バルセロナ伯とは? わかりやすく解説

バルセロナ伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/19 18:37 UTC 版)

バルセロナ伯の紋章

バルセロナ伯カタルーニャ語:Comtes de Barcelona)は、9世紀から17世紀まで続いたカタルーニャの君主。

歴史

バルセロナ伯領は、カール大帝エブロ川の北の土地を征服後に創設した。これらの土地は、スペイン辺境伯領と呼ばれ、多様な伯領に分割されていた。バルセロナ伯領は常に他の伯領を同時に保有しており、その後すぐ一帯の第1位の座を獲得してきた。

伯領として一つの家系が世襲し、カペー朝カロリング朝に取って代わった後すぐ、伯爵と宗主国・フランク王国との関係は弱まった。

11世紀、バルセロナ伯はアラゴン王国との同君連合アラゴン連合王国)を形成、1人の君主の下で2カ国統治を行うようになった。1258年、フランス王がコルベイユ条約においてバルセロナ伯領への封建的な宗主権を放棄した(それまで、形式上はフランスがカタルーニャの宗主国のままであった)。

バルセロナはアラゴン王国の一部のままであり、1500年前後にはカスティーリャ王国と統合し、スペイン王国を形成した。伯領の最後の残存した証拠は、18世紀のスペイン継承戦争後取り除かれた。

バルセロナ伯は現在、スペイン国王が持つ世襲称号の一つとなって残っている。またスペイン国王の法定推定相続人たるアストゥリアス公も、カタルーニャ貴族としてサルベラ伯(Conde de Cervera)及びバラゲー領主(Señorío de Balaguer)の称号を有する。

20世紀、「バルセロナ伯」の称号が久方ぶりに公に現れた。亡命していたスペイン・ブルボン家の王位継承権保持者フアン・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグがバルセロナ伯とされたのである。フアンは長男フアン・カルロスが当時のスペインの独裁者フランシスコ・フランコによって後継者にされると、王位請求権を取り下げ、代わりに歴史ある王家の称号を欲したのである。フアン・カルロス1世は1975年のフランコの死で即位すると、1977年に父フアンの王位継承権を認め、バルセロナ伯の称号を与えた。フアンは1993年に亡くなるまでこの称号を保持し続けた。その後、バルセロナ伯の称号はフアン・カルロス1世へ返され(代わりにフアンはスペイン王を追尊された)、現在に至っている。バルセロナ伯フアンの未亡人マリア・デ・ラス・メルセデスは2000年に亡くなるまでバルセロナ伯妃(Comtessa de Barcelona)の称号を使用していた。

バルセロナ伯の一覧

人名はカタルーニャ語表記を優先する。

群雄時代(801年から878年)

肖像 治世 説明
ベラ1世
カタルーニャ語: Berà I
801年 - 820年 トゥールーズ伯ギヨームの子。同時にジローナ伯、バザルー伯、ウゾーナ伯、ラゼースとコンフラン伯
ランポー
カタルーニャ語: Rampó
820年 - 826年 ジローナ伯、バザルー伯
セプティマニア辺境伯ベルナルド
カタルーニャ語: Bernat
826年 - 832年 ベルナルド1世。トゥールーズ伯ギヨームの子。セプティマニア辺境伯
ベレンゲール
カタルーニャ語: Berenguer el Savi
832年 - 835年 トゥールーズ伯
セプティマニア辺境伯ベルナルド 835年 - 844年 シャルル2世の命で再任。
スニフレ1世
カタルーニャ語: Sunifred I
844年 - 848年 カルカソンヌ伯ベロの子、ウゾーナ伯、バザルー伯、ジローナ伯、ナルボンヌ伯、アグド伯、ベジエ伯、ロデーヴ伯、メルグイユ伯、サルダーニャ伯、ウルジェイ伯、コンフラン及びニーム伯
セプティマニア辺境伯ギヨーム
カタルーニャ語: Guillem
848年 - 850年 ベルナルド1世の子、トゥールーズ伯。反乱を起こして殺害された。
アレラン
カタルーニャ語: Aleran
850年 - 852年 イセンバルーと同治。アンプリアス伯、ルサリョー伯、セプティマニア辺境伯
イセンバルー 850年 - 852年 プロヴァンス伯ゲランの子、アレランと同治。アンプリアス伯、ルサリョー伯およびセプティマニア辺境伯
オダリック 852年 - 858年 イストリア辺境伯フンフリート1世の子、ジローナ伯、ルサリョー伯、アンプリアス伯、セプティマニア辺境伯
ウンフリー 858年 - 864年 ラエティア公フンフリート2世の子、ジローナ伯、アンプリアス伯、ルサリョー伯、ナルボンヌ伯、ゴティア辺境伯
ゴティア辺境伯ベルナルド
カタルーニャ語: Bernat de Gothia
865年 - 878年 ベルナルド2世。ポワティエ伯ベルナール2世の子、ジローナ伯、ゴティア辺境伯、セプティマニア辺境伯。反乱を起こした。
スペイン辺境伯領

