アントン・ドレクスラーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 海外の政治家 > ナチ党員 > アントン・ドレクスラーの意味・解説 

アントン・ドレクスラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/20 12:49 UTC 版)

アントン・ドレクスラー
Anton Drexler
生年月日 1884年6月13日
出生地 ドイツ帝国
バイエルン王国 ミュンヘン
没年月日 (1942-02-24) 1942年2月24日(57歳没)
死没地 ドイツ国
バイエルン州 ミュンヘン
出身校 国民学校
所属政党 ドイツ祖国党→
ドイツ労働者党→)
国家社会主義ドイツ労働者党→)
(民族ブロック→)
(民族社会主義人民同盟→)
国家社会主義ドイツ労働者党
称号 1923年11月9日記念メダル

バイエルン州議会議員
在任期間 1924年 - 1928年

在任期間 1920年2月24日 - 1921年7月29日

在任期間 1920年1月5日 - 1920年2月24日

在任期間 1919年1月5日 - 1920年1月5日
議長 カール・ハラー
テンプレートを表示

アントン・ドレクスラードイツ語: Anton Drexler, 1884年6月13日 - 1942年2月24日)は、ドイツ労働者政治家国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身となるドイツ労働者党の共同設立者として知られる。

経歴

政治活動の開始

鉄道労働者の息子としてミュンヘンに生まれる。国民学校卒業後、1901年にベルリンに上るが、失業して帰郷、1902年から機械工として働き始める[1]。この頃には既に反ユダヤ主義反マルクス主義的な思想を身に付けていたという。第一次世界大戦中にドイツ祖国党に参加[2]、1918年3月には職場だったバイエルン王国王立鉄道中央工場の同僚と共に、「良き和平のための自由労働者委員会」を組織した[1]。また、カール・ハラーと共に保守系右派民族主義団体「政治的労働者のサークルドイツ語版」を設立する[1]。ドレクスラーの思想的指導者は、「全ドイツ人同盟」の指導者でニュルンベルク・アウクスブルク機械工場経営者・バイエルン産業家連盟の代表役員だったパウル・ターフェルドイツ語版だった。

ドイツ労働者党

敗戦後の1919年1月5日、ターフェルの慫慂(しょうよう)によりディートリヒ・エッカートゴットフリート・フェーダーカール・ハラーと共にドイツ労働者党(DAP)を設立[1]。ハラーが党議長に就任するが名誉職に過ぎず、実質的な権限は副議長のドレクスラーが握っていた[3][4]。同月に「国際プロレタリアの挫折と兄弟思想の失敗」と題する論文を発表。続けて「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを発表したが、このパンフレットは当時復員してミュンヘンにいたアドルフ・ヒトラーに影響を与えたという。

1919年9月にミュンヘンで集会を開くが、その際に演説したアダルベルト・バウマンドイツ語版教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いた[5]。ドレクスラーはヒトラーに党のパンフレットを渡し、入党を促した。ヒトラーはドレクスラーの求めに応じて同月12日に入党した[6][7]

1920年1月5日にヒトラーとドレクスラーによってハラーが党議長を追放され、ドレクスラーが党議長に就任した[8]。フェーダーと共にヒトラーに協力して綱領を策定したドレクスラーは、1920年2月24日、ヒトラーをホフブロイハウスで開催する党大会に参加させ、ヒトラー主導の下で25カ条綱領が発表され、党名を国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と改名した[9]

ナチ党

1923年11月9日記念メダル(通称「血盟勲章」)

党名改称後、党内ではヒトラーが頭角を現し、1921年に入るとヒトラーの勢力は盤石なものとなっていた。これに危機感を覚えたドレクスラーは、6月にヒトラーがベルリンに出かけている間に無断で他の右翼政党との共闘や合併を協議し始めた[10]。これを知ったヒトラーは、7月11日に離党を宣言した。党幹部は党の顔である彼の離党が党消滅に繋がることを危惧し、引き留めに躍起となった[11]

3日後、ヒトラーは党への復帰の条件として自分に独裁権を与えるように書面で要求、党幹部がこの要求を認めたため、ヒトラーは復党した[12]。ドレクスラーは7月25日にミュンヘン警察にヒトラーを危険人物であると密告したが、取り合ってもらえなかった。7月29日、554票中553票を得てヒトラーは新党首に選出、ドレクスラーは名誉党首に就任したが、党での実権を失った[13]

1923年11月のミュンヘン一揆の際、自宅にいたドレクスラーは呼び出されたが、ヒトラーの計画を聞くや恐れて参加しなかった。しかし、一揆の失敗後に逮捕された。この事件により、ナチ党が一時解散を強いられたとき、ドレクスラーは党を離れて「民族ブロック」に参加し、1924年から1928年にかけてにバイエルン州議会議員を務めた。この間の1925年には民族社会主義人民同盟を設立している。同年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのはヒトラー内閣成立後の1933年になってからであった。

1934年には党創設者としてヒトラーから1923年11月9日記念メダルを授与されたが、以後も政治権力は与えられず、彼の存在は1937年まで党の宣伝のために利用された。しかし、ドレクスラー自身はこの勲章授与に感激し、以後熱烈なヒトラー支持者となった。その後はミュンヘンに隠棲し、第二次世界大戦中の1942年に同地で死去した[14]

ヒトラーによる評価

ヒトラーは『我が闘争』の中で、ドレクスラーを以下のように評している。

ドレクスラー氏はただの労働者であり、演説者としても有能ではなく、何よりも兵士ではなかった。彼には軍歴がなく、大戦中も兵士ではなかった。そのため彼はまったく弱く不安定な人物であり、その弱く不安定な人物が達成しうるための教育も欠けていた。・・・冷酷な容赦のなさで抵抗を退けたり、新たな思想を実行に移す能力がなかったのである

脚注

出典

  1. ^ a b c d Kershaw 2008, p. 82.
  2. ^ Hamilton 1984, p. 219.
  3. ^ Kershaw 2008, pp. 82, 83.
  4. ^ Vgl. Ian Kershaw: Hitler. 1889–1936. Stuttgart 1998, S. 184.
  5. ^ Kershaw 2008, p. 75.
  6. ^ Stackelberg 2007, p. 9.
  7. ^ Mitcham 1996, p. 67.
  8. ^ Shirer, The Rise and Fall of the Third Reich, p. 36
  9. ^ Kershaw 2008, p. 87.
  10. ^ Kershaw 2008, pp. 100, 101.
  11. ^ Kershaw 2008, p. 102.
  12. ^ Kershaw 2008, p. 103.
  13. ^ Shirer, The Rise and Fall of the Third Reich, p. 41
  14. ^ Hamilton 1984, p. 220.

参考文献

外部リンク

党職
先代
DAPから改称
国家社会主義ドイツ労働者党議長
1920年 - 1921年
次代
アドルフ・ヒトラー
先代
カール・ハラー
ドイツ労働者党議長
1920年
次代
NSDAPに改称

アントン・ドレクスラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 07:01 UTC 版)

劇画ヒットラー」の記事における「アントン・ドレクスラー」の解説

ドイツ労働者党ミュンヘン支部議長本業錠前屋史実では鉄道機械工)。一時党首となる。

※この「アントン・ドレクスラー」の解説は、「劇画ヒットラー」の解説の一部です。
「アントン・ドレクスラー」を含む「劇画ヒットラー」の記事については、「劇画ヒットラー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アントン・ドレクスラー」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントン・ドレクスラー」の関連用語

アントン・ドレクスラーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントン・ドレクスラーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントン・ドレクスラー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの劇画ヒットラー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS