ナチス左派
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ナチズム |
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国民社会主義ドイツ労働者党(左派) die linken Flügel der NSDAP |
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党旗
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代表 | グレゴール・シュトラッサー |
成立年月日 | 1924年4月 |
前身政党 | 国家社会主義自由運動 |
解散年月日 | 1934年6月30日 |
解散理由 | ヒトラー及びナチ主流派の弾圧、粛清による解散 |
後継政党 | 革命的国民社会主義闘争集団 他、ナチ党内諸組織 |
政治的思想・立場 | 国民社会主義 保守革命 反マルクス主義 反ファシズム コーポラティズム モダニズム |
機関紙 | "国民社会主義者" Der Nationale Sozialist, "炎" Die Flamme, "こぶし" Die Faust, |
シンボル | 交差したハンマーと剣 ハーケンクロイツ |
ナチス左派とは、国民社会主義ドイツ労働者党内において、労働者寄りの国民社会主義を主張していたグループ、党内フラクション、運動である。超国家主義や社会主義の影響を受け、また経済的反ユダヤ主義を特徴とし、アドルフ・ヒトラー及びナチ党主流派と対抗していた。グレゴール・シュトラッサーとオットー・シュトラッサーの兄弟が主な領袖であった。
ヒトラーと強く対立していたオットー・シュトラッサーは、1930年に党を追われチェコスロバキアに亡命した。グレゴール・シュトラッサーは、1934年6月30日の長いナイフの夜事件において殺害された。戦後、ナチ左派の流れをくむシュトラッサー主義は、ネオナチズムの鎖の中で活動的な位置を保っている。
概要
グレゴール・シュトラッサー、オットー・シュトラッサーのシュトラッサー兄弟は、1923年のミュンヘン一揆でアドルフ・ヒトラーが入獄した後、主に北ドイツでナチ党系の組織を率いた。「国家社会主義通信」など独自の機関誌を発行していた彼らの主張は社会主義的側面が強く、ドイツ共産党が提案したドイツ帝国構成諸国旧君主の財産接収法案に、「私益に対する公益の優先」というナチ左派の綱領のもと賛成していた。このためミュンヘンを中心とするナチ党右派、ヘルマン・エッサーやユリウス・シュトライヒャーらと強く対立した。25カ条綱領をはっきりさせ、党主流派の反ユダヤ主義一辺倒に代わって、共和制の主張、反西欧資本主義からする親ソ外交路線などと共に、社会主義を全面に押し出した。また、「闘争出版社」などの論壇を設け旧社会主義者や右翼、左翼、あるいは保守革命派といった諸々の活動家と交流していた。
左派の出身者としてはグレゴールの秘書を務めていたゲッベルスとハインリヒ・ヒムラー、人民法廷の裁判官ローラント・フライスラーらが知られている。ヒムラーには離党して養鶏農家を始めようか迷い、シュトラッサーに相談したエピソードがある。またエルンスト・レームらの突撃隊幹部も左派に近く、政権獲得後には「第二革命」を唱えている。
出獄してきたヒトラーは、1926年のバンベルク会議でシュトラッサーらの主張を否定し、党内における指導者原理を確立させた。その後グレゴールやその秘書ヨーゼフ・ゲッベルスを懐柔する一方で、オットーは離党を余儀なくされた。ヒトラーの権威が党内で不動のものとなると、バンベルク会議後の左派の勢力は減退し、1932年にクルト・フォン・シュライヒャー首相がナチ党左派を取り込もうとしたが失敗し、グレゴールが離党を余儀なくされた際にも追随者はほとんど出なかった。
1934年の長いナイフの夜事件により、レーム、グレゴール・シュトラッサーら代表的人物が粛清され、左派は党内での影響力を完全に失うことになる。しかしナチス・ドイツで強い影響を持ったゲッベルスやヒムラーなどの思想にも左派の影響は残っていた。オットーは後に黒色戦線と呼ばれる組織を立ち上げ、左派的な国家社会主義を主張し続けた。
ナチ右派との対決
グレゴール・シュトラッサーらナチ左派の活動基盤は、中農の保守的なカトリック人口の多いバイエルンを基盤とするミュンヘン・ナチ(ナチ右派)とは違って、大農の支配と闘わなければならないプロテスタント系人口の多い北ドイツや労働者のソーシャリズム感情に訴えてゆかねばならないルール地帯の西ドイツにあった。こうしてこれらの地域におけるナチ党は、グレゴールの統率の下にナチ右派から独走する傾向を見せ、日を追って右派に対する対抗意識を深めていった。
