日本代表
日本代表
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日本代表(にほんだいひょう、にっぽんだいひょう)とは、日本を代表して国際会議や世界的な大会に参加する個人もしくは団体。団体を指す場合には「日本代表団」とも呼ばれる。また、スポーツの選手個人を指す場合は「代表選手」とも呼ぶ。
注釈
- ^ 本来は“アルベルト”を略すのが正しいのだが、アーノルド・シュワルツェネッガーが「アーニー」ではなく「シュワちゃん」と呼ばれているのと同じ手法。
出典
- ^ 日刊スポーツ北京オリンピックコラム「OGGIの毎日がオリンピック」2008年8月23日付
- ^ スポーツニッポン - アイホケ娘 愛称は「スマイルジャパン」 選手の希望通りに スポーツニッポン 2013年3月2日閲覧
- ^ 「モーニング娘。」や「カントリー娘。」をもじったもの。
- ^ ボブスレー日本代表チームの愛称を発表しました 日本ボブスレー・リュージュ・スケルトン連盟ニュースリリース 2013年12月23日付
- ^ 女子代表の愛称は「サクラ」に 産経新聞 2013年6月18日閲覧
- ^ “日本代表よ、勇ましくあれ! ~日本代表ニックネーム「BRAVE BLOSSOMS」の由来を辿る~ | BRAVE BLOSSOMS GAME2017|ラグビー日本代表”. jpn2017.rugby-japan.jp. 2021年11月4日閲覧。
- ^ JRFU, (公財)日本ラグビーフットボール協会-. “【JRFU公式】ラグビー日本代表応援サイト - WE ARE BRAVE BLOSSOMS”. www.rugby-japan.jp. 2021年11月4日閲覧。
- ^ 日本フットサル振興会 - <野武士ジャパン>
- ^ 登録番号第5195556号、第5195564号「ホッケーの興行の企画・運営又は開催、ホッケーに関する電子出版物の提供、ホッケーに関する図書及び記録の供覧」など
- ^ 【WBC】“さむらい”マネしないで!男子ホッケー代表すでに命名(スポーツ報知)
- ^ ソフトボール、代表の愛称は"ソフトジャパン"に決定
- ^ 女子日本代表 愛称:火の鳥NIPPON
- ^ 『バスケットボール日本代表チーム 記者発表会のご報告 -新ニックネームは「AKATSUKI FIVE(アカツキ ファイブ)」に決定-』(プレスリリース)日本バスケットボール協会、2016年4月11日 。2016年4月11日閲覧。
- ^ “バスケ日本代表 ニックネーム「ハヤブサ」→「アカツキ」に変更”. スポーツニッポン. (2016年4月11日) 2016年4月11日閲覧。
- ^ バスケットボール日本代表の愛称「アカツキジャパン」
- ^ 挑戦者たち - 第1回 着々と進む本番への準備 〜世界ベスト4へ"ハヤテジャパン"〜(1/4)
- ^ ハンド女子愛称は「おりひめジャパン」 日刊スポーツ 2013年11月22日
- ^ 36年ぶり五輪へ 「レインボージャパン」3連勝! スポーツニッポン2011年10月8日閲覧
- ^ ハンド男子代表愛称に彗星ジャパン!定着へ実績次第」 日刊スポーツ 2018年6月11日
- ^ 【日本代表情報】バドミントン日本代表の愛称が「BIRD JAPN(バード・ジャパン)」に決定!
