アラゴン王国の興隆とポルトガルの建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)
「レコンキスタ」の記事における「アラゴン王国の興隆とポルトガルの建国」の解説
1035年に誕生したアラゴン王国だったが、西方のナバラ、カスティーリャ、南方のサラゴサ、東方のカタルーニャという強力な勢力が周囲を取り巻いていたため、領土の拡張は困難だった。1076年、ナバラ王サンチョ・ガルセス4世が暗殺された。継承権を有していたアラゴンとカスティーリャはナバラへ侵攻し、先にパンプローナへ到着したアラゴンのサンチョ・ラミレスがナバラ王となった。強固な地盤を得たアラゴンは、南方への侵攻を開始した。1104年にアルフォンソ1世(武人王)が即位すると、アラゴンの攻勢はより積極的になり、1118年にはムラービト朝からサラゴサを攻略した。これによって、エブロ川中流域はアラゴン王国の勢力圏となった。この一連のアラゴンの興隆には、フランスやドイツからやってきた十字軍騎士たちが貢献したとされている(これはカスティーリャも同様である)。 1134年、アルフォンソ1世が亡くなり、ナバラはガルシア6世に、アラゴンはラミロ2世に分割相続された。1137年、ラミロ2世は娘のペトロニラに王位を譲り、ペトロニラの夫のバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世にアラゴンの統治を委ねて、自身は政治から身を引いた。ここにおいてアラゴンとカタルーニャは連合し、カタルーニャ=アラゴン連合王国が成立した。 この頃、レコンキスタの一方の主役となるポルトガル王国が建国された。11世紀中葉、コインブラ以北はレオン王国(カスティーリャ=レオン連合王国)の支配下にあった。1094年、アルフォンソ6世の娘婿でフランス王家カペー家支族であるブルゴーニュ公家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(エンリケ・デ・ボルゴーニャ)がポルトゥカーレ伯に封じられた。アンリの子アフォンソ・エンリケスは、レオン王国からの独立を画策していた。1139年、オーリッケの戦いでムラービト軍に勝利したアフォンソは、これを機に独立を宣言し、自らはアフォンソ1世と称した。当初は独立に反対していたレオン王国だったが、ローマ教皇の口添えもあり、1143年にこれを承認、ポルトガル王国が誕生した。1147年、アフォンソ1世はリスボンを陥落させ、一挙に版図を拡大した。
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