エアハルト海兵旅団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/12 14:41 UTC 版)
エアハルト海兵旅団 Marinebrigade Ehrhardt |
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創設 | 1919年 |
廃止 | 1920年3月 |
所属政体 | ![]() |
所属組織 | ドイツ義勇軍 |
部隊編制単位 | 旅団 |
兵科 | 海軍歩兵 |
人員 | 6,000人 |
所在地 | ![]() ニーダーザクセン州ヴィルヘルムスハーフェン |
主な戦歴 | ドイツ革命 シレジア蜂起 カップ一揆 |
現司令官 | ヘルマン・エアハルト少佐 |
エアハルト海兵旅団(エアハルトかいへいりょだん、独: Marinebrigade Ehrhardt)は、第一次世界大戦後、ドイツ革命に対する反革命軍事行動のため組織されたドイツ義勇軍(フライコール)の一つである。 エアハルト旅団の名前で有名。ヘルマン・エアハルト少佐によって組織された。カップ一揆などを起こしたことで知られる。
歴史
この義勇軍は旧帝国海軍の軍人を中心に6000人ほどが集まってヘルマン・エアハルト海軍少佐によりベルリンで組織された。ドイツの中央部や北西部で反革命軍事行動を行った。1919年春にはバイエルン王国に社会主義者が打ち建てたバイエルン・レーテ共和国の打倒に参加した。1919年8月にはシレジアに転じてポーランド人による蜂起の鎮圧に参加する。
ベルリン地区司令官ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍の指揮下に入ったが、1920年3月にグスタフ・ノスケ国防相から解散命令が出された。リュトヴィッツ将軍も旅団も激しく抵抗し、ヴォルフガング・カップを担ぎあげてカップ一揆をおこした。3月13日に旅団はベルリンを制圧したが、社会民主党政府の指令によるゼネストにあって、一揆は数日で失敗した。その後、ハンス・フォン・ゼークト将軍により改めて解散が命じられた。しかしその後も「元エアハルト士官同盟(Bund ehemaliger Ehrhardt-Offiziere)」や「コンスル(Organisation Consul)」といった偽装名で活動が続けられた。
エアハルト海兵旅団
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「ヘルマン・エアハルト」の記事における「エアハルト海兵旅団」の解説
1919年1月27日にヴィルヘルムスハーフェンに到着したエアハルトは、同地がベルンハルト・クント(ドイツ語版)がオルデンブルクで設立したレーテ共和国によって支配されていることを知る。エアハルトは復員兵300人を集め、同日夜にレーテ共和国の兵士1,000人が駐留する官舎を襲撃した。襲撃は失敗に終わったが、エアハルトはこれを機に武装組織の結成を計画する。 2月17日、エアハルトは反共武装組織エアハルト海兵旅団を結成した。エアハルト海兵旅団は榴弾砲などの重武装を施し、1,500人の兵力を有していた。エアハルトは軍事教練を終えた後、4月にゲオルク・ルートヴィヒ・ルドルフ・メルカー(ドイツ語版)の指揮下に入りブラウンシュヴァイク11月革命(ドイツ語版)の鎮圧に参加した。ドイツ義勇軍は11月にはブラウンシュヴァイクを制圧するが、レーテ指導者の捕縛に失敗した。4月30日には国防大臣グスタフ・ノスケの指示で各義勇軍と共同でバイエルン・レーテ共和国鎮圧に参加し、5月2日にミュンヘンを制圧した。バイエルン・レーテ共和国崩壊後の6月にはシレジア蜂起の鎮圧にも参加した。この時点でエアハルト海兵旅団の兵力は4,000人に拡大していた。1919年末から1920年にかけてベルリンで軍事教練に勤しむ一方、政治活動にも参加していた。 1920年3月13日、エアハルトは元ベルリン地区司令官ヴァルター・フォン・リュトヴィッツの指揮でカップ一揆を引き起こし、ベルリンを占拠した。大統領フリードリヒ・エーベルトはシュトゥットガルトに脱出し、一揆の首謀者ヴォルフガング・カップが首相となり臨時政府を樹立した。しかし、4日後にエーベルトの指示でゼネストが開始されカップ政権は崩壊、エアハルト海兵旅団も5月31日に解体に追い込まれ、エアハルトは9月10日に海軍から除隊させられた。ベルリン中央政府はエアハルトの逮捕状を請求したが、彼はグスタフ・フォン・カールが統治するバイエルン州ミュンヘンに逃亡していた。
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