- ^ 愛、佳純ら「卓球NIPPON」で打倒中国 日刊スポーツ 2013年4月25日閲覧
- ^ 女子ナショナルリレーチームの愛称が決まりました! 日本陸上競技連盟 2014年5月10日
- ^ 男子ナショナルリレーチームの愛称を発表しました! 日本陸上競技連盟 2014年5月23日
- ^ スポニチ2010年4月18日 - 人魚になるまで泳げ!シンクロ代表 愛称はマーメイドジャパン
- ^ 「セーリング日本代表チーム」愛称 入選作発表
- ^ 日本代表愛称発表「NAMINORI JAPAN」 - 日本サーフィン連盟
- ^ ボクシング日本代表愛称は「阿修羅JAPAN」「Blue rose JAPAN」に決定 選手が名付け親
- ^ 空手代表、愛称は「雷神ジャパン」
- ^ 男女日本代表チーム:愛称決定のお知らせ
- ^ 「第9回ワールドゲームズ2013」アルティメット日本代表(疾風(はやて)JAPAN)選手決定のお知らせ
- ^ ボッチャ日本代表チーム「火ノ玉 JAPAN 」と命名 - 日本ボッチャ協会[PDF]
- ^ ゴールボール日本代表愛称「オリオンJAPAN」
- ^ 【お知らせ】柔道日本代表とゴジラがコラボレーション!「ゴジラジャパン」発表会見(3.19) - 全日本柔道連盟
- ^ 「ゴジラジャパン」今年限り=柔道日本代表
日本代表(侍ジャパン)
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「日米野球2014」の記事における「日本代表(侍ジャパン)」の解説
以下が代表選手であり、所属は同大会期間中のものとする。 ポジション背番号氏名所属球団投打備考監督 90 小久保裕紀 右 右 コーチ 73 奈良原浩 埼玉西武ライオンズ内野守備走塁コーチ 右 右 ヘッドコーチ 41 稲葉篤紀 北海道日本ハムファイターズ 左 左 打撃コーチ 89 鹿取義隆 右 右 投手コーチ 88 矢野燿大 右 右 バッテリーコーチ 87 仁志敏久 U12日本代表監督 右 右 内野守備走塁コーチ 83 村松有人 福岡ソフトバンクホークス3軍外野守備走塁コーチ 左 左 外野守備走塁コーチ 投手 12 松葉貴大 オリックス・バファローズ 左 左 14 則本昂大 東北楽天ゴールデンイーグルス 右 左 15 井納翔一 横浜DeNAベイスターズ 右 右 16 大谷翔平 北海道日本ハムファイターズ 右 左 17 藤浪晋太郎 阪神タイガース 右 右 18 前田健太 広島東洋カープ 右 右 19 金子千尋 オリックス・バファローズ 右 左 21 西勇輝 オリックス・バファローズ 右 右 26 西野勇士 千葉ロッテマリーンズ 右 右 30 武田翔太 福岡ソフトバンクホークス 右 右 35 牧田和久 埼玉西武ライオンズ 右 右 43 髙橋朋己 埼玉西武ライオンズ 左 左 47 岩田稔 阪神タイガース 左 左 捕手 10 小林誠司 読売ジャイアンツ 右 右 22 伊藤光 オリックス・バファローズ 右 右 37 嶋基宏 東北楽天ゴールデンイーグルス 右 右 内野手 2 今宮健太 福岡ソフトバンクホークス 右 右 3 松田宣浩 福岡ソフトバンクホークス 右 右 4 菊池涼介 広島東洋カープ 右 右 6 坂本勇人 読売ジャイアンツ 右 右 13 中田翔 北海道日本ハムファイターズ 右 右 23 山田哲人 東京ヤクルトスワローズ 右 右 25 筒香嘉智 横浜DeNAベイスターズ 右 左 33 銀次 東北楽天ゴールデンイーグルス 右 左 外野手 1 内川聖一 福岡ソフトバンクホークス 右 右 7 糸井嘉男 オリックス・バファローズ 右 左 9 丸佳浩 広島東洋カープ 右 左 44 柳田悠岐 福岡ソフトバンクホークス 右 左
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日本代表(A代表)
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2019年5月24日、コパ・アメリカに臨む東京五輪世代中心で構成された日本代表に初選出された。6月18日、コパ・アメリカ初戦のチリ戦で途中出場し、日本代表デビューを果たした。6月21日、コパ・アメリカ第2戦のウルグアイ戦で先発出場し、日本代表初ゴールを含む2得点を決め、公式のMOMにも選ばれた。
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日本代表(オフト監督・ファルカン監督時代)