バルセロナ家(878年から1162年)

肖像 治世 説明
ギフレー1世スペイン語版
(Guifré I)
多毛伯 (el Pelós)
878年 - 897年 ギフレー・ダリアー伯の子。自身の子孫による世襲制を確立。
ギフレー2世ボレイスペイン語版
(Guifré II Borrell)
897年 - 911年 ギフレー多毛伯の子
スニェー1世スペイン語版 911年 - 947年 ギフレー2世の弟。修道院へ引退する
ボレイ2世スペイン語版 947年 - 992年 スニェー1世の子
ミロー1世と共同統治(947年 - 966年)、ラモン・ボレイと共同統治(988年 - 992年)、
ウルジェイ伯(948年 - 992年)。サラセン人との戦いで西フランクロテールへ支援を依頼したが不成功に終わり、987年にユーグ・カペーをフランス王として承認するのを拒絶した。
ミロー1世スペイン語版 947年 - 966年 スニェー2世の子、ボレイ2世と共同統治。
ラモン・ボレイスペイン語版 988年 - 1018年 ボレイ2世の子、父王とともに共同統治(988年 - 992年)。
バランゲー・ラモン1世スペイン語版
背曲がり伯 (el Corbat)
1018年 - 1035年 ラモン・ボレイの子。母親であるカルカソンヌ伯女エルメシンダが摂政を務め、彼はナバーラ王サンチョ大王の宗主権を認めることを強いられた。
ラモン・バランゲー1世
老伯 (el Vell)
1035年 - 1076年 バランゲー・ラモン1世の子
ラモン・バランゲー2世
糸くず頭伯 (el Cap d'Estopes)
1076年 - 1082年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるバランゲー・ラモン2世と共同統治。
バランゲー・ラモン2世
兄弟殺し伯 (el Fratricida)
1076年 - 1097年 ラモン・バランゲー1世の子、双子の兄弟であるラモン・バランゲー2世と共同統治(1076年 - 1082年)。甥であるラモン・バランゲー3世と共同統治(1082年 - 1097年)
ラモン・バランゲー3世
大伯 (el Gran)
1082年 - 1131年 ラモン・バランゲー2世の子
ラモン・バランゲー4世
聖伯 (el Sant)
1131年 - 1162年 ラモン・バランゲー3世の子。1137年、アラゴン王女ペトロニーラと婚約、1150年に結婚。
ラモン・バランゲー1世の墓碑

アラゴン家(1162年から1410年)

ラモン・バランゲー4世はアラゴン女王ペトロニラ(カタルーニャ語名パルネリャ)と結婚し、アラゴンとの同君連合(アラゴン連合王国)を成立させた。2人の息子であるアルフォンス2世はカタルーニャとアラゴンの君主位につき、バルセロナ伯領とアラゴン王国を共に統治した。アラゴン史ではこの王家はバルセロナ家と呼ばれている。

肖像 治世 説明
アルフォンス1世
純潔王 (el Cast)
吟遊詩人王 (el Trobador)
1162年 - 1196年 ラモン・バランゲー4世とアラゴン女王パルネリャの子
ペラ1世
(Pere I)
カトリック王 (el Catòlic)
1196年 - 1213年 アルフォンス2世の子
ジャウマ1世
(Jaume I)
征服王 (el Conqueridor)
1213年 - 1276年 ペラ1世の子。1258年にコルベイユ条約を締結。これにより、カタルーニャはフランスの属国状態から脱する。
ペラ2世
(Pere II)
大王 (el Gran)
1276年 - 1285年 ジャウマ1世の子
アルフォンス2世
自由王 (el Franc)
1285年 - 1291年 ペラ2世の子
ジャウマ2世
(Jaume II)
公正王 (el Just)
1291年 - 1327年 アルフォンス2世の弟
アルフォンス3世
慈悲王 (el Benigne)
1327年 - 1336年 ジャウマ2世の子
ペラ3世
(Pere III)
尊儀王 (el Cerimoniós)
el del Punyalet
1336年 - 1387年 アルフォンス3世の子
ジュアン1世
(Joan I)
狩猟王 (el Caçador)
不注意王 (el Descurat)
優雅者の愛好者 (l'Amador de la Gentilesa)
1387年 - 1396年 ペラ3世の子
マルティー1世
(Martí I)
人文王 (l'Humà)
聖職者王 (l'Eclesiàstic)
1396年 - 1410年 ジュアン1世の弟。男子後継者なしに亡くなる。

