しょ‐せん【初戦】
初戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 09:53 UTC 版)
「アルゼンチン独立戦争」の記事における「初戦」の解説
ブエノスアイレスの革命政府はまず前副王サンティアゴ・デ・リニエルスが反革命運動を組織するコルドバと五月革命に賛同しないパラグアイ州に攻撃を行った。 リニエルスは、コルドバで募った兵士が戦闘前に逃亡したため、アルト・ペルーに亡命し、五月革命鎮圧のためのペルー副王領軍に加わろうと試みたが、1810年8月6日、反革命運動の他の首謀者と共に革命政府のフランシスコ・オルティズ・デ・オカンポ大佐に捕らえられた。しかし、大佐が指令通りにリニエルスらを処刑せず、捕虜としてブエノス・アイレスに送ったため、オカンポ大佐は降格され、フアン・ホセ・カステリイ(英語版)が軍の指揮官に任命された。8月26日に、彼はコルドバの捕虜を処刑し、北方面軍(英語版)を率いてアルト・ペルーを攻撃した。 第一次アルト・ペルー戦役(英語版)(1810-1811) 北西地域において、ブエノス・アイレスへの代議員選挙を行い五月革命への支持を確保したのち、カステリイはアントニオ・ゴンザレス・デ・バルカルセ(英語版)大佐をアルト・ペルーに派遣したが、彼の軍はコタガイタの戦い(英語版)で敗北した。カステリイは援軍を派遣し、スイパチャの戦い(英語版)で革命政府にとって初の勝利を勝ち取り、アルト・ペルーを支配下に置いた。王党派の指揮官ビセンテ・ニエルト(英語版)、フランスシスコ・デ・パウラ・サンス、ホセ・デ・コルドバ・イ・ロハス(英語版)はこの時捕虜となり、処刑された。 カステリイはブエノス・アイレス政府にデサグアデーロ川(英語版)を渡河し、ペルー副王領を侵攻することを提案したが、政府は却下した。カステリイとゴイェネチェの部隊は国境付近に駐屯していたが、ゴイェネチェの部隊は前進し、ウアキの戦い(英語版)で敗北し、部隊は潰走した。しかし、アルト・ペルーの独立主義者ゲリラリパブリケタス(英語版)が王党派を食い止め、南への前進を防いだ。 パラグアイ戦役(英語版)(1810-1811) ブエノス・アイレス政府はマヌエル・ベルグラーノ率いる民兵をパラナ川沿いにパラグアイ州へ派遣した。始めカンピチュエロの戦い(英語版)では勝利したものの、パラグアリの戦い(英語版)とタクアリの戦い(英語版)で完敗を喫した。この戦役は軍事的観点からは失敗に終わったが、数か月後、パラグアイはアルゼンチンに倣い、独立国家となり本国との関係を断った。 第一次バンダ・オリエンタル戦役(1811)
※この「初戦」の解説は、「アルゼンチン独立戦争」の解説の一部です。
「初戦」を含む「アルゼンチン独立戦争」の記事については、「アルゼンチン独立戦争」の概要を参照ください。
「初戦」の例文・使い方・用例・文例
- 我々のチームは初戦で大敗した。
- 日本が初戦に勝利しました!
- 日本の女子サッカーがオリンピック初戦で勝った
- チームは初戦で破れるという憂き目を見た.
- 初戦の勝利で選手たちの士気は高揚した.
- 米国独立戦争の初戦が戦われたボストン付近の東マサチューセッツの町
- 日本の初戦は6月4日,埼玉スタジアムでのベルギー戦だった。
- 10月16日,5万5437人の満員の観衆が,ジーコ監督指揮下の新生サッカー日本代表,「ジーコ・ジャパン」の初戦を見るために東京国立競技場に集まった。
- また,「初戦に勝ちたかったが,サッカーとはこんなもの。」とつけ加えた。
- 第2ロボット部はロボコンの万年初戦敗退チームだ。
- ロボコンの予選で,第2ロボット部はいつもどおり,初戦で負ける。
- 「ヤンキースタジアムでのシーズン初戦で満塁本塁打を打った場面。」と彼は答えた。
- 日本は,10月12日の初戦で,スコットランドと対戦した。
- 日本代表チームの箕(み)内(うち)拓(たく)郎(ろう)主将は,「我々は初戦より良い試合をした。」と語った。
- マリナーズは初戦には敗れたが,翌日行われた試合では,10-8でエンゼルスを破った。
- しかし,準決勝の初戦で,福原選手は(世界ランク)12位の林菱(リン・リン)選手を破った。
- W杯は6月9日に開幕し,日本の初戦は6月12日の対オーストラリア戦だ。
- 2006年ワールドカップ本大会の初戦でサッカー日本代表の選手たちと一緒に入場する11人の子どもたちが選出された。
- 11人の子どもたちは6月10日にドイツへ向けて出発し,6月12日には日本代表選手と一緒にオーストラリアとの初戦に入場する。
- F組での日本の初戦は6月12日のオーストラリア戦だった。
初戦と同じ種類の言葉
- >> 「初戦」を含む用語の索引
- 初戦のページへのリンク