1925年9月10・11日には、ハーゲンでグレゴールを指導者とし、彼の秘書をしていたラインラント出身の若いヨーゼフ・ゲッベルスを書記長とする『北・西ドイツ大管区活動共同体(Arbeitsgemeinschaft der Nord-und Westdeutschen Gaue der NSDAP) (略称 NSAG)』が「腐敗したミュンヘン路線への対極[1]」として結成された。10月1日から「活動共同体」はその機関誌として左翼インテリ雑誌の『世界舞台(Die Weltbühne)』の装丁を真似た『国民社会主義通信(Nationalsozialistische Briefe)を月2回発刊することになり、オットー・シュトラッサーはその宣伝部長と編集長を兼ね、ゲッベルスも月200マルクの報酬でグレゴールの秘書兼その論説委員におさまった。
左右ナチの共通基盤
反ユダヤ主義という点では左派も右派も変わりはなかったが、前者は後者が、「創造的産業資本(schaffendes industriekapital)」と「略奪的金融資本(raffendes finanzkapital)」を区別したようなやり方で反資本主義を反ユダヤ主義にすり替えてしまうようなことはせず、一般に人種や宗教に関わりなく生産手段を独占しているブルジョアジーの全体と闘争する姿勢を示していた。しかしナチ左派の「社会主義」は決してマルクス主義でなく、それどころか反マルクス主義を標榜していた。彼ら左派の支持基盤も右派と同じく、大資本に敵意を示すと同時に生活のプロレタリア化を恐れる中小企業主や俸給生活者や年金生活者や中産農民層であり、その反独占主義と反マルクス主義を代弁するものだった。一方で革命的心情をうたいながら、その身分的階層国家の構想やギルドの強調からも明らかなように、過ぎ去った過去の世界へ復帰しようとする保守的なロマン的憧憬を示すものにほかならなかった。その「革命」も、経済革命のことではなく、独占資本に対する道徳的・心情的抗議を示すにとどまった。
ナチ左派は、決してプロレタリア路線をとったわけではない。ナチの左右における違いは、左派がプロレタリア路線をとり右派がプチブル路線をとったのではなく、左派がナチ帰属層の真の要求を代弁しようとしたのに対して、右派が政権獲得のためにナチ帰属層の要求を犠牲にしたところにある。キューンルの指摘するように、両派の違いは、綱領の原則に忠実たろうとする左派の姿勢と、戦術のために原則を無視しようとする右派の姿勢との違いであった。[2]
7年を期限とする大統領共和制の国家形式の主張や、身分制秩序の賛美、中央と連邦の機能の明確化、ヨーロッパ連邦の構想、親ソ外交路線など、細かな点で違いがあり、支える背景の意図が大きく異なっていたとしても、綱領の外形全体としてはシュトラッサー草案と25ヶ条綱領とは大差なかった。ただ前者が実践的により具体性をもたされたに過ぎない。
党本部批判の背景
ミュンヘン・ナチに対する彼らの不満は、次のような文脈を背景にしていた。
「シュトライヒャーやエッサーのごとき二人の性的偏執狂は、依然として心から新生ドイツを望んでいた人々にただ不信の目を向けるのみだった。彼らは最悪のデマゴーグだ。クリスティアン・ヴェーバー[注釈 1]やホフマンとともに、彼らはドイツがあらゆる理由から恥としなければならぬ指導者の黒幕的取り巻きのなかに数えねばならぬ。[3]」とオットーが批判しているように、彼ら左派の批判は
(1)ヒトラー及び党中枢側近連中の人間的質の低俗さと横暴なその官僚制
に向けられていた。ナチ左派と党本部との争いは「実践活動家や地方の党指導者連中と、党本部の延臣たちとの争い[4]」である。体制の壁の厚さを痛感したヒトラーはランツベルクから釈放されるや、
(2)これまでの非合法路線から合法戦術路線に転向し、旧諸侯財産没収に反対したばかりでなく、バイエルンでのカトリックの歓心を買うためこれまでの盟友ルーデンドルフの無神論を非難しはじめ、バイエルン首相を通じて、反動勢力と提携する姿勢を明らかにし始めていた。
このヒトラーの行動がシュトラッサーら左派による批判対象になったことはいうまでもなく、彼らは「『活動共同体』と『国民社会主義通信』はヒトラーの承認と共に存在する[5]」と自組織の定款にうたわれているように、真っ向からヒトラーの指導権に挑戦する意図は持たなかったものの、やはりヒトラーは彼らの目には「品行方正な使徒パウルスに変じた革命家ザウルス[6]」と映った。
(3)全てを宣伝に帰するミュンヘン・ナチのアジテーション方式に飽き足らぬ左派は党の理念を求め、ナチの運動にイデオロギー性を持たせようとした。
