アラゴン語の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/14 15:36 UTC 版)
アラゴン語の起源は8世紀にさかのぼり、ピレネー山脈でのラテン語方言の一つとして、バスク語のような言語を下層として形成された。初期のアラゴン王国(アラゴン、ソブラルベ、リバゴルサの三国からなる)は徐々に山地から南方へ拡張し、レコンキスタによってイスラム教徒をさらに南に押しやり、アラゴン語を広めた。 カタルーニャ諸国とアラゴン王国との連合により、12世紀にアラゴン連合王国が成立したが、カタルーニャとアラゴンの2地域の言語は統一されることはなかった。東ではカタルーニャ語、西ではアラゴン語が話され続けた。イスラム教徒から奪還した土地(バレアレス諸島やバレンシアの新王国)に広がっていったのは、カタルーニャ語のほうであった。アラゴン王国による南方へのレコンキスタはムルシア王国で終わり、ムルシアはハイメ1世によってアラゴン王女の持参金としてカスティーリャ王国に割譲された。 現在スペイン語と呼ばれるカスティーリャ語のこの地域への拡大と、トラスタマラ家がカスティーリャに起源を持つこととは、アラゴン語とカスティーリャ語との関係と強く結び付いており、やがてそのことはアラゴン語の暫時的な衰退をもたらすことになる。アラゴン語の歴史において転換点の一つとなったのは、15世紀にアラゴン王国の王にカスティーリャ王家(トラスタマラ家)出身のフェルナンド1世(アンテケーラのフェルナンドとして知られる)が選ばれたことであった。 アラゴンとカスティーリャが連合し、16世紀以降には次第に自治が認められなくなったため、アラゴン語は広く使われているにもかかわらず、地方での話し言葉に限定されるようになった。貴族階級はスペイン語を権力の象徴としたのである。アラゴン語への抑圧は、20世紀においてフランコ政権のもとで頂点を迎えた。学校でアラゴン語を話した生徒は体罰を受け、フランコ政権の言語政策によってスペイン語以外の言語を教えることは禁じられた。 1978年に承認された民主的な憲法は、アラゴン語による文学作品やアラゴン語の研究の増進をもたらした。しかし、この言語にとってあまりに遅すぎたであろう。
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