東方政策とは? わかりやすく解説

東方外交

(東方政策 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 06:38 UTC 版)

東方外交(とうほうがいこう、: Ostpolitik)は、西ドイツの首相ヴィリー・ブラントによる、東ドイツを含む東欧諸国との関係正常化を目的とした、東側諸国に対する外交政策である。東方政策(とうほうせいさく)とも訳される。

経緯

冷戦初期の西ドイツを率いてきたアデナウアー政権(1949年 - 1963年)は、ハルシュタイン原則に基づき、西ドイツがドイツを代表する唯一の正当性を持った国家であるとして、ソ連以外の東ドイツ国交を持つ国との国交を断絶するという政策を実施し、東ドイツの存在自体を認めない立場をとった。しかし、そうした強硬姿勢をとる西ドイツは、1960年代に入るとデタントの趨勢から取り残されていくことになる[1]

アデナウアー政権と後継のエアハルト政権(1963年 - 1966年)はキリスト教民主同盟キリスト教社会同盟(CDU/CSU)中心の連立政権であり、社会民主党(SPD)は野党であった。SPD所属の西ベルリン市長であったヴィリー・ブラントは、エゴン・バールの「接近による変化」構想に基づき、1963年12月に東ドイツと通行証協定を締結した[2]1964年にブラントはSPD党首に就任し、1966年にCDU/CSUとSPDの大連立によるキージンガー政権が発足すると、ブラントは外務大臣に就任した。この大連立政権は従来より踏み込んだ外交政策を示したが、東ドイツ承認と国境線の問題をめぐるCDU/CSUとSPDの対立が解消できなかった。また、ソ連と東ドイツは、西ドイツと東欧諸国の接近を警戒し、態度を硬化させてしまった[2]

1969年ドイツ連邦議会選挙の後、SPDは大連立を解消し、外交政策が一致する自由民主党(FDP)との連立政権を発足させた。ブラントは首相となり、10月の就任演説で、ドイツ人民族的一体性を保ちつつ、東ドイツの存在を認める「一民族二国家論」を提唱した[3]。ブラント政権は従来の方針を改め、東ドイツの存在を事実上認め、東プロイセンを放棄し、オーデル・ナイセ線を承認し、現状の状況を追認するという外交政策をとった。

対東ドイツの関係

東ドイツの存在を事実上認めたものの、ブラントは東ドイツを主権国家として認めるつもりはなく、そのため東ドイツの指導者ヴィリー・シュトフと対立した。最終的には1972年締結の東西ドイツ基本条約において、国際法上の国家承認を行うのではなく、同等の権利を持つ主権国家と認めるという曖昧な形で決着した。

対ポーランドの関係

1970年オーデル・ナイセ線を事実上のドイツ・ポーランド国境とするワルシャワ条約が調印され、東ドイツとともにオーデル・ナイセ線を認めた。このオーデル・ナイセ線は、1991年に統一ドイツによって承認された。

脚注

  1. ^ 妹尾哲志「ブラント政権の東方政策と1972年のドイツ連邦議会選挙」『同志社政策研究』第5号、同志社大学政策学会、2011年、3頁、doi:10.14988/pa.2017.0000012375ISSN 18818625 
  2. ^ a b 妹尾哲志「ブラントの東方政策における西側との関係 : 対ソ交渉過程における米英仏との意見調整」『アゴラ : 天理大学地域文化研究センター紀要』第8巻、天理大学地域文化研究センター、2011年、41頁、 ISSN 13489631 
  3. ^ 妹尾哲志「ブラント政権の東方政策と1972年のドイツ連邦議会選挙」『同志社政策研究』第5号、同志社大学政策学会、2011年、3-4頁、doi:10.14988/pa.2017.0000012375ISSN 18818625 

関連項目



東方政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:04 UTC 版)

アルフレート・ローゼンベルク」の記事における「東方政策」の解説

ローゼンベルクは、ポーランド・ウクライナ・バルト海沿岸へとドイツ生存圏拡げるべきだという東方生存圏思想をたびたび表明しており、ヒトラーへの影響指摘されている。1927年著書ドイツ外交将来の道』では、その立場はより明確となっている。ただし、大ロシア人現代で言うロシア人)とユダヤ人についてヒトラー一致した見解持っていたが、ロシア人ソ連の他の民族区別していた。ローゼンベルク反ソ思想強固なものであり、時に対ソ宥和となえたナチス左派とは相容れなかった。 ローゼンベルクモスクワ大公国を「ロシアモンゴル後進性」の中心見なしていた。彼によれば、ロシア人帝政時代にもソヴィエト政権下においても民族的に異なウクライナ人エストニア人グルジア人タタール人抑圧しロシア化強制したとしている。ドイツボリシェヴィキ圧政からの解放者として振舞えばソ連国内にいる大ロシア人以外の百万という住民支持得られロシア人国家解体できると信じていた。ウクライナ人国家建設しバルト諸国カフカース分離させることで大ロシア人侵略阻止できる、という彼の主張は、ゲーリングの「ドイツ人の入植直接支配」という方針転換斥けられた。

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「東方政策」を含む「アルフレート・ローゼンベルク」の記事については、「アルフレート・ローゼンベルク」の概要を参照ください。

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