長いナイフの夜とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 長いナイフの夜の意味・解説 

長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 13:56 UTC 版)

長いナイフの夜(ながいナイフのよる、ドイツ語: Nacht der langen Messer  発音[ヘルプ/ファイル]、又は、レーム一揆レーム事件)とは、1934年6月30日から7月2日にかけて、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が行った突撃隊 (SA) などに対する粛清事件である。


  1. ^ a b c ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)168 - 169ページ
  2. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)166 - 167ページ
  3. ^ a b ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)170 - 171ページ
  4. ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)76 - 77ページ
  5. ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)78 - 79ページ
  6. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)176 - 177ページ
  7. ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)172 - 173ページ
  8. ^ 「ニュルンベルク軍事裁判 上」 ジョセフ・パーシコ著、原書房。ISBN 978-4562028641。250 - 251ページ
  9. ^ ウィリアム・L・シャイラー著、松浦伶訳『第三帝国の興亡』(東京創元社)1巻pp.428-429
  10. ^ 『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』33ページ
  11. ^ 『SSの歴史 髑髏の結社』134ページ
  12. ^ 『ヒトラー全記録』277ページ
  13. ^ 『ヒトラー全記録』278ページ
  14. ^ トーランド、231-232p



長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:26 UTC 版)

突撃隊」の記事における「長いナイフの夜」の解説

詳細は「長いナイフの夜」を参照 ヒトラーレーム以下突撃隊幹部粛清乗り気ではなかったが、レーム突撃隊幹部対立するところの多いプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング親衛隊ハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒらによって突撃隊粛清準備進められていた。国軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将もこの動き協力した突撃隊問題曖昧な態度をとるヒトラー粛清決意させるため、ヒムラーハイドリヒゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒレーム突撃隊の「武装蜂起」の証拠捏造行った。そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊による武装蜂起の噂が流れたヒトラー6月4日首相官邸レーム会談行った会談結果高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊多く部隊一カ月休暇入りレーム療養に入ることとなった。しかしヒンデンブルク大統領ブロンベルク国防相は、6月21日にノイデックの大統領私邸においてヒトラー対し、もし事態鎮静化できないなら、権限陸軍移して代わりに処置させると通告した最後通牒突きつけられた形のヒトラーは、この日に突撃隊粛清決意したという。6月25日までにヒトラーブロンベルクレーム以下突撃隊幹部粛清する旨を伝え国軍もその準備入った6月30日突撃隊員が起こした暴力事件についての会議を行うとして、突撃隊幹部バイエルン州バート・ヴィースゼー(ドイツ語版)に召集同日ヒトラーはバート・ヴィースゼーに赴いて粛清陣頭指揮を執った。ベルリンでもゲーリングヒムラーハイドリヒらの指揮によって粛清執行された。レーム、ハイネス、シュナイトフーバー、エルンスト、フォン・デッテンなどの突撃隊幹部粛清された。これは長いナイフの夜と呼ばれる

※この「長いナイフの夜」の解説は、「突撃隊」の解説の一部です。
「長いナイフの夜」を含む「突撃隊」の記事については、「突撃隊」の概要を参照ください。


長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:22 UTC 版)

ヨーゼフ・ディートリヒ」の記事における「長いナイフの夜」の解説

長いナイフの夜事件においてライプシュタンダルテは突撃隊幹部粛清実行部隊になることが予定され国防軍から事前に武器供給受けて武装強化進められていた。 粛清開始前日の1934年6月29日ディートリヒヒトラー命令ミュンヘン急行しヒトラー命令待ってカウフェリングでライプシュタンダルテの二個中隊と合流してエルンスト・レーム以下突撃隊幹部集められていたバート・ヴィースゼー (de) に向かったが、道中ぬかるみ部隊軍用トラックが動かなくなり、バート・ヴィースゼーへ向かうのに遅刻することになる。 6月30日午前6時半頃、結局ヒトラーディートリヒ達の到着待たず手勢親衛隊員のみでバート・ヴィースゼーの突撃隊幹部宿所突入しレーム達を逮捕したディートリヒ昼過ぎになってようやくミュンヘンナチ党本部にいたヒトラー前に姿を見せヒトラー到着の遅れを叱責しつつ、逮捕した突撃隊幹部のうち6人の銃殺ディートリヒ任せたディートリヒ午後6時突撃隊幹部収容されていたミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(de) に到着し、6人の処刑開始した。この時に処刑され突撃隊幹部一人アウグスト・シュナイトフーバーは「ゼップどうしたというのだ!我々は無実だ!」と叫んだが、ディートリヒは「貴官らは総統により死刑宣告された。ハイル・ヒトラー!」とだけ答えたという。ディートリヒ銃殺最後まで見ることなく途中で退席した。後に彼はこの時のことについて「シュナイトフーバーの順番回ってくる前に私は退散した。もうたくさんだった」と述懐している。 一方ベルリンに留まっていたライプシュタンダルテの隊員たちは、プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリング親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー親衛隊情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒらが選定した粛清対象者をリヒターフェルデ士官学校において銃殺した。7月1日にはディートリヒベルリンへ戻りベルリンでの銃殺隊の組織にあたり1934年7月1日ディートリヒ粛清恩賞親衛隊大将昇進した

