現代思潮新社
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現代思潮新社 | |
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正式名称 | 株式会社現代思潮新社 |
現況 | 2025年に廃業 |
種類 | 株式会社 |
市場情報 | 非上場 |
出版者記号 | 329 |
取次コード | 1909 |
法人番号 | 8010001002458 |
設立日 | 1957年 |
本社郵便番号 | 〒170-0002 |
本社所在地 | 東京都豊島区巣鴨1-11-2-806 |
外部リンク | http://www.gendaishicho.co.jp/ |
株式会社現代思潮新社(げんだいしちょうしんしゃ)は、日本の出版社。1957年(昭和32年)に創業、2025年9月末に廃業となった。
概要
1957年に石井恭二により現代思潮社が創業され「良俗や(戦後民主主義者や進歩的文化人のような)進歩派と逆行する『悪い』本を出す」[1]をモットーに、石井の親友である東京大学教員の森本和夫をブレーンとし、東京大学文学部でマルキ・ド・サドを卒業論文としたこともあり、白眼視されアカデミズムから疎外されていた澁澤龍彦を起用し、サドの『悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル』を最初の一冊目として刊行した[2]。
その後も「既存左翼」や「芸術良民」が眉をひそめるような本を刊行し[3]、とりわけ当時の左翼にとってタブーだったレフ・トロツキーの全集を、対馬忠行編で1961年(昭和36年)から刊行した[4]。更にニコライ・ブハーリンやローザ・ルクセンブルクらの著書を刊行。これら反スターリン主義の古典、埴谷雄高、吉本隆明、武井昭夫らの新左翼系の思想書籍を始め、ドイツやフランス、そして澁澤の初期作品などの著作を刊行した。
1961年(昭和36年)には、清水幾太郎の責任編集で、清水が主宰する現代思想研究会の機関誌『現代思想』を刊行。研究会メンバーでブントの香山健一や北小路敏らや反安保の評論家らが寄稿。翌1962年(昭和37年)には『白夜評論』を石井の編集で刊行している。これはモーリス・ブランショやベルトルト・ブレヒトの翻訳など哲学、文芸色が濃いものだったが、元ブントで当時は政治結社「犯罪者同盟」の最高幹部だった平岡正明が数度寄稿し、最終号である第7号(12月号)では、サド裁判(悪徳の栄え事件)の報告と谷川雁の大正鉱業闘争への連帯の表明が中心となるものだった[5]。
赤瀬川原平からは、内容の難解さと装丁にちなみ「黒難解」と呼ばれていた。なお「白――」の方は、みすず書房刊行書籍を指す。
古典文庫シリーズ
社主・石井の「岩波文化・講談社文化打倒」のモットーの下[6]、1967年(昭和42年)より「古典文庫」のシリーズを創刊する。このシリーズは澁澤龍彦が作成したリストに則るもので、埋もれた古典を、岩波のような、大手出版社が出すのを躊躇する古典が集められたものだった[7]。
翻訳は、各地の学者が個人的に既に行っていたものも多く、彼らから歓迎を受け、スムーズに作業が進むかと思われたが、翻訳文学界の重鎮らの嫌・現代思潮社/澁澤感情から、若い学者に対して圧力をかけられ、翻訳の提供を妨害されるなどの苦労もあったという[8]。
その後、日本古典の「新撰日本古典文庫」シリーズを刊行。古典のなかでも、『古事談』『陸奥話記』等の地味な作品の翻刻を刊行している。1970年から内村剛介を編集主幹に招き、ロシア文学を主要なテーマとする文芸誌『初原』(〜1971年)と「ロシア群書」シリーズ[9]を発行した。
美学校
1969年(昭和44年)に美学校を設立し、前衛芸術の拠点にもなった。この時期は、先鋭的で刺激的なイメージから、社員募集に何百人もの若者が応募してきたという[6]。1975年(昭和50年)に、現代思潮社は学校経営から離れた。
現代思潮新社
1996年(平成8年)に石井が経営を離れ、2000年(平成12年)に、現代思潮新社と名称を改め再発足した。出版レーベル「エートル叢書」などで刊行された。また下記回想記を刊行した(本項も下記を参照)。
- 陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』現代思潮新社、2014年。ISBN 978-4-329-00490-1
2025年(令和7年)7月15日までに、同社ホームページで、社員一同名義による『廃業のお知らせ』を掲載し、「諸般の事情により」同年9月末に廃業すると発表した。また、この中で「かねてより石井恭二が念願としていた『出版社としての死滅』を成就、石井との約束を果たすことができ、万感の思いを感じております」と表明した[10][11]。
サド裁判
1959年に澁澤の訳でマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え・続』を刊行。1960年4月、警視庁生活安全部保安課によってわいせつ文書として押収され、1961年8月、石井と澁澤は起訴され、1969年10月までサド裁判は9年間にわたり法廷で争われた[12]。
東京行動戦線
1965年に石井の肝いりで、山口健二、川仁宏、笹本雅敬、そして当時現代思潮社の編集者だった松田政男などが結成した無政府主義者組織。同名の機関紙も発行していた。日韓条約反対デモでアンモニア瓶を投げつけようとしたかどで松田、山口らが逮捕され[13]、雲集霧散した。 この「東京行動戦線」の名が一躍一般に有名になったのは約10年後の連続企業爆破事件の捜査が報道された際で、「東京行動戦線」から派生した「ベトナム反戦直接行動委員会」(笹本らが結成)と「レボルト社」(松田らが結成)の中から東アジア反日武装戦線の斎藤和、佐々木規夫が割り出されて、逮捕につながった、と報じられたことによる[14]。
関連項目
脚注
- ^ “6月15日東京・中日新聞が『「現代思潮社」という閃光』の著者・陶山氏を紹介”. 2014年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年10月11日閲覧。
- ^ 陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』現代思潮新社、2014年、p72
- ^ 「現代思潮社」という〜 p76、「芸術良民」は川仁宏の弁
- ^ 「現代思潮社」という〜 p79
- ^ 「現代思潮社」という〜 資料[全目次]
- ^ a b 『でもわたしには戦が待っている 斎藤和の軌跡』 風塵社、2004年、p71 ISBN 4776300060
- ^ 後年に、いくつかは岩波文庫で改訂再刊された
- ^ 「現代思潮社」という〜 「古典文庫」回想 アカデミズムと鬼火 p105-116
- ^ 「現代思潮社」という〜、p119
- ^ 「出版社の現代思潮新社が9月末で廃業へ」『読売新聞』2025年7月16日。2025年10月5日閲覧。
- ^ 社員一同. “廃業のお知らせ”. 現代思潮新社. 2025年7月15日閲覧。アクセス不能
- ^ 澁澤龍彦 『サドは裁かれたのか サド裁判と六〇年代の精神分析』、「黄金時代」所収、薔薇十字社、1971年7月。
- ^ 「現代思潮社」という〜 社長が”雲隠れ”してー「東京行動戦線」事件
- ^ 門田隆将『狼の牙を折れ』小学館、2013年、p.131-137
外部リンク
- 現代思潮新社ホームページ - すでに閉鎖
- 現代思潮新社のX
- 現代思潮新社のページへのリンク