樺太 樺太の概要

樺太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 08:40 UTC 版)

樺太島
所在地 北樺太: ロシア
南樺太(北緯50度以南):帰属未定(実効支配: ロシア)
所在海域 オホーツク海日本海
座標 北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積 76,400 km²
最高標高 1,609 m
最高峰 ロパチン山
最大都市 ユジノサハリンスク
(旧豊原市
プロジェクト 地形
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樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

概要

1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、南半分(南樺太)を「樺太(カラフト)」として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリンロシア語Сахалин」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された[1]

第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。

戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。

名称

「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カㇻ・プㇳ・ヤ・モシㇼ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。[要出典]これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる[2]。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[3]北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる[4]

古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)の史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[5]1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[6]

1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[7]。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島として描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる[8]

「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ
転写:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。

中国語ではの時代の呼び名である「庫頁島」(くげちとう、クーイェダオ、由来は苦夷)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。

地理

樺太と周辺の地形
樺太の白地図
樺太と周辺の地図

樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である(北海道本島の面積は77,981.87km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前の氷期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置している鵞小門岬(がおとみさき、別名:エリザベス岬、エリザベート岬とも)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。

南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。

樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は黒龍水道と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。

東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。

樺太の気候亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季湿度が高く、が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬は日本海側で雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。南西部は対馬海流暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。オホーツク海側では乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。また、夏と寒暖の差は大きい。海洋の影響が大きい南樺太と比べ、大陸の影響を受けやすい北樺太は特に気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。

植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類爬虫類などの分布が異なっている。

樺太は石油天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。

地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

主な山岳

主な湖沼

主な河川

島嶼

民族

ピウスツキが撮影した樺太アイヌ(1900年代)
南樺太

樺太アイヌのほか、北東部(幌内川[要曖昧さ回避]の流域、敷香郡や散江郡など)のウィルタニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌ(樺太アイヌは当初は樺太土人とされていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人となった)を除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)はオタスの杜に集住し戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留せざるを得ない事情を持った者を除き北海道以南に追放されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である。

北樺太

ニヴフのほか、東部(幌内川[要曖昧さ回避]とロモウ川の流域)にはウィルタも居住。

ギャラリー

南樺太

王子製紙豊原工場。

北緯50度線以南を指す南樺太はアイヌの居住地で、ニヴフウィルタは50度線に近い東岸の幌内川流域周辺のみに分布する。日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業農業林業製紙[要曖昧さ回避]パルプなどの工業石炭石油採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市ユジノサハリンスク)。

1995年(平成7年)より稚内 - コルサコフ - 小樽[注釈 1]を結ぶ日露定期航路が開設されており、稚内港より船で渡航が可能である[9]。なお、稚内とコルサコフ間に定期航路が就航したのは50年ぶりである[9]

石炭産業

1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた[注釈 2][10]

亜庭湾

樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた[要出典]

林業と製紙業

1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松椴松パルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙富士製紙樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。

森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船舶が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた[11]

新聞

日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である[要出典]

ラジオ放送

1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。

銭湯

島民の証言によると、豊原には数軒以上の銭湯があった[要出典]

樺太出身の有名人

交通

稚内桟橋駅から大泊港駅まで、稚泊連絡船で約8時間。

遺骨

熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道侵攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている[要出典]

摂政宮裕仁親王の行啓

1925年(大正14年)8月、皇太子裕仁親王(当時は摂政、後の昭和天皇)が、樺太に行啓した[12]

御召艦は戦艦長門であり、高松宮宣仁親王及び久邇宮家の朝融王(当時、皇太子妃良子女王の実兄で皇太子の義兄)も同乗した。

樺太犬

樺太犬は日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。

カラフトマス(樺太鱒)

カラフトマスは、缶詰の原料として利用されている。

マリモ

樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。

フレップ

フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。

競馬

日本時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。


北樺太(北サハリン)

北緯50度線以北を指す北樺太はニヴフの居住地で、東岸のロモウ川流域にはウィルタも分布する。樺太・千島交換条約以来のロシア領であり(条約以前は領有未確定で日露混合居住地)、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月から1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方に編入され、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石、アイヌ語由来。ニヴフ名:イドイー)である。オハ油田サハリンプロジェクトサハリン1サハリン2)が代表的な石油産業である。


注釈

  1. ^ 小樽航路のみ休止中[9]
  2. ^ 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
  3. ^ ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。
  4. ^ 同時期の欧州オランダには、榎本武揚澤太郎左衛門赤松則良西周[要曖昧さ回避]ら幕府の留学生団がいたが、竣功した開陽丸と共に同年10月25日にオランダを発っている。
  5. ^ 樺太も含めた場合、北海地方という。
  6. ^ 但し、日本外務省は、樺太は日露和親条約で日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)
  7. ^ 但し、『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページでは「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされたと記載。

出典

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  67. ^ 譚璐美 (2021年10月18日). “中国が考える本当の領土?「国恥地図」実物を入手”. 東洋経済オンライン. オリジナルの2021年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211018055711/https://toyokeizai.net/articles/-/462344?page=4 
  68. ^ 1 中国残留邦人の状況 (平成30年8月31日現在)”. 2018年9月23日閲覧。


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