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「澤登正朗」の記事における「日本代表(オフト監督・ファルカン監督時代)」の解説
1993年1月、若手選手中心のB代表で臨んだカールスバーグカップに出場。ベンチでは清雲栄純コーチが指揮を執り、オフト監督はスタンドで選手の動きをチェックした。この大会での活躍が認められ、2月に行われた日本代表のイタリア遠征に招集された。セリエA、セリエBシーズン中に行われた国際親善試合では、第2戦のインテル戦、第3戦のレッチェ戦に出場。非Aマッチではあったがフル代表デビューを果たした。その後も代表に招集され、1993年4月からアメリカW杯・アジア予選に臨んだ。1次予選はJリーグ開幕前であったため、大卒ルーキーの澤登は当時の国内トップリーグ(日本サッカーリーグ)未経験選手としての参加となり、Jリーグ開幕後の最終予選では最年少選手となった。同ポジションにはラモス瑠偉などがおり、出場機会は多くはなかったが、初戦のタイ戦、後半途中に負傷退場した森保一と交代で、国際Aマッチ初出場。ラモス瑠偉が森保のポジション(ボランチ)に入り、澤登は中盤の左サイドでプレーした。試合は三浦知良が前半に挙げた得点を守り切り、初戦を白星で飾った。その後の試合も主にサイドハーフとしての出場が続いたが、予選で唯一トップ下の選手と交代で出場したUAE戦で、Aマッチ初得点。後半37分に日本が失点を喫すると、その1分後に澤登が強烈なミドルシュートを叩き込み代表を救った。W杯初出場まであと1勝としていた最終戦のイラク戦では、「ドーハの悲劇」を経験。試合終了間際、ベンチの前に立って歓喜の時を待った澤登は、イラク代表の同点ゴールが入った瞬間崩れ落ち「後は覚えていない」と話した。後にラモス瑠偉は、日本がイラクに2―1でリードした際に、疲労で中盤の選手達の足が動かなくなっていたため、オフト監督に、最後の交代カードは「北澤か、ボールキープできる澤登」がいいとアドバイスしたが実現に至らなかったと話している。澤登は後のインタビューで大会を振り返り、「あのチームにいられたことが誇り、個性的な選手がそろっていたし、本当に強かった」と語っている。 1994年、ハンス・オフトの後任として、日本代表監督に黄金のカルテットの一人でもあるパウロ・ロベルト・ファルカンが就任。初陣となったキリンカップサッカー1994では、これまでラモス瑠偉が背負ってきた背番号10番を付けてプレーした。この大会は当初、アルゼンチン代表が来日予定だったが、ディエゴ・マラドーナの入国問題で取りやめになったため、マラドーナとの10番対決は叶わなかった。ファルカンジャパンでは、右ひざの怪我のため出場辞退した大会 もあったが、セットプレーのキッカーを任されるなど、中盤のレギュラーを務めた。広島で行われたアジア大会では、負傷を抱えての出場となったが、得点やアシストをマークする活躍を見せた。しかし同年にファルカン監督が更迭され、その後加茂周監督になると、しばらく代表から遠ざかることになる。
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日本代表(加茂・岡田監督・トルシエ監督時代)
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「澤登正朗」の記事における「日本代表(加茂・岡田監督・トルシエ監督時代)」の解説
1997年8月28日、フランスワールドカップアジア最終予選の壮行試合で日本代表に復帰。代表から離れている期間も所属クラブではゴールやアシストを量産し活躍していたが、加茂周監督就任3年目にして初めての招集となった。後半21分に中田英寿に代わり途中出場。少ない時間ながらも、ポスト直撃のFKでスタンドを沸かせるなど見せ場も作ったが、その後、加茂周、岡田武史監督の代表では出場機会は訪れなかった。日本代表は成績不振による監督解任などアジア最終予選で苦しんだ末に、アジア第3代表(前回大会の2から3.5にアジア枠が拡大)としてワールドカップ初出場を決めたが、翌1998年はシーズン序盤に突発性難聴発症などもあり、代表に招集されることは無かった。3戦全敗のフランスワールドカップ終了後、ファルカン監督以来3人目の外国人監督となるフィリップ・トルシエが日本代表監督に就任すると、翌1999年のキリンチャレンジカップで日本代表復帰を果たす。ドーハ組からは唯1人の選出となった。最年長プレーヤー(MF)の30歳となった2000年には、アジアカップで5年4ヶ月ぶりのAマッチの得点を記録。同試合でAマッチ初得点を決めた中村俊輔からマイナスのボールを受け、相手DFをターンでかわし左足で放った豪快なミドルシュートの得点であった。その後も、代表に招集されたが控えに回り出番はなく、この大会が現役最後の代表戦出場となった。
