アラゴン王国
アラゴン王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 08:08 UTC 版)
アラゴン王ハイメ1世 (アラゴン王)はイスラーム教徒からバレアレス諸島を奪還し、この島々をルシヨンに加えて、新たに建国したマヨルカ王国の一部とした(首都はペルピニャン)。1276年、ハイメ1世はマヨルカを次男ハイメ(マヨルカ王ジャウメ2世)へ授けた。アラゴン王位についた長男ペドロ3世は分割されたマヨルカ王国の権利をしばしば弟と争い、またシチリア王国を巡り争っていたフランス王フィリップ3世によって、この内輪もめを利用された。 フィリップ3世は兄を裏切ったジャウメ2世を受け入れ、大軍をアラゴンへ差し向けた。しかし、疫病が流行るなどしてフランス軍は退却を余儀なくされ、フィリップ3世は1285年にペルピニャンで急逝した。争いを続ける資金に事欠き、ジャウメはすぐ兄ペドロと和解し、1311年には自身の子サンシ1世にマヨルカ王国を継がせた。サンシは亡くなる少し前、ペルピニャン大聖堂を建設している。1324年にサンシ1世の子ジャウメ3世が即位した。彼はモンペリエ領主でもあるためフィリップ6世への臣従の誓いをしたが拒絶され、支援を受けるためアラゴン王ペドロ4世へ忠誠を表そうとした。ペドロ4世はこれを拒んだばかりか、1344年にマヨルカとルシヨンを奪った。 ルシヨンは再びアラゴン王国へ統合され、1462年まで平和が続いた。1462年、アラゴン王フアン2世と、最初の妃であるナバラ女王ブランカ1世との間の王子カルラスが、ナバラ王位を巡って争うことになった。ブランカの死後、王位を継承すべきはカルラス王子であるところ、ブランカの共同統治王であったフアン2世が王位に居座ったのである(ナバーラ内戦)。この争いにつけこんだフランス王ルイ11世は大急ぎでフアン2世支援のため駆けつけ、フアンは300,000クラウンの資金の担保としてルシヨンをフランスへ渡した。フランス軍はルシヨンを1493年まで占領した。この年、シャルル8世はカトリック両王の領土から撤退したのである。
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