トラスタマラ家(1412年から1516年)

マルティー1世の死により、ギフレ多毛伯以来男系で世襲されてきたバルセロナ伯家が断絶した。カスペの妥協に至った2年後、カスティーリャ王家であるトラスタマラ家からフェラン1世を迎えた。フェランの母エリオノールがペラ4世の娘であり、最近親の男子であったためである。

肖像 治世 説明
フェラン1世
(Ferran I)
アンテケラ王 el d'Antequera
1412年 - 1416年 カスティーリャ王フアン1世と王妃エリオノール・ダラゴーの子
アルフォンス4世
寛大王 el Magnànim
1416年 - 1458年 フェラン1世の子
ジュアン2世
(Joan II)
1458年 - 1479年 フェラン1世の子。最初の王妃であるナバラ女王ブランカの生んだ王子、ビアナ公カルラスとの対立から、国王派とビアナ公派に分かれて争うカタルーニャ内戦が起きた。
フェラン2世
(Ferran II)
カトリック王 el Catòlic
1479年 - 1516年 ジュアン2世の子。カスティーリャ女王イサベルと1469年に結婚。
ジュアン2世の保持していたアラゴン王とバルセロナ伯の称号は、カタルーニャ内戦(1462年 - 1472年)の間、アラゴン王家の血を引く以下の人物たちによって争われた(バレンシア王の称号は含まれていない):
エンリック4世 1462年 - 1463年 フアン2世と王妃マリア・ダラゴー・イ・アルブルケルケ(フェラン1世王女)の子。
ペラ4世 1463年 - 1466年 アヴィシュ家コインブラ公ペドロとウルジェイ女伯エリサベの子。
レナト1世
(Renaut I)
1466年 - 1472年 アンジュー公ルイ2世ビオラン・ダラゴー(ジュアン1世王女)の子。

アブスブル家(1516年から1700年)

フェラン2世はカスティーリャ女王イサベル1世と結婚し、スペイン王国が成立した。彼の死後、ハプスブルク家の孫カルラスが継いだ。

肖像 治世 説明
カルラス1世
(Carles I)
1516年 - 1556年 フェラン2世の孫
フェリプ1世
(Felip I)
1556年 - 1598年 カルラス1世の子
フェリプ2世
(Felip II)
1598年 - 1621年 フェリプ1世の子
フェリプ3世
(Felip III)
1621年 - 1665年 フェリプ2世の子
収穫人戦争の間、バルセロナ伯の称号をブルボン家のフランス王らが僭称した:
ルイ13世 1641年 - 1643年
ルイ14世 1643年 - 1652年
カルラス2世
(Carles II)
1665年 - 1700年 フェリプ3世の子。男子を残さなかったため家系が断絶した。

スペイン継承戦争(1700年から1714年)

スペイン継承戦争の間、スペイン王位(バルセロナ伯位も含む)を請求したのは以下の人物である。

カルラス2世没後、スペイン王位を継承したのはブルボン家フェリプ4世であった。イングランド王国ネーデルラント連邦共和国、オーストリアら大同盟諸国は、対立候補としてハプスブルク家のスペイン王位請求者カール大公(レオポルト1世の子)を推し、軍事支援を行った。カタルーニャは事実上フェリプを受け入れていたが、これをついにやめてしまった。1705年にカール大公はバルセロナに到着し、1706年にスペイン王であることを宣言した。

1705年から1714年まで続いた戦争の結果、カール大公の外国人同盟側が恩恵を受け、カタルーニャとアラゴンの両方にとっては災いとなった。1710年以後、バレンシアとアラゴンにおける独自の政治行政機構と特権が廃止された。1711年、兄ヨーゼフ1世の死により、カール大公は皇帝カール6世として即位するため、オーストリアへ戻った。大同盟諸国は、ハプスブルク家の領土拡大につながるとしてカール6世支持に消極的となり、フェリプ4世を推すスペイン・フランス側と交渉を始めた。徹底抗戦を呼びかけていたカタルーニャ、そして同時にスペイン王家に反旗を翻したバレンシアとアラゴンは、他勢力からの支援を失い、スペイン・フランス両軍の侵入で国土が荒廃した。ユトレヒト条約によって、カタルーニャの抵抗運動は封じられた。1714年9月11日にバルセロナがスペイン軍によって陥落した。

肖像 治世 説明
フェリプ4世
(Felip IV)
1700年 - 1714年 フランスのドーファンルイの子。1700年から1705年までバルセロナ伯と承認された。
カルラス3世
(Carles III)
1705年 - 1714年 神聖ローマ皇帝レオポルト1世の子。1705年から1714年までバルセロナ伯と承認された。

1707年から1716年の間に、フェリプ4世は全領土を中央集権体制下のスペイン王国に統一した。バルセロナにおいて、1716年1月の新国家基本法(en)によって、ジャナラリター、コルツといった中世以来の組織が全て廃止された。マドリードから軍・民両方を統括する総督が派遣され、大学が廃止された。カタルーニャ法は廃止され、公の場でのカタルーニャ語の使用も禁止された。バルセロナ伯の称号は、独立したカタルーニャ君主が名乗るものではなく、スペイン王が名乗る多くの称号の一つにすぎなくなったのである。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク


バルセロナ伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 13:51 UTC 版)

ベルナール・ド・セプティマニー」の記事における「バルセロナ伯」の解説

ベルナール記録現れるのは、804年12月14日サン=ギレム=ル=デゼール修道院の設立時のギヨーム文書に、4人の息子のうちの1人として記されているのが最初である。 ベルナールトゥールーズ周辺相続し826年頃にバルセロナ伯となったとみられるベルナール最初に注目されたのは、前バルセロナ伯ベラ副官とみられるゴート貴族アイッソ(en)の反乱鎮圧したであった。この地の城の駐屯軍ベラ好意的であったため、アイッソの反乱参加し新伯ベルナール対抗した。ウゾーナ伯領のロダ・デ・テル城のみが抵抗し、後にアイッソに破壊された。新たに占領した地域から、アイッソはサルダーニャ伯領およびバリェスを攻撃した若きベルナール皇帝在地貴族支援求めた増強されたベルナール軍に反撃するため、アイッソは弟をコルドバのエミールアブド・アッラフマーン2世のもとに送り加勢求めた827年5月アブド・アッラフマーン2世はウバイドゥッラー・アブー・マルワーン将軍サラゴサ派遣し、そこをバルセロナ侵攻拠点とした。ウバイドゥッラーは夏にバルセロナ達すると街を包囲して周辺破壊したが、街を占領することはできなかった。 皇帝ルートヴィヒ1世はこの攻撃知り次男アキテーヌピピントゥールユーグおよびオルレアン伯マトフリードに対ムスリム軍を集めるよう命じたが、なかなか進まなかった。軍が到着したころには、アブー・マルワーンはすでにアイッソらとともにイスラム領内撤退していた(827年末)。 この撤退ベルナール勝利受け取られベルナール大い名声高めた破壊されバルセロナ属領のウゾーナ伯領は破壊によって荒廃し9世紀半ばまで過疎化した。ユーグとマトフリードによる派兵の遅れが原因とされ、両者はその責任問われ828年アーヘン議会領地取り上げられた。その議会において、オルレアンウード与えられベルナールの弟ゴーセムにはコンフランおよびラゼースが与えられた。プロヴァンス公レビュルフが春に死去し、その広大な領土であるナルボンヌベジエアグド、メルグイユ、ニームおよびおそらくユゼスは、ベルナール与えられた。インゲルハイム6月行われた議会では、コルドバへの報復攻撃検討されティオンヴィルに軍が集められたものの、ムスリムによる攻撃を受けるリスク低くなったため、軍はベルナール領土には入らなかった。

※この「バルセロナ伯」の解説は、「ベルナール・ド・セプティマニー」の解説の一部です。
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