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日本代表(サムライズ)
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「オージーフットボール」の記事における「日本代表(サムライズ)」の解説
オーストラリアンフットボールの日本代表は、通称サムライズと呼ばれ、現在は学生を主体にインターナショナルカップの上位進出を目指している。 2008年インターナショナルカップでは、強敵サモアに勝利する等し、全16チーム中8位に食い込んだ。 代表的な日本人プレーヤー榊道人 加瀬毅 関口遵 森毅人 久納陽介 清野裕彰 田中淳二 瀬戸孝明 佐藤健 中村雅哉
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日本代表(サムライズ)
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「日本オーストラリアンフットボール協会」の記事における「日本代表(サムライズ)」の解説
日本代表は、通称サムライズと呼ばれ、現在は学生を主体にインターナショナルカップの上位進出を目指している。2008年インターナショナルカップでは、強敵サモアに勝利する等し、全16チーム中8位に食い込んだ。 代表的な日本人プレーヤー榊道人 加瀬毅 関口遵 森毅人 久納陽介 清野裕彰 田中淳二 瀬戸孝明 佐藤健 中村雅哉
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「日本代表」の例文・使い方・用例・文例
- サッカー日本代表が、W杯最終予選で2006年のドイツ大会出場を決めました
- 山田選手が、女子マラソン日本代表に選出されました
- そのダウンヒルの選手はかつて日本代表としてオリンピックに出場したこともある。
- 日本代表にはもっと日の丸の重さを感じてほしい。
- 彼女はオリンピックの日本代表に選ばれました。
- アメリカは女子サッカー日本代表チームにとって強敵です。
- 遣明使という日本代表の中国明王朝への使節
- 三宮選手は,2001年世界スプリント選手権で,日本の女子スケート選手で初めて,総合で銀メダルを獲得すると間もなく,ソルトレークシティー冬季オリンピックの日本代表に選ばれた。
- 32歳の豪太さんは,冬季オリンピックで2度,日本代表となった。
- それでも,日本代表チームは闘う試合ごとに歴史を作った。
- トルコとの試合終了後,トルシエ監督は,「日本の冒険は終わった。日本代表チームの監督を務めたことを誇りに思う。監督としてのこの4年間はすばらしいものだった。これから日本は,2006年W杯に向けて努力しなければならない。代表チームのダイナミックで野心的なプレイは世界に印象を与えたと思う。チームのメンバーそれぞれが,自分自身の能力に自信を持つべきだ。」と語った。
- 日本代表の夢は終わったのだろうか。
- 萩原選手と北島選手は,今年の夏,横浜で行われるパンパシフィック選手権と,秋に韓国で行われる第14回アジア競技大会プサンの日本代表に選ばれた。
- ジーコさんがサッカー日本代表の監督に
- 鹿島アントラーズの元選手でテクニカルディレクターのジーコさんが,サッカー日本代表の新監督になることに同意した。
- 彼はすでに日本代表に新しい,より開放的な雰囲気をもたらしている。
- 10月16日,5万5437人の満員の観衆が,ジーコ監督指揮下の新生サッカー日本代表,「ジーコ・ジャパン」の初戦を見るために東京国立競技場に集まった。
- 日本サッカー協会は,「韓国や中国といった相手に対し,銅メダルはすばらしい成績である。これらの国は,強化に力を入れてきた。女子日本代表には,アマチュア規定の範囲内で,できるだけ多くのボーナスを出したい。」と語った。
- 日本代表のジーコ監督,初勝利
- 4月16日,韓国のソウルで行われたサッカーの国際親善試合で日本代表チームは劇的な決勝点をあげた。
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