副王とは? わかりやすく解説

副王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 01:51 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

副王(ふくおう、スペイン語: virrey, ポルトガル語: vice-rei, 英語: viceroy)は、君主の代理人として植民地属州を統治する官職称号

語源と関連語

原語のvirrey, viceroyは、それぞれラテン語接頭辞 vice- (代理)と rex (王)から来ている。副王の領土は副王領(virreinato, viceroyalty)と呼ばれる。女性の場合は副女王(英語: vicereine)と呼ばれ、まれにではあるが軍事指揮権をも保有する場合があった。また、副王夫人に対してもこの呼称が用いられた。副王の子息(令嬢)は 英語: viceigel と呼ばれた。

地位

「副王」の称号は単なる総督よりも上位の官職であることを想起させるが、実際は総督と同程度であることもあったし、属州や植民地の知事(副知事)の上官でないこともあった。

副王の職が終身職でない場合、王族の一員に名誉的に与えられる場合もあった。王位継承の可能性がある者にとって、副王(あるいはそれと同等の地位)の座が与えられることは珍しいことではなかった。副王の地位に就くことで継承者としての資質を試す意味もあったので、古代ローマの「コンソルティウム・インペリ」(帝権を2人以上の皇帝で分けるという概念)や、ディオクレティアヌス帝が行ったテトラルキアに見られるような「副帝」といった地位ほど高いものではなかった。

スペイン帝国

ペルー副王ホアキン・デ・ラ・ペスエラ

欧州

1137年、アラゴン王国の王女ペトロニーラバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世が結婚してアラゴン連合王国が成立したが、この時両王国の政治的な独立や法律・行政の制度は統一されずそのまま残された[1]。このためいずれかの王が不在になる場合に備え、副王(virrey)が任命された[1]。副王は国王不在の時の「もう一人の国王」(alter ego)として国政を統括し、カトリック両王によるアラゴンとカスティーリャの連合王国も、この例に則っている[1]

日の沈まぬ帝国スペイン絶対王制下では、ヨーロッパにおける領土や海外植民地を統治するために、多数の副王が任命された。ハプスブルク朝になると顕著になり、16世紀後半にマドリードに宮廷が固定すると、副王は地方行政組織の一成員へと変化した[1]。欧州では18世紀まで、アラゴンバレンシアカタルーニャサルデーニャシチリアナポリおよびポルトガル(1580年 - 1640年)などの副王は、スペイン王によって任命されていた。スペイン継承戦争以降は、ナバーラ以外はスペイン支配を離れたり廃止されたりする形で、副王制は消滅した[1]

新大陸

クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)は、1492年のサンタ・フェ契約英語版において「副王にして総督」(virrey y gobernador general)の称号を与えられ、新大陸はコロンビア副王領英語版とされた。その没後はディエゴ・コロンが副王の称号を継承したが、栄誉上のものに過ぎなかった。

アメリカ大陸が発見したスペインはコンキスタドールたちに統治を委ねた。当初は彼らが封建制の君主のような存在であったが、新大陸の重要性が認識されるにつれ、スペインは次第にコンキスタドールの権限を奪い、スペインの統治機構を新大陸に移植するようになった。16世紀半ばにはほぼ完全な政治機構を作り、それは18世紀後半のブルボン改革まで続いた[2]

1524年にインディアス枢機会議が新大陸統治の中枢機関に昇格した。会議は、国王の代理として、1529年にアントニオ・デ・メンドーサヌエバ・エスパーニャ副王領の初代副王に任命した[3]

17世紀まで、1535年に設置されたヌエバ・エスパーニャ副王領、1543年に設置されたペルー副王領の、2人の副王しかいなかった。ヌエバ・エスパーニャ副王はメキシコシティを首都とし、メキシコ、及び中米北米カリブ海フィリピン諸島のスペイン領を統治した。一方のペルー副王はリマに首都を構え、南米のスペイン領全域を支配した。南米のベネズエラがヌエバ・エスパーニャ副王の統治下に入るときもあった。

新大陸でのスペイン植民地の拡大に従い、1717年には新たにヌエバ・グラナダ副王領(首都ボゴタ)、1776年にはリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都ブエノスアイレス)に副王が置かれた。

