東西デタントの実現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「東西デタントの実現」の解説
アメリカはこのようなブラントの東方政策を嫌っていた。それによってソ連が西ドイツその他の同盟国に対して有利な取引をすることになるのではないかと懸念したからである。キッシンジャーは回想録の中で、ニクソンと彼が米ソ間のデタントを追及しようとしたのは、一つには西ドイツ主導でヨーロッパとソ連との間のデタントがアメリカを排除した形で進行し西側陣営を分裂させることになることを止めるためであったと述べている。西側同盟国にとって伝統的なドイツ外交とは「東と西との間を自由に動く」ことで、ブラントの外交はまさにその再来であった。そしてそれが西側の結束の乱れが生じることを懸念しつつも、当時は米中関係がニクソンショックで劇的に外交関係を結び、米ソ関係もデタントにうごき、こうした国際政治で緊張緩和の流れが加速していた時期であったので、ブラントの東方政策による東側諸国との関係改善に真っ向から反対することはなかった。このブラント外交は、アデナウアーの西側統合に反することなく、東側との関係改善の突破口が切り開かれて、西ドイツ外交が新たな段階に入ったことを示していた。そしてその流れはやがて1975年に全欧安全保障協力会議が開催されて、東方政策の成果がヨーロッパ全体へと広がっていった。この時のヘルシンキ宣言にブラントの後任のヘルムート・シュミット首相が調印したことでブラント外交は完成された。 今日、政治学者や歴史学者の一部は、東方外交がのちの東欧革命やドイツ再統一の基礎となったと評価しているが、当時は保守派の政治家からドイツ再統一を唱える基本法の精神に矛盾するとして激しく攻撃された。以後、チェコスロバキア、ブルガリア、ハンガリーとも国交が回復し、1973年9月には東西ドイツ双方が国際連合に加盟した。また1973年にドイツの首相として初めてユダヤ人国家イスラエルを訪問している。
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