大粛清
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大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор)とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代後半にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧を指している。スターリンからすれば、粛清とは、党の浄化を意味した[1]。
- ^ a b c d マーティン・メイリア、白須英子訳『ソヴィエトの悲劇』(草思社、1997)上巻、p397-398.
- ^ 「スターリンの大テロル - 恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相 -」(O.フレヴニューク、富田武訳、岩波書店、1998年)
- ^ 「新たにシベリア抑留と大テロルを問う:バイカル湖の丘に立ちて恒久平和を祈る」(石井豊喜、日本文学館、2008年)
- ^ Seventeen Moments in Soviet History
- ^ 「The great terror:Stalin's purge of the thirties」(Robert Conquest, 1968)
- ^ 「The voices of the dead: Stalin's great terror in the 1930s」(Hiroaki Kuromiya, 2007)
- ^ 『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、p242
- ^ アーチ・ゲッティ・オレグ・V・ナウーモフ編「ソ連極秘資料集 大粛清への道」(大月書店)p.622
- ^ スティーヴン・F-コーエン、塩川 伸明 訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命―政治的伝記、1888-1938年』(1979未來社)p.421
- ^ ワット 1955, pp.171-172
- ^ a b ワット 1955, p.172
- ^ ワット 1955, pp.172-173
- ^ 「陰謀説の嘘」デビッド・アーロノビッチ著、佐藤美保・訳、PHP研究所、2011年
- ^ ヤルタ会談の際にもスターリンは「やつら(日本人全員を指す)はどうせまた這い上がってくる」というコメントを残している。
- ^ a b c 「『外敵つくり団結』変わらぬ露―1937年『エジョフ機密書簡』が示すもの」産経新聞、2014年11月20日号8面。
- ^ a b c d e 石井規衛「補説8チェカーと赤色テロル」『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、1997年,p84-85.
- ^ a b c 『世界各国史22 ロシア史』p.330-332.
- ^ a b c d マーティン・メイリア(草思社、1997)上巻、p390-391.
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- ^ a b c 『世界各国史22 ロシア史』p.332-335.
- ^ a b c d e f g h 『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、p.206-214.
- ^ ロイ・メドヴェージェフ『歴史の審判に向けて 上』2017年、p332.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『世界歴史体系 ロシア史3』山川出版社、p.217-227.
- ^ この時はまだヤゴーダ派の多くは引き続きNKVDの職務にあたっていた
- ^ 後に自らも粛清された際にエジョフは弁論の中で「私は1万4000人のチェキストを粛清しましたが・・・」などと述べている
- ^ スターリン「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」(共産党中央委員会総会報告、1937年3月3日)J.V. Stalin, Defects in Party Work and Measures for Liquidating Trotskyite and Other Double Dealers:Report to the Plenum of the Central Committee of the RKP(b), March 3, 1937
- ^ コンクエスト、白石治朗訳『悲しみの収穫』恵雅堂出版、2007年、,p444-452.
- ^ ネイマーク『スターリンのジェノサイド』,p116.
- ^ a b ネイマーク『スターリンのジェノサイド』,p.117
- ^ a b c d ネイマーク『スターリンのジェノサイド』,p118-119.
- ^ “Список лиц // 14 августа 1937 года”. stalin.memo.ru. 2021年6月26日閲覧。
- ^ THE NKVD MASS SECRET NATIONAL OPERATIONS (AUGUST 1937 - NOVEMBER 1938), sciencespo.fr, 20 May, 2010
- ^ a b ネイマーク『スターリンのジェノサイド』,p.126.
- ^ Soyfer, Valery N. (1994). Lysenko and The Tragedy of Soviet Science. New Brunswick, NJ: Rutgers Univ. Press. ISBN 0813520878
- ^ ノーマン・Ⅿ・ネイマーク『スターリンのジェノサイド』根岸隆夫訳 みすず書房 2012年,p.7.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「大粛清」(コトバンク)
- ^ 百科事典マイペディア「大粛清」(コトバンク)
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、2017年5月12日 11:49:27 UTC閲覧。
- ^ “Victims of the Soviet Penal System in the Pre-war Years”. sovietinfo.tripod.com. sovietinfo.tripod.com. 2020年8月29日閲覧。
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、2017年5月12日 11:53:55 UTC閲覧。
- ^ a b c ネイマーク『スターリンのジェノサイド』,p.120.