16世紀から17世紀にかけて、副王は一般的にスペインの上流貴族から選ばれた。18世紀になると、啓蒙精神の強い小貴族、中産階級からも選ばれるようになった。しかし原則的にはペニンスラール(スペイン生まれのスペイン人)が登用され、植民地史上100名あまりの副王のうちクリオーリョは5名足らずであった[4]

副王はそれぞれの管轄区内で最高権力を行使した。首都に近接した地域では行政、軍事、司法、財政をも統括し、下級官吏のほとんどを任命できた。しかし地理的に離れた地方では、監査役を務める程度の存在であった[5]

新大陸における副王領の行政区分

新大陸において重要な官職、機関は、副王、総監[6](カピタン・ヘネラル、スペイン語: Capitán general)、アウディエンシア(スペイン語 Audiencia)の3つであった。総監は機構上は副王の下に置かれたが、実質的には副王と変わらず、副王領内の広大な土地を統治した。アウディエンシアの長官も同様の権限を有したが、一般的に軍事的な権威は副王に留保されていた[7]

副王領には直轄領、総監領、長官領(プレシデンシア)の3つがあり、ほぼそれぞれの区画にアウディエンシアが置かれた。これらの下部に総督領(ゴベルナシオン)やプロビンシア(郡部)が位置し、さらにコレヒミエントアルカルディア・マヨール英語版という区分に分けられ、最下部にカビルドアユンタミエントと呼ばれる市参事会統括の町があった。18世紀のブルボン改革によりインテンデンシア制が敷かれて、コレヒミエント以下の地方自治体は廃止された[8]

大英帝国とイギリス連邦

ルイス・マウントバッテンは最後のインド副王兼総督

1858年(この年、英王室は東インド会社が1774年10月20日から持っていた総督任命権を継承し、総督は王室の管理下に入ることになった)から1947年まで、「ハイ・ラジャ」(インド帝国最高主権者の意)である英国インド植民地総督も、公式名称ではなかったものの「インド副王」として知られている。(最後の副王はそれ以前と異なり王室出身で、初代マウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵ルイス・フランシス・マウントバッテン〈任期:1947年2月21日 - 8月15日〉であった)

また、アイルランド卿(アイルランド王)も副王の名称を用いることがあった。

副王の称号およびそこから派生した「副王の」を意味する形容詞 vice-regal は、大英帝国及び現在のイギリス連邦の総督(カナダ総督オーストラリア総督など)、もしくはそれ相応の権限を持つもの(カナダの各州の副総督 provincial Lieutenant-governor、オーストラリアの各州の総督 state governors など)に対して、王室の代表であるという意味を含んで使用される(英国領インドを大英帝国やイギリス連邦に含むことは不正確であり、手続き上は誤っている)。

ポルトガル

ポルトガル海上帝国の植民地は交易拠点・海軍拠点として設けられた小規模なものが多く、それらはカピタン(Capitão)やカピタン・モール(Capitão-mor)が管理者として置かれていた。しかし特に重要性の高い物には副王(vice-rei)が置かれていた。

ポルトガル領インド 

ゴアに本拠を置くポルトガル領インドは、フランシスコ・デ・アルメイダが1505年から1509年にかけて副王となることで設立された。総督 (Governador) や統治委員会 (Conselho de Governo) が置かれることもあった。また、1548年以降1756年まで、しばしば副王兼総督 (Vice-Rei e Governador) とされることもあった。

ポルトガル領ブラジル 

ブラジルでは1714年7月13日から1815年12月16日まで副王が置かれていた。1808年以後はブラガンサ王朝ナポレオンによるポルトガル侵略から逃れ、ブラジルに宮廷を移転した。1822年9月7日、ブラジル王国摂政としてブラジルに残っていたドン・ペドロブラジル帝国の分離独立を宣言、10月12日に自らを皇帝と称するようになった。

