長いナイフの夜
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長いナイフの夜(ながいナイフのよる、ドイツ語: Nacht der langen Messer 発音 、又は、レーム一揆、レーム事件)とは、1934年6月30日から7月2日にかけて、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が行った突撃隊 (SA) などに対する粛清事件である。
- ^ a b c ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)168 - 169ページ
- ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)166 - 167ページ
- ^ a b ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)170 - 171ページ
- ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)76 - 77ページ
- ^ ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)78 - 79ページ
- ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)176 - 177ページ
- ^ ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)172 - 173ページ
- ^ 「ニュルンベルク軍事裁判 上」 ジョセフ・パーシコ著、原書房。ISBN 978-4562028641。250 - 251ページ
- ^ ウィリアム・L・シャイラー著、松浦伶訳『第三帝国の興亡』(東京創元社)1巻pp.428-429
- ^ 『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』33ページ
- ^ 『SSの歴史 髑髏の結社』134ページ
- ^ 『ヒトラー全記録』277ページ
- ^ 『ヒトラー全記録』278ページ
- ^ トーランド、231-232p
長いナイフの夜
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詳細は「長いナイフの夜」を参照 ヒトラーはレーム以下突撃隊幹部粛清に乗り気ではなかったが、レームや突撃隊幹部と対立するところの多いプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング、親衛隊のハインリヒ・ヒムラーやラインハルト・ハイドリヒらによって突撃隊粛清の準備は進められていた。国軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将もこの動きに協力した。 突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の捏造を行った。そして1934年6月はじめ頃からそれらがばら撒かれて、突撃隊による武装蜂起の噂が流れた。ヒトラーは6月4日に首相官邸でレームと会談を行った。会談の結果、高まる緊張を少しでも沈静化するため突撃隊の多くの部隊が一カ月の休暇に入り、レームも療養に入ることとなった。しかしヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相は、6月21日にノイデックの大統領私邸においてヒトラーに対し、もし事態の鎮静化ができないなら、権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。最後通牒を突きつけられた形のヒトラーは、この日に突撃隊の粛清を決意したという。6月25日までにヒトラーはブロンベルクにレーム以下突撃隊幹部を粛清する旨を伝え、国軍もその準備に入った。 6月30日に突撃隊員が起こした暴力事件についての会議を行うとして、突撃隊幹部をバイエルン州バート・ヴィースゼー(ドイツ語版)に召集、同日にヒトラーはバート・ヴィースゼーに赴いて粛清の陣頭指揮を執った。ベルリンでもゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒらの指揮によって粛清が執行された。レーム、ハイネス、シュナイトフーバー、エルンスト、フォン・デッテンなどの突撃隊幹部が粛清された。これは長いナイフの夜と呼ばれる。
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長いナイフの夜
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「ヨーゼフ・ディートリヒ」の記事における「長いナイフの夜」の解説
