ウラービー革命
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ウラービー革命(アラビア語: الثورة العرابية)は、1879年から1882年にかけて、エジプトで起こった革命運動である。アフマド・ウラービー陸軍大佐にちなんで、この名前がつけられた。ムハンマド・アリー朝のヘディーヴ (en:Khedive、副王) とヨーロッパ列強に対抗した。
- 1 ウラービー革命とは
- 2 ウラービー革命の概要
- 3 戦後のエジプト
オラービー革命
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「アフマド・オラービー」の記事における「オラービー革命」の解説
詳細は「ウラービー革命」を参照 この政策に反発するアラブ系将校たちのリーダー的存在となり、大佐階級の時の1881年1月15日にアラブ系軍人に対する差別人事を改めるよう政府に嘆願書を提出した。政府はオラービーを反逆容疑で逮捕して軍法会議にかけたが、逮捕を事前に予想していたオラービーは部下たちに対応を伝達しており、部下たちは軍法会議が行われている軍事省を強襲、オラービーを救出した。オラービーは間髪いれず副王タウフィーク・パシャの宮殿を包囲してマハムード・サーミー・アル・バールーディーを陸軍大臣に任命させた。 しかしオラービーの増長を警戒したタウフィークは1881年8月にバールーディーを陸軍大臣から解任した。これに対抗し、オラービーは再び副王の宮殿を包囲し、「エジプト人民の名のもと、現内閣を更迭し、議会を招集、憲法を制定、軍拡せよ」と要求した。これまでのオラービーの要求は軍内の人事のみだったが、この時に初めて政治的要求を突き付けた。タウフィークは再び屈服し、新内閣が発足、バールーディーが陸相に復帰し、オラービーもその次官となった。1881年11月に議会が開かれ、翌年1月にはエジプト史上初めてとなる憲法草案が議会にかけられた。 こうしたオラービーの活躍にエジプトの債権国であるイギリスとフランスは脅威を抱くようになった。1881年11月にフランス首相となったレオン・ガンベッタは対外強硬派であり、エジプトの民族運動を放置すればフランスのチュニジアやアルジェリアに対する植民地支配は危機に晒されると主張し、イギリスとともに「英仏両国はタウフィークを支持する」とする宣言を発した。さらに英仏は債権回収ができなくなることを恐れ、予算の審議権をエジプト議会に渡すまいとエジプト議会の憲法審議の妨害に明け暮れた。 英仏の介入を阻止すべく、議会はタウフィークにバールーディーを首相とし、オラービーを陸軍大臣とする民族主義内閣を成立させることを要求。この時もタウフォークは屈服し、1882年2月に民族主義内閣を発足させた。 だがこの頃からオラービーの独善ぶりも目立つようになり、トルコ系軍人の解任とアラブ系軍人の昇進を強引に推し進め、1882年4月にはオラービー暗殺を企てたとしてトルコ系高級将校を50人も逮捕し、このうち40人をスーダン流刑に処した。暗殺計画の存在を怪しんでいたタウフィークは判決の承認を拒否した。ここにきてオラービーはついに王政廃止を主張するようになった。
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