- ^ a b 昭和十三年の国際情勢(一九三八年) p.331- 赤松祐之 1939年
- ^ 明と暗のノモンハン戦史 秦郁彦 2014年
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ Baberowski, Jörg; Doering-Manteuffel, Anselm (2009). “The Quest for Order and the Pursuit of Terror”. Beyond Totalitarianism: Stalinism and Nazism Compared: 213 .
- ^ Ronald G.Suny,Stalin and His Stalinism: Power and Authority in the Soviet Union,in Stalinism and Nazism:Dictatorships in Comparison,Edited by Ian Kershaw, Moshe Lewin,Cambridge University Press,1997,p.50.
- ^ [3]ロシア最高裁、人権団体の解散を命令 旧共産党による被害者追悼の団体、BBC(2021年12月29日)
- ^ スターリン大粛清80年、ロシアで追悼式毎日新聞 (2016年11月1日)
- ^ 「スターリンらの粛清、追悼碑 モスクワで完成式典」『朝日新聞』朝刊2017年11月1日
- ^ 外部リンク webcache.googleusercontent.comからのアーカイブ、12 May 2017 12:06:12 UTC閲覧。
- ^ また一説によると実際に1937年の春から夏ころにかけてトゥハチェフスキーを国家元首にかついでスターリンを追放しようという陰謀が正統派コミュニスト・党官僚・軍人らの間であったという(クルボーク事件)(亀山郁夫著『大審問官スターリン』(小学館)p.160)
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01003869100、昭和04年「密大日記」第3冊(防衛省防衛研究所)」 標題:機密費使用に関する件[リンク切れ]
大粛清
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「ラヴレンチー・ベリヤ」の記事における「大粛清」の解説
1938年8月にスターリンはNKVDの議長代理としてベリヤをモスクワに送り込んだ。NKVDはソヴィエト連邦の治安と警察権力を統轄する組織であった。当時NKVDは、内務人民委員部(1934年にGPUはここに統合された)の長官ニコライ・エジョフのもと、数百万人もの人々に及んだ大粛清として知られる「ソヴィエト連邦と人民の敵(とみなされた者)」の告発活動に従事していたが、粛清が余りに過剰であったため、ソヴィエト国家、経済、軍隊の基盤にダメージをもたらした。スターリンによる大粛清の最中、スターリンは粛清の実行者であったエジョフを遠ざけるようになり、代わってベリヤが1938年8月22日にエジョフの内務人民委員代理に任命され、徐々にエジョフに代わって粛清の指揮をとるようになる。11月25日には正式にエジョフが内務人民委員を解任されてベリヤが内務人民委員となり、エジョフやその配下の機関員たちを粛清して、大粛清の総仕上げにあたった。スターリンは、(エジョフによる)粛清の行き過ぎを抑える決定を下し、同年9月にベリヤがNKVD内の連邦治安管理局(GUGB)の長官に任命され、ついで11月にはエジョフの後任としてNKVDの議長となった(エジョフは1940年にベリヤの部下に尋問され、銃殺刑に処された)。またNKVDの人員たちも粛清され、人員の半数がコーカサス出身のベリヤに忠実な人物と入れ替わった。 ベリヤの名は大粛清に密接に結び付けられているが、彼が実際にNKVDの議長となったときは、弾圧が緩和された頃であった。ベリヤ着任後に10万人以上の人々が労働キャンプから解放されると共に、大粛清に不正と行き過ぎがあったこと、その責任がエジョフに帰せられることが公式に認められた。ただし、この粛清緩和はあくまで相対的なものであり、その後も逮捕と処刑は継続された。1939年3月にベリヤは政治局員候補となり、最高指導者の1人となっていた。 1940年に粛清のペースが再び加速され始めた。この時期のベリヤはポーランドとバルト三国の占領及び同国の人々の強制移住を指揮した。1941年には内務人民委員部の議長となっており、当時のソ連の警察官僚システムにおいて最高の地位にあった。同年2月に彼は人民委員会議副議長となり、同年6月にナチス・ドイツがソ連に侵入すると、連邦国防委員となった。第二次世界大戦中の彼は主に国内問題に当たり、NKVDの労働キャンプに収容されていた数百万もの人々を、戦時生産活動に使役した。彼はマレンコフと共に武器・航空機・航空機エンジンの生産を監督したが、これがベリヤとマレンコフとの同盟の始まりであり、後に大きな意味を持つことになる。 1941年2月には人民委員会議副議長(副首相)に就任し、独ソ戦中もこの職にあった。彼の配属下にあった部隊は前線で脱走兵の処刑やスパイの摘発などで力を奮った。また、北カフカス地方に赤軍とNKVDを派遣しクリミア・タタール人その他国内の対独協力の嫌疑をかけられたドイツ系少数民族の強制移住を実行。その過程で多くの死者を出し、足手まといになる住民は問答無用に殺害してスターリンから要求された期限を厳守した。さらに、彼は悪名高いカティンの森事件の首謀者であり、シベリア抑留など外国人捕虜を収容する収容所を管轄する最高責任者でもあった。対ドイツ戦終結後の1945年7月9日にソ連邦元帥の階級を得て、翌1946年3月には党政治局員となる。 1944年にベリヤはドイツ軍に協力したとされる、または協力すると疑われた様々な少数民族の処理にあたった。これらの多くの人々はソ連領の中央アジアに移住させられた。同年12月にソ連の原子爆弾開発プロジェクトの監督に当たることになった。この関係で彼はアメリカの核兵器プログラムへの諜報活動を開始し、その結果ソ連は核兵器開発の技術を得て、1949年には核兵器の開発と実験を行うに至った。 しかし彼の最も重要な貢献(そして恐らく彼がこのプロジェクトを課せられた主な理由)は必要な労働力の捻出であった。実際の核開発プロジェクトは、有能な核物理学者グループだけではなく、しばしば危険を伴う様々な作業のために膨大な労働力を必要とした。強制収容所はウラン採掘・ウラン加工施設の建設と稼動・核実験施設の建設のために数十万人もの労働力を提供した。NKVDもこのプロジェクトの安全性と機密保持の確保にあたった。1945年にソヴィエト警察の階級システムが軍隊システムに変更されたことに伴い、ベリヤの階級もソヴィエト連邦元帥に相当するものとなった。彼は軍隊の指揮権を持つことは無かったが、戦時生産の組織化を通じて、第二次世界大戦に於けるソ連の勝利に重要な寄与をすることとなった。さらに東ヨーロッパ系の警察組織もベリヤの支配下に組み込まれ、ベリヤの警察権力は絶頂を迎えた。
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大粛清
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「クリメント・ヴォロシーロフ」の記事における「大粛清」の解説
その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員に任命。1921年、クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加し、党中央委員に選出される。1921年~1924年まで北カフカーズ軍管区司令官を務める。1925年、ミハイル・フルンゼが死去し、後任の陸海軍人民委員、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌1926年には政治局員となった。 スターリンの確かなおべっか使いとして、1930年代の大粛清ではいわばスターリンの執行者として中心的な役割を果たす。スターリンによってそうするよう求められると、ヴォロシーロフ自身の軍の同僚と部下たちの多くを告発した。また、ヴォロシーロフの軍における威勢の強大化は、元帥のミハイル・トゥハチェフスキーの粛清と表裏一体であった。ヴォロシーロフは、ミハイル・オストロフスキーのような追放された元ソビエト将校・外交官がソ連に自発的に戻るよう親書を書いたりさえしており、彼らを「当局から懲罰を科される危機にはない」と安心させた(実際には懲罰が科された)。
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大粛清(だいしゅくせい)
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「食糧人類-Starving Anonymous-」の記事における「大粛清(だいしゅくせい)」の解説
山崎さおりが脱走したことで巨大生物たちが施設側に課した「罰」。職員300人を幼生体の生き餌として差し出すというもので、これは職員総数の半分にものぼった。この大粛清によって当時の所長であった新太郎の父親の純一も死亡しており、新太郎が巨大生物駆逐を決意するきっかけとなった。
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