アラゴン連合王国の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 04:40 UTC 版)
「バルセロナ伯国」の記事における「アラゴン連合王国の誕生」の解説
1137年、バルセロナ伯ラモン・バランゲー4世とアラゴン女王ペトロニラが結婚し、両王家の連合が成立した。ラモン・バランゲー4世は死去するまで、バルセロナ伯および「アラゴン公」を名乗った。二人の息子アルフォンソ2世は初めてバルセロナ伯を兼任するアラゴン王となり、以降二つの地位はアラゴン王冠のもとにまとめて継承されていくことになった(アラゴン連合王国)。バルセロナ伯国とアラゴン王国の両地域はそれぞれの伝統、法、慣習、財政、政治体制を維持した。これ以降2世紀にわたりアラゴン連合王国下で、バルセロナ伯国の地理的文脈はカタルーニャへ、政治機構はカタルーニャ君主国へと再編された。ただしバルセロナ伯の称号は維持された。 13世紀から14世紀にかけて、バルセロナ伯国はアラゴン王の支配下にあり続けた。1410年にマルティー1世が嗣子なく没してバルセロナ家が断絶すると、カスペの妥協によりカスティーリャ王国のトラスタマラ家からフェラン1世がアラゴン王に迎えられた。その孫フェラン2世はカスティーリャ女王イサベル1世と結婚し、両王国が合同してスペイン王国が成立した。その二人の子孫のアブスブルゴ朝の時代になると、バルセロナ伯国はハプスブルク家のもと単なる王国内の諸地域の一つとして扱われるようになっていった。
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