日本代表と五輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:26 UTC 版)
一方日本代表(全日本)では、1955年に東京アジア大会に向けた若返りの一環として八重樫茂生とともに若手の一人としてB代表に選出され、1955年メルボルンオリンピックアジア予選でA代表に初出場すると、その後は代表の常連となり殆どの試合に出場した。長沼健が監督を務めていた1960年から64年までキャプテンとなり守備の中心選手だった。 メルボルン五輪アジア予選は韓国代表と2戦、初戦は岩淵のゴールなどで2-0で快勝、2戦目は逆に0-2で負け、抽選の上でメルボルン五輪出場を決めた。当たりくじを引いた後、みんなで万歳して喜んだと回想している。1956年メルボルン五輪では地元オーストラリア代表相手に0-2で負けてしまった。小沢はこの敗退が、精神論からの脱却・科学的な分析など日本サッカーの近代化への転機となった、と回想している。 以降、小沢が主将を務めていた日本代表はしばらく結果はついてこず、東京アジア大会・ローマ五輪とアジア予選で敗退している。このローマ予選敗退が日本サッカー協会に危機感を抱かせ、デットマール・クラマー招集に至った。 1964年東京オリンピック時、代表の主将であり出場が予想されたが、若返りすべきとのクラマーの進言で、最終的に落選となった。この際の代表スタッフ会議は大激論となっており、当時のメディア関係者の間では予想外の落選と見られていた。五輪では日本のGL第1戦対アルゼンチン代表戦の解説を要請され、複雑な感情のまま試合を見ていたが仲間たちの激闘に感激し試合後のロッカールームに訪れ彼らとたたえたという。 この落選への反骨が日本サッカーリーグ(JSL)時の快進撃に繋がることになる。
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