※この「長いナイフの夜」の解説は、「ヨーゼフ・ディートリヒ」の解説の一部です。
「長いナイフの夜」を含む「ヨーゼフ・ディートリヒ」の記事については、「ヨーゼフ・ディートリヒ」の概要を参照ください。


長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 23:17 UTC 版)

テオドール・アイケ」の記事における「長いナイフの夜」の解説

1934年6月30日長いナイフの夜事件粛清突撃隊 (SA) 幕僚長エルンスト・レーム逮捕されミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(Justizvollzugsanstalt München in der Stadelheimer Straße)に投獄された。7月1日総統アドルフ・ヒトラーダッハウ所長だったアイケに対してレームの処刑命じたアイケ部下ダッハウ副所長ミヒャエル・リッペルト引き連れて、シュターデルハイム刑務所レーム独房訪れヒトラー指示に従ってレーム逮捕」を報じるナチ党機関紙フェルキッシャー・ベオバハター』紙と自決用の一発だけ弾の入った拳銃置いて独房から立ち去った。しかしいつまで銃声がしないため、アイケ達は再度レーム独房戻ったアイケはリッペルトにレームを撃つよう命じ、リッペルトがレーム向けて2発発砲した。撃たれレームが床に倒れながら「我が総統…。」と述べたに対してアイケは「貴方はもっと早くそれを言うべきだった…。」と返したという。レームにはまだ息があったので、もう一発胸に撃ち込んで殺害した(とどめを刺したのがアイケ・リッペルトのどちらであるかは不明)。

※この「長いナイフの夜」の解説は、「テオドール・アイケ」の解説の一部です。
「長いナイフの夜」を含む「テオドール・アイケ」の記事については、「テオドール・アイケ」の概要を参照ください。


長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/29 23:42 UTC 版)

エドムント・ハイネス」の記事における「長いナイフの夜」の解説

1934年6月28日突撃隊幹部粛清決意したヒトラーは、レームやハイネス他突撃隊幹部に対して会合提案してバート・ヴィースゼー(ドイツ語版)に呼び集めた6月30日5時30分頃にヒトラー自らが率い親衛隊到着しレーム共々逮捕された。 1946年エーリヒ・ケンプカ証言した内容によると、ヒトラー部屋乗り込んだ際、ハイネスは18歳青年同性愛最中であったという。ヒトラーは5分以内服を着るように命令し、他の部屋突撃隊幹部逮捕向かった。しかし、ヒトラー部屋戻ってもハイネスが服を着てなかったことに激怒しそのまま逮捕するように親衛隊員命令したという。また、ヒトラー同道していた突撃隊幹部ヴィクトール・ルッツェ日記よると、この際にハイネスはルッツェに「ルッツェ。俺は何もしていない助けてくれ」と叫んだが、板挟みのルッツェは「俺は何もしてやれない。俺は何もできない」と述べるしかなかったという。 逮捕後、ハイネスはレームら他の突撃隊幹部と共にシュターデルハイム刑務所ドイツ語版)へ投獄された。ヒトラーレームの処刑についてはしばらく悩み処刑翌日まで許可しなかったが、ハイネスら他の突撃隊幹部処刑許可した夕方ヨーゼフ・ディートリヒら「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」部隊員が現れアウグスト・シュナイトフーバー、ヴィルヘルム・シュミット(ドイツ語版)、ペーター・フォン・ハイデブレックハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ、ハンス・ハイン(ドイツ語版)の5名と共に中庭連れて行かれ銃殺された。 また、突撃隊中佐になっていた弟オスカー7月1日ラジオ放送で兄の処刑知り、ヴェルナー・エンゲルス(フランス語版突撃隊中佐と共にブレスラウ警察本部出頭し親衛隊逮捕された。2人は翌2日早朝ウード・フォン・ヴォイルシュにより銃殺された。

※この「長いナイフの夜」の解説は、「エドムント・ハイネス」の解説の一部です。
「長いナイフの夜」を含む「エドムント・ハイネス」の記事については、「エドムント・ハイネス」の概要を参照ください。


長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:59 UTC 版)