ナチ左派にとって特に重要なのは(3)であり、綱領を起草しようとするハノーファー会議での試みは、運動をイデオロギー的なものにする試みであった。[7]」ナチの25カ条綱領が1920年2月24日にミュンヘンのホフブロイハウスでの集会の折にヒトラーによって宣言されていたが、この綱領はすっきりせぬ各自勝手な解釈の余地を残す命題を含んでいる上に、ミュンヘン・ナチ幹部たちの行状は綱領でうたわれているものにそぐわない傾向を示していた。これを具体化することに手を染めたオットー・シュトラッサーは、曖昧なままに放置され空文化している綱領をはっきりさせ、ミュンヘン・ナチの反ユダヤ主義宣伝一辺倒に代わって、共和制の主張、職業身分制秩序、ヨーロッパ連邦構想、反西欧資本主義からするメラーばりの親ソ外交路線などと共に、「ソーシャリズム」を前面に大きく押し出した。
彼らが何よりも党主流派に抱いた疑念は、その経済政策実行の真面目さと熱意だった。社会主義者を自認する彼らには、これは黙視できなかった。1927年7月の『国民社会主義者通信』においてグレゴール・シュトラッサーが力説するところによれば、
我々は社会主義者であり、経済的弱者の搾取や不当な賃金支払いや責任と業績によらずに財産と金による非道徳的な人間を評価する今日の資本主義体制の敵であり宿敵なるが故に、我々はこの体制を是が非でも絶滅する決心を固めるに至った! 我々は、非の打ち所がなく、しかも現体制よりも優れた働き手を有する、より良き、より正当で、より道徳的な体制を代置させなければならない!
とのことであった。
ドイツ革命の十四のテーゼ
オットー・シュトラッサーはバンベルク会議の決定後も、革命意欲を封じ込めることはなく、ドイツ革命のための反ブルジョアジー的姿勢を示し、「ジロンド」のヒトラーに対して自らの「ジャコバン」性を強調した。1929年8月1日、彼は「NS書簡」に新生ドイツのための「ドイツ革命の十四のテーゼ(Die 14 Thesen Deutschen Revolution)」を発表して自分の基本的立場を綱領的に要約した。
関連作品
- 粛清直前のシュトラッサーが、同じく危うい立場のレームに共闘を持ちかけるフィクション
脚注
- 注釈
- 出典
参考文献
- Otto Strasser, (1940). Hitler and I, translated by Gwenda David and Eric Mosbacher. Houghton Mifflin Company
- Otto Strasser, (1958). Exil. München
- Joseph L. Nyomarkay, (1965). Factionalism in the National Socialist German Workers Party, 1925–1926: The Myth and Reality of the Northern Faction. Political Science Quarterly. Karl Rauch Verlag Hain
- Reinhard Kühnl, (1966). Die nationalsozialistische Linke 1925– 1930. Verlag Anton Hain. ISBN 3445105030
- von Ernst Deuerlein, (1968). Der Aufstieg der NSDAP in Augenzeugenberichten. Karl Rauch Verlag Hain
- Walter H. Kaufmann, (1973). Monarchism in the Weimar Republic. Octagon Books Hain. ISBN 3445105030
- 八田恭昌『ヴァイマルの反逆者たち』世界思想社、1981年 ISBN 978-4790701972
- 蔭山宏『ワイマール文化とファシズム』みすず書房、1986年 ISBN 978-4622006145
- 千坂恭二『思想としてのファシズム』(彩流社。2015年)ISBN 978-4-7791-2143-2
関連項目
- 保守革命
- ナチズム
- ナショナル・ボルシェヴィズム
- マルティン・ハイデッガー
- 突撃隊
- ハノーファー会議
- 長いナイフの夜
- ヒトラー暗殺計画
- 国家社会主義自由運動 - ヒトラーが獄中にいる間、ナチス左派(グレゴール・シュトラッサー、エルンスト・レーム)やエーリヒ・ルーデンドルフ、及び旧ナチ連携のドイツ民族自由党(アルブレヒト・フォン・グレーフェ等)が結成していた政党。もう一方の旧ナチ勢力である大ドイツ民族共同体と対立していた。
- ヨーゼフ・ゲッベルス#ナチス左派、ヨーゼフ・ゲッベルス#反ヒトラー派に
- 内ゲバ
ナチス左派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:12 UTC 版)
