樺太
樺太
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樺太(からふと)またはサハリン(ロシア語: Сахалин)は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含まれる。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は72,492km2で、北海道(78,073km2)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。
注釈
- ^ 小樽航路のみ休止中[9]。
- ^ 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
- ^ ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。
- ^ 同時期の欧州オランダには、榎本武揚や澤太郎左衛門・赤松則良・西周[要曖昧さ回避]ら幕府の留学生団がいたが、竣功した開陽丸と共に同年10月25日にオランダを発っている。
- ^ 樺太も含めた場合、北海地方という。
- ^ 但し、日本外務省は、樺太は日露和親条約で日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)
- ^ 但し、『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページでは「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされたと記載。
出典
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- ^ サハリン州憲章[リンク切れ](1996年施行)第3条第1項によれば、「サハリン州の領土には、サハリン島とそれに隣接する領土、小クリル列島を含む千島列島の領土、ならびにロシア連邦の国際的条約と連邦法によってその境界が定められる内水と領海が入る。」と規定されている。
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樺太
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樺太庁(南樺太)では、1915年(大正4年)6月28日公布・同年8月1日施行の樺太ノ郡町村編制ニ関スル件(大正4年勅令第101号)により町村ができたが、内地の町村と異なり自治権はなかった。 1929年(昭和4年)3月27日公布・同年7月1日施行の樺太町村制(昭和4年法律第2号)により、従来の町村はそのまま新制度下の町村に移行した。町村は自治権を得て、北海道と同様の一級町村と二級町村の区別ができた。 1937年(昭和12年)3月23日公布・同年6月25日施行の樺太市制(昭和12年法律第1号)により、豊原町が豊原市となった。
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樺太
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「国鉄C12形蒸気機関車」の記事における「樺太」の解説
恵須取鉄道(未成線、恵須取 - 塔路間)の建設用に1941年(昭和16年)に用意されたC12 1 - 4のうち、導入後に樺太庁鉄道に譲渡されたC12 1は1943年(昭和18年)4月1日、樺太の内地編入に伴い樺太庁鉄道が鉄道省に編入されたためC12 265となり、残りの3両 (C12 2 - 4) は1944年(昭和19年)9月1日の恵須取鉄道の鉄道省への譲渡に伴い買収されてC12 271 - 273となった。このほか、大谷 - 内渕間の樺太人造石油内渕鉄道に1両が製造されてC1211となり、のちにC121に改番されている。これらは1945年(昭和20年)、日本が太平洋戦争に敗戦するとともにソビエト連邦に接収され、以後の消息は明らかでなく、C12 265, 271 - 273は書類上は1946年(昭和21年)3月31日付で廃車となっている。
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樺太
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樺太侵攻においては8月22日に樺太からの引揚船小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸などを国籍不明の潜水艦が攻撃し沈没、1700名以上が死亡した三船殉難事件が発生した。国籍不明の潜水艦はのちにソ連軍のL-19であることが発覚した。なおソ連軍の潜水艦L-19も原因不明だが沈没している。
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樺太
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「旧外地の高等教育機関」の記事における「樺太」の解説
以下の学校はソ連対日参戦により廃校となった。 樺太医学専門学校 樺太師範学校 樺太青年師範学校
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樺太
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樺太島歌 - 1938年(昭和13年)制定 作詞:本間一咲 作曲:山田耕筰 樺太庁の庁歌。
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(旧)樺太
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「都道府県関連の楽曲一覧」の記事における「(旧)樺太」の解説
過去の庁歌 樺太島歌 - 1938年(昭和13年)制定作詞:本間一咲 作曲:山田耕筰 旋律は著作権保護期間満了。樺太庁で内地の県民歌に相当する庁歌として制定されたが、1949年(昭和24年)に行政組織としての樺太庁と共に廃止。札幌市の北海道庁旧本庁舎2階にある樺太関係資料館のパネル展示で紹介されている。
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樺太
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「ソビエト連邦による戦争犯罪」の記事における「樺太」の解説
詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照 終戦後の1945年8月16日早朝、第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護下で塔路港に上陸を開始、塔路の町も焼失。阿部庄松塔路町長らはソ連海軍歩兵との停戦交渉に向かったが、武装解除と住民の呼び戻しを要求されて人質に取られ、後に射殺された遺体となって発見された。上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出した。上恵須取の町も8月17日午後に空襲を受けて焼失。8月20日の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始。日本軍は8月16日に郊外へ兵を引き上げ武装解除待ちの状態であり、市街地で攻撃目標にされたのは民間人だった。ソ連軍は町長以下町の重役たちを占領当日海岸に連行し銃殺。町長は重傷だったが辛くも生還することができたという。日本軍が派遣した停戦軍使らも射殺される異常事態であった。また、真岡近郊では裸の若い女性の遺体が転がっているのも目撃されており、真岡郵便電信局事件も発生。8月22日未明、知取町で停戦が成立していたにもかかわらず豊原も白昼に空襲を受けた。豊原駅には白旗が掲げられ、避難民があふれる広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も攻撃され100名以上が死亡、400戸が焼失。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った。同月22日にはソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属のL-19とL-12の2隻の潜水艦が、避難民を乗せた引き揚げ船を雷撃し、1700名以上が殺害された(三船殉難事件)。国籍を秘した潜水艦は沈没した船から海に投げ出された人々に機銃掃射でとどめを刺した。民間人の死者は三船殉難を含め3,500-3,700人と推定されるが、正確な人数は不明 。
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樺太
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詳細は「50度線」を参照 1905年から1945年まで、北緯50度線は大日本帝国樺太庁とソビエト連邦サハリン州との間の国境となっていた。第二次世界大戦終戦後は樺太(サハリン)全土をソビエト連邦(ソ連崩壊後はロシア)が実効支配している。
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樺太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 09:08 UTC 版)
「旧制中等教育学校の一覧 (旧外地)」の記事における「樺太」の解説
樺太の旧制中等学校は、ソ連対日参戦およびソ連軍の樺太占領によりすべて壊滅・廃校となった。 以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもので、北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)の記載を主に参考とした。
※この「樺太」の解説は、「旧制中等教育学校の一覧 (旧外地)」の解説の一部です。
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