と矢を作った。
- 来年は17歳になる。
- 来月17歳になるのですか。
- 明日は僕の誕生日で、17歳になる。
- 父は私が7歳のときに亡くなった。
- 彼女は来年17歳になる。
- 彼女は今度の2月で17歳になる。
- 彼女は17歳の時に結婚した。
- 彼女は17歳です。
- 彼は7歳の時に両親を亡くした。
- 彼は17歳のときに自分の生まれた村を逃げ出した。
- 私も17歳です。
- 私は来週17歳になります。
- 私は小さい頃よくおねしょをしたものだったが、7歳までには直った。
- 私はその当時ほんの7歳の少女にすぎませんでした。
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