「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「ナチス左派」の解説
その後カウフマンの口利きでナチ党幹部オットー・シュトラッサーの面接を受ける機会を得た。面接で「なぜ我が党に移りたいのか」と問うたオットーに対して、ゲッベルスは「ドイツ民族自由党は未来がないと思います。なぜなら党指導部が民衆について全くの無知だからです。党指導部は社会主義を恐れています。しかし私の信ずるところでは一種の社会主義と国家主義を統合した思想こそがドイツを救うのです。貴方のお兄さんグレゴールさんは社会主義の理念と国家主義の情熱を統合していらっしゃる。われら国家社会主義者が奉じねばならぬのはまさにグレゴールさんの思想です。」と述べた。オットーはゲッベルスの演説力に感心し(特にゲッベルスの美しい声に惹かれたという)、党の大きな力になると考え、彼の採用を決定した。 1925年2月22日に非公式ながら入党した(正式な入党は1926年3月22日で党員番号は8762。後に特別な党員番号22が与えられた)。 1925年3月にエルバーフェルトにナチ党の「ラインラント北部大管区」を設立させることに携わったゲッベルスは、カウフマンやエーリヒ・コッホ、ヴィクトール・ルッツェなどとともに同大管区の役員に選ばれた。大管区指導者はカウフマンであり、ゲッベルスは書記局長だった。またこのポストは北部および西部のナチ党指導者グレゴール・シュトラッサーの秘書を兼務するものであった。給料は200マルクでヴィーガースハウスの下にいた頃の2倍になった。 ゲッベルスは、数々の演説をこなして急速に頭角を現し、シュトラッサー兄弟に次ぐ北西ナチ党のリーダーの座を確立していった。シュトラッサー兄弟とともに南部ミュンヘンの党本部への敵対行動を強めた。党首アドルフ・ヒトラーの指導体制は一応認めつつもユリウス・シュトライヒャーやヘルマン・エッサーら「ミュンヘンのごろつき」をヒトラーの側近から排除することを主張し、西部や北部の社会主義的・左派的な方針でもってナチ党全体を運営させようと画策した。ゲッベルスはミュンヘンの党本部からシュトラッサー兄弟に次ぐ「党内左翼偏向勢力」(ナチス左派)の領袖と見なされていくこととなった。1925年8月21日付けのゲッベルスの日記には「ヒトラーを倒してグレゴールに党の主導権を握らせるべきだ」とまで書かれている。 1925年9月10日には北西ドイツの大管区指導者たちを集めて「北西ドイツ大管区活動協同体(Arbeitsgemeinschaft der nord- und nordwestdeutschen Gaue der NSDAP)」(略称NSAG)の創設に携わった。グレゴールが指導者、ゲッベルスが事務局長(geschäftsführer)に就任した。これはヒトラーのミュンヘン党本部(特に党宣伝部長のエッサー)へ対抗するものであった。しかしこれは北西ドイツ大管区の緩やかな統合組織でしかなく、当初より不統一と内部対立が露呈した。その内部対立の中でもゲッベルスはオットーとともに極端な社会主義的路線をとり、「まず社会主義的救済。それから嵐のような国民の解放がやってくる」と主張した。対する南部ドイツの大管区はミュンヘン党中央のヒトラーの下に中央集権で強固に固まっていた。北西ナチスが南部ナチスの権力に常に及ばなかったのはこうした状況のためだった。 1925年10月にグレゴールが発行していた機関紙『国家社会主義通信(Nationalsozialistische Briefe)』の編集を任せられている。同紙でのゲッベルスの言論は国家主義よりも社会主義にアクセントを置く物が多かった。例えばソビエト連邦との同盟を盛んに唱えたり、インドや中国を「反抗的な持たざる国」と定義してこれらの国とのイデオロギー的連帯を訴えた。 この頃のゲッベルスはソ連について次のような好意的評価をしていた。「ソヴィエト体制はボルシェヴィストだとか、マルキストだとか、インターナショナルだとかでは長続きしない。それはナショナルだから、ロシア的だから存続しているのだ。ロシア皇帝はかつてロシア人民の情熱と本能をその深みで捕らえたことはなかった。レーニン、彼はそれを成し遂げた」「ロシアが目覚めたなら全世界は一国家が引き起こす奇跡を目のあたりに見ることになるだろう」。ただしその一方で「共産主義は真の社会主義のグロテスクな歪曲にすぎない。我々が、我々だけがドイツにおける真正の、いやヨーロッパで唯一の社会主義者になりうるのだ」とも論じている。
※この「ナチス左派」の解説は、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の解説の一部です。
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