年代別日本代表
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1988年、日本ユース代表としてAFCユース選手権に出場。予選ではハットトリックを記録するなど活躍し、日本ユースの4大会ぶりの本大会出場に貢献。決勝大会は、第1戦で韓国に敗れ、第2戦のUAE戦では、前半は相手を圧倒するも無得点。後半に2点を奪われると、終了間際に澤登がフリーキックを直接決めて1点差とするも、反撃及ばず敗戦。最終戦を残して日本の敗退が決まり、1989年にサウジアラビアで開催されたワールドユース選手権出場はならなかった。澤登は今大会6試合出場5得点をマークした。 1989年、1992年バルセロナオリンピックを目指す五輪チームが立ち上げられ、日本代表メンバーに選出された。1989年~1990年は、合宿や海外遠征を行い、1991年の6~7月にかけて、バルセロナ五輪・一次予選が開催された。当時赤色だった代表ユニフォームに背番号10番付け全6試合にフル出場。澤登はキャプテンとしてチームを牽引。初戦では開始27秒で得点という記録も残した。日本は5勝1敗で予選1位通過を果たした。 一次予選を突破した日本は、1992年の1月に開催される最終予選に向けて、A代表の監督を務めていた横山謙三を総監督に据え、山口芳忠監督と二頭体制で五輪代表のレベルアップを図った。しかし、初めて結成された23歳以下の日本代表ということもあってか、強化試合は日程が厳しく毎回参加選手が変わり、練習する時間も無く、チームとして力を発揮できずに終わった。さらには、1次予選で7得点(内4得点が決勝点)をマークした山口敏弘が、所属チームの不祥事で出場停止処分となり、山口と2トップを組んでいた「アジアの虎」こと服部浩紀も調子を落とし最終的にメンバーから外れ、前線の構成が大きく変わるなど、日本は万全ではない状態で最終予選に臨むこととなった。澤登は最終予選もキャプテンを務め、3-5-2の布陣の中盤でプレー。後にA代表でも活躍する小村徳男、相馬直樹、名良橋晃、名波浩らと共に中2日5試合を戦った。日本は、試合の主導権を握ってもゴールが奪えず得点力不足に悩み、試合終盤で耐え切れず失点するなど、第3戦のバーレーンにこそ大勝したものの、1勝2敗1引き分けと、なかなか勝ち点を積み重ねることができなかった。他力ながら五輪出場の可能性をわずかに残した最終戦のカタール戦では、相手のスピードに乗った攻撃に苦しめられるが、中盤では優位に立ってこれに応戦する。しかし、後半立ち上がりに失点。反撃を試みるが得点にはつながらず敗戦。混戦となった最終予選は6チーム中5位という結果に終わった。一時は勝ち抜けに必要な3位内に入った日本であったが、「引き分けでもOK」という有利な状況になった第4戦の韓国戦、防戦一方の日本は、前線から相手選手を追い回し、DF石川康を負傷で欠きながらも後半終了間際まで0-0で耐えたが、88分に痛恨の失点を喫し惜敗したのが致命傷となり、24年ぶりの五輪出場は果たせなかった。後のインタビューで澤登は、「(大会を振り返って)純粋に力不足それだけです。個々のレベルが低すぎました」と語っている。澤登はバルセロナ五輪予選11試合出場3得点。全試合に出場し、セットプレー等からアシストをマーク。バルセロナ五輪日本代表から唯一人、翌年に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア予選で試合出場を果たした。また、バルセロナ五輪・最終予選で中盤でコンビを組んだ永井秀樹とは4年後、クラブチームで再びコンビを組み、清水エスパルスを初タイトルへと導いた。
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年代別日本代表
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詳細は「卓球ジュニア日本代表」を参照 詳細は「卓球ホープス日本代表」を参照 通常日本代表と呼ばれるものは、日本卓球協会所属選手における最強メンバーによるいわゆるフル代表を指すが、その予備軍とされるチームも存在する。卓球では18歳以下のジュニア日本代表や12歳以下のホープス日本代表といった年齢別のナショナルチーム代表が活動している。
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年代別日本代表
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国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表(国際Aマッチの成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。 オリンピック日本代表 - 1992年バルセロナオリンピック以降、オリンピックのサッカー競技の予選および本大会では、原則として23歳以下の選手に限るという制約が設けられた。このため予選期間にはU-23日本代表(前年に予選が行われる場合はU-22日本代表)と呼ばれることが多いが、本大会ではオーバーエイジ枠を含むことができるため、オリンピック日本代表という呼称が用いられる。詳細はオリンピックサッカー日本代表選手を参照。年齢に制限は無く、アマチュアのみに出場が許された1968年のメキシコシティ大会でオリンピック日本代表は銅メダルを獲得した。 参照:オリンピックのサッカー競技・日本代表選手、U-23サッカー日本代表 ユニバーシアード日本代表 - 大学生のスポーツ大会であるユニバーシアードのサッカー競技に派遣される日本代表を指す。選考範囲は原則として大学または大学院在学中、ならびに大会の前年に大学または大学院を卒業した選手に限られる。その他の大会で同じ選考範囲で選手構成がなされる場合は、学生日本代表や大学日本代表、もしくは学生選抜や大学選抜と断りを入れるなどをして呼ばれることが多い。ユニバーシアード日本代表は、1995年の福岡大会で初優勝、その後2001年北京大会、2003年大邱大会および2005年イズミル大会で3大会連続、2011年深圳大会、2017年台北大会、2019年ナポリ大会と合計7回の優勝を果たしている。 参照:ユニバーシアードサッカー日本代表 U-21日本代表 - 出場資格が21歳以下であるトゥーロン国際大会などに派遣される日本代表を指す。また、アジア競技大会サッカー競技では2002年釜山大会より、出場資格がオリンピックと同じ23歳以下(オーバーエイジ可)となっているものの、同大会をその2年後のオリンピック日本代表の強化試合と位置付けて、あえて21歳以下の代表を編成する場合もある。 U-20日本代表 - 出場資格が20歳以下であるFIFA U-20ワールドカップ(旧:ワールドユース)、およびその予選を兼ねたAFC U-19選手権(旧:AFCユース選手権)に派遣される日本代表を指す。AFC U-19選手権についてはU-20ワールドカップの前年に開催されることから、その時点ではU-19日本代表と呼ばれる。ユース日本代表とも。高校を卒業しJリーグクラブに加入したばかりの若手選手を中心に編成されるのが一般的だが、大学生やU-17世代が加わることもある。1999年のワールドユース選手権では、男女、年代の別を問わないすべてのカテゴリーを通じた「サッカー日本代表」として初めて、FIFA主催の世界大会で準優勝の座に立った。 参照:U-20サッカー日本代表 U-17日本代表 - FIFA U-17ワールドカップ、およびその予選を兼ねたAFC U-16選手権に派遣される日本代表を指す。2008年大会から大会名が変更になった。 参照:U-17サッカー日本代表
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