長いナイフの夜事件においてライプシュタンダルテは突撃隊幹部粛清の実行部隊になることが予定され、国防軍から事前に武器の供給を受けて武装強化が進められていた。 粛清開始前日の1934年6月29日にディートリヒはヒトラーの命令でミュンヘンへ急行し、ヒトラーの命令を待ってカウフェリングでライプシュタンダルテの二個中隊と合流してエルンスト・レーム以下突撃隊幹部が集められていたバート・ヴィースゼー (de) に向かったが、道中のぬかるみで部隊の軍用トラックが動かなくなり、バート・ヴィースゼーへ向かうのに遅刻することになる。 6月30日午前6時半頃、結局ヒトラーはディートリヒ達の到着を待たずに手勢の親衛隊員のみでバート・ヴィースゼーの突撃隊幹部の宿所に突入し、レーム達を逮捕した。ディートリヒは昼過ぎになってようやくミュンヘンのナチ党本部にいたヒトラーの前に姿を見せ、ヒトラーは到着の遅れを叱責しつつ、逮捕した突撃隊幹部のうち6人の銃殺をディートリヒに任せた。ディートリヒは午後6時に突撃隊幹部が収容されていたミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(de) に到着し、6人の処刑を開始した。この時に処刑された突撃隊幹部の一人アウグスト・シュナイトフーバーは「ゼップ!どうしたというのだ!我々は無実だ!」と叫んだが、ディートリヒは「貴官らは総統により死刑を宣告された。ハイル・ヒトラー!」とだけ答えたという。ディートリヒは銃殺を最後まで見ることなく途中で退席した。後に彼はこの時のことについて「シュナイトフーバーの順番が回ってくる前に私は退散した。もうたくさんだった」と述懐している。 一方ベルリンに留まっていたライプシュタンダルテの隊員たちは、プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリング、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、親衛隊情報部(SD)司令官ラインハルト・ハイドリヒらが選定した粛清対象者をリヒターフェルデ士官学校において銃殺した。7月1日にはディートリヒがベルリンへ戻り、ベルリンでの銃殺隊の組織にあたり、1934年7月1日にディートリヒは粛清の恩賞で親衛隊大将に昇進した。
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長いナイフの夜
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「テオドール・アイケ」の記事における「長いナイフの夜」の解説
1934年6月30日に長いナイフの夜事件の粛清で突撃隊 (SA) 幕僚長エルンスト・レームが逮捕されてミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(Justizvollzugsanstalt München in der Stadelheimer Straße)に投獄された。7月1日、総統アドルフ・ヒトラーはダッハウの所長だったアイケに対してレームの処刑を命じた。アイケは部下のダッハウ副所長ミヒャエル・リッペルトを引き連れて、シュターデルハイム刑務所のレームの独房を訪れ、ヒトラーの指示に従って「レーム逮捕」を報じるナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』紙と自決用の一発だけ弾の入った拳銃を置いて独房から立ち去った。しかしいつまで銃声がしないため、アイケ達は再度レームの独房に戻った。アイケはリッペルトにレームを撃つよう命じ、リッペルトがレームに向けて2発発砲した。撃たれたレームが床に倒れながら「我が総統…。」と述べたのに対してアイケは「貴方はもっと早くそれを言うべきだった…。」と返したという。レームにはまだ息があったので、もう一発胸に撃ち込んで殺害した(とどめを刺したのがアイケ・リッペルトのどちらであるかは不明)。
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長いナイフの夜
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「エドムント・ハイネス」の記事における「長いナイフの夜」の解説
1934年6月28日、突撃隊幹部の粛清を決意したヒトラーは、レームやハイネス他突撃隊幹部に対して会合を提案してバート・ヴィースゼー(ドイツ語版)に呼び集めた。6月30日5時30分頃にヒトラー自らが率いる親衛隊が到着し、レーム共々逮捕された。 1946年にエーリヒ・ケンプカが証言した内容によると、ヒトラーが部屋に乗り込んだ際、ハイネスは18歳の青年と同性愛の最中であったという。ヒトラーは5分以内に服を着るように命令し、他の部屋の突撃隊幹部の逮捕に向かった。しかし、ヒトラーが部屋に戻ってもハイネスが服を着ていなかったことに激怒し、そのまま逮捕するように親衛隊員に命令したという。また、ヒトラーに同道していた突撃隊幹部ヴィクトール・ルッツェの日記よると、この際にハイネスはルッツェに「ルッツェ。俺は何もしていない。助けてくれ」と叫んだが、板挟みのルッツェは「俺は何もしてやれない。俺は何もできない」と述べるしかなかったという。 逮捕後、ハイネスはレームら他の突撃隊幹部と共にシュターデルハイム刑務所(ドイツ語版)へ投獄された。ヒトラーはレームの処刑についてはしばらく悩み、処刑を翌日まで許可しなかったが、ハイネスら他の突撃隊幹部の処刑は許可した。夕方、ヨーゼフ・ディートリヒら「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」部隊員が現れ、アウグスト・シュナイトフーバー、ヴィルヘルム・シュミット(ドイツ語版)、ペーター・フォン・ハイデブレック、ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ、ハンス・ハイン(ドイツ語版)の5名と共に中庭へ連れて行かれて銃殺された。 また、突撃隊中佐になっていた弟オスカーは7月1日のラジオ放送で兄の処刑を知り、ヴェルナー・エンゲルス(フランス語版)突撃隊中佐と共にブレスラウ警察本部に出頭し、親衛隊に逮捕された。2人は翌2日早朝にウード・フォン・ヴォイルシュにより銃殺された。
