副王
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副王(ふくおう、スペイン語: virrey, ポルトガル語: vice-rei, 英語: viceroy)は、君主の代理人として植民地や属州を統治する官職、称号。
- ^ a b c d e スペイン・ポルトガルを知る事典、p.294 副王制の項(小林一宏執筆)
- ^ ラテン・アメリカを知る事典、p.475
- ^ ラテン・アメリカを知る事典、p.337
- ^ ラテン・アメリカを知る事典、p.337
- ^ ラテン・アメリカを知る事典、p.337-338
- ^ ラテン・アメリカを知る事典に拠る。本書ではcapitania generalを総監領、governacionを総督領と訳している。
- ^ ラテン・アメリカを知る事典、p.475
- ^ ラテン・アメリカを知る事典、p.338
- ^ The Last Days of Bush's Viceroy, Time, (June 25, 2004) 2009年7月13日閲覧。
- ^ The Viceroy, Washington Post, (January 22, 2006) 2009年7月13日閲覧。
副王
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「副王」の解説
1860年代に入ると、オスマン帝国領のルメリ(バルカン半島)でキリスト教系諸民族の独立の機運が高まり、これにロシアを始めとする列強諸国が介入してオスマン帝国の支配が揺らいでいた。この動きはエジプトにも影響を与えることになる。1866年にオスマン帝国保護下にあったワラキアとモルダヴィア(現:ルーマニア)が無政府状態に落ちた際や、同じ年のクレタ島における反乱の際には、オスマン帝国政府からエジプトに出兵が要請された。イスマーイール・パシャはこれらの要請に応え、またオスマン帝国政府関係者への巨額の賄賂や中央政府への送金額の送付などの条件に、帝国政府に対しエジプトが諸外国と独自に関税協定を締結する権利の承認や、ワーリー(総督)の称号をアズィーズに変更することなどの諸特権を求めた。 スルターン・アブデュルアズィズはエジプトの「王」であることを指し示すようなアズィーズの称号を認めたがらず、また自らの名前の構成要素を成す語であることから不敬であるとも考えた。帝国政府はアミールの称号を提案したが、これがアラビア半島の「土侯」たちに適用されている称号であり、位階においてはワーリーにも劣後することから、イスマーイール・パシャはこれを拒否した。度重なる交渉の末、イスマーイール・パシャは関税協定を巡る問題には変更を加えない代わりにヘティーヴ(一般に副王と訳され、良き主人、支配者、良き君主などを意味する)の称号で妥協すること通達した。軍事的・政治的に大きな問題を抱えたオスマン帝国政府はエジプトとの関係に配慮が必要であった。困難な交渉の末に遂に1867年6月8日に新たなフェルマーンが発せられ、イスマーイール・パシャのヘティーヴの称号やエジプトが外国代表と「取り決め」を締結する権利などが認められた。こうしてムハンマド・アリー朝のエジプト支配者は以降、ヘティーヴを称号とするようになる(エジプト副王領(英語版)) イスマーイール・パシャはまた、エジプトの近代化を志向し、パリをモデルにしたカイロ市の大改造や各種のインフラ・工場の建設など膨大な数の建設事業を起こした。前任者の治世から続いていたスエズ運河の建設も1869年に開通にこぎつけ、11月には盛大な開通式典が行われた。彼はこうした一連の大計画を通じてエジプトを「アフリカではなくヨーロッパの一部とする」ことを目指し欧化政策と近代化に邁進した。こうしたエジプトの積極財政を支えた財源がアメリカの南北戦争に起因する綿花ブームであった。しかし、綿花ブームは戦争の終結と共に去り、にもかかわらず放漫財政が継続されたこと、イスマーイール・パシャが遵守を約束したスエズ運河の建造費用の供出、そして高くついたエチオピア皇帝ヨハンネス4世(英語版)との戦争などによって、エジプトにはヨーロッパ列強からの多額の債務が残された。イスマーイール・パシャは数億ポンドに上る国家債務に対処しなければならなかった。彼の借入金返済に対する基本的な処置は、さらに高い金利で借款を受けることであった。もはやそれ以上の借金を重ねることができなくなった時、彼はスエズ運河の株式を(1875年に)僅か3,976,582ポンドでイギリス政府に売却した。この直後、外国の介入が始まった。1875年12月、イギリス政府からエジプト財政の調査を行うためにスティーヴン・ケイヴ(Stephen Cave)が派遣された。1876年4月に発表された彼の報告書は、無駄と奢侈の観点から、信用を回復するために外国勢力による介入が必要であると勧告していた。この結果、公債整理委員会(英語版)(the Caisse de la Dette)が組織された。 公債整理委員会はエジプトの内政や財務に強く介入し、その歳入の6割以上を債務返済に充てさせた。このために軍人や役人の給与は削減され、農民には重税が課せられることとなり、多くのエジプト人たちにとってこの支配は受け入れられないものであった。ヨーロッパの債権国に対する反感が高まり情勢不穏となる中、イスマーイール・パシャはヨーロッパ人主導で作られた内閣を一新することを目論んだが、イギリスとフランスがオスマン帝国のスルターン・アブデュルメジト2世にイスマーイール・パシャを退位させるように圧力をかけ、1879年6月26日にイスマーイール・パシャは退位させられた。イスマーイール・パシャの息子のタウフィーク・パシャが後継者とされたが、アラブ系士官のアフマド・オラービーが俸給の削減などで苦しむアラブ系士官たちの支持を得てその影響力を拡大させ、武力をもって国政の転換を図った(オラービー革命)。 エジプトのヘティーヴ(副王)政権に多大な影響力を確保し、その下で債権を回収する方針をとっていたイギリス・フランスはこの状況に懸念を示し、タウフィーク・パシャを支援した。1882年6月に偶発的な事件によってアレクサンドリアで暴動が発生し、イギリス領事を含む50人前後のヨーロッパ人が死傷した。オラービーは軍を派遣して暴動を鎮圧したが、イギリスとフランスが介入してくることを恐れ要塞の修復を実施した。これを戦争行為とみなしたイギリスは翌月にアレクサンドリアを攻撃、同年中にカイロまで制圧してオラービーとその同志たちを捕らえて流刑に処した。以降、イギリス軍がエジプトに駐留するようになり、オスマン帝国領であるエジプトはムハンマド・アリー朝のヘティーヴの下に置かれつつも、実質的には総領事兼代表イヴリン・ベアリング(クローマー卿)の下、イギリスの植民地支配下に置かれるようになる。
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副王
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チャクリー王朝には他のインドシナの上座部仏教国同様、副王(ウパラージャ(英語版))の制度があった。以下にチャクリー王朝期における副王を挙げる。副王から国王になったのはラーマ2世ただ一人で、副王の周りには反国王派などのたまり場となることが多く弊害が多かった(たとえば、ワンナー事件(タイ語版)など)。そのためラーマ5世時を最後に任命されなくなった。同時に、西洋を真似て摂政と王太子の制度が導入された。
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