その他

  • ヌーヴェル・フランス(現在のカナダ)では当初は総督だけが置かれた(1534年7月24日 - 1541年1月15日、ジャック・カルチェ)が、後に副総督と副王(1541年1月15日 - 1543年9月、ロベールヴァル卿ジャン・フランソワ・ド・ラ・ロケ(1500年 - 1560年))が置かれた。1543年9月から1578年1月までは廃止されていたが、1578年1月3日から1606年2月まではトローイロス・ド・メスケズ(ローシュ・メスケズ侯爵、1598年1月12日より副総督)が、1606年2月から1614年まではジャン・ド・ビヤンクール(プートリンクール卿、サン・ジュスト男爵(1557年 - 1615年))が在任した。1611年10月8日から1672年までフランス本国駐在の副王が置かれ、その後は知事と総督が置かれた。

自国領内の副王(同君連合を含む)

非西洋諸国における副王に類する地位

非西洋圏で諸侯や地方官の称号として用いられているもので、公式なものではないが副王と同類、またはそれに準ずる地位、官職が副王と翻訳されることがある。

オスマン帝国

ムハンマド・アリー朝時代のエジプト州において、1867年から1914年まで使用された「ヘディーヴ」の称号がこれに当たる。19世紀前半のエジプトに成立したムハンマド・アリー朝は、オスマン帝国の宗主権を名目的に認めながらも、実質的には半独立の状態にあった。創始者ムハンマド・アリー(在任:1805年 - 1848年)はオスマン帝国とは異なる紋章を用い、独立した王朝であることを内外に示したが、名目上はあくまでもエジプト州の総督(ワーリー)という立場であったため、当初ムハンマド・アリー朝の当主は、オスマン帝国の他の州の総督と同様に州総督クラスの文武の高官が名乗る称号である「パシャ」を名乗った。1867年、ムハンマド・アリーの孫であるイスマーイール・パシャの代に、エジプト総督が独自の称号「ヘディーヴ」を名乗ることがオスマン帝国政府から認められ、この称号は第一次世界大戦の勃発によってエジプトがオスマン帝国の宗主権下から離脱する1914年まで用いられた。ペルシア語で「支配者」を意味する称号であるこのヘディーヴが「副王」と訳される。

中国

清朝では強力な地方行政権を持つ総督(英訳でgeneral supervisor-protector)が副王と翻訳されることがある[要出典]。彼らは2つ、3つほどの「州」(現在の中華人民共和国の行政区分の「省」に相当する)を統治し、その領域は直隷湖広両江両広陝甘閩浙雲貴四川に分けられた。李鴻章1867年から1870年まで両広総督を務め、袁世凱は直隷総督であった時期がある。

スリランカと東南アジア

  • ウパラージャ英語版 インドシナ半島における仏教王国での副王の称号。「マハー・ウパラージャ」のように複合的に用いられる。チャクリー王朝の副王も参照。

公的でない使用例

フィクション

脚注

参考文献

  • 大貫良夫、落合一泰、国本伊代、恒川恵市、福嶋正徳、松下洋『ラテン・アメリカを知る事典』平凡社、1987年。ISBN 4582126251
  • 『スペイン・ポルトガルを知る事典』池上岑夫ほか監修、平凡社、1987年。 ISBN 4582126189

外部リンク


副王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)

オスマン帝国領エジプト」の記事における「副王」の解説

1860年代に入ると、オスマン帝国領ルメリバルカン半島)でキリスト教系諸民族独立機運高まり、これにロシア始めとする列強諸国介入してオスマン帝国の支配揺らいでいた。この動きエジプトにも影響与えることになる。1866年オスマン帝国保護にあったワラキアとモルダヴィア(現:ルーマニア)が無政府状態落ちた際や、同じ年のクレタ島における反乱の際には、オスマン帝国政府からエジプト出兵要請された。イスマーイール・パシャはこれらの要請応え、またオスマン帝国政府関係者への巨額賄賂中央政府への送金額の送付などの条件に、帝国政府対しエジプト諸外国独自に関税協定締結する権利承認や、ワーリー総督)の称号アズィーズ変更することなどの諸特権求めた。 スルターン・アブデュルアズィズはエジプト「王」であることを指し示すようなアズィーズ称号認めたがらず、また自らの名前の構成要素を成す語であることから不敬であるとも考えた帝国政府アミール称号提案したが、これがアラビア半島の「土侯」たちに適用されている称号であり、位階においてはワーリーにも劣後することから、イスマーイール・パシャはこれを拒否した度重なる交渉の末、イスマーイール・パシャ関税協定を巡る問題には変更加えない代わりにヘティーヴ(一般に副王と訳され良き主人支配者良き君主などを意味する)の称号妥協すること通達した。軍事的政治的に大きな問題抱えたオスマン帝国政府エジプトとの関係配慮が必要であった困難な交渉の末に遂に1867年6月8日新たなフェルマーンが発せられ、イスマーイール・パシャのヘティーヴの称号エジプト外国代表と「取り決め」を締結する権利などが認められた。こうしてムハンマド・アリー朝エジプト支配者は以降、ヘティーヴを称号とするようになるエジプト副王領英語版)) イスマーイール・パシャまた、エジプト近代化志向しパリモデルにしたカイロ市の大改造各種インフラ工場建設など膨大な数の建設事業起こした前任者治世から続いていたスエズ運河建設1869年開通こぎつけ11月には盛大な開通式典が行われた。彼はこうした一連の大計画を通じてエジプトを「アフリカではなくヨーロッパ一部とする」ことを目指し欧化政策近代化邁進した。こうしたエジプト積極財政支えた財源アメリカ南北戦争起因する綿花ブームであった。しかし、綿花ブーム戦争の終結と共に去り、にもかかわらず放漫財政継続されたこと、イスマーイール・パシャ遵守約束したスエズ運河建造費用供出、そして高くついたエチオピア皇帝ヨハンネス4世英語版)との戦争などによって、エジプトにはヨーロッパ列強からの多額債務残された。イスマーイール・パシャ数億ポンド上る国家債務対処しなければならなかった。彼の借入金返済対す基本的な処置は、さらに高い金利借款を受けることであった。もはやそれ以上借金重ねることができなくなった時、彼はスエズ運河株式を(1875年に)僅か3,976,582ポンドイギリス政府売却した。この直後外国の介入始まった1875年12月イギリス政府からエジプト財政調査を行うためにスティーヴン・ケイヴ(Stephen Cave)が派遣された。1876年4月発表され彼の報告書は、無駄と奢侈観点から、信用回復するために外国勢力による介入が必要であると勧告していた。この結果公債整理委員会英語版)(the Caisse de la Dette)が組織された。 公債整理委員会エジプト内政財務強く介入し、その歳入の6割以上を債務返済充てさせた。このため軍人役人給与削減され農民には重税課せられることとなり、多くエジプト人たちにとってこの支配受け入れられないものであったヨーロッパ債権国対す反感高まり情勢不穏となる中、イスマーイール・パシャヨーロッパ人主導作られ内閣一新することを目論んだが、イギリスフランスオスマン帝国のスルターン・アブデュルメジト2世イスマーイール・パシャ退位させるように圧力をかけ、1879年6月26日イスマーイール・パシャ退位させられた。イスマーイール・パシャ息子タウフィーク・パシャ後継者とされたが、アラブ系士官アフマド・オラービー俸給削減などで苦しアラブ系士官たちの支持得てその影響力を拡大させ、武力をもって国政転換図ったオラービー革命)。 エジプトのヘティーヴ(副王)政権多大な影響力確保し、その下で債権回収する方針とっていイギリス・フランスはこの状況懸念示しタウフィーク・パシャ支援した1882年6月偶発的な事件によってアレクサンドリア暴動発生しイギリス領事を含む50人前後のヨーロッパ人死傷した。オラービーは軍を派遣して暴動鎮圧したが、イギリスフランス介入してくることを恐れ要塞修復実施した。これを戦争行為みなしたイギリス翌月アレクサンドリア攻撃同年中にカイロまで制圧してオラービーとその同志たちを捕らえて流刑処した以降イギリス軍エジプト駐留するようになり、オスマン帝国領であるエジプトムハンマド・アリー朝のヘティーヴの下に置かれつつも、実質的に総領事兼代表イヴリン・ベアリングクローマー卿)の下、イギリスの植民地支配下に置かれるうになる

※この「副王」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
「副王」を含む「オスマン帝国領エジプト」の記事については、「オスマン帝国領エジプト」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「副王」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「副王」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「副王」の関連用語

副王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



副王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの副王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオスマン帝国領エジプト (改訂履歴)、チャクリー王朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS