バルセロナ五輪女子マラソン代表選考騒動 - 松野か有森か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:18 UTC 版)
「松野明美」の記事における「バルセロナ五輪女子マラソン代表選考騒動 - 松野か有森か」の解説
ところが、日本陸連関係者の間では国内選考レースで記録が良かった松野より、昨年8月に酷暑の中世界陸上東京大会女子マラソンで2時間31分08秒で4位入賞の実績を残した、有森裕子(リクルート)を推す声が高いという噂が出たことも有ったのか、ある日の新聞で『(バルセロナ五輪女子マラソン日本代表の)3人目は有森か松野か』と大きく記事にした紙面を見た松野は愕然とし、「有森さんはマラソンで世界陸上しか走ってないし、国内選考会は一度も出ていないのに?何で私と有森さんとが比較されてしまうの??」と、内心怒りがこみ上げたという。 その五輪女子マラソン代表選手発表の2日前、急遽松野は地元の熊本市内で、自ら異例の記者会見まで開くこととなる。松野は岡田監督らの同席の下、会見の席で駆け付けた新聞記者達やマスコミ陣、そして日本陸連に対して迄「私、ホント(オリンピック)に出たら、メダル…獲れるとは、本当に確実に思っていますので、その為にも今精一杯頑張ってますので、どうぞ…選んで下さい(笑)」「やっぱり、強い人は強いと思いますので、強い人を選んで欲しいです。(私は)負けませんから!」などと終始笑顔でアピールし続けていた。 一方、有森は国内選考レースには出なかった(当初有森も大阪国際女子マラソンにエントリー、松野との直接対決が注目されたが左足のケガで欠場)ものの、10km等のロードレースを出走し優勝するなど、故障の不安が無いことを強調している。バルセロナ五輪女子マラソン選考決定の当日まで、松野と有森のどちらに当落となるのか、全く分からない混迷状態となっていた。 1992年3月28日、結局バルセロナ五輪の女子マラソン代表へ正式に選ばれたのは山下・小鴨と、そして最後の3人目は有森裕子だった。松野の名前はそこに無く、無念の落選となってしまったのである。しかも日本陸連は松野に対し「前回のソウル五輪同様、女子10000mで選出される可能性がある」との理由で、補欠代表にも選ばなかった(補欠は谷川真理)。この騒動の根本的な原因は、五輪代表選考にとって91年世界陸上4位の有森がどういう位置づけなのか、つまり「世界陸上のマラソン競技が選考レースなのかどうか」「世界選手権4位入賞は代表内定なのか」「代表内定と決定はどう違うのか」などを当時の日本陸連は明言していなかったことにある。 松野は余りのショックに泣き崩れて混乱状態となり、落選時の記者会見には出席出来ず、ニコニコドーの小山部長と岡田監督の二人のみが会見に出席。その席で岡田監督も「何故落選となったのかが全く理解出来ない。松野が余りにも可哀想で、凄く残念でならない」「今さら10000mで松野を五輪に出場させるつもりは無い」と悔し涙を見せた。 このような基準の不明瞭な選考により、「裏では金が動いていたのではないか」「陸連の内部対立があったのでは」「あの記者会見は逆にマイナスに作用したのかも」など根拠のない様々な憶測や噂がテレビや週刊誌をにぎわすこととなる。またその後、1992年8月のバルセロナ五輪女子マラソン本番で、有森が日本女子陸上選手として64年ぶりの2位入賞・銀メダルを獲得したことにより、選考結果に対して肯定的な風潮となり、松野は苦しむこととなる。さらに松野はその後、当時有森の方が自身よりもマラソン自己記録は遅いのに、自分が五輪に落選して有森が選出された事に一切納得出来ず、それから松野は心中有森をずっと妬み憎しむようになったという。
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