ヴィクトール・ルッツェ」の記事における「長いナイフの夜」の解説

突撃隊内で高まる反ヒトラー、反国防軍動きには関わらず1934年3月には副総統ルドルフ・ヘス突撃隊幕僚長エルンスト・レームの反ヒトラー言動報告した。またルッツェは国防軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将突撃隊内の情報提供者でもあり、自分が反国防軍運動とは無関係であることを報告し、またレーム署名入り蜂起計画書を提出した。そのためライヒェナウから「無害なルッツェが未来突撃隊幕僚長にふさわしい」などと評価された。 ルッツェの日記によると彼は6月22日ヒトラー召集され、そこでレーム以下突撃隊幹部粛清意思告げられ口外しないことを誓わされたという。粛清のあった6月30日、ルッツェはヒトラー同道して突撃隊幹部集めたバイエルン州バート・ヴィースゼーに向かいレーム以下突撃隊幹部逮捕居合わせた逮捕され突撃隊幹部エドムント・ハイネスはルッツェに助け求めたが、ルッツェは苦渋心境拒否したという。その後ミュンヘンの党本部行われた誰を処刑すべきかの会議においてヒトラーから意見求められたが、ルッツェは「自分誰が非難されるべきか、誰がレーム共犯なのか知りません」と答えて退席したという。

※この「長いナイフの夜」の解説は、「ヴィクトール・ルッツェ」の解説の一部です。
「長いナイフの夜」を含む「ヴィクトール・ルッツェ」の記事については、「ヴィクトール・ルッツェ」の概要を参照ください。


長いナイフの夜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:49 UTC 版)

ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「長いナイフの夜」の解説

詳細は「長いナイフの夜」を参照 1934年6月30日エルンスト・レーム突撃隊幹部対象とした粛清(長いナイフの夜)は、ゲーリングヒムラーハイドリヒの3名が主導してヒトラー働きかけたものであるレーム初め突撃隊幹部は、突撃隊ドイツ正規軍とすることを望んでおり、国軍軋轢強めていた。ヒトラー国軍掌握するためには突撃隊を何とかしなければならないとは考えていたが、レームとは古参幹部唯一「お前」と呼び合う対等の仲の同士であり、なかなか粛清踏み切れなかった。そこでハイドリヒ突撃隊謀反証拠捏造流布し、これをヒムラーからヒトラー伝えさせ、とうとう彼に粛清決意固めさせたのであったレームヒムラーとともにハイドリヒ長男クラウス代父になっていた。ヒムラー突撃隊粛清には賛同しつつもレーム個人については躊躇していたのとは対照的にハイドリヒ彼に同情を抱く様子全くなかったハイドリヒは、レーム粛清親衛隊突撃隊優位確立するチャンスとしか捉えておらず、ヒムラー説き伏せて抹殺決意固めたハイドリヒは、粛清対象リストアップする事実上最高責任者であった。彼はこれに乗じて突撃隊だけではなく党内外の反対分子まとめて粛清することを企み突撃隊以外の人々の名前も次々とリスト加えさせていった。なおハイドリヒは、粛清名簿中にゲーリングの息のかかったゲシュタポ局長ルドルフ・ディールスの名前も加えていたが、それに気づいたゲーリングが猛抗議し名簿から削除させている。 6月28日夜にヒトラーバイエルン州のバート・ヴィースゼーで療養中レーム電話入れ突撃隊員が起こした暴力事件について、30日にそちらで会議をしたいので幹部集めておくようにと指示出したヒトラーは、30日ミュンヘン飛びヨーゼフ・ディートリヒのライプシュタンダーテ アドルフ・ヒトラー指揮してレーム突撃隊幹部逮捕を自ら行った。突撃隊幹部らが次々と銃殺されていく中でもヒトラーレームだけは助命するつもりでいたが、ヒムラーらが強硬に処刑主張するのに折れ最終的に認めさせた。 一方ハイドリヒは、ヒムラーゲーリングとともにベルリンにあり、同地粛清指揮にあたっていた。ゲシュタポSD将校次々と呼びだしては独特な早口甲高い声次の命令繰り返した。「総統命令レームによる武装蜂起国家非常事態直ち行動せよ」。ベルリン北ドイツでの粛清多くハイドリヒ命令によって行われたエーリヒ・クラウゼナー、エドガー・ユリウス・ユング(ドイツ語版)、カール・エルンスト殺害などはハイドリヒ命令よる。 事件後、ハイドリヒ粛清功績認められ親衛隊中将昇進した1934年7月20日には、ヒトラー親衛隊功績賞して突撃隊からの独立認めている。この事件ハイドリヒ冷酷無比評判を得、党の古参党員達からも恐れられるようになった内相ヴィルヘルム・フリックは、「今後、私はヒムラー入閣支持することはあり得る。だがどんな場合でも、あの“暗殺者ハイドリヒだけは入閣させるわけにはいかない」と述べたという。

※この「長いナイフの夜」の解説は、「ラインハルト・ハイドリヒ」の解説の一部です。
「長いナイフの夜」を含む「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事については、「ラインハルト・ハイドリヒ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「長いナイフの夜」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長いナイフの夜」の関連用語

長いナイフの夜のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長いナイフの夜のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長いナイフの夜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの突撃隊 (改訂履歴)、ヨーゼフ・ディートリヒ (改訂履歴)、テオドール・アイケ (改訂履歴)、エドムント・ハイネス (改訂履歴)、ヴィクトール・ルッツェ (改訂履歴)、ラインハルト・ハイドリヒ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS