アラゴン王国のイタリア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:02 UTC 版)
「シチリア晩祷戦争」の記事における「アラゴン王国のイタリア侵攻」の解説
晩祷事件の後、シチリア人はすぐにペドロ3世のもとに赴いて統治権を譲渡した。ペドロ自らが指揮をとるアラゴン海軍は、現在のアルジェリア東部に位置するコッロ(英語版)に上陸し、そのもとにはシチリア人からの使節が送られてきた。ペドロはシチリア王位につくよう要請され、これを受け入れた。この時、教皇マルティヌス4世はシチリア人共同体を援助することを拒否し、シチリア人反乱者は北イタリアの皇帝派ともども教皇によって破門された。 十字軍への望みを捨てたシャルルは、カラブリアにおいて自軍を掻き集め、メッシーナ付近に上陸して包囲を開始した。晩祷事件から4ヶ月後の8月30日、ペドロがトラーパニに上陸して即座にパレルモへ進軍し、9月4日にシチリア人からの臣従の誓いを受けてその古くからの特権を認めた。わずかにパレルモ大司教の不在が戴冠の妨げになっただけであった。シャルルは既にメッシーナを包囲していたが、この時アラゴン軍は初めて彼と出会っている。10月末までにシャルルはシチリア島を立ち退くことを余儀なくされ、それ以来、支配権はイタリア半島本土に限定されることとなった。11月18日にマルティヌス4世はペドロを破門し、その王位を剥奪した。 ペドロ3世は自身の優位を強調し、1283年2月までにカラブリア海岸線の大部分を掌握した。絶望的感情に陥ったシャルルは、ペドロのもとに手紙を送って一騎討ちによる紛争の解決を求めた。ペドロはこれを承諾し、シャルルはフランスに帰国して決闘の同意を取り付けた。両王は6人の騎士を選り抜いて、決闘の場所と日付を取り付けた。決闘はボルドーにて1月1日に行われることとなった。双方共に100人の騎士が同行し、イングランド国王エドワード1世が審判役を務めることとなったが、エドワードは教皇に注意して決闘にかかわりを持つことを拒絶している。ペドロはジョヴァンニ・ダ・プロチーダを自身の代理としてシチリアに残し、アラゴン経由でボルドーへ戻ったが、その際にフランスによる待ち伏せの疑いを避けるため、変装して同都市に入城している。ペドロには護衛がいなかったので、非常に危険な状態でアラゴンに帰った。 ペドロとシャルルが決闘による決着を追い求めている間に、カタルーニャの海軍提督であるルッジェーロ・ディ・ラウリア(イタリア語版)はペドロの代理としてイタリアで戦闘を継続していた。ルッジェーロはカラブリア海岸沿いを略奪して、その巨大な海軍の存在感を維持し続けた。シャルル1世はボルドーを去ってプロヴァンス伯領(フランス語版)に赴き、同地から艦隊を、当時のイタリアにおける自身の王国の首都かつ王朝の支柱となるナポリへ派遣した。ルッジェーロはマルタを占領し、同島近くのマルタの戦い(カタルーニャ語版)でアンジュー伯(フランス語版)=プロヴァンス伯艦隊を撃破した。それからナポリ港外においてシャルル1世の息子で王位継承者であるサレルノ公(イタリア語版)シャルル(2世)と引き分けている。ルッジェーロは完全に遠洋に針路をとって、ナポリ湾の海戦(カタルーニャ語版)でアンジュー海軍を完膚なきまでに破壊した。ルッジェーロはメッシーナにおいてサレルノ公を捕虜とし、42の艦船を拿捕している。シャルル1世はこの時イタリアに到着していたが、それからすぐ後の1285年に死去した。シャルル1世の後継者であるサレルノ公は虜囚の身であり、他方ペドロ3世もアラゴン十字軍という新たな脅威に対処しなければならなくなったことから、イタリアにおける争いは両陣営の主導者が不在のまま継続することとなった。
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