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長いナイフの夜
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「ヴィクトール・ルッツェ」の記事における「長いナイフの夜」の解説
突撃隊内で高まる反ヒトラー、反国防軍の動きには関わらず、1934年3月には副総統ルドルフ・ヘスに突撃隊幕僚長エルンスト・レームの反ヒトラー言動を報告した。またルッツェは国防軍軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将の突撃隊内の情報提供者でもあり、自分が反国防軍運動とは無関係であることを報告し、またレームの署名入り蜂起計画書を提出した。そのためライヒェナウから「無害なルッツェが未来の突撃隊幕僚長にふさわしい」などと評価された。 ルッツェの日記によると彼は6月22日にヒトラーに召集され、そこでレーム以下突撃隊幹部粛清の意思を告げられ、口外しないことを誓わされたという。粛清のあった6月30日、ルッツェはヒトラーに同道して突撃隊幹部を集めたバイエルン州バート・ヴィースゼーに向かい、レーム以下突撃隊幹部の逮捕に居合わせた。逮捕された突撃隊幹部エドムント・ハイネスはルッツェに助けを求めたが、ルッツェは苦渋の心境で拒否したという。その後ミュンヘンの党本部で行われた誰を処刑すべきかの会議においてヒトラーから意見を求められたが、ルッツェは「自分は誰が非難されるべきか、誰がレームの共犯なのか知りません」と答えて退席したという。
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長いナイフの夜
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「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「長いナイフの夜」の解説
詳細は「長いナイフの夜」を参照 1934年6月30日のエルンスト・レームら突撃隊幹部を対象とした粛清(長いナイフの夜)は、ゲーリング、ヒムラー、ハイドリヒの3名が主導してヒトラーに働きかけたものである。レーム初め突撃隊幹部は、突撃隊をドイツの正規軍とすることを望んでおり、国軍と軋轢を強めていた。ヒトラーは国軍を掌握するためには突撃隊を何とかしなければならないとは考えていたが、レームとは古参幹部で唯一「お前」と呼び合う対等の仲の同士であり、なかなか粛清に踏み切れなかった。そこでハイドリヒは突撃隊謀反の証拠を捏造・流布し、これをヒムラーからヒトラーへ伝えさせ、とうとう彼に粛清の決意を固めさせたのであった。 レームはヒムラーとともにハイドリヒの長男クラウスの代父になっていた。ヒムラーが突撃隊の粛清には賛同しつつもレーム個人については躊躇していたのとは対照的に、ハイドリヒが彼に同情を抱く様子は全くなかった。ハイドリヒは、レームの粛清を親衛隊が突撃隊へ優位を確立するチャンスとしか捉えておらず、ヒムラーを説き伏せて抹殺の決意を固めた。 ハイドリヒは、粛清対象をリストアップする事実上の最高責任者であった。彼はこれに乗じて突撃隊だけではなく、党内外の反対分子をまとめて粛清することを企み、突撃隊以外の人々の名前も次々とリストに加えさせていった。なおハイドリヒは、粛清名簿の中にゲーリングの息のかかった前ゲシュタポ局長ルドルフ・ディールスの名前も加えていたが、それに気づいたゲーリングが猛抗議し、名簿から削除させている。 6月28日夜にヒトラーはバイエルン州のバート・ヴィースゼーで療養中のレームに電話を入れ、突撃隊員が起こした暴力事件について、30日にそちらで会議をしたいので幹部を集めておくようにと指示を出した。ヒトラーは、30日にミュンヘンへ飛び、ヨーゼフ・ディートリヒのライプシュタンダーテ アドルフ・ヒトラーを指揮してレーム達突撃隊幹部の逮捕を自ら行った。突撃隊幹部らが次々と銃殺されていく中でも、ヒトラーはレームだけは助命するつもりでいたが、ヒムラーらが強硬に処刑を主張するのに折れ、最終的に認めさせた。 一方ハイドリヒは、ヒムラーやゲーリングとともにベルリンにあり、同地で粛清の指揮にあたっていた。ゲシュタポやSDの将校を次々と呼びだしては独特な早口の甲高い声で次の命令を繰り返した。「総統命令。レームによる武装蜂起。国家非常事態。直ちに行動せよ」。ベルリンや北ドイツでの粛清は多くがハイドリヒの命令によって行われた。エーリヒ・クラウゼナー、エドガー・ユリウス・ユング(ドイツ語版)、カール・エルンストの殺害などはハイドリヒの命令による。 事件後、ハイドリヒは粛清の功績を認められ、親衛隊中将に昇進した。1934年7月20日には、ヒトラーは親衛隊の功績を賞して突撃隊からの独立を認めている。この事件でハイドリヒは冷酷無比の評判を得、党の古参党員達からも恐れられるようになった。内相ヴィルヘルム・フリックは、「今後、私はヒムラーの入閣を支持することはあり得る。だがどんな場合でも、あの“暗殺者”ハイドリヒだけは入閣させるわけにはいかない」と述べたという。
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